『空間打撃(見えない手袋)』と、S級第2位
『ピギィィィィッ!!』
レベル800の物理無効スライム【忘却の残滓】の群れが、津波のように押し寄せてくる。
俺は破れた右袖を気にすることなく、漆黒の靄(空間の断層)を纏った右拳を軽く握り込み、先頭の一体に向かって無造作なストレートを放った。
「そらよっ!」
――ドゴォォォォォォォォンッ!!!
拳がスライムの半透明な体に触れた瞬間。
通常の打撃音ではなく、空間そのものが抉り取られるような重低音が響き渡った。
「え……?」
背後でしずくが息を呑む。
俺の拳はスライムの体を『すり抜けなかった』。
拳をコーティングしている超高密度の空間の壁が、スライムの構成魔力ごと空間を削り取り、文字通り「存在そのもの」を跡形もなく消滅させたのだ。
後ろに続いていた十体以上のスライムも、拳から放たれた空間の衝撃波に巻き込まれ、一瞬で光の粒子へと変わった。
「おおっ! すげぇ!」
俺は自分の拳を見つめ、歓喜の声を上げた。
スライムを粉砕したというのに、手には一切の衝撃(反動)が返ってきていない。おまけに、スライム特有のネバネバした体液も、圧縮された空間の壁に阻まれて一滴たりとも俺のスーツには付着していなかった。
「完璧だ! 殴った反動は空間バリアが吸収してくれるし、返り血も汚れも弾いてくれる! これならYシャツが黄ばむことも、スーツにシワが寄ることもない! 究極のノーメンテナンス武器だ!!」
「あの……朝倉さん? それ、神話級の結界魔法の歴史的な大誤用なんですけど……」
しずくが引きつった顔でツッコミを入れるが、俺はもう止まらなかった。
「はははっ! 残業代稼ぎの時間だ!」
俺はスライムの群れに向かって飛び込み、楽しげに拳と蹴りを連打した。
シュッ! ドガァァァァンッ!!
空間を纏った回し蹴りが、物理無効のバケモノたちを空間ごと両断する。
俺が軽くステップを踏むたびに、古代の図書館に空間破砕の轟音が鳴り響き、レベル800の群れが紙屑のように散っていく。
わずか数十秒後。
五十体以上いたスライムの群れは、一匹残らず光の粒子となって消え去っていた。
「ふぅ……。最高の使い心地だ。これなら明日から、スーツの替えを気にせずガンガンダンジョンに潜れるな」
『キュウ!』
クロが影から飛び出し、スライムたちが落とした大量の魔石をホクホク顔でアイテムボックス(影)へと回収していく。
『――警告。隠しエリア【幻影書庫】の主の完全消滅を確認』
『当空間は役割を終え、崩壊プロセスに移行します』
無機質なシステムアナウンスと共に、巨大な書架がパラパラと砂のように崩れ始めた。
どうやらこの隠しダンジョンも、アビスの時と同じようにシステム側で「消去」されるらしい。
「おっと、閉店時間みたいだな。帰るぞ、雨宮さん、クロ」
「は、はいっ! お疲れ様でした!」
俺はしずくの肩を抱き寄せ、クロの『影渡り(シャドウ・ゲート)』の空間へと身を投じた。
右袖は犠牲になったが、代わりに「絶対に汚れない手袋と靴」という、サラリーマン最強の防具を手に入れた。大満足の出張(ダンジョン探索)だった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
東京、六本木の超高層ビル・屋上。
夜風が吹き抜けるヘリポートの縁に、一人の青年が座禅を組んで静かに目を閉じていた。
年齢は20代前半。ラフなパーカー姿だが、その膝の上には一振りの『日本刀』が置かれている。
彼こそが、日本に8人しかいないS級探索者の第2位。【剣聖】の異名を持つ若き天才、天羽 蓮である。
彼の固有スキルは『次元断』。
空間そのものを斬り裂く能力を持つ彼は、誰よりも「空間の歪み」に対して敏感だった。
「…………ん?」
不意に、天羽は閉じていた目をゆっくりと開いた。
彼の鋭い視線が、眼下のネオン街――新宿の地下深くへと向けられる。
「……空間が、激しく軋んでいる?」
天羽はスッと立ち上がり、夜景を見下ろした。
彼の研ぎ澄まされた感覚が、あり得ない規模の異常を感知していたのだ。
「馬鹿な。今、あそこで『神話級の空間魔術』が発動したぞ……?」
天羽は自身の愛刀の柄に手をかけ、信じられないというように呟いた。
「S級全員の魔力を束ねても足りないほどの、異常な質量の空間圧縮。それが連続して爆発し……局地的に空間を消し飛ばしていた。一体、どんなバケモノの魔力量だ」
詳しい魔術の用途までは分からない。だが、日本のダンジョンシステムにおいて、あんなデタラメな出力の魔法を放てる存在は、人間であれモンスターであれ記録にない。
天羽の脳裏に、かつてない強敵の予感がよぎる。
レベル999という人類の絶対上限。そのルールの中で生きてきた天才は、初めて「規格外の存在」の気配を東京の地下に感じ取っていた。
「……面白い。国境を越えた未確認のS級か、それとも人に化けたイレギュラーか」
天羽の口角が、好戦的な弧を描く。
純粋な戦闘力においては、日本のS級の中でもトップクラスと言われる【剣聖】。
彼が、新宿の地下に潜む「未知のバケモノ(ただのサラリーマン)」に明確な興味を抱き、調査の標的として定めた瞬間だった。




