二十
二十
「堂の前から左手に行くと、両側から巌が突き出して、空につながるトンネルのように思える小路を、樹立をくぐりながら抜けますと、そこが裏山の上り口になります。
そこからは両方が谷になった尾根道で、海のほうはさえぎる山もなく、見晴らしを貫く路を線路が横切っています。もう一方はいったん谷になりますが、その先は山また山となっており、しだいに峰が重なって、だんだん雲や霧が深くなります。ところどころで山の尾根が木の根のように集まっていて、稜線に囲まれた谷間には、広々とした青田や炭焼き小屋もございます。
そんな眺望のなかを通るこの山づたいの道は、左右が崖になった高い堤防の上を歩くようなもので、ときどき、島や白帆の船を浮かべた海が見える見晴らしに出ることはありますが、ほとんどは樹々が生い茂って真っ暗で、今の季節はそれほどでもありませんが、草が茂りますと、分け入って進まねばなりません。
谷に鶯、峰に目白や四十雀が囀っている、耳を愉しませる場所もあり、紺青色をした巌の根方に咲いた、春は菫、秋は竜胆が目に留まります。やがて山清水が静かに湧くあたりに差しかかるころには、左右の樹林が崖のようにそびえ、両側から道をふさぐ篠笹をまたいだりもしながら、一キロメートルほど小道を踏み分けて行きますと、そこで一峰を越えたということになります。その先の崖道あたりに郡境があって、見下ろす海の様子も変化するのですが、その崖の上に、ちょうどこの寺の御堂と背中合わせになる方角を向いて、大仏と言ってもいいほどの大きな石地蔵が、山裾に寄りかかるようにして胡座をかいております。昔から石地蔵とは言われておりますが、かなりのあら刻みで、一見したところ坊主の形をした自然の石だと思えるかもしれません。妙にお顔が尖っているせいで、拝むと凄みを感じさせるのです。
石地蔵の堂は、形だけは残っておりますけれども、仏に対してもってのほかと思うほど大破いたして、そっと踏みこんでも床をずぶずぶと踏み抜いてしまうほど。屋根や柱が蜘蛛の巣のように散乱した境内とても同じで、足の踏み場がなく、堂全体が崖のほうに倒れかけたありさまですが、それでもかつては建物があった場所で、周囲は見通しのきく広場になっておりますから、山越えをしようとなさる方が知らずにそこに行かれますと、いきなり現れた山仏にびっくりするのだということです。
そこで山越えはいったん終わりですが、向こう側へ降りる道は、この寺の石段のように下れるわけではありません。長くはない道程とはいえ、九十九折りの、くねくねとした下り坂で、険しい上に、中途半端な踏み石が飛び飛びに置かれていますから、つま先でさぐりながら這い下りなければなりませんが、この坂の両側に、五百体、千体、いや、それ以上ですな。それはそれは数え切れないほどの、どれも三、四十センチほどで、一メートルに達するような御丈のものはない、小さな石仏がぎっしりと並んでいて、それでも長い年月を経て、道ばたに転げたものも、倒れたものもあるのでしょうが、さすがに跨いで通る者はいないようです。ところどころ、もたれるように傾きながらも並んでいるさまは、まるで櫛の歯のようなのです。
これらの石仏については、どんな理由かはわかりませんが、一体ごとに女の名前と、亥年、午年などの生まれ年、何歳、何歳などの年齢が彫りつけられておりましてな、遠い昔に諸国から訪ねてきた女たちが、誰も彼もという勢いで、心からの願いを込めて奉納したのでしょう。
けれども、夜露に濡れた黒髪は霜となって消え、着物の袖も裾も苔に変わるような時を経て、あの石地蔵も人形の形だけはとどめていますが、お顔が細く尖ってらっしゃるから、かつては女の姿だったろうという方もいて、いや女の地蔵などというものはありませんが、そんな話を聞くと、ますます気味が悪くなりませんか。
ええ、余計な話をしたようですが、客人の話をしているうちに、ちょっと考えたことがあったものでしてな。客人は、今お話しした山道を歩いて行ったのです――この観音の御堂を離れて」
「なるほど、そのなんとも知れない石像のところへ」
と、散歩者は前屈みに身をせり出して、僧の顔を見上げた。
「いやいや、そこまでは行っておられません。その石地蔵へと続く山道を、堂の左手にある巌のあいだを抜けて進んだのです。
というのも、進むにつれて囃子の音が、手に取るように聞こえてきたからです。
すぐ先の谷間の村あたりで騒いでいるように、トントンと太鼓の音が山の腹に響いていたそうですから、ちょっと裏山へ廻りこめば、祭りの様子が足下にすぐ見えるだろうと見当をつけて、客人は高いところから見物する気でした。
尾根道の登り口あたりだと、まだ月の光も届いております。草を分けて樹の下を進んで行きますと、道の脇のところどころが、窓が開いたように草が払われていて、そこから松葉を集める者、枝を拾う者、自然薯を掘る者が、谷のほうへと下りて行けるようになっています。そんな、下の村に続いている横路が、あっちこっちにいくらでもあるのです。
そんな横路の下り口からは、谷のほうが広々と見わたせますから、最初は左手の海辺の家のあたりを、次には右の茅葺きの家のあたりをと覗いてみて、さらには二、三ヶ所、別の切れ目からも見渡したのですが、どこにも祭りをやっているところはない。海は明るく光り、谷は煙っているばかりなのです」
