第四十四話 夜の散歩
かつて父は夜の散歩を趣味の一つとしていた。晩酌を終えて一息ついた21時頃に家を出て、1キロメートルほど先にあるお気に入りのコンビニまで、住宅街をのんびり歩く。そこで一服し、家族の好物を買って帰宅するのがルーティンであった。
某日、いつものように家を出た父は、お決まりの散歩コースを歩いてコンビニに到着した。
散歩を始めたばかりの頃はわずか数百メートル歩くだけで息が切れていたが、今ではこのコンビニにも余裕でたどり着けるようになっていた。継続は力なりである。
感慨をおぼえながら家族にリクエストされた菓子を購入し、帰路についた。暑くも寒くもなく、気持ちの良い夜だったそうだ。
ところが、ある場所に来た途端、空気が一変した。
自宅とコンビニのちょうど中間に位置する階段を上り始めた時のことだ。
気がつくと音が消えていた。それまで聞こえていた車の音、虫の声がやんでいる。
違和感を覚えた直後、背後に異様な気配を感じた。
振り返ると、今歩いてきた道の向こうから何かが近づいてくるのが見えた。
真っ白い靄だった。広範囲に広がり、まるで雲海のようだったという。
なんだろうと思う間もなく──ほんのまばたき一つの間に──それは階段のすぐ下まで迫ってきた。
「あれに吞まれたら終わりだと思って、大急ぎで階段を駆け上がって帰ってきた。別に根拠なんかないけどな。とにかく気味が悪かった」
息を弾ませて帰宅した父は、タオルで顔を拭きながら事の次第を話した。
私は当初、父が見たのは何らかの自然現象ではないかと思っていたが、場所を聞いて腑に落ちた。
靄が迫ってきた道の奥には公園と大きな池があり、幼い頃に一度だけ遊んだことがある。美しい景観だがなんとなく怖いと感じて、それ以来、誘われても足が遠のいていた場所だった。
そう明かすと、父は「確かにあの公園はちょっと気持ち悪いんだよな」と同意しつつも、首をかしげていた。
「あの道を歩いていて、これまで一度も怖い思いをしたことなんかなかったのにな……」
この日を境に、父は夜の散歩をやめてしまった。
武道の心得があり、大抵のことは論理的──時に大雑把──に処理する父をもってしても、件の靄は笑い飛ばせなかったらしい。
歩きなれたはずの道が唐突に霊道のようになってしまい、楽しかった趣味を諦めなければならなくなるとは。なんともやるせない話である。




