(7)放課後、図書室で:3
夢中になって文字を追っていると、本を捲る音さえ耳に入らなくなる。
だから図書室の扉が開いたことも、入ってきた人物にみんなが熱心な視線を向けていることも気が付かなかった。
物語の世界にばかり気に取られ、私の背後に立ったその人が、一向に気づこうとしない私に少しばかり面白くなさそうな顔をしていたことにもまったく気が付かない。
複雑に絡み合った物語がついにクライマックスを迎え、さぁ、いよいよ大団円といったところで、後から伸びてきた腕に強い力で抱きしめられた。
「きゃっ……、む、むぐっ」
目の前の本にしか意識が言っていなかった私は、突然の事態に甲高い悲鳴を上げた。
ところが、すぐさま口元を大きな手でふさがれる。それはそれでさらにパニック状態に陥り、椅子に座ったままバタバタと暴れた。
「むー!うー!」
暴れる私をギュウギュウと抱きしめてくるのは、椅子から転がり落ちないようにしているのかもしれない。
だけど今の私には、そんなことを考える余裕はなかった。
「ん、むぅ!」
持てる限りの力でバタバタと手を振り回していると、耳元で背後にいる人が囁いてくる。
「真理ちゃん、俺だよ。落ち着いて」
――俺って誰ですか!私の知り合いに、こんなことをする人はいません!
と心の中で叫んだとき、一人の人物が脳裏に浮かんだ。
――……もしかして。
振り回していた腕を下ろし、モガモガと呻いた声を治め、私は肩越しにゆっくりと振り返る。
すると、そこにいたのはやっぱり佐川先輩だった。
おでこがぶつかりそうなほど近くにあった先輩の顔に、ボン、と顔が赤くなる。
また叫び声をあげてしまいそうになったけれど、いまだに先輩の大きな手が私の口を覆っていたので、それには至らなかった。
少し経って、先輩が静かに手を離してゆく。
「驚かせちゃってごめんね」
クスクスと笑う先輩は、謝っているのに謝っているようには見えない。
ちょっとだけ唇を尖らせて先輩を軽く睨んだ。
「本当に驚きましたよ。なんでこんなことをするんですか?」
問いかけに答えることなく、隣の椅子に置いてあった私のバッグを掴むと、もう一方の手で私の手首を掴んできた。
そして強引に私を引き上げて立たせる。
「じゃ、行こうか」
掴んだ手をグイッと引っ張り、先輩が扉に向かって歩き出した。
「え?先輩、ちょっと待ってください。読んでいた本を片付けないと!」
ズルズルと引きずられながら訴えれば、先輩は素早く左右を見回す。そして、目が合った一人の生徒に薄く微笑みかけた。
「君、戻しておいてくれるかな」
一見すると穏やかな微笑みだが、なぜか視線に威圧感が。
声をかけられた男子生徒はガクガクと首を縦に振る。
「よろしく。さ、真理ちゃん。行くよ」
「は?え?」
そしてまたズルズルと引っ張られ、私は図書室を後にしたのだった。
「先輩、止まってください!いったい、何なんですか!」
昇降口に向かうと思いきや、なぜか人気のない非常階段の方へと向かう佐川先輩。
彼が不機嫌そうにしている理由が分からない。
そして、図書室でいきなり抱き付いてきた理由も分からない。
「もう、どうしたって言うんですか?」
困り切った声をかければ、先輩は足を止めてクルリと振り返った。そして二人分のバッグをドサリと床に落とし、正面から私を抱き締めてくる。
「だって、真理ちゃんがちっとも俺のことに気が付いてくれないから。他の人たちは、俺が図書室に入ってきたらすぐに気が付いたのに。本に負けた気がして、それがちょっと悔しくってさ」
いつもは穏やかで柔らかい彼の声が、拗ねた色合いを含んでいた。
そのことを言われると、私も悪かったかななんて思ってしまう。
彼氏である先輩にぜんぜん気が付かないで、本にばかり集中していたから。いくら私が本の虫でも、さすがにそれは酷いかも。
とはいえ、いくらなんでもやり過ぎだと思う。本当に驚いたし、本当に本当に恥ずかしかった。
「だからって、みんなの前であんなことを……」
つい恨みがましい口調にボソボソと漏らせば、先輩は私の髪に頬ずりをしてくる。
「ごめんね。でも、俺たちが付き合っていることは全校生徒が知っているんだから、別にいいでしょ?」
それはちょっと違うと思う。みんなが知っているからって、みんなの前であんなことをしていいはずない。
校舎内で、他の生徒たちの前で、あんなことをしていいはずないのだ。
それでなくとも、これまで誰ともお付き合いしてこなかった生徒会長の佐川先輩が私にしょっちゅうかまってくることで、やたらと注目を浴びているというのに。
私を抱き締めている腕と頬ずりから伝わる温もりが嬉しくて、先輩のことを許してしまいそうになるけれど、言うべき事は言っておかなくては。
「ちゃんと、時と場所を考えてください。みんなの前だと恥ずかし過ぎるので嫌です」
私の言葉に、先輩が大きく頷いた。
「分かった。これからは気を付けるから」
「約束ですよ?」
「うん、約束する」
返ってきた言葉に安心して、私は小さな笑みを零した。
先輩が腕の拘束を解き、頬ずりしたことで少し乱れてしまった私の髪を手櫛で直してくれる。
「これでいいかな」
ニコッと笑いかけくれる先輩に、私は頭を下げた。
「あ、あの、私の方こそごめんなさい」
「ん?なんで真理ちゃんが謝るの?」
不思議そうに首を傾げてくる先輩に、オズオズと口を開く。
「先輩にちっとも気が付かなかったから……」
さっき、謝りそびれた言葉を伝えると、先輩はまたニコッと笑った。
「真理ちゃんが真剣に本を読んでいる姿、俺、好きなんだよ。だから気にしないで」
「で、でも……」
申し訳ない面持ちで先輩を見上げれば、おでこを指でつつかれる。
「さっきの悔しいって言葉は確かに嘘じゃないけど、別に許さないとは思ってないしさ。ほんのちょっと拗ねみせただけ」
優しい先輩の顔は、嘘を言っているようには見えない。
ホッとして肩の力を抜くと、おでこをつついた指がほっぺに降りてきた。
「真っ赤になった真理ちゃんの可愛い顔が見られたから、むしろラッキーかな。それに……」
と、言葉を区切った先輩は意味ありげに口角を上げる。
そして、こちらに見せつけるように自分の手の平をペロリと舐めた。私の口元を塞いだ右の手の平を。
「真理ちゃんと間接キスだ。これで、あっという間に機嫌が直るってもんだよ」
再び私の顔が真っ赤に染まったのは、言うまでもない。
●ネタが途切れたので、いったん完結設定といたします。
ここまでお付き合いくださいまして、ありがとうございました。