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亡者見聞録  作者: 避雷針
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第二話

覚醒の余韻は、冷たい沈殿物となって脳の底に溜まっていた。

重い瞼を押し上げると、そこには見覚えのない天井があった。病院のそれのように清潔な白ではなく、打ち放しのコンクリートに近い、無機質で無骨な質感。視界の端には、鈍い銀光を放つ医療機器や、機能性のみを追求したような無愛想な鋼鉄の備品が並んでいる。

鼻を突くのは、消毒液の刺激臭に混じった、古びた鉄錆のような重苦しい空気だった。

「……起きたか」

鼓膜に触れたのは、低く、抑制の効いた少女の声だった。

枕元を辿れば、そこに一人の少女が腰掛けていた。床まで届きそうなほどに長い白髪は、窓から差し込む薄い光を透かして、まるで絹糸の束のようにも、あるいは命を失った雪のようにも見えた。

彼女は感情の起伏を一切感じさせない瞳で、ただじっと僕を見下ろしている。そのダウナーな空気感は、ここが平穏な保健室ではないことを雄弁に物語っていた。

「……君、は」

掠れた声で問いかける。喉が焼けるように熱い。

あの廃墟での、狂気じみた高揚。皮膚を裂く風の感触。化け物の肉を切り刻んだ時の、あの指先に残る「生」の震動。それらが幻覚ではなかったことを、僕の全身の筋肉痛が証明していた。

「寝てろ。まだ脳の沸騰が収まっていない」

少女が短く命じたのと同時に、部屋の重い扉が静かに開いた。

ぎい、と蝶番が鳴る。

次の瞬間、空気が変わった。

廊下の気配が変質するのを、皮膚が先に感じ取った。部屋の中に入ってくる前から、その存在の密度が滲み出してくる。扉が完全に開かれた時、その人物の頭頂部は鴨居すれすれだった。二メートル三十センチの巨躯が狭い病室に入ると、天井がひと回り低くなったような錯覚を覚える。

あの老婆だった。

「気分はどうかな、無飼律音(むかいりつおん)君」

彼女は、歩を進めるごとに微かな、しかし揺るぎない威圧感を纏っていた。ベッドの傍らに立つと、その影が僕の全身を覆う。普通の人間ならば上から見下ろすはずの寝台の上の僕を、彼女はほぼ正面から見据えていた。それだけで、この人物の異様さが改めて骨身に染みた。

「……最悪だ。身体中が、火を噴きそうに重い」

「だろうね。君がしたことは、ただの格闘ではない。己の命を薪にして、本能という名の業火を燃やしたのだ。無能力者の身で、あれだけの出力を見せた。その反動は、魂の摩耗に近い」

彼女は僕の枕元に立ち、実験動物を観察する学者のような、あるいは出来の悪い生徒を導く教師のような目で僕を見た。

「君のことを、調べさせてもらったよ。……ああ、名乗るのが遅れたね。私は皇碧和音(こうへきわおん)。この烈陽学園で教鞭を執っている」

和音、と彼女は言った。その響きは、冷たく研ぎ澄まされた刃のように僕の脳に刻まれた。

和音さんは、僕のこれまでの「灰色」の真実を、淡々と、しかし容赦なく暴き立てていく。

「両親は早くに亡くなり、身寄りもなく、一人暮らし。学校では『無能力者』というラベルを貼られ、存在を否定され、いじめという名の無意味な暴力に晒されている。国から与えられるわずかな補助金で、死なない程度に生かされている……。実に、哀れだね」

否定する言葉は見つからなかった。

「君がこれまで過ごしてきた世界は、君を必要としていなかった。君もまた、その世界に価値を見出していなかったはずだ。だが――」

和音さんは一歩、僕に詰め寄った。二メートル三十センチの巨躯がベッドの縁に迫る。その距離は、僕が先ほど感じた「死」の距離に等しかった。

「あの廃墟で、君は何を感じた? 化け物の爪に晒され、血を流し、鋼を振るったあの瞬間……君は初めて、自分の輪郭をはっきりと自覚したのではないかな。なあ……君は『こちら』の人間だと思わないか?」

心臓が、跳ねた。

隠していた醜悪な本性を、暴かれたような気がした。

「君は、こちら側の人間だ。理不尽に抗い、血を流すことでしか己を証明できない、欠陥だらけの、しかし選ばれた『獣』の一人だ」

彼女の手が、静かに差し出される。

「ここは烈陽学園。亡者と呼ばれるあの化け物どもと、正面から喰らい合うための戦士を育てる場所だ。……どうかな、律音君。今の君には、二つの選択肢がある」

和音さんの声が、まるで甘美な毒のように僕の脳に染み込んでいく。

「一つは、このまま元の世界に戻ること。またあの灰色の日常に埋没し、誰からも顧みられず、価値のない補助金を啜って、いつか静かに腐っていくことだ。……そしてもう一つ」

彼女は、少しだけ目を細めた。

「私の手を取り、地獄に足を踏み入れたまえ。君を『生まれ変わらせて』あげよう。そこには安寧も、平穏もない。あるのは絶え間ない闘争と、君が切望してやまない『生』の激痛だけだ」

僕は、自分の右掌を見つめた。

そこにはまだ、刃を握りしめていた時の熱が、微かな痙攣となって残っている。

あの感覚を、僕は知ってしまった。

化け物を切り裂き、血飛沫を浴びた瞬間に感じた、脳を焼くようなあの鮮烈な色彩。一度それを知ってしまえば、もう灰色の世界で満足することなど、不可能だ。

僕は、和音さんの手を見上げた。

それが地獄への招待状であったとしても、今の僕にとっては、これ以上なく魅力的な救済に見えた。

「……いいですよ」

声は、もう震えていなかった。

僕は重い腕を動かし、その老婆の手を、強く、しかし確実に握り返した。

「灰色の世界で腐るくらいなら、地獄で燃え尽きる方を選びます」

僕の言葉を聞いた和音さんの口元が、わずかに吊り上がった。それは満足げな教師の微笑みであり、同時に、一人の獲物を仕留めた捕食者の笑みでもあった。

「賢明な判断だ。……ようこそ、烈陽学園へ。君の退屈な人生は、今、この瞬間に終わったんだよ。ようこそ、地獄へ」

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