第一章 第一話 灰色の静寂、あるいは沸騰する境界線
世界は、あまりにも均一な灰色だった。
いつからそうなったのか、正確には思い出せない。気づいたら色が薄れていた。音が遠くなっていた。自分が何かを感じているのか、感じているふりをしているだけなのか、それすら判然としなくなっていた。
異能を持つ者が輝く街だ。炎を操る者、空気を刃に変える者、触れたものを砕く者。そういう人間たちはまるで生まれながらに世界の主役だと知っているかのように歩いている。
僕にはそれがない。
早くに両親を失い、国の施しという名の冷たい慈悲を啜って生きる。それは生存と呼ぶにはあまりに空虚で、死の準備期間と呼ぶにはあまりに冗漫だった。何も持たない。それがこの社会で何を意味するのか、物心ついた頃から嫌というほど教わってきた。存在を許されているんじゃなくて、ただ見落とされているだけ。声をかけられるのはこういう時だ。
「おい、律音……ああ、無能力者。廃墟の奥に忘れ物してきたんだ。拾ってきてくれよ」
背中を押す手は、冬の朝の風より冷たかった。
クラスメイトたちの笑い声が、僕の耳を素通りしてコンクリートの壁に吸い込まれていく。抵抗するという選択肢が浮かばなかったわけじゃない。ただ、それに必要なだけの熱量が、もう心のどこにも残っていなかった。
言われるがまま、足を踏み入れた。
廃墟は街の外れにあった。石造りで、大きくて、完全に死んでいた。
かつては何かの施設だったのかもしれない。今となってはわからない。外壁に蔦が這い、割れた窓枠から雑草が顔を出している。扉はとっくに腐り落ちていた。
中に入ると、静寂が全身を包んだ。外よりも濃い、重い静寂。崩れた梁、床に張り付いた壁紙、湿った腐敗の匂い。かつてここに誰かの生活があったとは信じられなかった。
奥へ進む。何を拾いに行くかも聞いていない。聞く気にもなれなかった。どうせ何もないんだ。ただ僕を暗い場所に送り込みたかっただけの話に決まっている。
背後に足音があった。
やっぱり。面白がってついてきたんだろう。暗がりで怯える僕を見て笑うつもりで。
別にいい。何をされても、何を見せられても、この灰色は変わらない。怒りも恐怖も、全部が等しく遠かった。
「……ひっ」
真後ろで短い悲鳴が弾けた。
振り向くより早く、空気が変わった。
重くなった。大気の密度が一瞬で倍になったような圧迫感。息をするのに、わずかな抵抗を感じる。
天井から、それが落ちてきた。
音もなく。影そのものが剥がれ落ちたみたいに。
人の形をしていた。概ね、そういう輪郭だった。頭があり、胴があり、腕と脚らしきものがある。でもそれは、人のシルエットを漆黒の泥で無理やり成形したような、歪で不安定な異形だった。表面がぬめりを帯びてうごめいていて、一歩踏み出すたびに空間の縫い目が裂けるような音がする。
化け物だ、と思った。それ以外の言葉が頭から消えた。
後ろのクラスメイトたちが異能を解放した。炎の火花、風の刃。普段は教室で威張り散らしている力が、恐怖の形をとって飛び出してくる。
消えた。
火花は音もなく。風の刃はまるで霧を斬るように。化け物の表面には何も残らなかった。
「な、なんで……」
誰かが腰を抜かして座り込む。それが伝染するように、次々と後退して、震えて、泣き声を上げ始めた。
僕は動けなかった。
怖いからじゃない。少なくとも、そうは思わなかった。ただ、目の前にある「死」を、どこか他人事のように眺めていた。
本物だ、と思った。冷酷で、絶対的で、取り引きの余地もない終焉。
逃げるという考えが浮かんで、すぐに沈んだ。逃げたとして、何がある。帰るべき場所も、待っている人間も、守らなきゃいけないものも、何もない。国の施しを啜って、誰にも見えない存在として、灰色の日々を続けていく。
これで、いい。
むしろそれは合理的な結末に思えた。空っぽな器が、名もなき化け物の腹の中で消える。それがこの人生の着地点だとしても、別に驚くことじゃない。
化け物が、僕の方へ歩き始めた。
僕はただ、それを眺めていた。
頭上から何かが落ちてきた。
風を切る音。短い金属の唸り。
僕のすぐ傍ら、ひびだらけの床を、それは深々と貫いていた。
刃だった。装飾も何もない、機能だけを追い求めたような無骨なナイフ。その銀色の肌が、廃墟の薄闇の中でわずかに煌めいていた。
誰かが上から投げ込んだんだ。そんなことを考える余裕が生まれるより早く、
脳の奥で、一本の細い糸が切れた。
意識の深いところで、何かが燃え上がる。感情と呼ぶには原始的すぎるものだったが、確かに「意志」だった。
……いやだ。
自分でも驚くほど、暴力的な拒絶だった。
灰色の世界に、突然赤い赤い何かが点った。
こんな場所で消えてたまるか。名前も持たない化け物の胃袋に収まって終わりなんて。僕を無価値だと決めつけてきた奴らと同じ場所で、無様に消えるなんて、死んでも嫌だ。
気づいた時、床に突き刺さったナイフを両手で握りしめていた。
震えているのかと思ったが、違った。細胞の一つひとつが、未知の熱量に浮かされて沸騰しているような感覚だった。
化け物が腕を振り上げた。
黒い鎌のような腕が、大気を巻き込みながら弧を描く。その軌道が、スローモーションみたいに視界に焼き付いた。
体が先に動いていた。
頭で考えたわけじゃない。重心が低くなり、一歩横に踏み出していた。爪が、さっきまで僕の頭があった空間を通り抜けて、床を砕く。
自分が何をしたのか、一瞬わからなかった。
無能力者だ。体格も平凡で、運動能力も人並みかそれ以下だと思っていた。なのに今この体は、まるで別の何かに操られているみたいに、滑らかに動く。
次の一撃が来た。横薙ぎに、空気ごと全てを薙ぎ払うような一撃。
しゃがんだ。腕が頭上を抜ける。床すれすれで重心を移して、化け物の足元をすり抜けた。
頭の中が、澄み渡っていく。
恐怖がないわけじゃない。背筋を走る冷たい戦慄も、喉が締まる緊張も、全部ある。それが全部、研ぎ澄まされた知覚の燃料になっていく。
化け物の動きの癖が読めてくる。重心の移動、腕が振られる瞬間の予兆。経験でも訓練でもない。全部を投げ捨てた人間が到達する、野生の集中だった。
視界の端で、クラスメイトたちが逃げ出していくのが見えた。廃墟の上階から、外套を翻して去っていく人影も。
どうでもよかった。今、手の中に冷たい鋼の感触がある。それだけが世界の全てだった。
「……あ、は」
化け物の爪先が、頬を浅く裂いた。
焼けるような熱が走る。赤いものが滲んで、顎を伝い、首筋を流れ、冷えていく。
おかしなことに、それが快かった。
自分が生きているという事実を、これほど明確に知覚したことがあっただろうか。痛みが、熱が、血の匂いが、全部「今ここにいる」という証明として体に刻まれていく。
なんだ、これは。
魂の底から揺さぶられるような昂揚感。
化け物が怒りを帯びて激しく動き始める。振り回される腕が廃墟の柱を砕く。砕けたコンクリートが雨みたいに降り注ぐ中で、僕は笑っていた。
こんな顔で笑えるのかと、自分でも驚くほど、自然に。
「生きてる」
声に出すと、その言葉が胸の奥に落ちて、体全体を震わせた。
地を蹴る。化け物の懐に飛び込む。この体の限界がどこにあるかも知らないまま、筋肉の一つひとつが最善の動きを探していく。脳が命令を出すより先に、体が答えを出す。
「僕、今……っ、一番、生きている……!!」
咆哮していた。
誰かへの言葉なのか、自分への宣言なのか、ただの叫びなのかわからなかった。黒い泥の化け物の深淵へ、何度も何度も、手の中の銀色を叩きつけた。
手応えはない。霧を殴るような感覚。それでも止められなかった。止まりたくなかった。
もっとだ。もっと僕を殺そうとしてくれ。絶望を深めれば深めるほど、この生が純度を増していく。こんな快楽が世界にあったなんて、今まで一度も知らなかった。
化け物が叫んだ。
怒りか痛みか、尊厳を傷つけられた憤りか。天地を揺るがすような咆哮。それと同時に嵐のような暴力が解き放たれた。
腕が、脚が、影そのものが、全方向から押し寄せてくる。
体は動く。紙一重で躱す、退く、潜る、踏み込む。考えるより先に次の動きが出てくる。恍惚と呼んでもいい状態だった。
一瞬の隙を見つけた。化け物の重心が前に乗り切る、その刹那の止まり。
「次は、その醜い首を落とす」
着地の衝撃を膝で吸収しながら、化け物の影へ深く沈み込んだ。刃を逆手に持ち替え、狙いを定め、踏み込む。
その瞬間。
廃墟全体が、静止した。
音が消えた。荒い呼吸も、建物の軋みも、全てが凍りついたような絶対的な静寂。
横を、衝撃波が通り抜けた。
音じゃなかった。圧力だった。大気が一方向に押しつぶされるような、不可視の力。
化け物の背中に、一本の日本刀が縫い付けられていた。
派手な爆発も、光の柱も、何もない。ただそれが、そこにある。古風で、すらりとした一本の刃が、化け物の巨体をその場に固定して、物理の法則を上書きするように、ゆっくりと確実に、その存在を解体していく。
黒い泥が、音もなく崩れていく。形を失い、流れ、床に広がり、消えていった。
土煙の向こうから、人が歩いてきた。
まず目に入ったのは、高さだった。
二メートルを優に超えている。三十センチ近くはあるだろうか。廃墟の天井が、その頭上でやけに低く見えた。老婆だった。桃色の髪で、皺深い顔をした、どこにでもいそうな老婆の顔をしていた。ただしそれは首から上の話で、その躯体は「老婆」という言葉が一切似合わなかった。肩幅は扉枠に届きそうなほど広く、一歩踏み出すたびに床がわずかに軋む。その巨躯が纏う空気は、廃墟の冷気とは別種の、触れれば切れるような緊張感だった。
歩くたびに重力の中心が、その人物の足元に移動していくような錯覚。威圧というよりは、存在の密度が違う。その人間が世界に占める面積が、見た目から想像されるよりもずっと大きかった。
「……まあ、及第点かな。合格だ、君」
その声は穏やかだった。穏やかで、静かで、奇妙なほど確信に満ちていた。
僕は刃を握ったまま、荒い息で彼女を睨みつけた。
心臓がまだ、狂おしいほどの速さで打っている。全身の血が沸いているような感覚が収まらない。この熱を、この昂揚を、まだ終わらせたくない。そんな衝動が、胸の底に渦巻いていた。
老婆は、その僕の目を静かに見つめ返した。
値踏みでもなく、哀れみでもなく。深いところまで見透かすような目で。
「君のその目。いい執着だ」
低く、明瞭な声だった。
「死にたがりだと思っていたが……本性は、死を喰らう獣だったか」
その言葉が、胸の正中を貫いた。
否定したいのか肯定したいのか、自分でもわからなかった。さっきまで「消えてもいい」と思っていたのは本当だ。でも、あの瞬間刃を握りしめた時に湧き上がってきたものも、確かに本物だった。
矛盾している。老婆はその矛盾ごと見抜いた上で、平然としていた。
そして付け加えた。声量は変わらなかった。それでもその言葉は、廃墟の隅々に染み通るように響いた。
「……さすが、無飼の血だよね」
口を開こうとした。その名前の意味を問い返そうとした。
言葉は出てこなかった。
代わりに、全身から力が抜けていった。弦が切れるように。先ほどまで燃えていた熱が、急速に引いていく。足が、腕が、重くなる。視界の端から暗闇が侵食してくる。
最後に脳裏に残ったのは、あの昂揚感の残滓だった。
手の平に刻まれた、鋼の感触の記憶。
それだけを抱えたまま、僕は深い闇の中へと落ちていった。




