呉視点三国志:孫堅の章⑨
189年:中平6年
時は、反董卓連合が解散した後です。
戦火を生き抜いた群雄たちは、次なる天下の主導権を求め、それぞれの野望を胸に静かに動き出しておりました。その中で、ひときわ目覚ましい武功を挙げたのが、孫堅でございます。洛陽を焼き払った董卓の軍勢を打ち破り、猛将・華雄を討ち取ったその勇姿は、連合軍の兵士たちの目に深く焼き付いております。
玉璽を巡る混乱の最中においても、孫堅は毅然とした態度を崩さず、焼け野原となった都の再建に尽力いたしました。その姿は、まさに「義勇の将」と称されるにふさわしいものでございました。
しかし――その輝かしい功績が、新たな争いの火種となるのでございます。
ある日、袁術の陣営にて。
孫堅は、袁術の前に立ち、静かに報告を終えました。
「豫州は天下の要地。漢のため、我が軍がこの地を守るのが道理と考えます」
袁術は、その言葉に力強く頷きました。
「その通りだ、孫堅。お主ほどの勇将が豫州を治めずして、誰がこの乱世を制するというのだ。余が後ろ盾となろう」
しかし、その直後、袁紹より届いた一通の書状が、事態を急変させます。
「豫州刺史には、我が配下・周喁を任命する。以後、その地の軍務・政務は彼に一任せよ」
この書状を読んだ孫堅の眉間に、深い皺が刻まれました。
「……周喁、だと? あの男に、豫州刺史が務まるわけがないだろう!」
彼は静かに拳を握りしめました。
「我が命を懸けて戦い、民を守ったこの地を、なぜ何の功もない者に渡さねばならぬのか……袁紹は、我を恐れているのか」
袁術は、怒りを露わにいたしました。
「袁紹の思惑は明白だ! 勢力を広げるお主を、豫州に留めておきたくないだけよ。だが、我は決して認めぬ! 孫堅こそが、正当なる豫州刺史だ!」
普段は狡猾でケチな袁術ですがこのときばかりは頼もしい存在でした。
その後、孫堅は軍を整え、自ら豫州へと赴任いたします。
周喁はすでにその地に布陣しておりましたが、孫堅の堂々たる登場に、兵たちの士気は目に見えて揺らぎました。
「我こそが、民を守り、数々の戦を制してきた者である。周喁殿、貴殿は民に顔向けできるのか!」
孫堅の言葉に、周喁は何も答えることができませんでした。
やがて、避けられない戦が始まりました。孫堅の兵は、幾多の戦場を生き抜いた精鋭揃いです。対する周喁の軍勢は、徐々に押されていきます。剣戟が空気を切り裂き、無数の矢が雨あられと降り注ぐ中、孫堅の怒号が戦場に響き渡ります。
「この地は、我が血と汗で獲得したのだ! 今再び、理不尽な命令で手放すなど……断じて、あってはならぬ!」
孫堅の猛攻は、瞬く間に周喁の軍を蹴散らし、ついに豫州の実権をその手に握ることになります。
結局、孫堅軍の勢いは強く、周喁は支えきれずに敗走し、豫州から逃亡しました。しかし、この勝利は、さらなる大きな火種となりました。袁紹は、孫堅を自身の意に「逆らう者」として、明確に敵視し始めるのです。
一方で、袁術と孫堅の間には、一瞬だけちょっとした信頼関係が生まれます。ただし、かつての洛陽において玉璽を巡る静かなる因縁も、依然として燻り続けておりました。
189年:中平6年
ところで、後世から見ると、英雄である孫堅と、ずる賢い袁術とが主従関係であった事は奇妙な事のように思えます。 孫堅が袁術と手を結んだ主な理由は、以下の通りです。
・袁術の経済力と軍事力: 当時、袁術は有力な群雄の一人であり、豊かな経済力と十分な軍事力を持っていました。孫堅は、自身の勢力を拡大するために、袁術の支援が必要だったと考えられます。
・反董卓連合の解体: 董卓打倒を目指した反董卓連合は、内部対立から間もなく解体しました。孫堅は、新たな同盟を模索する必要に迫られ、袁術と結んだと考えられます。
・共通の敵: 袁術と孫堅は、袁紹や劉表といった共通の敵対勢力を持っていました。共通の敵に対抗するため、両者は同盟を結んだと考えられます。
・孫堅の戦略: 孫堅は、慎重で戦略的な人物でした。彼は、自身の勢力を強化するために、状況に応じて同盟を結ぶことを厭わなかったと考えられます。袁術との同盟も、その戦略的な判断の一つだったと言えるでしょう。
ただし、孫堅と袁術の関係は必ずしも良好だったわけではありません。袁術は孫堅の軍事的成功を警戒し、兵糧の補給を滞らせるなど、関係は冷ややかでした。
192年:初平三年
ある日のこと、袁術殿の陣屋にて、張り詰めた空気が漂う中、袁術殿の低い声が響きました。「孫将軍、荊州に拠る劉表こそ、我らの最大の敵である。やつを討たねば、この地に覇を唱えることなど、決して叶わぬ」袁術殿の目は鋭く光り、その言葉はまるで研ぎ澄まされた氷の刃のように、冷たく、そして強い決意を宿しておりました。
孫堅は、その場に静かに立ち上がり、愛刀の柄にゆっくりと手をかけました。その目は、内なる激しい感情が燃え盛る炎のように、赤々と揺らめいております。
「承知いたしました。劉表の奴を――必ずや、この孫堅が、この手で討ち果たしてご覧に入れましょう」その声は、低くとも地を這うような重みがあり、まるで雷鳴のごとき轟音を宿しておりました。
その孫堅の傍らには、凛々しい若武者の姿がありました。孫堅の長男、孫策です。長沙から呼び寄せて、少し早めの成人の儀も済ませています。
父の言葉に、若き日の情熱を燃やす孫策は、力強く頷きました。「父上、この策、私もお供仕ります!」その瞳には、父譲りの強い光が宿っておりました。
袁術殿は、満足げに深く頷き、惜しみなく軍資と兵糧を孫堅父子に与えました。やがて孫堅将軍は、愛息・孫策をはじめとする精鋭の軍を率い、荊州へと進軍を開始いたします。
赤く染まった軍旗が、乾いた風に激しく翻ります。その光景は、夕焼け空を焦がす炎のごとく、見る者に凄絶な印象を与えました。敵の斥候たちは、その近づく赤色の奔流を見るや、恐怖に全身を震わせ、声を失ったと申します。
「孫堅将軍の軍が来るぞ! 赤き虎が、若き虎を伴い、南から吼えておる!」
戦はじまりの合図、鼓の音が轟くと同時に、孫堅軍は怒涛のごとく敵陣へ突き進みました。
「前進! 邪魔な雑兵どもに構うな! 一気に劉表の本陣を突けい!」孫堅将軍の雷のような号令が響くたび、兵たちは勇猛果敢に駆け出し、敵陣へと雪崩れ込みます。鋭い槍が唸り、冷たい剣が激しく火花を散らします。
将軍・孫堅は、先頭に立ち、その剛腕から繰り出される斬撃で敵を薙ぎ倒します。そのすぐ後ろには、若き孫策が、父に劣らぬ武勇を発揮しておりました。しなやかな身のこなしから繰り出される剣技は目にも留まらぬ速さで、敵兵は次々とその剣の前に倒れていきます。
「父上、ご照覧あれ!」
孫策の声が戦場に響き渡ります。その勇猛な姿は味方の士気を大いに高めました。まるで秋風に舞う落ち葉のように、無力な兵士たちは父子の剣の前に地に伏せていきました。
戦場の遥か彼方、劉表の陣では、焦燥の色が濃くなっておりました。
「なんという強さだ……孫堅とは、かくも恐ろしい男であったか……! しかも、その息子までかくも武勇に優れているとは……!」
黄祖をはじめとする将たちは顔面蒼白となり、劉表もまた、深く眉をしかめながら苦渋の表情で呟きます。
「このままでは、我が荊州は炎に呑まれるであろう……早急に策を講じねばなるまい」
一方その頃、孫堅将軍の背後では、味方の兵たちの士気が、追い風に乗った帆のように高まり続けておりました。
「我らに敵なし! 将軍万歳! 若君万歳!」
その勝利を確信する咆哮は、山々を揺るがすほどの勢いであったと伝えられております。この戦いこそが、後に襄陽へと続く、宿命の激突の、まだ序章に過ぎなかったのでございます。
そして、孫堅将軍は、ただ単に武力をもって戦うのではなく、その背には故郷の民たちの安寧と、天下を平定するという高邁な志を背負い、愛息・孫策と共に、自らの命を賭して未来への道を切り開かんとしていたのでございます。
ああ、あの時、荊州の空に翻っていた、鮮烈な赤き軍旗――それは、孫堅という一人の稀代の英雄が、若き虎・孫策と共に、ただ単に覇権を求めるのではなく、この乱れた世を終わらせようとした、その不屈の決意が燃え盛る炎そのものに、他ならなかったのです。