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呉視点三国志:陸抗の章③

◯258年:永安(えいあん)元年

 呉(ご)の宮廷には新たな風が吹いていました。

 孫休(そんきゅう)が帝位に就いたことで、朝廷は久方ぶりに安堵の空気に包まれていたのです。

「陸抗(りくこう)──この国の未来は、君の両肩に懸(か)かっている」

 即位間もない孫休(そんきゅう)が、玉座から語りかけました。

 その声音は柔(やわ)らかく、しかし確(たし)かな威厳(いげん)を含んでいました。

「私はまだ若く、世(よ)の荒波(あらなみ)を渡るには心許(こころもと)ない。だが、父君(ちちぎみ)・陸遜(りくそん)将軍の功(こう)を思えば、その子たる君にこそ西陵(せいりょう)を託(たく)すのが筋(すじ)というものだ」

 陸抗(りくこう)は、膝(ひざ)をついて深く頭を垂(た)れました。

「身に余(あま)るお言葉です。されど、この命、呉(ご)のためにございます」

「うむ。では──行ってくれ、西(にし)の盾(たて)となれ」

 西陵(せいりょう)は、蜀(しょく)と魏(ぎ)の国境に近い、呉(ご)の西端(せいたん)に位置する重要拠点でした。

 ここを落とされれば、呉(ご)は一気に西(にし)から崩(くず)れます。

 着任(ちゃくにん)の折(おり)、陸抗(りくこう)は城壁(じょうへき)の上から地形を眺(なが)めました。

 目の前には長江(ちょうこう)の流れ。背後には連(つら)なる山々。攻守(こうしゅ)ともに難(むずか)しい地勢(ちせい)です。

「これが、父(ちち)が守ろうとした西(にし)の境(さかい)か……」

 彼の眼差(まなざ)しは、確(たし)かに遠くを見ていました。

 ある夜、密偵(みってい)が駆(か)け込んできました。

「報告(ほうこく)! 魏(ぎ)の動(うご)きに異変(いへん)あり。新(あら)たな兵站(へいたん)が襄陽(じょうよう)に築(きず)かれつつあります!」

「襄陽(じょうよう)……西陵(せいりょう)と真っ向(まっこう)から対(たい)する地ではないか」

 陸抗(りくこう)はすぐに軍議(ぐんぎ)を招集(しょうしゅう)しました。

「連中(れんちゅう)、ついに動く気か」

 参軍(さんぐん)の一人が呟(つぶや)きました。

「いや、焦(あせ)るな。敵(てき)が布陣(ふじん)を整(ととの)えるまでには、まだ間(ま)がある」

 陸抗(りくこう)は即断(そくだん)しました。

「まずは偵察隊(ていさつたい)を倍(ばい)に増(ふ)やせ。こちらの動(うご)きを悟(さと)られるな。そして……」

 彼はゆっくりと立ち上がりました。

「城(しろ)の南(みなみ)に、偽(にせ)の兵舎(へいしゃ)を建(た)てよ。敵(てき)に虚(きょ)を見せ、実(じつ)を隠(かく)すのだ」

 魏軍(ぎぐん)が動いたのは、それから一月後(いちげつご)のことでした。

 騎兵(きへい)の蹄音(ていおん)が地(ち)を揺(ゆ)らし、鉄(てつ)の甲冑(かっちゅう)が朝日(あさひ)を反射(はんしゃ)しました。

「敵軍(てきぐん)、二万(にまん)! 西(にし)から侵攻(しんこう)してきます!」

 城門(じょうもん)の上で、陸抗(りくこう)は一言(ひとこと)、呟(つぶや)きました。

「来(き)たか……」

 彼はすぐに部隊(ぶたい)を三手(さんて)に分(わ)け、山中(さんちゅう)の伏兵(ふくへい)を使(つか)い、長江(ちょうこう)の水位(すいい)を計(はか)って渡河(とか)を封(ふう)じました。

 疾風(しっぷう)のごとく魏軍(ぎぐん)が迫(せま)る中(なか)、呉軍(ごぐん)は持(も)ち場(ば)に展開(てんかい)します。

 矢(や)が唸(うな)り、盾(たて)が軋(きし)み、兵(へい)たちの叫(さけ)びが響(ひび)きました。

 しかし陸抗(りくこう)の陣(じん)は崩(くず)れず、まるで動(うご)かぬ岩(いわ)のごとき堅陣(けんじん)でした。

「無駄(むだ)だ。お前(まえ)たちの剣(けん)は、この城(しろ)に届(とど)かぬ」

 陸抗(りくこう)の冷静(れいせい)な指揮(しき)の下(もと)、魏軍(ぎぐん)は消耗(しょうもう)し、やがて退(しりぞ)きました。

 戦(いくさ)の後(のち)、陸抗(りくこう)は独(ひと)り、城壁(じょうへき)に立(た)ちました。

「父上(ちちうえ)……私は、この西陵(せいりょう)を守(まも)りました」

 彼の頬(ほお)を風(かぜ)がなでました。

 そこには、英雄(えいゆう)の背(せ)にふさわしい静(しず)けさと、揺(ゆ)るぎなき覚悟(かくご)がありました。

 そして、西陵(せいりょう)の空(そら)は、また平穏(へいおん)を取(と)り戻(もど)していったのです。



◯263年:永安(えいあん)六年

 中国は三つの国――魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(ご)――に分かれて争っていた三国時代の終末を迎えようとしていました。

 この年、天下の趨勢(すうせい)を握っていたのは、魏の実権を掌握する司馬昭(しば・しょう)でした。司馬昭は、先代の名将・司馬懿(しば・い)の次男で、巧妙な政治手腕をふるい、形式的には魏の皇帝が政を行っていたものの、実際は司馬一族が国を動かしていました。

 一方、蜀漢(しょくかん)は南西の成都(せいと)を都とし、かつて劉備(りゅうび)によって建国されました。その子・劉禅(りゅうぜん)が皇帝として治めていましたが、諸葛亮(しょかつ・りょう)亡き後の蜀は、国力が衰え、かつてのような勢いを失っていました。

 この隙を見逃さなかったのが司馬昭でした。彼は蜀を一気に滅ぼすため、二人の将軍――勇猛な鄧艾(とうがい)と策士の鍾会(しょうかい)――に大軍を授け、蜀討伐の軍を起こしました。鄧艾は山岳地帯を強行突破し、鍾会は正面から蜀軍を牽制(けんせい)し、蜀の要衝を次々に落としていきました。

 もはや抗しきれないと悟った劉禅は、ついに魏に降伏します。こうして、蜀漢は四十年余りの歴史に幕を閉じました。この知らせは、ただちに東の呉へと伝わります。

 呉は長江(ちょうこう)中流から下流にかけての地を領有する国家で、建国者・孫権(そんけん)の死後も王朝として続いていました。このとき皇帝の座にあったのは孫権の息子の孫休(そんきゅう)で、温厚な性格ながらも政治力に乏しく、朝廷内は不穏な空気に包まれていました。

 蜀が滅んだという報せは、呉の朝廷に大きな衝撃を与えます。蜀は呉にとって重要な同盟国であり、魏との緩衝地帯でもありました。その蜀が滅んだ今、魏は次に呉へと矛先を向けることは火を見るよりも明らかでした。

 朝廷では連日、緊急会議が開かれました。魏の侵攻を警戒し、防衛体制を整えるべきか、それとも外交によって事を鎮めるべきか、意見は割れていました。その中で、ひときわ強い言葉で進言したのが陸抗(りく・こう)でした。陸抗は、かつて呉の宰相(さいしょう)として国を支えた名将・陸遜(りくそん)の子で、父譲りの冷静な戦略眼と誠実な人柄で軍中の信頼を集めていました。

「このまま指をくわえて見ているだけでは、魏の侵攻を待つばかりです。たとえ蜀が滅んだ後でも、蜀の残兵や民の避難先となる拠点を確保すべきでした」

 陸抗は、蜀に援軍を送らなかったことを強く悔いていました。彼にとって、蜀の滅亡は呉の運命と直結する重大な問題だったのです。

 この意見に対して慎重論を唱えたのは、文官の歩騭(ほち)でした。歩騭は学問に通じ、礼を重んじる理知的な人物で、呉の朝廷内で冷静な助言者として知られていました。

「陸抗殿のお気持ちは痛いほど理解できます。しかし、今は呉の国内も不穏で、地方では反乱も起きております。兵を無理に動かせば、国の根幹が揺らぎかねません。内政の安定を優先すべきではございませんか」

 議場は静まり返り、皆が孫休皇帝の言葉を待ちました。若き皇帝はしばし熟慮ののち、低く重い声で言いました。

「陸抗、そなたに軍を預けよう。ただし、決して無理をしてはならぬ。深追いは禁ずる」

 こうして、呉はついに軍を動かします。一部の軍勢は蜀の旧領に進出し、魏の南下を牽制。もう一部は国内の治安を守るために配置され、呉は防衛体制の再構築に動き出しました。

 しかし、現実は厳しいものでした。蜀の残党は既に瓦解し、魏軍は強固な拠点を築いていました。呉の派遣軍は、有効な成果を上げることなく撤退を余儀なくされました。

 この作戦の失敗により、呉の民衆の間には動揺が広がりました。これまで蜀が守ってくれていた西の国境が、今や魏の軍門に開かれたのです。誰の目にも、魏の次なる標的が呉であることは明らかでした。

 陸抗はその後も最前線での守備を固め、魏軍の進出を防ぐべく、江陵(こうりょう)などの要地を拠点に防衛戦を張り続けました。彼の活躍は、混迷する呉において数少ない希望の光となり、やがて呉が十年以上も魏に抵抗し続ける礎となっていくのです。



◯264年:元興元年

 呉の皇帝であった孫休(そんきゅう)が崩御(ほうぎょ)し、都・建業(けんぎょう)は重い衝撃に包まれていました。孫休は孫権(そんけん)の子で、短い期間ではありましたが、国を治めようと苦心した君主です。しかし体調の悪化により急逝(きゅうせい)したため、国内の不安が一層強まっていたのです。

 後継者に選ばれたのは、孫休の弟である孫皓(そんこう)でした。孫皓はまだ若く、孫権の孫であり、孫和(そんわ)の息子です。聡明(そうめい)さとともに激しい性格を併せ持つ人物として知られています。彼の即位は、呉の政治に新たな緊張をもたらしました。

 即位の大殿にて、金屏風(きんびょうぶ)の奥に立つ若き新帝は沈黙(ちんもく)を守っていました。その静けさは、内心の不安と決意を物語っているようでした。

「丁奉(ていほう)──お前だけは、我が胸のうちを読み取れると信じている」

 孫皓の声には威圧(いあつ)と焦燥(しょうそう)が入り混じっていました。

「陛下。玉座(ぎょくざ)とは孤独(こどく)なものにございます。されど、臣(しん)は陛下の刃(やいば)にも盾(たて)にもなりましょう」

 丁奉は年齢(ねんれい)六十を超えており、呉の名将として長年戦場で活躍してきました。彼の目には、老いの色は見えず、むしろ冷静な覚悟が宿っていました。

「ならば、大司馬(だいしば)として呉(ご)を治めよ。刃を収めず、なおも振るう覚悟を示せ!」

「恐れながら、この老骨(ろうこつ)まだ錆(さ)びてはおりませぬ」

 二人の視線が交わり、その間に呉の未来が浮かび上がっていました。

 丁奉は大司馬として軍事の指揮のみならず、国政にも口を出す立場となりました。彼の経験と知識は、政治の荒波に揉まれる若き孫皓にとって、かけがえのない支えでした。

 ある日の朝議(ちょうぎ)では、若い官吏(かんり)が西方の防衛線の再編を提案しました。

「書物の上では正しいかもしれんがな……」

 丁奉は低い声で笑いながら反論しました。

「敵の矢は書簡(しょかん)を読むことはない。実戦で汗を流せ、坊や」

 若者が言葉に詰まるのをよそに、丁奉は手元の地図を広げました。

「この川は夜に増水(ぞうすい)する。敵がここを渡るならば、迎え撃つのは夜明け前だ。分かるか?」

「は、はい!」

「ならば、まず夜明け前に起きる習慣をつけろ。軍略(ぐんりゃく)とは生活から始まるものだ」

 魏(ぎ)との国境線では小競り合いが絶えず、緊迫した状況が続いていました。丁奉は幾度となく自ら馬を駆り、戦場の最前線で指揮を執りました。

「老将軍(ろうしょうぐん)、まだ前線に出られるのですか?」

 副将(ふくしょう)が息を呑んで尋ねると、

「後ろで死ぬより、戦場の泥にまみれて死ぬ方が性に合っている」

 と、老将は毅然(きぜん)と答えました。

 ある日、敵の斥候隊(せっこうたい)が南岸を突破しました。丁奉は即座に追撃を命じ、自らも先陣(せんじん)を切りました。

 風を裂く矢音(やおん)、踏みしめる大地、馬の嘶(いなな)き。戦場の緊張感がみなぎっていました。

 丁奉は一本の矢を静かに引き絞り、放ちました。その矢は一直線に敵の胸を貫き、敵兵は叫び声も上げずに倒れました。

「この矢には、六十年の鍛錬(たんれん)が込められておる。若造に負けるはずがない」

 戦いが終わると、丁奉は陣帳(じんちょう)の中で筆を執りました。

「老いてなお、国の柱であれとは……厳しい世の理(ことわり)よのう……」

 その顔には、戦士としての鋼の強さと、一人の人間の深い疲労が混ざり合っていました。

 そこへ使者が入ってきました。

「陛下よりお召しがございます」

「ほう……あの若き猛虎(もうこ)、また何か企んでいるか」

 丁奉はそっと立ち上がり、背筋を伸ばしてゆっくりと歩き出しました。その姿は老いを感じさせず、風の中に咲く老松(ろうしょう)のように凛(りん)としていました。

 丁奉の名は敵国・魏にまで轟(とどろ)いていました。敵も味方も「老将軍丁奉」の名には畏敬(いけい)と恐怖が入り混じっていたのです。

 こうして彼は、再び戦場へと向かいました。背中には呉の命運(めいうん)と民の祈りが宿っていました。



◯264年:元興元年

 三国時代の終わりが近づく中、西陵(せいりょう)の空には春風(はるかぜ)が穏やかに吹き渡り、城壁(じょうへき)に立つ陸抗(りくこう)様は朱(しゅ)色の鞘(さや)に収めた剣(つるぎ)を腰に携え、遠く巴蜀(はしょく)――現在の四川省(しせんしょう)を中心とした地域の険しい山々をじっと見つめておられました。

 陸抗様は孫呉(そんご)の有力な将軍(しょうぐん)であり、政治家(せいじか)としても優れた人物(じんぶつ)です。彼は陸氏(りくし)の名門(めいもん)に生まれ、武勇(ぶゆう)と知略(ちりゃく)を兼ね備え、国家の将来を憂いていました。そばには幕僚(ばくりょう)であり、若くして軍政(ぐんせい)に通じた俊英(しゅんえい)、薛珝(せつ・じゅ)が控えています。

 陸抗様は静かに問いかけました。「薛(せつ)、そなたは蜀(しょく)の滅亡(めつぼう)をどのように見ておるか。」

 ここでいう蜀は、かつて諸葛亮(しょかつりょう)――天才的な軍師(ぐんし)として知られた蜀漢(しょくかん)の実質的な指導者――が治めた国で、その後も姜維(きょうい)将軍が諸葛亮の志(こころざし)を受け継いで北伐(ほくばつ)を続けてきました。姜維は忠義(ちゅうぎ)に厚く、蜀の復興(ふっこう)を目指して奮戦(ふんせん)した武将(ぶしょう)です。

 薛珝は答えました。「はっ。あの姜維殿がついに魏(ぎ)に降ったとは、皆が驚きを隠せません。軍議(ぐんぎ)の場でも話題になっています。」

 陸抗様は目を細め、「降ったのではなく、賭けに出たのだ」と語りました。姜維は諸葛亮の遺志(いし)を受けて長年北伐を繰り返しましたが、時代の流れは蜀に味方せず、民は疲弊(ひへい)し兵も老朽(ろうきゅう)していました。そんな状況の中、姜維は蜀漢最後の皇帝(こうてい)である劉禅(りゅうぜん)に頼らず、自ら鍾会(しょうかい)という魏の将軍を利用して反乱を起こさせ、その混乱に乗じて蜀を再興(さいこう)しようと試みたのです。

 劉禅は潔く降伏し、成都(せいと)は血を流すことなく開城(かいじょう)されました。多くの将兵(しょうへい)は悔し涙を流しながら武器を置きました。鄧艾(とうがい)という魏の将軍は、その後民を傷つけず兵士をねぎらい、己の裁量(さいりょう)をもって治めようとしましたが、鍾会の嫉妬(しっと)によって讒言(ざんげん)を受けて粛清(しゅくせい)されてしまいます。

 鍾会も姜維と共に兵を集めて挙兵(きょへい)しましたが、最後は暴走した鄧艾(とうがい)の部下に討たれ、二人の英雄は共に散りました。

 陸抗様は静かに言いました。「まさに英雄(えいゆう)は尽きても、山河(さんが)は残るのだ。姜維は諸葛亮に最も近い忠臣であった。」

 蜀の地は今や晋(しん)のものとなり、民は徐々に落ち着きを取り戻しています。しかし、蜀の志は未だに山中(さんちゅう)に眠る忠臣たちの胸に灯っていると、陸抗様は信じておられました。

 薛は心配そうに尋ねました。「我ら呉はどう動くべきでしょうか。」

 陸抗様は厳しい眼差しで答えました。「晋は既に我らを狙っている。西陵、江陵(こうりょう)は呉の命脈(みょうみゃく)だ。蜀のようなことにならぬよう、備えを怠ってはならぬ。」

 薛は深く一礼し、「姜維の二の舞いにはなりません。呉が三国の最後の灯(ともしび)となるなら、それを護るのは我らの手にございます」と固く誓いました。

 春の風が陸抗様の衣を揺らし、その姿はまるで古代楚(そ)の項王(こうおう)のように沈黙の中に燃ゆる決意(けつい)をたたえていました。

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