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呉視点三国志:孫堅の章⑥

190年:初平元年

  梁県(りょうけん)での激戦。忠臣(ちゅうしん)・祖茂(そも)の壮絶(そうぜつ)な死(し)は、孫堅(そんけん)軍(ぐん)に深(ふか)い爪痕(つめあと)を残(のこ)しました。失意(しつい)の色(いろ)は濃(こ)く、兵士(へいし)たちの士気(しき)は地(ち)に落(お)ちたかのようです。

 しかし、孫堅(そんけん)の心中(しんちゅう)には、亡(な)き友(とも)への鎮魂(ちんこん)と、董卓(とうたく)軍(ぐん)への激(はげ)しい怒(いか)りが燃(も)え盛(さか)っていました。

 陽人(ようじん)に拠点を移(うつ)し、再起(さいき)を図(はか)る孫堅(そんけん)は、沈滞(ちんたい)した空気(くうき)の本陣(ほんじん)で、力強(ちからづよ)い声(こえ)を上げます。

「皆(みな)、顔(かお)を上(あ)げよ!」

「祖茂(そも)の忠義(ちゅうぎ)、決(けっ)して無駄(むだ)にはせぬ! 我(われ)らはここで立(た)ち止(ど)まるわけにはいかぬのだ!」

 歴戦(れきせん)の将(しょう)、程普(ていふ)が進(すす)み出(で)て、声(こえ)を張(は)り上(あ)げました。普段(ふだん)は毒舌(どくぜつ)な程普(ていふ)の顔(かお)にも、この時(とき)ばかりは熱(あつ)い復讐心(ふくしゅうしん)が燃(も)えているのが窺(うかが)えます。

「文台(ぶんだ)様のお言葉(ことば)、肝(きも)に銘(めい)じまする! 祖茂(そも)殿(どの)の御霊(みたま)に誓(ちか)い、我(われ)ら必(かなら)ずや、再(ふたた)び力(ちから)を尽(つ)くしましょう!」

 細々(ほそぼそ)とではありますが、袁術(えんじゅつ)からの兵糧(ひょうろう)の支援(しえん)も届(とど)き始(はじ)め、孫堅(そんけん)軍(ぐん)は、その重(おも)い沈黙(ちんもく)を破(やぶ)り、少(すこ)しずつ、確(たし)かな活気(かっき)を取(と)り戻(もど)していきました。

 一方(いっぽう)、洛陽(らくよう)の董卓(とうたく)は、孫堅(そんけん)軍(ぐん)の再起(さいき)を深(ふか)く警戒(けいかい)していました。

「孫堅(そんけん)の勢(いきお)いを、ここで完全(かんぜん)に断(た)っておかねば、後々(のちのち)、必(かなら)ず厄介(やっかい)なことになるぞ……」

 董卓(とうたく)は、腹心(ふくしん)の猛将(もうしょう)・胡軫(こしん)を総大将(そうだいしょう)に任命(にんめい)します。さらに、当時(とうじ)すでにその武勇(ぶゆう)が天下(てんか)に轟(とどろ)いていた呂布(りょふ)を、騎兵(きへい)の指揮官(しきかん)として陽人(ようじん)へと派遣(はけん)したのです。

 陽人(ようじん)の董卓(とうたく)軍(ぐん)の陣(じん)では、総大将(そうだいしょう)である胡軫(こしん)が、傲慢(ごうまん)な態度(たいど)で呂布(りょふ)に指示(しじ)を出していました。

 「呂布(りょふ)よ、貴様(きさま)は騎兵(きへい)を率(ひき)いて、孫堅(そんけん)の動(うご)きを封(ふう)じろ! 私(わたし)の采配(さいはい)に従(したが)っていれば、間違(まちが)いないわ!」

 呂布(りょふ)は、胡軫(こしん)の尊大(そんだい)な物言(ものい)いに、内心(ないしん)で深(ふか)く舌打(したう)ちをしたものの、表面(ひょうめん)には出(だ)さず、無言(むごん)で頷(うなず)きました。両者(りょうしゃ)の間(あいだ)には、目(め)に見(み)えない不協和音(ふきょうわおん)が、重(おも)く漂(ただよ)っていたのです。

 この敵(かたき)の僅(わず)かな隙(すき)を、孫堅(そんけん)は見逃(みのが)しませんでした。斥候(せっこう)からの報告(ほうこく)は、胡軫(こしん)と呂布(りょふ)の連携(れんけい)が、全(まった)くうまくいっていないことを告(つ)げていたのです。夜(よる)、孫堅(そんけん)は幕舎(ばくしゃ)に程普(ていふ)と黄蓋(こうがい)を呼(よ)び寄(よ)せ、低(ひく)い声(こえ)で語(かた)り始(はじ)めました。

 「敵(てき)は我(われ)らを侮(あなど)っておる。前回(ぜんかい)、屈辱(くつじょく)を味(あじ)わされたからな。総大将(そうだいしょう)の胡軫(こしん)は傲慢(ごうまん)だ。呂布(りょふ)も、その態度(たいど)に不満(ふまん)を抱(いだ)えている様子(ようす)。これは、絶好(ぜっこう)の好機(こうき)ぞ!」

 程普(ていふ)は、いつになく慎重(しんちょう)な面持(おもも)ちで進言(しんげん)します。

「しかし、夜襲(やしゅう)は危険(きけん)な賭(か)けでございますな。もし、失敗(しっぱい)すれば、我(われ)らは総崩(そうくず)れになりかねませんぞ。」

孫堅(そんけん)の瞳(ひとみ)は、暗闇(くらやみ)の中(なか)で、鋭(するど)く光(ひか)りました。

「承知(しょうち)しておる。だが、このまま座(ざ)して死(し)を待(ま)つよりは、一縷(いちる)の望(のぞ)みに懸(か)けるべきだ。敵(てき)の油断(ゆだん)に乗(の)じ、夜陰(やいん)に紛(まぎ)れて奇襲(きしゅう)をかける。混乱(こんらん)に乗(の)じて、必(かなら)ずや、胡軫(こしん)の首(くび)を獲(と)る!」

 その決然(けつぜん)とした決意(けつい)に、程普(ていふ)と黄蓋(こうがい)は、固(かた)く覚悟(かくご)を決(き)めたのです。

深夜(しんや)、漆黒(しっこく)の闇(やみ)が陽人(ようじん)を深(ふか)く包(つつ)む中(なか)、孫堅(そんけん)の軍勢(ぐんぜい)は、静(しず)かに、しかし確実(かくじつ)に動(うご)き出(だ)します。兵士(へいし)たちは、息(いき)を潜(ひそ)め、一糸(いっし)乱(みだ)れぬ行軍(こうぐん)で、闇(やみ)の中(なか)へと吸(す)い込(こ)まれるように敵陣(てきじん)へと近(ちか)づいていくのです。草(くさ)を踏(ふ)む、その僅(わず)かな音(おと)さえも、注意深(ちゅういぶか)く抑(おさ)えられていました。

 夜半(やはん)、静寂(せいじゃく)を破(やぶ)る孫堅(そんけん)の雄叫(おたけ)びが、夜空(よぞら)に轟(とどろ)き渡(わた)ります。

「突撃(とつげき)!」

 孫堅(そんけん)自(みずか)らが先頭(せんとう)に立(た)ち、紅蓮(ぐれん)の炎(ほのお)のような勢(いきお)いで董卓(とうたく)軍(ぐん)の陣(じん)へと斬(き)り込(こ)みます。予期(よき)せぬ奇襲(きしゅう)に、董卓(とうたく)軍(ぐん)の兵士(へいし)たちは、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の恐慌(きょうこう)状態(じょうたい)に陥(おちい)ります。

「な、何事(なにごと)だ! 敵襲(てきしゅう)か!」

 胡軫(こしん)は、安眠(あんみん)を破(やぶ)られ、寝床(ねどこ)から慌(あわ)てて飛(と)び起(お)き、狼狽(ろうばい)の色(いろ)を隠(かく)せません。呂布(りょふ)もまた、突然(とつぜん)の事態(じたい)に、自慢(じまん)の騎兵(きへい)隊(たい)を指揮(しき)する間(ま)もなく、混乱(こんらん)の中(なか)で孤立(こりつ)してしまいます。

 孫堅(そんけん)は、この大混乱(だいこんらん)に乗(の)じ、敵陣(てきじん)を縦横無尽(じゅうおうむじん)に疾駆(しっく)します。その手(て)に握(にぎ)られた剣(つるぎ)は、血飛沫(ちしぶき)を舞(ま)わせ、行(ゆ)く手(て)を阻(はば)む敵兵(てきへい)を、次々(つぎつぎ)と斬(き)り倒(たお)していくのです。その勇猛果敢(ゆうもうかかん)な姿(すがた)は、暗闇(くらやみ)の中(なか)で、まさに鬼神(きしん)の如(ごと)く、敵兵(てきへい)たちは恐(おそ)れ慄(おのの)き、我先(われさき)にと逃(に)げ惑(まど)います。

「胡軫(こしん)はどこだ!」

 孫堅(そんけん)は、夜空(よぞら)に響(ひび)き渡(わた)る声(こえ)で叫(さけ)びながら、敵(てき)の本陣(ほんじん)を一直線(いっちょくせん)に目指(めざ)します。混乱(こんらん)の中(なか)、呂布(りょふ)も必死(ひっし)に応戦(おうせん)を試(こころ)みますが、夜(よる)の闇(やみ)と、味方(みかた)の潰走(かいそう)に阻(はば)まれ、自慢(じまん)の武勇(ぶゆう)を十分(じゅうぶん)に発揮(はっき)することができません。

 ついに、孫堅(そんけん)は胡軫(こしん)の本陣(ほんじん)に辿(たど)り着(つ)きました。狼狽(ろうばい)し、愕然(がくぜん)とする胡軫(こしん)を一瞥(いちべつ)すると、孫堅(そんけん)は、全身(ぜんしん)の力(ちから)を込(こ)め、渾身(こんしん)の一撃(いちげき)を、その首(くび)へと叩(たた)き込(こ)みます。

 「貴様(きさま)のような傲慢(ごうまん)な将(しょう)に、俺(おれ)達(たち)が負(ま)けるわけがなかろう!」

 胡軫(こしん)は、何(なに)も抵抗(ていこう)する間(ま)もなく、孫堅(そんけん)の剣(つるぎ)に斃(たお)れました。総大将(そうだいしょう)を失(うしな)った董卓(とうたく)軍(ぐん)は、完全(かんぜん)に統制(とうせい)を失(うしな)い、雪崩(なだれ)を打(う)ったように総崩(そうくず)れとなります。

 いくぞ! このまま陽人(ようじん)の城(しろ)を包囲(ほうい)する! そこに俺(おれ)が斬(き)るべき華雄(かゆう)がいるはずだ!」

夜(よ)が明(あ)け、陽人(ようじん)の城(しろ)が、新(あたら)しい戦(いくさ)いの舞台(ぶたい)へと変(か)わります。

 夕焼(ゆうや)け空(ぞら)が戦場(せんじょう)を茜色(あかねいろ)に染(そ)め上(あ)げる頃(ころ)、孫堅(そんけん)の軍勢(ぐんぜい)は、堅固(けんご)な陽人(ようじん)の城壁(じょうへき)を包囲(ほうい)していました。数日(すうじつ)前(まえ)の激(はげ)しい戦(いくさ)いで、勇猛(ゆうもう)な将(しょう)、祖茂(そも)が董卓(とうたく)軍(ぐん)の猛将(もうしょう)・華雄(かゆう)によって討(う)たれたという悲(かな)しい報(しら)せは、孫堅(そんけん)の胸(むね)に、滾(たぎ)るような怒(いか)りと、深(ふか)い悲(かな)しみを宿(やど)らせていたのです。

 本陣(ほんじん)の幕舎(ばくしゃ)では、孫堅(そんけん)が静(しず)かに目(め)を閉(と)じ、亡(な)き友(とも)の面影(おもかげ)を偲(しの)んでいました。そこに、程普(ていふ)が心配(しんぱい)そうな面持(おもも)ちで、そっと声(こえ)をかけます。

「文台(ぶんだい)様(さま)。祖茂(そも)殿(どの)のこと、皆(みな)、胸(むね)を痛(いた)めております。」

 孫堅(そんけん)はゆっくりと目(め)を開(ひら)け、程普(ていふ)に向(む)き直(なお)ります。その瞳(ひとみ)の奥(おく)には、拭(ぬぐ)い去(さ)ることのできない深(ふか)い悲(かな)しみと、しかし、それを凌駕(りょうが)する静(しず)かなる決意(けつい)が宿(やど)っていました。

「徳謀(とくぼう)よ、私(わたし)は必(かなら)ず華雄(かゆう)を討(う)つ。祖茂(そも)の仇(かたき)を討(う)つのだ。それが、私(わたし)に残(のこ)された、唯一(ゆいいつ)の務(つと)めだ」

程普(ていふ)が、斥候(せっこう)からの報告(ほうこく)を伝(つた)えます。

「その華雄(かゆう)ですが、密(ひそ)かに城外(じょうがい)に出(で)て、我(われ)らを襲撃(しゅうげき)しようと企(たくら)んでいるようですな」

孫堅(そんけん)の口元(くちもと)に、冷(つめ)たい笑(え)みが浮(う)かびます。

「それは好都合(こうつごう)だ。奴(やつ)の先手(せんて)を取(と)る。再(ふたた)び夜襲(やしゅう)だ。いくぞ!」

最後(さいご)に、屈強(くっきょう)な体躯(たいく)の黄蓋(こうがい)が、豪快(ごうかい)に笑(わら)いながら応(こた)えます。

「そうこなくては! まさに朝飯前(あさめしまえ)ですな! ガハハ!」

 夜(よる)が訪(おとず)れ、静寂(せいじゃく)が戦場(せんじょう)を支配(しはい)する中(なか)、孫堅(そんけん)は、数騎(すうき)の精鋭(せいえい)を率(ひき)いて、ひそかに陣(じん)を出(で)ました。目指(めざ)すは、仇敵(きゅうてき)・華雄(かゆう)の本陣(ほんじん)です。頼(たよ)るは、僅(わず)かな月明(つきあか)りのみ。一行(いっこう)は、息(いき)を潜(ひそ)め、闇(やみ)の中(なか)を進(すす)みます。

 やがて、赤々(あかあか)と燃(も)え盛(さか)る篝火(かがりび)が、華雄(かゆう)の陣(じん)を照(て)らし出(だ)しました。そこからは、油断(ゆだん)しきった酒宴(しゅえん)の喧騒(けんそう)が、微(かす)かに聞(き)こえてきます。孫堅(そんけん)は、静(しず)かに剣(つるぎ)を抜(ぬ)き放(はな)ちました。その鋭(するど)い刃(やいば)は、冷(つめ)たい月光(げっこう)を浴(あ)び、一層(いっそう)、凄(すさ)まじい光(ひかり)を放(はな)っていたのです。

「皆(みな)の者(もの)、私(わたし)に続(つづ)け!」

低(ひく)い号令(ごうれい)とともに、孫堅(そんけん)は一気(いっき)に駆(か)け出(だ)した。その動(うご)きは疾風(はやて)の如(ごと)く、董卓(とうたく)軍の兵士(へいし)たちが気(き)づいた時(とき)には、すでに目前(もくぜん)に迫(せま)っていたのです。

「何者(なにもの)だ!」

 酔(よ)いにまどろんでいた董卓(とうたく)軍の兵士(へいし)たちが、騒(さわ)ぎ出(だ)します。その混乱(こんらん)を突(つ)き、孫堅(そんけん)は猪突猛進(ちょとつもうしん)に華雄(かゆう)の本陣(ほんじん)へと駆(か)け込(こ)みます。月光(げっこう)の下(もと)、孫堅(そんけん)の剣(つるぎ)が閃(ひらめ)き、行(ゆ)く手(て)を阻(はば)む敵兵(てきへい)を次々(つぎつぎ)と斬(き)り伏(ふ)せていきます。

 騒(さわ)ぎを聞(き)きつけ、奥(おく)から一人の男(おとこ)が姿(すがた)を現(あらわ)しました。赤(あか)ら顔(がお)に鋭(するど)い眼光(がんこう)。その堂々(どうどう)とした体躯(たいく)、まさしく仇敵(きゅうてき)・華雄(かゆう)その人(ひと)です。

「貴様(きさま)は!」

 華雄(かゆう)の太(ふと)い声(こえ)が、夜空(よぞら)に響(ひび)き渡(わた)ります。

その刹那(せつな)、孫堅(そんけん)は猛然(もうぜん)と斬(き)りかかりました。

「長沙太守(ちょうさたいしゅ)孫文台(そんぶんだい)見参!我が友、祖茂(そも)の敵を取らせてもらう。」

 鍛(きた)え上(あ)げられた鋼(はがね)の剣(つるぎ)が激(はげ)しくぶつかり合(あ)い、火花(ひばな)を散(ち)らします。華雄(かゆう)の剛剣(ごうけん)もまた凄(すさ)まじく、一瞬(いっしゅん)たりとも油断(ゆだん)は許(ゆる)されません。

 激(はげ)しい攻防(こうぼう)の中(なか)、孫堅(そんけん)は冷静(れいせい)に華雄(かゆう)の僅(わず)かな隙(すき)を窺(うかが)っていました。そして、その一瞬(いっしゅん)の迷(まよ)いを見逃(みのが)さず、渾身(こんしん)の力(ちから)を込(こ)めた一撃(いちげき)を繰(く)り出(だ)したのです。

「うぐっ!」

 鈍(にぶ)い音(おと)とともに、華雄(かゆう)の巨体(きょたい)が大きく揺(ゆ)らぎます。孫堅(そんけん)の剣(つるぎ)は、華雄(かゆう)の胸深(むねぶか)く突き刺(つ)き立(た)っていました。

「オレを打ち取るものがいるとはな。見事だ。先に地獄に行っておくぞ…」

 華雄(かゆう)は、苦悶(くもん)の表情(ひょうじょう)を浮(う)かべながら、掠(かす)れた声(こえ)で呟(つぶや)きます。その言葉(ことば)を聞(き)いた孫堅(そんけん)の瞳(ひとみ)には、深(ふか)い悲(かな)しみと、同時(どうじ)に復讐(ふくしゅう)を遂(と)げたという静(しず)かな喜(よろこ)びが宿(やど)ったのです。

 華雄(かゆう)の巨体(きょたい)が地面(じめん)に崩(くず)れ落(お)ちるのを見届(みとど)け、孫堅(そんけん)は剣(つるぎ)を鞘(さや)に収(おさ)めました。あたりには、董卓(とうたく)軍の兵士(へいし)たちの悲鳴(ひめい)と混乱(こんらん)が渦巻(うずま)いていました。

 孫堅(そんけん)は、静(しず)かに夜空(よぞら)を見上(みあ)げます。月(つき)は、先(さき)ほどよりも一層(いっそう)明(あか)るく輝(かがや)いているように感(かん)じられました。祖茂(そも)の魂(たましい)が、ようやく安(やす)らかに眠(ねむ)ることができるのでしょうか。

 夜明(よあ)け前(まえ)、孫堅(そんけん)は華雄(かゆう)の首(くび)を携(たずさ)えて自陣(じじん)へと戻(もど)りました。その姿(すがた)を見(み)た程普(ていふ)や黄蓋(こうがい)たちは、深々(ふかぶか)と頭(こうべ)を垂(た)れ、主君(しゅくん)の偉業(いぎょう)を称(たた)えたのです。

 陽人(ようじん)の戦(いくさ)いにおいて、孫堅(そんけん)は見事(みごと)、華雄(かゆう)を討(う)ち取(と)り、忠臣(ちゅうしん)・祖茂(そも)の仇(かたき)を討(う)ちました。この勝利(しょうり)は、孫堅(そんけん)の武勇(ぶゆう)を天下(てんか)に知(し)らしめるとともに、董卓(とうたく)軍に大(おお)きな打撃(だげき)を与(あた)えることとなりました。



190年:初平元年

 空は灰色に曇り、洛陽(らくよう)の宮殿は沈黙の中に立ち尽くしておりました。時は初平元年。帝都の瓦が、焦げた風に吹かれて鳴いておりました。

「李儒(りじゅ)、洛陽(らくよう)を燃やせ。洛陽(らくよう)のすべてを、だ」

 董卓(とうたく)は低く言い放ちました。背後には震える文官たち。地に伏した者、逃げ腰の者、それでも誰も逆らえません。

「よろしいのですか。都を……火の海に?」

 李儒の声音は冷ややかですが、わずかに迷いがありました。

「逆賊どもに、この都を明け渡せと申すか?宝物も、宮殿も、城壁すらも奴らの手に渡せと?」

 董卓の目は血走っておりました。怒りではなく、恐怖によって。

「ですが――」

「焼け。すべて。帝(みかど)すら、我が手のうち。天子(てんし)を戴くは我なり。火を以て我が威を刻むのだ!」

 火の手が上がりました。宮廷に、官舎に、民家に。白昼の空が紅く染まり、黒煙が帝都を包みました。

 その中、揺れる馬車の中で、幼き劉協(りゅうきょう)は嗚咽をこらえておりました。

「母上……父上……洛陽が……」

 誰も慰める者はおりません。車輪はきしみ、長安へと向かう軍列が続きます。逃げ遅れた民は、焼け落ちる城の中で命を落とし、兵は略奪に明け暮れました。

 行軍中、李儒は董卓に近づき、そっと囁きました。

「都を焼いたのは、敵に一矢報いるためでございます。必ず、歴史は貴公を正しく記しましょう」

「ふん。記されるのは我が武、我が威。なればそれでよい。貴様、李儒。都を焼いた責め、受ける覚悟はあるか?」

「いつでも、董侯のためならば」

 乾いた風が、焼け焦げた洛陽の跡地を吹き抜けました。かつての都は、灰と化し、ただ董卓の野望のみが燃え残っておりました。



190年:初平元年

 洛陽(らくよう)の空が、赤黒く焦げ付いていました。董卓(とうたく)の軍勢が放った炎は、都の隅々を焼き尽くし、天を焦がす煙が遠く界橋(かいきょう)にも届いておりました。

「見ろ、公孫瓚(こうそんさん)殿。董卓の狼煙(のろし)だ。やつは本気で都を焼き払ったぞ」

 袁紹(えんしょう)は眉をひそめながら、地図に手を走らせます。その声には怒りと、わずかな焦りがにじんでいました。

「狼煙か? あれはむしろ、董卓の火葬の煙に見えるな。今に灰になって風に消えるさ」

 公孫瓚は涼しい顔で応じましたが、足元には緊迫した空気が漂います。

 遠く酸棗(さんそう)の野では、もう一人の男が拳を握りしめておりました。

「兵は足りぬ。食も尽きかけている。だが――やらねばならぬのだ」

 曹操(そうそう)は天幕の中、地図の前に立ち尽くしていました。彼のもとにはまだ名もない義勇兵がわずか。しかし、燃えさかる洛陽の炎を見て、彼の眼光はさらに鋭くなります。

「曹孟徳(そうもうとく)殿、夜襲でもお考えですか?」

 隣にいた陳宮(ちんきゅう)が冗談めかして問いかけます。

「いや、正面からぶつかる。奇策よりも、今は信念だ」

 言葉に迷いはありませんでした。その信念が、後の大志へと繋がっていきます。

 一方、北の涿郡(たくぐん)では――

「兄者、また黄巾の残党だ。どうする?」

 張飛(ちょうひ)が大声をあげて駆け寄ります。

「ふん、やるしかあるまいよ。民を守ってこその義だ」

 劉備(りゅうび)は槍を手に、立ち上がります。関羽(かんう)も黙ってそれに続きました。三人はまだ無名の義勇軍でしたが、その姿勢はすでに英雄の片鱗を見せていました。

 幽州(ゆうしゅう)でも、剣呑な空気が流れ始めていました。

「袁紹(えんしょう)とはもう手を組めぬな。あの男、私を使う気など毛頭ない」

 公孫瓚(こうそんさん)は部下に向かってつぶやきました。

「では、いよいよ正面から?」

「ああ。董卓の次は、袁紹ということになるだろうな」

 内戦の兆しが、すでにここに芽吹いていたのです。

 そして遥か南、荊州(けいしゅう)では――

「この地を守ることが、我が務めだ。中央で乱が起ころうとも。ワシは知らん。まず、荊州を安んじねばな」

 劉表(りゅうひょう)は城壁の上から町を見下ろし、静かに語りました。軍を動かすことなく、まずは民の暮らしを守る。それが彼の信条でした。

「殿、いずれ乱世の波が南にも届きましょうぞ」

「そのときは、その時だ。差し当たって、戦火を嫌う名士達を我が荊州(けいしゅう)に呼び集めよう。」

 彼の穏やかな言葉の裏には、じわりと燃える決意が込められていました。

 ――時に、初平元年(190年)。董卓の暴政が火を呼び、群雄たちが動き始めた年。

 それぞれが、それぞれの正義を胸に。

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