呉視点三国志:孫堅の章⑥
190年:初平元年
梁県での激戦。忠臣・祖茂の壮絶な死は、孫堅軍に深い爪痕を残しました。失意の色は濃く、兵士たちの士気は地に落ちたかのようです。
しかし、孫堅の心中には、亡き友への鎮魂と、董卓軍への激しい怒りが燃え盛っていました。
陽人に拠点を移し、再起を図る孫堅は、沈滞した空気の本陣で、力強い声を上げます。
「皆、顔を上げよ!」
「祖茂の忠義、決して無駄にはせぬ! 我らはここで立ち止まるわけにはいかぬのだ!」
歴戦の将、程普が進み出て、声を張り上げました。普段は毒舌な程普の顔にも、この時ばかりは熱い復讐心が燃えているのが窺えます。
「文台様のお言葉、肝に銘じまする! 祖茂殿の御霊に誓い、我ら必ずや、再び力を尽くしましょう!」
細々(ほそぼそ)とではありますが、袁術からの兵糧の支援も届き始め、孫堅軍は、その重い沈黙を破り、少しずつ、確かな活気を取り戻していきました。
一方、洛陽の董卓は、孫堅軍の再起を深く警戒していました。
「孫堅の勢いを、ここで完全に断っておかねば、後々(のちのち)、必ず厄介なことになるぞ……」
董卓は、腹心の猛将・胡軫を総大将に任命します。さらに、当時すでにその武勇が天下に轟いていた呂布を、騎兵の指揮官として陽人へと派遣したのです。
陽人の董卓軍の陣では、総大将である胡軫が、傲慢な態度で呂布に指示を出していました。
「呂布よ、貴様は騎兵を率いて、孫堅の動きを封じろ! 私の采配に従っていれば、間違いないわ!」
呂布は、胡軫の尊大な物言いに、内心で深く舌打ちをしたものの、表面には出さず、無言で頷きました。両者の間には、目に見えない不協和音が、重く漂っていたのです。
この敵の僅かな隙を、孫堅は見逃しませんでした。斥候からの報告は、胡軫と呂布の連携が、全くうまくいっていないことを告げていたのです。夜、孫堅は幕舎に程普と黄蓋を呼び寄せ、低い声で語り始めました。
「敵は我らを侮っておる。前回、屈辱を味わされたからな。総大将の胡軫は傲慢だ。呂布も、その態度に不満を抱えている様子。これは、絶好の好機ぞ!」
程普は、いつになく慎重な面持ちで進言します。
「しかし、夜襲は危険な賭けでございますな。もし、失敗すれば、我らは総崩れになりかねませんぞ。」
孫堅の瞳は、暗闇の中で、鋭く光りました。
「承知しておる。だが、このまま座して死を待つよりは、一縷の望みに懸けるべきだ。敵の油断に乗じ、夜陰に紛れて奇襲をかける。混乱に乗じて、必ずや、胡軫の首を獲る!」
その決然とした決意に、程普と黄蓋は、固く覚悟を決めたのです。
深夜、漆黒の闇が陽人を深く包む中、孫堅の軍勢は、静かに、しかし確実に動き出します。兵士たちは、息を潜め、一糸乱れぬ行軍で、闇の中へと吸い込まれるように敵陣へと近づいていくのです。草を踏む、その僅かな音さえも、注意深く抑えられていました。
夜半、静寂を破る孫堅の雄叫びが、夜空に轟き渡ります。
「突撃!」
孫堅自らが先頭に立ち、紅蓮の炎のような勢いで董卓軍の陣へと斬り込みます。予期せぬ奇襲に、董卓軍の兵士たちは、阿鼻叫喚の恐慌状態に陥ります。
「な、何事だ! 敵襲か!」
胡軫は、安眠を破られ、寝床から慌てて飛び起き、狼狽の色を隠せません。呂布もまた、突然の事態に、自慢の騎兵隊を指揮する間もなく、混乱の中で孤立してしまいます。
孫堅は、この大混乱に乗じ、敵陣を縦横無尽に疾駆します。その手に握られた剣は、血飛沫を舞わせ、行く手を阻む敵兵を、次々(つぎつぎ)と斬り倒していくのです。その勇猛果敢な姿は、暗闇の中で、まさに鬼神の如く、敵兵たちは恐れ慄き、我先にと逃げ惑います。
「胡軫はどこだ!」
孫堅は、夜空に響き渡る声で叫びながら、敵の本陣を一直線に目指します。混乱の中、呂布も必死に応戦を試みますが、夜の闇と、味方の潰走に阻まれ、自慢の武勇を十分に発揮することができません。
ついに、孫堅は胡軫の本陣に辿り着きました。狼狽し、愕然とする胡軫を一瞥すると、孫堅は、全身の力を込め、渾身の一撃を、その首へと叩き込みます。
「貴様のような傲慢な将に、俺達が負けるわけがなかろう!」
胡軫は、何も抵抗する間もなく、孫堅の剣に斃れました。総大将を失った董卓軍は、完全に統制を失い、雪崩を打ったように総崩れとなります。
いくぞ! このまま陽人の城を包囲する! そこに俺が斬るべき華雄がいるはずだ!」
夜が明け、陽人の城が、新しい戦いの舞台へと変わります。
夕焼け空が戦場を茜色に染め上げる頃、孫堅の軍勢は、堅固な陽人の城壁を包囲していました。数日前の激しい戦いで、勇猛な将、祖茂が董卓軍の猛将・華雄によって討たれたという悲しい報せは、孫堅の胸に、滾るような怒りと、深い悲しみを宿らせていたのです。
本陣の幕舎では、孫堅が静かに目を閉じ、亡き友の面影を偲んでいました。そこに、程普が心配そうな面持ちで、そっと声をかけます。
「文台様。祖茂殿のこと、皆、胸を痛めております。」
孫堅はゆっくりと目を開け、程普に向き直ります。その瞳の奥には、拭い去ることのできない深い悲しみと、しかし、それを凌駕する静かなる決意が宿っていました。
「徳謀よ、私は必ず華雄を討つ。祖茂の仇を討つのだ。それが、私に残された、唯一の務めだ」
程普が、斥候からの報告を伝えます。
「その華雄ですが、密かに城外に出て、我らを襲撃しようと企んでいるようですな」
孫堅の口元に、冷たい笑みが浮かびます。
「それは好都合だ。奴の先手を取る。再び夜襲だ。いくぞ!」
最後に、屈強な体躯の黄蓋が、豪快に笑いながら応えます。
「そうこなくては! まさに朝飯前ですな! ガハハ!」
夜が訪れ、静寂が戦場を支配する中、孫堅は、数騎の精鋭を率いて、ひそかに陣を出ました。目指すは、仇敵・華雄の本陣です。頼るは、僅かな月明りのみ。一行は、息を潜め、闇の中を進みます。
やがて、赤々(あかあか)と燃え盛る篝火が、華雄の陣を照らし出しました。そこからは、油断しきった酒宴の喧騒が、微かに聞こえてきます。孫堅は、静かに剣を抜き放ちました。その鋭い刃は、冷たい月光を浴び、一層、凄まじい光を放っていたのです。
「皆の者、私に続け!」
低い号令とともに、孫堅は一気に駆け出した。その動きは疾風の如く、董卓軍の兵士たちが気づいた時には、すでに目前に迫っていたのです。
「何者だ!」
酔いにまどろんでいた董卓軍の兵士たちが、騒ぎ出します。その混乱を突き、孫堅は猪突猛進に華雄の本陣へと駆け込みます。月光の下、孫堅の剣が閃き、行く手を阻む敵兵を次々(つぎつぎ)と斬り伏せていきます。
騒ぎを聞きつけ、奥から一人の男が姿を現しました。赤ら顔に鋭い眼光。その堂々(どうどう)とした体躯、まさしく仇敵・華雄その人です。
「貴様は!」
華雄の太い声が、夜空に響き渡ります。
その刹那、孫堅は猛然と斬りかかりました。
「長沙太守孫文台見参!我が友、祖茂の敵を取らせてもらう。」
鍛え上げられた鋼の剣が激しくぶつかり合い、火花を散らします。華雄の剛剣もまた凄まじく、一瞬たりとも油断は許されません。
激しい攻防の中、孫堅は冷静に華雄の僅かな隙を窺っていました。そして、その一瞬の迷いを見逃さず、渾身の力を込めた一撃を繰り出したのです。
「うぐっ!」
鈍い音とともに、華雄の巨体が大きく揺らぎます。孫堅の剣は、華雄の胸深く突き刺き立っていました。
「オレを打ち取るものがいるとはな。見事だ。先に地獄に行っておくぞ…」
華雄は、苦悶の表情を浮かべながら、掠れた声で呟きます。その言葉を聞いた孫堅の瞳には、深い悲しみと、同時に復讐を遂げたという静かな喜びが宿ったのです。
華雄の巨体が地面に崩れ落ちるのを見届け、孫堅は剣を鞘に収めました。あたりには、董卓軍の兵士たちの悲鳴と混乱が渦巻いていました。
孫堅は、静かに夜空を見上げます。月は、先ほどよりも一層明るく輝いているように感じられました。祖茂の魂が、ようやく安らかに眠ることができるのでしょうか。
夜明け前、孫堅は華雄の首を携えて自陣へと戻りました。その姿を見た程普や黄蓋たちは、深々(ふかぶか)と頭を垂れ、主君の偉業を称えたのです。
陽人の戦いにおいて、孫堅は見事、華雄を討ち取り、忠臣・祖茂の仇を討ちました。この勝利は、孫堅の武勇を天下に知らしめるとともに、董卓軍に大きな打撃を与えることとなりました。
190年:初平元年
空は灰色に曇り、洛陽の宮殿は沈黙の中に立ち尽くしておりました。時は初平元年。帝都の瓦が、焦げた風に吹かれて鳴いておりました。
「李儒、洛陽を燃やせ。洛陽のすべてを、だ」
董卓は低く言い放ちました。背後には震える文官たち。地に伏した者、逃げ腰の者、それでも誰も逆らえません。
「よろしいのですか。都を……火の海に?」
李儒の声音は冷ややかですが、わずかに迷いがありました。
「逆賊どもに、この都を明け渡せと申すか?宝物も、宮殿も、城壁すらも奴らの手に渡せと?」
董卓の目は血走っておりました。怒りではなく、恐怖によって。
「ですが――」
「焼け。すべて。帝すら、我が手のうち。天子を戴くは我なり。火を以て我が威を刻むのだ!」
火の手が上がりました。宮廷に、官舎に、民家に。白昼の空が紅く染まり、黒煙が帝都を包みました。
その中、揺れる馬車の中で、幼き劉協は嗚咽をこらえておりました。
「母上……父上……洛陽が……」
誰も慰める者はおりません。車輪はきしみ、長安へと向かう軍列が続きます。逃げ遅れた民は、焼け落ちる城の中で命を落とし、兵は略奪に明け暮れました。
行軍中、李儒は董卓に近づき、そっと囁きました。
「都を焼いたのは、敵に一矢報いるためでございます。必ず、歴史は貴公を正しく記しましょう」
「ふん。記されるのは我が武、我が威。なればそれでよい。貴様、李儒。都を焼いた責め、受ける覚悟はあるか?」
「いつでも、董侯のためならば」
乾いた風が、焼け焦げた洛陽の跡地を吹き抜けました。かつての都は、灰と化し、ただ董卓の野望のみが燃え残っておりました。
190年:初平元年
洛陽の空が、赤黒く焦げ付いていました。董卓の軍勢が放った炎は、都の隅々を焼き尽くし、天を焦がす煙が遠く界橋にも届いておりました。
「見ろ、公孫瓚殿。董卓の狼煙だ。やつは本気で都を焼き払ったぞ」
袁紹は眉をひそめながら、地図に手を走らせます。その声には怒りと、わずかな焦りがにじんでいました。
「狼煙か? あれはむしろ、董卓の火葬の煙に見えるな。今に灰になって風に消えるさ」
公孫瓚は涼しい顔で応じましたが、足元には緊迫した空気が漂います。
遠く酸棗の野では、もう一人の男が拳を握りしめておりました。
「兵は足りぬ。食も尽きかけている。だが――やらねばならぬのだ」
曹操は天幕の中、地図の前に立ち尽くしていました。彼のもとにはまだ名もない義勇兵がわずか。しかし、燃えさかる洛陽の炎を見て、彼の眼光はさらに鋭くなります。
「曹孟徳殿、夜襲でもお考えですか?」
隣にいた陳宮が冗談めかして問いかけます。
「いや、正面からぶつかる。奇策よりも、今は信念だ」
言葉に迷いはありませんでした。その信念が、後の大志へと繋がっていきます。
一方、北の涿郡では――
「兄者、また黄巾の残党だ。どうする?」
張飛が大声をあげて駆け寄ります。
「ふん、やるしかあるまいよ。民を守ってこその義だ」
劉備は槍を手に、立ち上がります。関羽も黙ってそれに続きました。三人はまだ無名の義勇軍でしたが、その姿勢はすでに英雄の片鱗を見せていました。
幽州でも、剣呑な空気が流れ始めていました。
「袁紹とはもう手を組めぬな。あの男、私を使う気など毛頭ない」
公孫瓚は部下に向かってつぶやきました。
「では、いよいよ正面から?」
「ああ。董卓の次は、袁紹ということになるだろうな」
内戦の兆しが、すでにここに芽吹いていたのです。
そして遥か南、荊州では――
「この地を守ることが、我が務めだ。中央で乱が起ころうとも。ワシは知らん。まず、荊州を安んじねばな」
劉表は城壁の上から町を見下ろし、静かに語りました。軍を動かすことなく、まずは民の暮らしを守る。それが彼の信条でした。
「殿、いずれ乱世の波が南にも届きましょうぞ」
「そのときは、その時だ。差し当たって、戦火を嫌う名士達を我が荊州に呼び集めよう。」
彼の穏やかな言葉の裏には、じわりと燃える決意が込められていました。
――時に、初平元年(190年)。董卓の暴政が火を呼び、群雄たちが動き始めた年。
それぞれが、それぞれの正義を胸に。