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呉視点三国志:孫策の章⑥

196年:建安(けんあん)元年

 孫策(そんさく)が呉郡(ごぐん)、会稽(かいけい)を次々に平定し、「小覇王(しょうはおう)」の異名を天下に轟(とどろ)かせていたころのことです。

 その軍の中に、ひときわ若く、しかし鋭い光を秘めた瞳の兵が一人おりました。名を呂蒙(りょもう)と申します。後に「知勇兼備(ちゆうけんび)の将」として名を馳(は)せる男でございます。

 彼はまだ十代の後半でございました。出自は高くなく、義兄である呂範(りょはん)に随(したが)って孫策(そんさく)軍に従軍(じゅうぐん)しておりました。

ある日、南方にて反乱の兆しが立ち上りました。孫策(そんさく)は迅速に鎮圧(ちんあつ)の命を下し、呂範(りょはん)もまたその任を受けることとなりました。

しかし、兵の数が足りません。

「呂蒙(りょもう)、お前はまだ若い。今回は留守を頼む」

義兄の言葉に、呂蒙(りょもう)は静かに、しかし力強く首を振りました。

「兄上。私も戦場に出してください。命惜しさに武を学んだのではありません」

その目はまるで炎のようでした。若き情熱が燃え、まっすぐに義兄を射抜(いぬ)いておりました。

呂範(りょはん)は黙(もく)して彼の眼差(まなざ)しを受け止め、しばしののち、低く答えました。

「ならば、自らの力で証(あかし)を立てよ」

 こうして呂蒙(りょもう)は、正式な兵籍(へいせき)にはなくとも、一兵士として戦列(せんれつ)に加わることとなったのです。

 そして――戦いは、激戦(げきせん)となりました。

反乱軍は深い林の中に伏兵(ふくへい)を潜(ひそ)ませ、周到(しゅうとう)な策をもって呂範(りょはん)軍を待ち構えていたのです。突如として矢が飛び交い、四方から敵が現れました。

「伏兵(ふくへい)だっ!囲まれている!」

混乱の声が上がる中、軍は一時、統率(とうそつ)を失いました。

 そのとき、若き呂蒙(りょもう)が声を張り上げました。

「こっちです!退路を確保(かくほ)します!矢に構わず、下がってください!」

彼は仲間たちを庇(かば)いながら、矢の雨をかいくぐって前へ進みます。軽装の身体が風のごとく駆け、敵の中へと飛び込みました。

 鋭い槍が閃(ひらめ)き、敵兵が次々に倒れます。動きは鋭く、速く、そして正確でした。

「な、何者だ!? あの若者……ただ者ではないぞ!」

敵将が思わず叫びました。名も知らぬ若き兵士の姿に、敵味方の視線が釘付(くぎづ)けとなりました。

 呂蒙(りょもう)は孤軍奮闘(こぐんふんとう)し、敵の動きを断ち切りました。その隙(すき)に味方は体勢を立て直し、再び陣形を整えることに成功します。

やがて呂範(りょはん)軍は反乱軍を撃破(げきは)し、見事に鎮圧(ちんあつ)を果たしました。

 戦後、その働きが孫策(そんさく)に報告されます。

「呂蒙(りょもう)……聞いたことのない名だな」

孫策(そんさく)は笑みを浮かべ、盃を傾(かたむ)けながら呟(つぶや)きました。

 その傍らで記録を調べていた張昭(ちょうしょう)が、静かに言葉を添えます。

「呂範(りょはん)の義弟にございます。年若き者にしては、非凡(ひぼん)の才を見せたとか」

孫策(そんさく)は顎に手を当て、しばし思案ののち、目を細めて言いました。

「ならば、いずれ試してやろう。江東(こうとう)には、若き力こそ必要だ」

 こうして呂蒙(りょもう)は、初めての戦で武功を挙げ、将としての第一歩を踏み出しました。

この時の刃と炎の中で、彼の魂には確かな礎(いしずえ)が築かれていたのです。

 のちに学問を修め、知謀(ちぼう)を磨いた彼は、「士(し)、別(わか)れて三日(みっか)なれば、即ち更(さら)に刮目(かつもく)して相待(あいた)つべし」と評されるに至ります。

すべての始まりは、この戦いにございました――。



196年:建安元年(けんあんがんねん)

 大志を胸に抱く若き覇者――孫策(そんさく)は、父・孫堅(そんけん)の遺志を継ぎ、江東(こうとう)へと覇旗を掲げました。齢二十に満たぬ若者の台頭に、世は一笑に付したものです。しかし、孫策(そんさく)はその笑いを剣で、才で、雷鳴のごとき迅速(じんそく)な軍略で黙らせていきました。

 その傍らには、いつも一人の男が槍を携え、寡黙に従っておりました。

 ――韓当(かんとう)。

 孫堅(そんけん)の代から仕える忠臣にして、無骨なる歴戦の猛将であり、特に弓術に優れた男でした。槍の扱いも得意でしたが、その真価は弓を手にしたときに発揮されます。言葉少なく、情も表に出さぬ男でしたが、その背中こそが語っておりました。弓の矢が飛ぶたびに、その忠義は鋼のように強く、戦場(せんじょう)で主君(しゅくん)を支える柱であり続けたのです。

 風が鳴り、地が震え、戦が始まります。

 韓当(かんとう)の戦いは静寂から始まり、瞬間、爆ぜるように疾走へと転じます。

「全軍(ぜんぐん)、突撃(とつげき)――!」

 その叫びを号砲(ごうほう)に、彼は真っ先に敵陣(てきじん)へと飛び込みました。

 廬江(ろこう)、そして会稽(かいけい)――。

 重なる戦の中でも、この地での戦いは苛烈(かれつ)を極めました。韓当(かんとう)の率いる精鋭部隊(せいえいぶたい)は、幾度も槍の雨をかいくぐり、敵陣(てきじん)を突き崩していきました。

 特に彼の弓は、数百の兵を相手にしてもその精確(せいかく)さと破壊力を持ち、敵将(てきしょう)たちにとってはまさに恐怖の源(みなもと)でした。遠距離からでも、鋭い弓矢(ゆみや)は相手の陣形を乱し、敵兵を一網打尽(いちもうだじん)にしました。

「右(みぎ)より回り込め! 隊(たい)を二つに割れ!」

 短く鋭い号令(ごうれい)に、兵たちは即座(そくざ)に反応(はんのう)しました。

 斬り伏せ、突き破り、乱れた陣(じん)を即座に支えます。

「目標(もくひょう)、敵将(てきしょう)――討(う)て!」

 韓当(かんとう)の槍が閃きました。鋼鉄(こうてつ)の矛先(ほこさき)が真空(しんくう)を裂き、敵将(てきしょう)の旗(はた)を穿(うが)つと、戦場(せんじょう)の空気(くうき)が一変(いっぺん)します。

 そのとき、兵たちは確かに見たのです。敵を睨み据え、微動(びどう)だにせぬその背中(せなか)を。

 韓当(かんとう)という男は、敵からも味方(みかた)からも畏れられる“動かぬ剣(けん)”でございました。

 その活躍の一つに、廬江(ろこう)の戦いがあります。この戦いにおいて、韓当(かんとう)は弓を手に取り、その一矢で敵の将軍(しょうぐん)を討ち取ったと伝えられています。戦場の中央で激しく交戦していた彼の矢が、敵の総大将(そうだいしょう)を狙い定め、突き刺さる瞬間、味方の士気(しき)は一気に上がり、戦局を有利に変えました。その瞬間、彼の名は敵味方を問わず、戦場を駆け巡ったのです。

 戦後(せんご)の夜(よる)。廬江(ろこう)の陣(じん)にて、焚き火(たきび)が静かに揺れております。

 その焔(ほむら)の前に、孫策(そんさく)が立っておりました。

「……韓当(かんとう)」

 静かな声(こえ)が、闇(やみ)の中に響きます。

 呼ばれて現れた韓当(かんとう)は、無言(むごん)のまま一礼(いちれい)しました。

「余(よ)はな、お前(まえ)の働(はたら)きを一つとして見逃しておらぬ。槍(やり)の一突き一突きに、命(いのち)を預けておると、そう感じておる」

 孫策(そんさく)はその場に立ち、やがて一歩(いっぽ)、彼へと近づきます。

「今日より、お前(まえ)には別部司馬(べつぶしば)の官位(かんい)を授ける。これは、名実(めいじつ)ともに軍(ぐん)を預かる将(しょう)の位(くらい)だ」

 別部司馬(べつぶしば)とは、「特別な部隊をまかされていた軍のリーダー」です。ある程度自分の判断で部隊を動かすことができるようになります。

 韓当(かんとう)は膝(ひざ)をつき、深く頭(あたま)を垂れました。

 焚き火(たきび)の音(おと)が、二人(ふたり)の間(あいだ)に静かに響きます。

「……ありがたき幸(しあわ)せにございます。この命(いのち)、尽きるまで、殿(との)にお仕えいたします」

 その声(こえ)には、一切(いっさい)の揺(ゆ)らぎがございませんでした。

 孫策(そんさく)は微笑(ほほえ)みます。

「うむ。そなたの槍(やり)がある限り、余(よ)は何者(なにもの)にも恐れぬ」

 焚き火(たきび)の明かりが、若き覇者(はしゃ)の顔(かお)を照らしておりました。そこにあったのは戦の疲れではなく、仲間(なかま)への信頼(しんらい)と未来(みらい)への希望(きぼう)です。

 それからも韓当(かんとう)は、江東(こうとう)各地(かくち)で先陣(せんじん)を駆け抜けました。

 剣(けん)の雨(あめ)を斬り裂き、乱戦(らんせん)の中でも揺るがず――彼の槍(やり)と弓(ゆみ)は常に、道(みち)を拓いてまいりました。

 やがて孫策(そんさく)が志半ばで倒れたときも、韓当(かんとう)の忠誠(ちゅうせい)は揺るぎませんでした。その槍(やり)は孫権(そんけん)へと向けられ、変わらぬ忠義(ちゅうぎ)で新たな主君(しゅくん)を支え続けたのです。

 そして、時(とき)が流れ――呉(ご)の国(くに)が建てられたそのとき。

 建国(けんこく)の記録(きろく)には、確かにこの名(な)が記されておりました。

 韓当(かんとう)――忠義(ちゅうぎ)を槍(やり)に宿し、弓(ゆみ)を駆使し、世(よ)を貫いた男(おとこ)の名(な)として。



197年:建安二年

 戦火はひとまず鎮まり、江東(こうとう)には久しぶりの静寂が訪れていました。

 その夜、長江(ちょうこう)のほとり。孫策(そんさく)の本陣には、松明(たいまつ)が焚かれ、風に乗って酒の香りと笑い声が揺れていました。

 戦勝の宴(うたげ)です。皖城(かんじょう)、曲阿(きょくあ)、秣陵(ばつりょう)を次々と攻略し、孫策軍(そんさくぐん)は今や江東をほぼ平定(へいてい)していました。

 広い帳中(ちょうちゅう)の中央では、まだ若き英傑(えいけつ)・孫策が杯(さかずき)を高く掲げています。彼は孫堅(そんけん)の長男(ちょうなん)。剛胆果断(ごうたんかだん)で、敵将(てきしょう)すら魅了(みりょう)するカリスマの持ち主です。

「――諸君(しょくん)!」

 孫策の声が空気を切り裂きました。

「我らはついに江東をこの手に収めた!だが、これは通過点(つうかてん)だ。父の志(こころざし)は、まだその先にある!」

「ほう、それは天下(てんか)か、それとも娘婿(むすめむこ)か」

 周瑜(しゅうゆ)が微笑(ほほえみ)を浮かべて言いました。彼は孫策の幼馴染(おさななじみ)にして無二(むに)の腹心(ふくしん)。知謀(ちぼう)と音楽(おんがく)に優れた風流(ふうりゅう)の士(し)でもあります。

 孫策は笑いながら首(くび)を振(ふ)りました。

「どちらも手に入れよう。だがまずは、俺たちの“国(くに)”を創(つく)る。それが先だ!」

「理想高(りそうたか)し。けっこうなことだ」

 冷静(れいせい)な声が応じました。張昭(ちょうしょう)です。文官(ぶんかん)の筆頭(ひっとう)で、厳格(げんかく)な言動(げんどう)と老練(ろうれん)な判断力(はんだんりょく)で軍(ぐん)の屋台骨(やたいぼね)を支(ささ)えていました。

「ですが、天下は力だけで治まるものではありません。文治(ぶんち)を忘れれば、あっという間(ま)に瓦解(がかい)しますぞ」

「張公(ちょうこう)の忠言(ちゅうげん)、肝(きも)に銘(めい)じますとも」

 孫策は杯を張昭(ちょうしょう)に差し出し、素直(すなお)に一礼(いちれい)しました。

 その脇(わき)では、程普(ていふ)が豪快(ごうかい)に酒を煽(あお)りながら、黄蓋(こうがい)と何やら言い合っています。

「黄爺(こうや)、あの時(とき)の牛渚(ぎゅうしょ)の突撃(とつげき)、見事(みごと)だったな。老骨(ろうこつ)とは思えん」

「ほほう、言ったな程普!そちらこそ、馬(うま)を落(お)とし三度(さんど)起(た)ちたのは見事だったな。酔(よ)ってなければ、な!」

「貴様(きさま)こそ、火計(かけい)を仕掛(しか)ける前に酒に火をつけたろう!」

 両名(りょうめい)は孫堅時代(そんけんじだい)から仕(つか)える宿将(しゅくしょう)です。戦場(せんじょう)では一歩(いっぽ)も引(ひ)かず、酒の席では一言(ひとこと)も譲(ゆず)りません。

 一方(いっぽう)、隅(すみ)の席(せき)では、端正(たんせい)な面差し(おもだし)の男(おとこ)が静かに盃(さかずき)を見(み)つめていました。太史慈(たいしじ)です。かつては劉繇(りゅうよう)の配下(はいか)でしたが、孫策との一騎打ち(いっきうち)を経てその義(ぎ)に感じ、配下(はいか)となりました。

「太史(たいし)、遠慮(えんりょ)せず飲(の)め。ここにいる者(もの)は皆(みな)、兄弟同然(きょうだいどうぜん)だ」

 声(こえ)をかけたのは呂範(りょはん)でした。若くして内政(ないせい)と外交(がいこう)で頭角(とうかく)を現(あらわ)し、孫策に重用(じゅうよう)されている知将(ちしょう)です。

「……その言葉(ことば)、嬉(うれ)しく思(おも)います。だが、私(わたし)が真(まこと)に兄弟(きょうだい)と呼(よ)ぶには、まだ血(ち)を流(なが)さねばならぬ」

「だったら、明日(あした)からまた一緒(いっしょ)に汗(あせ)をかこうじゃないか」

 呂範は肩(かた)を叩(たた)いて笑(わら)いました。

 そこへ、控えの帳(ちょう)から周泰(しゅうたい)と蒋欽(しょうきん)が姿(すがた)を現(あらわ)しました。

 周泰は無口(むくち)で寡黙(かもく)。後(あと)に孫権(そんけん)を何度(なんど)も救(すく)う忠義(ちゅうぎ)の将(しょう)です。この頃(ころ)はまだ若(わか)く、だがその鋭い眼光(がんこう)はひときわ異彩(いさい)を放(はな)っていました。

「殿(との) 。港(みなと)の巡視(じゅんし)、終(お)えました。水軍(すいぐん)も異常(いじょう)なしです」

「さすが周泰(しゅうたい)!蒋欽(しょうきん)もありがとう。そなたの船団(せんだん)がなければ、長江(ちょうこう)は渡(わた)れなかった!」

 蒋欽(しょうきん)は笑(わら)って応じました。

「船(ふね)に乗(の)るのは魚(うお)と俺(おれ)だけ、ってね」

 宴(うたげ)の熱(ねつ)はさらに高(たか)まりました。軍旗(ぐんき)が風(ふう)にたなびき、笑い声(わらいごえ)が幕舎(ばくしゃ)を包(つつ)みます。

「――我らが夢(ゆめ)は、まだ始(はじ)まったばかりだ」

 孫策は夜空(よぞら)を見上げ、つぶやきました。

「この江東を拠点(きょてん)に、父の志を継(つ)ぎ、兄弟(きょうだい)とともに――天下を目指(めざ)す!」

 杯が打(う)ち鳴らされました。

 その音(おと)は夜風(よかぜ)に乗り、遥(はる)か、東南(とうなん)の空(そら)へと響(ひび)いていきました。



196年:建安元年(けんあんがんねん)

 孫策(そんさく)率いる軍団は江東(こうとう)各地を転戦しながら勢力を拡大していました。戦乱の最中にあっても、兵たちの士気と体力を維持するため、飲食は極めて重要な要素でした。

 この時代、蒸留酒はまだ存在せず、主に米や黍(きび)を原料とした醸造酒(じょうぞうしゅ)が飲まれていました。特に「醴(れい)」と呼ばれる甘い低アルコール酒は、祝いの場や休息のひとときにふるまわれました。戦の勝利後などには、濃厚で香り高い「鬯(ちょう)」が用いられることもありました。これは香草を加えた上等な酒で、将軍たちの宴に花を添えたと考えられます。庶民兵たちは「醪(らく)」と呼ばれる濁(こご)り酒をよく飲んでおり、米の粒が残る素朴な酒が、彼らの喉と胃を潤しました。

 食事は保存性と簡便さが求められます。主食としては、乾餅(かんぺい)と呼ばれる硬く焼いた穀物(こくもつ)の餅(もち)が主流でした。携行性が高く、戦場では欠かせぬ糧(かて)でした。米よりも入手しやすい粟(あわ)や黍(きび)を炊いた粥(かゆ)も重宝され、簡単な調味料と共に鍋で煮込んで供されました。

 副食としては、山野で得られる鹿肉(しかにく)や猪肉(いのししにく)を干した「肉干(にくかん)」がよく用いられました。これに豆鼓(とうち)や野菜の塩漬け、野草の発酵物が添えられることもありました。水の多い江東では魚や水鳥も入手可能で、特に川魚の干物や焼き魚は兵士たちに人気がありました。

 孫策(そんさく)や周瑜(しゅうゆ)、張昭(ちょうしょう)といった高級将校たちの宴席では、もう少し贅沢(ぜいたく)な料理が並びました。白米に野禽(やきん)や魚を炊き込んだ飯、香草入りの羹(あつもの)など、滋味豊かな料理が振る舞われ、勝利の酒と共に将来を語り合う場となっていました。棗(なつめ)や李(すもも)、柑橘類(かんきつるい)などの果物も江南(こうなん)では手に入りやすく、甘味として親しまれていたとされます。

 江東は水と緑に恵まれた地であり、農業と漁業が盛んでした。そのため、戦場であっても、食文化は他地域に比べて豊かでした。孫策(そんさく)軍の力強い進軍の裏には、このような食の支えがあったのです。

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