呉視点三国志:孫策の章③
195年:興平2年
興平二年の春。風は湿り気を含み、長江の流れは静かに見えて、底では時勢のうねりが渦巻いていました。
孫策はまだ二十にも満たない若武者です。父・孫堅の遺志を継ぎ、江東平定の大志を胸に燃やしていました。
この日、孫策は牛渚の陣に迫っていました。江東の地は劉繇という名士が支配しており、各地に将を配していました。その一人、于糜は強気の猛将で知られていました。
「敵は高台に陣を張り、兵は千。こちらは……五百か」
副将がそうつぶやいたとき、孫策は軽く肩をすくめて笑いました。
「ならば、俺が二百。お前たちで三百ってところだな」
「冗談を。殿が三百で、我らが二百かと」
陣幕の中で笑いが起こりました。
孫策は、背丈はそれほど高くないものの、鍛え抜かれた体に烈しい眼差しを宿していました。その気迫は、まさに父・孫堅譲り。敵にとっては雷鳴の如き恐怖であり、味方にとっては夜の灯火でした。
その夜、月が雲間に覗いた頃――孫策は馬上にて出撃の号令を発しました。
「風がある。夜露も深い。行くなら今だ!」
先陣に立ったのは孫策自身です。火矢を手にとり、自ら松明を掲げて突進しました。
彼の馬が地を蹴るたび、兵たちの血が沸き立ちました。
――そのときです。
敵の将・于糜が前線に現れました。重厚な鎧をまとい、巨剣を振るう姿はまさに一騎当千の気迫。
しかし、孫策はひるみませんでした。
「于糜よ、耳が遠くなったか! 孫堅の子、孫策が来たぞッ!」
孫策の一喝が、夜の静寂を突き破りました。
――瞬間、于糜の馬が驚き、足をもつれさせて転倒しました。
その隙を、孫策は見逃しません。
疾風の如く駆け寄り、刀が閃きました。
一閃。
于糜の首が飛びました。
敵陣は総崩れとなり、牛渚はあっという間に孫策の手に落ちました。
戦が終わると、孫策は部下たちとともに陣を整えました。
「殿、あの一喝……もはや軍神ですね」
「軍神? 俺の喉を心配してくれ。明日は声が出せるか怪しい」
「ならば、明日は筆で指揮を?」
「否、明日は剣のみで語る!」
孫策の顔に、少年のような笑みが浮かびました。
この若武者の進軍は、やがて江東全土を震わせることになります。
その始まりこそ――牛渚の雷鳴でした。
ちなみに、「牛渚の雷鳴」とは、勢いが盛んで、世間を揺るがすような大きな出来事や評判 をたとえる言葉です。
195年:興平2年
時は、興平二年――天下は依然として混乱の極みにあり、各地で野心を持つ群雄たちが、互いに覇を競い合っておりました。そのような中、若き日の猛虎・孫策は、ついに自らの運命を切り開くべき地、豊かなる江東へと、雄々しく駒を進めたのでございます。
「策よ、わしの部下の、呉景が、かの地で劉繇の軍勢に苦戦を強いられておる。お前の並外れた武勇をもって、必ずや叔父上を救い出せ」
袁術は、相変わらず尊大な態度で、孫策にそう命じました。
呉景は、孫策の叔父にあたり、現在は丹楊太守として、強敵・劉繇の軍勢と、日夜激しい攻防を繰り広げていたのです。「叔父上が、今まさに窮地に陥っておられるというのであれば、この孫策、たとえ火の中、水の底であろうとも、助けぬわけには参りませぬ!」孫策は、その若き瞳に、滾るような熱い決意の炎を燃やし、即座に力強く応えました。
黄蓋、程普、韓当ら、父・孫堅の代からの忠義に厚い宿将たちも、若き主君・孫策の後に、迷うことなく従います。
「江東の地を得る。これこそが、亡き孫堅将軍の悲願を継ぐ、唯一の道でございます」
そう静かに語ったのは、孫策の参謀役を務める、知略に優れた名士・朱治でした。彼は常に冷静沈着に、的確な策を献じる、頼りになる存在でございます。
孫策軍は、一路、丹楊の地を目指して進軍を開始いたしました。その道中、長江の要衝である牛渚の堅固な砦に立ち寄ったその時――「策!」背後から、雷鳴のように響き渡る、懐かしい声が、孫策の耳を強く打ちました。
その声の主こそ、盟友――周瑜その人でした。
「瑜!なんと、お前が、このような場所に!」
孫策は、驚きと喜びがないまぜになった表情で、振り返り、盟友の名を叫びました。
「ああ、策!お前がついに、その秘めたる力を解き放ち、動き出したという知らせは、私の耳にも届いていたぞ。江東の民も、きっと、お前の到来を待ち望んでいるに違いない」
二人は、熱い友情を込めて固く握手を交わし、その瞬間、遠い日の少年時代の、忘れかけていた熱い日々が、鮮やかに蘇るのでした。
周瑜は、すでにこの地の近く、居巣という場所で、自らの私兵を組織し、地元住民からの厚い信頼を得て、確固たる地位を築いておりました。彼は、旧友・孫策の熱い志と、その秘めたる才能を深く信じ、迷うことなく、自らが率いる全兵力を、孫策に預けることを決意いたします。「策、俺はお前を、誰よりも深く信じている。だから、俺の命も、そして、この兵も、全てお前に託そう。共に力を合わせ、この江東の地を興し、一大勢力を築き上げようではないか!」孫策は、盟友の熱い言葉に、感動のあまり目を潤ませながら、深く頷きました。
「ありがとう、瑜!お前のその熱い志、この孫策、決して裏切るようなことはしない!」
こうして、孫策は、かけがえのない強力な支援を得て、叔父・呉景の救援のため、再び力強く進軍を開始いたしました。彼の軍勢の進撃は、まるで風を切り裂く矢のように迅速であり、行く先々の山賊や、小規模な群雄たちを、瞬く間に一蹴してまいります。そして、ついに、叔父・呉景が必死に守る丹楊の地へと、辿り着いたのでございます。
呉景は、孫策の父である孫堅の妻、呉夫人の実弟にあたります。したがって、孫策から見ると、呉景は母方の叔父にあたるわけです。
敵軍の包囲を受け、苦戦を強いられていた呉景の陣営を視認した孫策は、満を持して、高らかに叫びました。
「叔父上!ご安心ください!甥の孫策、今、こうして叔父上の窮地を救いに参じました!」
若き猛虎・孫策率いる精鋭たちの猛攻は、まさに鬼神の如くすさまじく、叔父を苦しめていた劉繇配下の将兵たちを、次々と撃破してまいります。激しい戦場の砂煙が舞い上がる中、包囲網から解放された呉景は、甥の目覚ましい成長した姿を見て、喜びのあまり血の涙を流しながら、声を震わせました。
「策……その勇猛果敢な姿、まるで、わしの義兄上、孫堅の若き日を見るようだ……!」
こうして、呉景は無事に救出され、孫策の江東進出は、歴史に大きく刻まれるべき、重要な第一歩を踏み出すこととなったのでございます。
196年(建安元年)
建安元年の春。大江南岸の空に、雷光が走るような気配が漂っていました。
孫策は二十二歳。父・孫堅の遺志を継ぎ、江東の地に覇を唱える若き猛将です。その姿は風のように俊敏で、火のように熱きものでした。
この時、彼は曲阿へ向け進軍していました。そこは劉繇配下の張英が堅く守る要衝の地です。攻めあぐねるには十分な堀と城壁を持つ堅城でした。
戦陣の前、孫策は配下の将たちと地図を広げて作戦を練っていました。
「……ふむ、張英は城を閉ざして籠城の構えですな」
そう口にしたのは朱治。穏やかながら、緻密な策を練る文武の将です。
孫策は苦笑して、彼を見やりました。
「まるで寒がりの狸だな。暖かい城に閉じこもって、春を待つつもりか」
周瑜――孫策の盟友にして、名門・周家の俊才――が袖を払って笑いました。
「狸なら皮でも剥いで、冬物の毛皮にしますか」
「皮より中身が欲しいな。張英の首、それと曲阿の城!」
孫策は馬の鞍に拳を叩きつけ、全軍へ進軍の命を下しました。
そして、夜が明けるとともに戦端が開かれました。
――弓兵が矢を放ち、火矢が城門を照らします。
孫策は最前線で敵兵を蹴散らしながら、城壁下へと迫りました。
「門を破れ! 俺が先に行く!」
馬上の彼の声が戦場に響き渡ります。
その姿に兵は奮い立ち、破城槌が火花を散らしました。
張英は城内からそれを見て歯噛みしていました。
「……やはり、孫堅の子か。あの奔流のような軍勢、止められぬ……!」
数刻の激戦ののち、ついに門が破られました。
孫策は飛ぶように馬を躍らせ、先頭を切って城内に突入しました。
剣を振るうたび、敵兵が倒れます。風のような動きに誰もついていけません。
張英は逃げ場を失い、ついに降伏しました。
その日の夕刻、戦の煙が晴れた城内にて、孫策は勝利の報告を聞いていました。
「殿。張英、首を垂れております。処置はいかがいたしましょうか?」
部下が問うと、孫策はわずかに笑みを浮かべました。
「降った者には情けを。戦で名を立てたいのなら、首を刎ねるより人心を得る方が早い」
「なるほど、戦も商売も、人付き合いが肝要というわけですな」
周瑜が茶をすすりながら笑いました。
「いや、俺は戦が終われば温酒が欲しい。それだけさ」
「まるで老将のようなことを言いますな」
「老将だって、若い頃は馬で駆け回ったろう。俺も、今はその時だ」
孫策は地図を広げ、さらに東を指差しました。
「次は、秣陵だ。江東の龍となる道が、ようやく見えてきた」




