呉視点三国志:孫策の章①
189年:中平六年
春の寿春の空は、どこか柔らかな風が吹いておりました。遠くから聞こえる太鼓の音が、戦の近さを思わせる季節です。
孫策は庭の片隅で竹刀を握り、真剣な面持ちで打ち込みを繰り返しておりました。まだ十五歳ながら、振るう剣には確かな重みがありました。
「兄上、もう、やめたら……。庭、ぐちゃぐちゃになってるし……」
八歳の弟・孫権が、不安そうに声をかけました。片手には母から預かったお手玉を持ったまま、兄の顔をのぞき込みます。
「うるさくて、母上が困ってるよ。あと、穴、いっぱい……」
「ふふん、庭はな、土を踏んでこそ強くなるんだ。俺も剣も、ここで育つんだぞ」
「……でも、草、もうなくなったよ?」
孫策は一瞬だけ竹刀を止めると、汗をぬぐって木陰に腰を下ろしました。弟たちもつられて座ります。小さな手で草を引っこ抜きながら、末弟の孫翊、まだ四、五歳の幼子が無邪気に尋ねました。
「けん、なんでふるの?」
「剣はな……大事なんだ。父上みたいに、戦に出るためにな」
「たたかうの、こわい……」
「大丈夫。ちゃんと強くなってから行くから。翊も、権も守ってやるさ」
「……ほんと?」
「ほんとだ。兄だからな」
その声はまだ少年のものでしたが、どこか芯のある響きがこもっていました。
孫権は、少し黙ってから口を開きました。
「父上……いつ帰ってくるかな」
「うん……きっともうすぐ、だよ。父上はつよいから、きっと大丈夫だ」
そう言った孫策の目は、遠く空の向こうを見つめていました。
「兄上は……おおきくなったら、なにになるの?」
ぽつりと孫権が尋ねました。孫翊も、ぱちぱちと瞬きをして兄を見上げます。
孫策は、少しだけ考えてから言いました。
「うーん……風、みたいになりたいかな」
「かぜ?」
「うん。目に見えなくても、ぜんぶを動かせるだろ。船も、旗も、雲も」
弟たちはよくわからない顔をしていましたが、ただ兄の話を聞いて頷いていました。
三人の笑い声が、春の庭に静かに広がっていきます。
それからしばらくして、孫堅の軍勢がさらに戦線を広げたことにより、孫策たちは母に連れられて、寿春を離れることとなりました。
新たな地――廬江郡舒県へと移る旅路のなか、丘の上からその土地を見下ろして、孫策はぽつりと呟きました。
「……ここが、新しいところか」
孫翊がはしゃいだ声で言います。
「ひろい!おうち、おっきい!」
「うん。ひろいとこ、すき」
孫権も、目を輝かせながらつぶやきました。
孫策は弟たちの頭を軽く撫でると、やがて真剣な面持ちになって言いました。
「……でもな、もっと広いとこがあるんだ。天下っていうんだ。俺たちは、そこまで行くぞ」
「てんか?」
「うん。とっても広いところ。剣だけじゃなく、人のことも、ちゃんとわかるようにならないと、行けないとこだ」
「にんげんのこと、むずかしい……」
孫翊が首をかしげ、孫策は笑いました。
「だから、これからゆっくり勉強するんだ。舒県では、人といっぱい話して、いっぱい知ろう」
春の陽が丘を照らし、若き孫策の目は、遠くその先の未来を見据えておりました。
この穏やかな舒県の地が、彼の心を育む、最初の「風の起点」となったのです。。
189年:中平六年
後漢末、帝都・洛陽では董卓が専横を振るい、世は混迷を深めておりました。
この混乱にいち早く立ち上がった者の一人が、江東の猛将・孫堅です。彼は群雄連合に加わり、董卓討伐のために中原へと出征しました。
その背後に残されたのは、まだ十四歳の長子・孫策。父に似た烈しさと判断力を持ち、早くも人々の目を引いておりました。
孫堅の出征後、孫策は母・呉夫人と弟妹を伴い、廬江郡舒県へと移ります。ある人物の勧めによるものでした。
その人物こそ、後に「美周郎」と称される周瑜――十四歳の名家の嫡男であり、幼いながら人望篤く、文武に才を示していた少年です。
ある日、周瑜は家人から報告を受けました。
「孫堅将軍のご長男、孫策さまが舒にお着きになりました」
その報を聞くと、周瑜の表情がぱっと明るくなりました。
「孫策さまが……! かねてよりお会いしたいと思っておりました。すぐにご挨拶にうかがわねばなりませんね」
すぐに装いを整え、迎えの使いを出します。
初めて対面したとき、孫策は引き締まった眼差しで、年齢以上の気品を漂わせておりました。周瑜もまた、礼を尽くして迎えます。
「ようこそ、孫策さま。遠路、お疲れさまでございました」
「ご丁寧にありがとうございます。周瑜さまこそ、お噂どおりのご風采で……お目にかかれて光栄です」
「お褒めいただくには及びません。こちらこそ、江東の虎・孫将軍のお子とお聞きし、かねてよりご尊顔を拝したく存じておりました」
ふたりは並んで庭を歩きながら、互いのことを探るように言葉を交わしました。
「孫策さまは、兵法を学ばれてどのくらいになられますか」
「父から手ほどきを受けたのは十歳の頃です。今は『孫子』と『呉子』を繰り返し読んでおります」
「なるほど。私も祖父より、礼学と音律に加え、『司馬法』などを教わっておりますが、兵法はまだ及びませぬ」
「それは意外です。笛の御技は名高く、戦場でも心を静める術として用いられると聞いております」
「恐縮です。いつかその笛の音で、策さまの軍を鼓舞できる日が来れば……」
「……ふふ、それは頼もしいお言葉です。では、私が剣を持ち、周瑜さまが笛を吹く――そんな戦の日を、夢といたしましょうか」
会話の端々に、子どもとは思えぬ気品と志の高さがにじみ出ます。
その夜、孫策の母・呉夫人が周家の屋敷に招かれました。
「このたびのご上洛、さぞご不安も多かったことでしょう。どうか、我が家を遠慮なくお使いくださいませ」
周瑜は丁重に頭を下げます。
「お気遣い、まことにありがたく存じます。――策、礼を申しなさい」
「はい。……周瑜さま、父が戻るまでの間、何卒よろしくお願い申し上げます」
「こちらこそ、策さまとご一緒できること、嬉しく思っております」
夜が更け、ふたりの少年は静かな庭に並んで、月を仰いでいました。
沈黙ののち、周瑜が口を開いました。
「策殿――いえ、孫策さま」
「……どうなさいました、急に改まって」
「恐縮ですが、一つお願いがございます」
そう言って、周瑜は深く頭を下げました。
その姿は、友人ではなく、家臣としての決意を示すものでした。
「私は、これより孫策さまのご命に従い、お仕えしたく存じます」
「……周瑜さま」
「いえ、どうか“瑜”とお呼びください。すでに私は、策さまの臣にございます」
「……そのようなことを、お父上に許されましたか?」
「はい。父もまた、孫家のご大義に心服しておりましょう。私が一命を賭してお仕えすること、決して反対はいたしません」
孫策はしばし沈思し、やがてそっと頷きました。
「……その言葉、忘れませぬ」
「光栄にございます」
「ただ、私はまだ未熟の身。父の背中を追うばかりで、主と仰がれる器には至っておりませぬ」
「ご謙遜を。策さまには、すでに人の上に立つ風があります。――私には、それが見えました」
「……では、いずれ私が兵を挙げる日があれば、その時は共に戦ってくださいますか」
「はい。剣を執るにも、笛を吹くにも、策さまの傍にありたいと願っております」
ふたりは向き合い、あらためて手を取り合いました。
「――瑜、我が一生の友にして、また臣たれ」
「承知仕りました。策さまのため、身命を惜しまず尽くす所存です」
その夜、二人が交わした誓いは、杯や書状に記されたわけではなかったのです。
――この出会いが、後に「呉」という国を形づくる礎となるとは、まだ誰も知らぬ時代のことでした。
191年:初平2年
初平二年、西暦一九一年。時代は未曽有の混乱に包まれておりました。
群雄割拠の中、江東の猛虎と恐れられた男――孫堅は、荊州の劉表との戦いに身を投じておりました。
孫堅は武勇に優れ、戦場では常に先陣を切る将でした。漢王朝に殉じる気概を持ち、「孫家の礎は我が拳にあり」と豪語してはばからぬ男です。
しかしその豪胆が、命取りとなりました。
ある日、敵の伏兵に囲まれ、彼は戦死しました。矢が、喉元を深く貫いたのです。
その報せが、舒県の屋敷に届いたのは、夜も更けたころでした。
長男の孫策が戦地から生還したのです。
「……父上が……討たれたのだ」
帰還するなり、声を絞りだす孫策。十七の若さながら、その眼はすでに人の上に立つ者の鋭さを宿しておりました。
彼は父に似て剛胆で、気性は烈火のごとく激しい青年です。しかし同時に、武に走るだけでなく、人の心を読む賢さと、兄弟思いの情深さを併せ持つ器の大きな人物でした。
傍らで控えていた周瑜が、静かに声をかけました。
「……ご無念でございましたな、孫将軍。最期まで、戦の先頭に立っておられたとか」
孫策は唇を噛みました。その目に、怒りとも悲しみともつかぬ光が宿ります。
「……父上は、何も変わらなかった。危ういと分かっていても、止まらない。……戦があれば、自ら矢面に立つ。それで、こんな結末だ」
周瑜は一歩進み、そっと声を落としました。
「ですが、それが将軍のお姿でございました。……お若いころから、戦場に生き、忠義に殉じ、志に殉じたお方。あのような終わり方を、むしろ将軍は悔いとは思われぬかと」
「……そうだろうな。あの人なら、そう言うだろう」
孫策は拳を握りしめ、肩を震わせながらも、顔を上げました。
「……だが、俺はまだ納得できない。父上が残したものを、こんな形で終わらせたくない」
周瑜は静かに頷きました。
「それならば、私もお力添えいたします。将軍の志を継ぐおつもりなら――今こそ、立ち上がる時でございます」
「……いや、今は喪に服す。俺が父上から教わったのは、ただの武ではない。人を思いやる心だ。弟たちの手前、焦ってはならない。心を整えねば、志もまた歪む」
そう言って、孫策は髷を落としました。その手は震えていましたが、眼だけはまっすぐでした。
屋敷の者たちはひとしく膝を折り、若き主君の決意に胸を打たれました。
やがて日が昇り、朝の光が屋敷に差し込みました。孫策は父の位牌の前に座し、深く一礼しました。
「父上。私は、あなたを超える器を持ちたい。剣を握るだけでなく、人を守る手にもなる。それが、孫家を繋ぐ者の役目です」
喪に服す三ヶ月。孫策はただ静かに父を想い、弟たちの面倒を見ながら、心を研ぎ澄ませました。
この期間が、彼を“ただの武人”から“志ある英傑”へと変える、通過儀礼であったのです。
その背には、未だ国を持たぬ若者の、しかし誰よりも重い覚悟が宿っていました。
192年:初平3年
初平二年。孫堅が荊州で戦死してから、季節がひとつ巡りました。
あの夜から、孫家の屋敷には、どこか風の抜けるような静けさが宿っております。
若き長男・孫策は、父の死を受け入れたその日から、声にならぬ誓いを胸に抱いておりました。
表には涙を見せずとも、夜更けの灯の下、位牌の前で、何度も頭を垂れたのです。
孫策は剛毅で俊敏。武勇は父譲りで、若年にして兵を率いる才覚も備えておりましたが、父を失ったあとの彼の目には、まだ少年の寂しさが色濃く残っていました。
その夜、彼は静かに口を開きました。
「父上……あなたが遺した志を、今度はこの私が継ぎます……。剣に頼らずとも、人がついてくる、そんな主となってみせます」
その言葉は、言い聞かせるようでもあり、迷いを断ち切るようでもありました。
部屋の隅で、じっと佇んでいた弟・孫権が、ぽつりと口を開きました。
「兄上。……本当に、父上はいないのですね」
まだ十代の少年には、あまりに過酷な現実。けれども彼の声音には、幼さよりも静かな痛みと、確かなる覚悟が込められておりました。
孫策は、少しだけ顔を伏せ、言葉を探しました。
「……俺は、あのとき思ったんだ。父上が……二度と帰らないと知ったとき。背中の一部が、裂けて消えたような気がした」
「私もです」
それだけ言って、孫権はうつむきました。言葉よりも、沈黙が胸に響く時間でした。
そこへ、襖が音を立てて開きました。廊下からの冷気とともに、周瑜が足を踏み入れました。
「夜分、失礼いたします」
彼はいつものような飄々とした面差しではなく、どこか哀しみを湛えた静かな眼差しでした。
「……また、ここにおられたのですね」
「……周瑜か」
孫策がゆっくりと立ち上がると、周瑜は黙って香炉の灰を整えました。
「孫将軍が討たれたという報せを聞いた時、私は自分の中の何かが止まった気がしました。……あれほど激しく、あれほどまっすぐな方でしたから」
「父上は……命を惜しまず、ただ走った。振り返らず……俺たちのために」
「ええ。ですからこそ、その志を継ぐのは、あなたでなくてはならぬと……私は、そう思っております」
孫策は小さく頷きました。その目にはまだ涙の光が残っていましたが、それでも真っすぐな意志が宿っていました。
しばし、三人は無言のまま時間を過ごしました。父の不在が、どうしようもなく静寂を広げる夜。
やがて周瑜が、やわらかに話を切り出しました。
「……袁術殿が、あなたを招いております。軍才を買ってのことでしょう」
孫策の眉がわずかに動きました。
「袁術か……。力はある。だが、父上はあの人を好まなかった」
「ええ。しかし、いまは選ばねばならぬ時でもあります。志を包み、力を借りる……その先にこそ、父上の無念を晴らす道があるかと」
孫策は沈思し、ふっと笑いました。
「……お前は昔から、俺より冷静だ」
周瑜も微笑を返します。
「私は、兄弟ではありませんから。ですが、兄弟以上に、あなたのことを案じています」
孫権がそっと言いました。
「兄上は、どこへ行かれても、兄上でいてください。……戦の中で、父上のように帰らぬ人には、ならないで」
孫策は弟の肩を強く抱きました。その腕に、兄としての責任と、父に代わる決意を込めて。
こうして、孫策は袁術のもとへ赴く決意を固めました。
それは、仕官ではなく、跳躍の助走。
父の死の痛みを、胸に抱いたまま――孫家を継ぐ者としての、第一歩でありました。
192年(初平3年)
初平三年。江南には春が訪れていましたが、孫家の屋敷にはまだ重く静かな空気が漂っていました。
先年、父・孫堅が戦死し、家族は深い喪の中にありました。
孫堅は、もとは辺境の下級役人から身を起こし、その武勇で名を成した豪傑です。反董卓連合で名を挙げ、若くして死を遂げた英雄でした。
屋敷の奥では、孫堅の妻であり、孫策・孫権兄弟の母でもある呉夫人が、静かに香を焚いて座っていました。
呉夫人は、名門・呉氏の出身で、気品と度胸を兼ね備えた女性です。艶やかな黒髪を束ね、沈着な目で家の行く末を見つめていました。
「……母上、また一晩中起きておられたのですね」
静かに声をかけたのは、弟の孫権でした。年は十六。まだ若くとも、眼差しは鋭く理知にあふれていました。
「戦は男の役目。しかし、家を守るのは私の務めです」
呉夫人はそう言い、孫権の手をとりました。
「策は父親に似て無鉄砲。あなたは母似で慎重。でも、どちらもこの家にとって欠かせない宝です」
「兄上は、剣を振るえば鬼神も逃げる。それは確かです。でも……時々、突っ走りすぎて」
呉夫人は、ふっと笑みを浮かべました。
「それを止められるのが弟の役目です。ちゃんと支えてあげて」
そのとき、廊下の向こうから賑やかな笑い声が響きました。
「おーい、孫家の家に女の子は要らぬって誰が言った? 元気いっぱいじゃないか!」
孫策でした。背中に幼い妹をおぶいながら、大きく笑っています。
妹の孫尚香は、将来、武芸にも通じる剣士となる少女です。今はまだ小さく、兄に甘えることを覚えたばかりでした。
「兄上、また尚香を連れ出して!」
孫権が小走りに近づくと、孫策は振り返って笑いました。
「大丈夫だ。ちゃんと竹馬で遊ばせてやった。鍛えねばな。女でも武を持てば一族の誇りだ」
「まったく、あなたは昔から変わりませんね」
呉夫人が微笑みながら近づきます。
「幼い頃、猪と間違えて父親の槍を振り回していたのを覚えていますか?」
「覚えてるさ。猪じゃなかったけど、あのとき俺が泣いたのを皆にからかわれてな!」
孫策の陽気な笑いに、家中がほんのひととき明るく包まれました。
一族の者たちも、それぞれ深い思いを抱えておりました。
孫堅の弟・孫静は、物静かで誠実な人物です。戦よりも家政を好み、兄の死後は孫家の家業を支えていました。
また、孫堅の父・孫鍾も、齢は高いながらも健在でした。かつては郡の文官で、剛毅な孫堅を温かく見守った人物です。
「若き芽が育つのは、悲しみの土の上なのだな……」
そう呟き、静かに茶を飲んでいました。
この年、孫策は袁術に仕官しました。
しかし、彼の心にはいつも家族の姿がありました。
戦場では命を張り、帰れば妹に頬をつねられ、母には酒を叱られ、弟には書を勧められる――
それが、孫策の背を押す原動力でありました。
この時代、天下は群雄割拠。
しかし、孫家には揺るがぬ柱がありました。
その柱の名は――絆です。