第2話「三行の書簡」
宮廷の儀典局から正式な通知が届いたのは、昨日の嵐のような召集から一夜明けた、昼前の講義が一段落した時刻だった。
朝の礼拝や朝食へ向かう廊下では、すれ違う令嬢たちがアーデルハイトの姿を認めるなり微かに顎を引き、さっと視線を伏せて小走りに通り過ぎていった。行き交う人々の態度は、一夜にして様変わりしていた。
同情の形をとった無遠慮な視線に晒されるたび、妃教育で徹底的に叩き込まれた鉄の自制心が自然と身構えた。どんな侮辱や嘲笑にも眉ひとつ動かさず、背筋を伸ばして優雅に微笑み返すこと。今の自分を守るのはその身についた作法だけだ。
談話室の隅、彫刻の施された円卓の上で、アーデルハイトは届けられたばかりの通知を静かに検分する。王室の印章が冷ややかに押された書面には、官僚機構特有の無機質な筆致で、事務的な文言がわずか三行だけ並んでいる。
『王太子殿下の宣言に伴い、宮廷儀典局において婚約解消に関する公式手続きを開始したこと。 儀礼上の実務および諸調整は、王室側の主導により滞りなく進められる手筈であること。 エーベルシュタイン公爵令嬢の今後の処遇については、追って正式な沙汰を待たれたきこと。』
受け取った書面は、宮廷の書式に従い、後始末の進行と処遇の保留を冷ややかな三行に収めている。その三行を目でなぞるたび、指先から血の気が引いていくのを覚える。八年間という歳月、注ぎ込んできたすべての努力と矜持が、薄い紙切れ一枚の乾いた墨跡となって手元に転がっている。
「……アーデ」
向かいの革張り椅子から、静かな呼び声が落ちる。
顔を上げると、ヘレーネがこちらを心配そうに見つめていた。淡い金の髪を揺らし、幼馴染であり未来の側近候補として共に学園へ入った親友の双眸には、周囲の令嬢たちが浮かべる下品な値踏みとは無縁の、まっすぐな心配の色が宿っている。
「宮廷から届いたのね」
「ええ。昨日の騒ぎの後始末についての、儀礼通りの通知よ」
アーデルハイトは努めて穏やかに答え、書簡を元通りの折り目に沿って畳む。一度目はわずかに端がずれ、二度目で指の腹を滑らせてぴたりと角を揃えた。
ヘレーネは肘掛けに腕を預け、身を乗り出してくる。
「怒っていいのよ、アーデ。ここには今、私しかいないのだから」
低く温かみのある声が、張り詰めた胸の奥にすっと染み込んでいく。
「怒っているわ」
返した声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「ただ……泣いて取り乱すほど、あの方を恋い慕っていたわけではないのよ。それが少し、自分で自分に腹立たしいくらい」
脳裏をよぎるのは、昨日の広間で演台を叩いて愛の崇高さを叫んでいたルドルフの姿と、その足元で王妃になれると思っていたと喚き散らしていたヨーゼフィーネの醜態だった。片方は身分を投げ打つ覚悟に酔い痴れ、もう片方はその身分にすがりつくためだけに愛を騙る。並んで崩れ落ちた二つの愛の喜劇を、アーデルハイトは婚約者として立たされた場所から一歩も退かずに見届けていた。
八年間、彼女はただ王妃になるためだけに育てられてきた。
エーベルシュタイン家は王の血を引く由緒正しき公爵家であり、宮廷儀礼、祝祭の次第、婚姻の秩序を代々差配してきた序列の番人だ。だが王の血が家に入ってから三代目を迎え、公爵位の期限が刻一刻と迫っていた。アーデルハイトと王太子の婚姻は、王室にとっては実務と格式の確かな娘を迎えて内政の盤石を固めるためのものであり、公爵家にとっては公爵の地位をさらに次代へと更新するための、家門存亡を賭けた重要な盟約でもあったのだ。
その重責を一身に背負い、饗しの茶の温度から他国の弔問使節の席順に至るまで、王妃として必要とされるすべての教養を完璧に我がものとしてきた。
その全部が、広間での無様な茶番と、冷たい三行の書面であっけなく終わりを告げたのだ。
「子爵家のあのお嬢さんに、八年分の教育が敗れ去ったわけね」
ヘレーネが皮肉げに唇を尖らせる。
「負けたわけではないわ。彼女と私では、求めていたものが違いすぎただけよ」
「それでも腹が立つのよ。あなたが費やした八年を、あの方は大勢の前であまりにも軽く扱ったわ」
「ええ、その通りね」
反論の余地などなく、アーデルハイトは静かに頷く。
その日の昼下がり、王都のタウンハウスから、息せき切って駆けつけた従僕によって、実家の両親からの分厚い手紙が届けられた。
公爵家の正式な紋章封蝋などそこそこに、母の私用印が斜めに押されたその封筒を開くと、甘い香油の匂いとともに、何枚もの便箋が零れ落ちてくる。
最初に目に飛び込んできたのは、父の丸みを帯びた大らかな筆跡だった。
『愛しい私のアーデルハイト! 大丈夫かい? 昨日から、お前のことが心配でたまらないよ。 昨日の知らせを聞いて、お父さんは宮廷へ飛んでいったよ。陛下のお部屋の前で、どうか考え直してくださるよう必死に頼み込んだんだ。お前がどれほど一生懸命にお妃の勉強をしてきたか、涙ながらに訴えたのだけれど……逆に、陛下に説き伏せられてしまったよ。「これ以上、あの娘をルドルフの尻拭いに振り回すわけにはいかぬ」とのお言葉だった。陛下なりに、お前のことを案じてくださっているのだと思う。 お前を庇いきれず、悲しい思いをさせてしまって、本当に情けない父親でごめんよ。許しておくれ。 でもね、あんな分別のない王太子のところへお嫁に行くより、お前を心から大切にしてくれる家が絶対に他にあるはずだ。今、料理長にお前の大好きな林檎と蜂蜜のタルトをたくさん焼かせているからね。 次のご縁談は、お父さんが責任を持って、絶対に優しくて、お前を世界一幸せにしてくれる立派な殿方を見つけてあげるからね。お前は何も心配しなくていいんだよ!』
文字の端々でインクが滲んでいる。書きながら泣いたのだろうか。
その後には、母の見慣れた筆跡が続いていた。
『アーデルハイト、私の可愛い子。 公爵位の期限だなんて、お前の幸せに比べれば大したことではありません。お父様と私のそばで、しばらくゆっくり過ごしましょう。 あなたの好きなお部屋のカーテンも、全部新しく仕立て直させてありますのよ。迎えの馬車を出しますから、すぐに荷物をまとめてお帰りなさい』
便箋を胸元で重ね合わせたアーデルハイトは、ふうと長い息を吐き出した。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように温かい。
両親は、心から自分を愛してくれている。それは疑いようのない真実だった。厳格な家門の掟で娘を縛り付けようとしたことなど一度もなく、いつだって溢れんばかりの愛情で包み込み、傷ひとつつけまいと大切に育ててくれた。
けれど…だからこそ、アーデルハイトは静かな危機感を抱かずにはいられなかった。
父も母も、愛する娘を庇護下に連れ戻し、安全で温かな部屋に匿い、傷口を優しく撫でることしか考えていない。そして傷ついた娘の代わりに、次の輿入れ先を親の責任で探し、親の眼鏡にかなった「優しくて無害な殿方」を宛がうことこそが、娘を守る最善の道だと信じ込んでいる。
あたたかな愛に守られている限り、私は一生、自分の足で立つことはできない。
実家の豪奢な天蓋付きベッドへ戻れば、優しい父が林檎のタルトを切り分け、母が新しい縁談の目録を抱えて微笑むだろう。そして私はまた、誰かが決めた安全な檻の中で、愛されるだけのお人形として生きることになるのだ。
「……帰りたくないわ」
呟きは、柔らかな日差しの中へ静かに溶けていった。
向かいで便箋の山を見つめていたヘレーネが、そっと視線を上げてくる。
「実家へ戻れば、すべてご両親が手配してくださるわ。公爵家の力があれば、王太子妃でなくとも、高位貴族への輿入れ先などいくらでも見つかるはずよ」
「ええ、そうね。お父様もお母様も、私のために最も優しくて格式の高い家を選んでくださるでしょう。そして私は、またその家のために完璧な妻を演じるのよ。……相手がどのような男かも知らずにね」
アーデルハイトは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
硝子の向こうには、整然と広がる学園の中庭と、その先にある研究棟の赤煉瓦の屋根が見える。
「ヘレーネ」
「なあに? アーデ」
「私は学園に残るわ。実家の迎えの馬車が来ても、決して乗り込まない」
アーデルハイトは振り返った。
「私の行く末を、もう誰にも勝手に決めさせたりはしない。……次は、私が選ぶわ」




