第1話「広間の宣言」
秋の冷気が石造りの講堂を満たす朝、召集の鐘が鳴り終わっても、広間のざわめきは収まらない。
高い吹き抜けの窓から射し込む薄い陽射しが、席次どおりに並んだ生徒たちの列を長い影にして磨かれた床へ落としている。教師たちは朝から青ざめた顔で列の間を往復し、壇上の魔力灯を点検する式典係の手つきも落ち着きを欠いていた。急な召集を命じたのは王太子本人だ。研究課程の二年に在籍する王太子が、全生徒を公の広間に集めて直々に口を開くなど前例がなく、生徒たちの間に広がる空気は緊張というより無遠慮な好奇心に近い。
前列の端に立つアーデルハイト・エーベルシュタインは、指先を重ねて微動だにせず正面を見据える。
結い上げた髪は、差し色の混ざらない澄んだ金色で、不純物のない魔力の質の高さを示す稀色の艶を帯び、家門の印であるシリンガの花が彫られた水晶の簪で寸分の乱れもなくまとめられている。
今朝、広間へ集まるよう出された告知には、理由が何も記されていない。身支度の際、幼馴染で側近候補のヘレーネも、襟元の飾りピンを留め直しながら「一体何があったのかしら」と首を傾げていた。八歳で王太子ルドルフの婚約者に定められて以来、アーデルハイトは常に完璧な振る舞いを求められてきた。背筋の伸ばし方、視線の落とし所、扇を胸元へ添える角度に至るまで、王室の内政を支えるべき未来の王妃として、ただの一度も間違いを犯したことはない。
理由も知らされぬまま並ばされた生徒たちの列には、困惑と落ち着かない熱が満ちている。
列の斜め後ろから、忍び笑いを含んだ小声が漏れてくる。王太子が夏の狩猟会で南の令嬢を見初めたという噂は、この数週間で学園の隅々にまで浸透していた。獲物を追う馬列の先で出会い、夜の宴席で隣に座らせ、果ては王都へ戻る馬車まで同乗させたという話は、尾ひれをつけて何通りにも語られている。当事者であるアーデルハイトへ直接確かめてくる者はいなかったが、行き交う視線の下品な同情と値踏みだけで、話の筋道は十分に読めた。
重厚な両開きの扉が軋んだ音を立てて開き、十九歳の王太子ルドルフが壇上へと足を踏み入れる。
端整な顔立ちとすらりとした背格好は、仕立てのよい礼服と相まって絵画から抜け出たように見目麗しい。けれどそのすぐ後ろに、見慣れぬ娘が一人、縮こまるように続いていた。薄い水色のドレスに身を包み、広間を埋める視線に怯えながらも、王太子の斜め後ろという位置だけは決して譲ろうとしない。南のゾンネンタール子爵家の娘ヨーゼフィーネだと、列のどこかで囁く声が落ちる。
教師の代表が形式的な開会の辞を述べ終えるや否や、ルドルフは合図も待たずに演台の前へ進み出た。青白い頬には異様な熱気が差し、整った唇が固く結ばれている。何か大きな覚悟を背負った男特有の、悲壮と陶酔が混じり合った眼差しだ。
「学園の皆に、直接伝えておきたいことがある」
広間が水を打ったように静まり返る。ルドルフの声はよく通り、石壁に跳ねて高く響いた。
「私は本日、エーベルシュタイン公爵家の令嬢アーデルハイトとの婚約を解消することを宣言する。……宮廷の許しはまだ得ていない。だが私の心はすでに決まった」
ざわめきが波のように広がりかけたが、教師たちの狼狽した視線がそれを強引に押し留める。何百もの視線が一斉に前列の端、アーデルハイトへと突き刺さる。冷たい針を浴びせられるような感覚の中、アーデルハイトは顎をほんのわずかも引かず、組んだ指先にも力を込めない。ただ平然と立ち続ける。
演台の上の王太子は、誰の制止も受け付けない速度で言葉を畳み掛けた。
「私はこの夏、運命の娘と巡り合った。彼女は私を王太子としてではなく、一人の男として見てくれたのだ。政務の話しかできず、周囲の期待に押し潰されそうだった私の言葉を、誰よりも真剣に、温かく受け止めてくれた。位を忘れ、魂と魂で向き合うことこそが真実の愛だと、私は彼女から教わった」
ルドルフは胸に手を当て、自らの告白に酔いしれるように息を継ぐ。その視線が、初めてアーデルハイトの立つ前列の端へと向けられた。
「アーデルハイトに落ち度はない。彼女は八年もの間、妃としての教育を完璧に修め、公爵家の娘として何一つ非の打ち所のない振る舞いを続けてくれた。私と彼女の婚約は、家と家、国家の都合によって結ばれたものだ。だからこそ、皆の前で明言しておきたい。この破談は彼女の失敗によるものではなく、ひとえに私自身の選択だ」
それだけなら、まだ宮廷の調停で内密に処理する余地が残されていたかもしれない。だが、ルドルフの口から続いたのは、王族としての分別を根底から投げ捨てる言葉だった。
「父上はまだこの婚姻の解消をお認めになってはおられない。だが私は言おう。もしこの想いが罪とされるならば、私は王族の籍を喜んで降りる。このまま勘当してくれと、父上へ願い出る覚悟だ。……王太子などという重荷は、とっくに降りたかったのだから!」
劇場の幕切れのような台詞が放たれた瞬間、広間は息を呑む静寂に包まれた。教師たちは顔から血の気を失い、生徒たちは言葉を失って立ち尽くす。公の壇上で王族が自ら廃嫡を口にした以上、もはや宮廷の調停で済む段階をとうに超えていると、アーデルハイトは冷ややかに見極めていた。
だが、その凍りついた静寂を耳障りな金切り声が切り裂いた。
「……殿下? そ、そんな……嘘でしょう?」
壇のすぐ脇から、甲高く裏返った悲鳴が響き渡った。
水色のドレスの裾を乱暴に踏みつけながら前へ飛び出してきたのは、他ならぬヨーゼフィーネだった。付き添いの侍女が慌てて制止しようとした手を激しく振り払い、涙と怒りで紅潮した顔を王太子へと突きつけた。
「わ、私は……私は王妃になれると思っていたから、殿下にお応えしたのですわ! 王族を降りるだなんて、そんな話聞いていません! 勘当されたら、ただの貧乏貴族ではありませんの! どういうことですの、殿下!?」
広間が爆発したような騒乱に包まれる。
吹き出す笑いを堪えきれずに背を丸める生徒、あからさまに眉をひそめて扇で口元を隠す令嬢、あまりのみっともなさに頭を抱えて呻く教師。ヨーゼフィーネは取り乱して泣き叫び、王太子の袖に爪を立ててすがりついては、何かを喚き散らしていた。さきほどまで悲壮な決意に酔いしれていたルドルフは、すがりつく娘の剣幕に気圧され、伸ばしかけた両手のやり場を失って狼狽するばかりだった。
「お連れしなさい! 早く、控室へ!」
学園長が怒声を張り上げ、屈強な守衛と青ざめた侍女たちがヨーゼフィーネの両脇を抱え込んだ。娘は手足をばたつかせ、床を蹴りながら喚き散らしたが、その叫びはやがて重い脇扉の向こうへと吸い込まれ、遠ざかっていった。
壇上に残されたルドルフは、青ざめた唇を開きかけたものの、もはや言葉を継ぐことすらできなかった。駆け上がってきた近衛兵たちに両脇を取られ、引きずられるようにして演台から連れ出されていった。
アーデルハイトは、その無様な幕切れを最後まで見届ける。
遊ぶ時間も友と語らう時間も削り、宮廷儀礼、家門の序列、各領地の租税と産物、果ては他国の王室系譜まで頭に叩き込んできた。その歳月の果てに突きつけられた光景が、これだ。
胸の奥に広がるのは、冬の早朝の氷水のように澄み渡った、奇妙なまでの明白さだ。
――ああ、この方には最初から、私の積み重ねてきたものなど何も見えていなかった。
そしてあの娘にとっても、求められていたのは王妃という座の煌びやかさだけであり、そこに立つ者が背負うべき責務など欠片も理解していなかったのだ。
講堂の中は、収拾のつかない興奮と混乱に包まれている。教師たちが声を嗄らして生徒たちを押し止めようとする中、アーデルハイトは誰にも視線を合わせず、静かに背を向けて講堂の正面扉から退出する。
前庭の迎えの馬車の前では、広間の混乱に乗じて抜け出していたヘレーネが待っていた。御者が「お早いですな。何か問題でもありましたかな?」と怪訝そうに声をかけてくる。アーデルハイトは馬車へ乗り込みながら、静かに答えた。
「ええ。ちょっと、片付けないといけないものができたの。王宮へ戻ってちょうだい」
馬車は学園の寄宿舎ではなく、王宮の一角へと向かった。
王太子の婚約者に定められて以来、アーデルハイトには王宮の東翼に専用の私室が与えられていた。毎日の妃教育を受け、公式行事の合間に身支度を整え、王妃となる未来を待ち受けるための部屋だ。
重厚な扉を開け、静まり返った部屋へ足を踏み入れると、微かに甘い香りが漂ってくる。
壁一面の本棚には、王国全土の貴族系譜録、宮廷儀礼の先例集、各州の課税台帳が隙間なく並んでいる。窓辺の執務机の片隅には、淡い紫の小花を柔らかな房にしてこぼすシリンガが生けられ、秋の薄い陽射しを受けている。結い髪の簪に彫られた生家の花であり、八年のあいだ、この部屋で妃としての教養と礼法を身につけてきた日々にいつも寄り添っていた花だ。机の上には、王室の金糸で縁取られた手許箱と、昨日まで目を通していた祝祭の次第書が整然と置かれている。寸分の乱れもなく整えられたこの光景も、間もなく引き払い、過去のものになる。漂う澄んだ香りを胸に満たしながら、アーデルハイトは手袋を静かに外す。
「アーデ」
扉を閉めたヘレーネが、静かに歩み寄ってくる。淡金の髪を揺らす親友の手には、湯気の立つ陶器のティーポットがあった。卓上の銀器を鳴らさぬよう気を配りながら、温かな紅茶を注いでくれる。
「お茶をどうぞ。下手な劇作家が紡いだような奇劇の後では、少し物足りないかもしれませんけれど」
「ありがとう、ヘレーネ」
白磁のカップを両手で包み込むと、熱が冷えた指先へ染み渡っていく。琥珀色の水面を見つめながら、アーデルハイトはふっと息を零した。
「王の沙汰次第ですけれど……ここを引き払う準備をしなくてはね」
その言葉に、ヘレーネは注ぐ手を止めず、わずかに目を伏せた。
「ええ。……八年間、通い詰めたお部屋ですものね。アーデ、悲しくはない?」
「悲しむ暇があったら、荷造りの算段をつけないと。儀礼の作法通りに部屋を明け渡すだけでも、ずいぶん骨が折れそうだわ」
淡々と実務を案じるアーデルハイトに、ヘレーネは困ったように眉を下げ、それから小さく息を吐いた。
「ふふ……本当に、あなたらしいですこと。あんな大騒動の直後ですのに、頭の中にあるのは作法ばかりなのね。……それにしても、あのお方は広間でずいぶんなことを仰いましたわ。あちらの令嬢だけが、一人の男として見てくれた、だなんて」
親友の声音に滲む呆れと皮肉を受け止めながら、アーデルハイトは紅茶を一口含んだ。渋みの中に広がる柔らかな香りが、強張っていた舌をほどいていく。
「お互い様です、と申し上げるべきだったかしら」
「まあ」
「私は八年間、殿下の妃となるための作法を学んできました。けれど殿下を一人の男として見たことは、一度もありませんもの」
事実を確かめるように淡々と告げると、ヘレーネは一瞬目を丸くし、それからこらえきれずに吹き出した。
「まあ……本当に、お互い様ですわね。あのお方が聞いたら、どんな顔をなさるかしら」
「怒るか、嘆くかのどちらかでしょうね。……それよりも気がかりなのは、実家ですわ」
アーデルハイトはカップをソーサーへ戻し、窓の外へ視線を向けた。
「父も母も、私のこととなると周りが見えなくなってしまいますから。今頃は知らせを聞いて、大騒ぎになっているに違いないわ」
「ええ……公爵閣下のことですから、取り乱して宮廷へ駆け込んでおいでかもしれませんね。奥様も手元にお呼び戻しになろうと、大慌てで馬車の手配をなさっている頃ですわ」
優しい両親の狼狽える姿が、容易に目に浮かぶ。けれど、その温かな騒ぎを今はただ遠くに思いながら、アーデルハイトは静まり返った部屋をゆっくりと見渡した。
文字の練習でインクを零した絨毯の染み。他国の外交慣例を暗唱しながら歩き回った窓辺の床板。八年という歳月を費やし、未来の王妃としての自分を形作ってきたすべてが、秋の柔らかな夕暮れの中で静かに息を潜めている。
あの男が無思慮にすべてを投げ出した今、ここに留まる理由は欠片も残されていない。
けれど、誰の手も借りず、この部屋を自分の手で閉じ、去る準備を始めるのだ。白磁のカップから立ち上る薄い湯気を見つめながら、アーデルハイトは一人、静かな呼吸を重ねた。




