アルジェント領視察の旅
アイラたち一行を乗せた豪華な馬車は、緩やかな坂道を下り、のどかな田園風景が広がるグランベル村へと到着した。
村長家族をはじめ、数名の農夫たちが緊張と敬意の混ざった表情で丁寧な出迎えを行った。
レオンハルトとセオドアは、村の近況報告を聞くため、村長たちと共に母屋へと移動した。
その間、アイラとリリアは畑の様子を見て回ることにした。
青々と茂る農作物を見渡しながら、アイラは土の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「お姉様、こちらの畑は程よく発展しており、見たところ二毛作を行っているようですわね」
リリアが楽しそうに隣で微笑んだ。
「ええ、土の養分も上手に管理されているわね」
アイラは頷き、近くにいた農夫に声をかけて話を聞いてみた。
農夫の話によれば、現在は三毛作の実証実験まで進んでおり、成果が出れば次回かその次の段階で本格導入する予定なのだという。
しかし、アイラはこの地方の気候や環境を頭の中で計算し、少し首をひねった。
この地方の気候を考えると、三毛作よりも輪作の方が土地の負担も少なくて向いている気がした。
それに、少し離れた場所に見える特に人の手が入っていない森林も活用できそうであった。
家畜の放牧も加えてアグロフォレストリーを導入すれば、もっと効率が上がるかもしれない。
人材の移動も含めて考える必要があるので、草案を作成して帰ったら企画書を書いて提案しようとアイラは心に決めた。
アイラがその知識をリリアと共有しながら草案を作成していると、報告を聞き終えたレオンハルトとセオドアが追いついてきた。
二人に草案を見せて相談すると、レオンハルトは頼もしそうに娘の頭を優しく撫でた。
「ほう、これは素晴らしい考えだな。視察が終わったら、アイラが書く企画書を実に楽しみにしているよ」
レオンハルトは嬉しそうに目を細めた。
その日は、村長の家で宿泊することになった。
村長の家には、ちょうど二歳になる可愛らしい娘がいた。
前世や以前の時間軸を含めて息子しか育てたことのないアイラとリリアは、珍しい幼い女の子に興味津々で、就寝の時間まで進んで育児を手伝った。
小さな女の子を抱っこしたり、優しくあやしたりする二人の光景を、レオンハルトとセオドアは微笑ましく見守っていた。
「ふふ、今度は女の子が欲しいわね」
「ええ、お姉様。可憐で可愛い娘を育ててみたいですわね」
アイラとリリアが何気なく呟いたその言葉を聞いた瞬間、レオンハルトとセオドアの表情がピキリと固まった。
二人の頭の中に、将来また可愛い娘が王家に取られてしまうという事実がリフレインしたからである。
親バカとシスコンの二人は、非常に複雑で切ない表情を浮かべるのだった。
翌日の朝、一同は村長の家で美味しい朝食を取ってからグランベル村を出発した。
馬車が次に向かったのは、アルジェント領の第二都市とも呼べるフールエル街であった。
この街は、公爵家の寄子であるフラーロイ男爵が管理している。
フラーロイ男爵は真面目で誠実な人物なのだが、少々お人好しで騙されやすい性格をしているのが心配なところであった。
もっとも、非常に聡明でしっかり者の夫人がその欠点を完璧にカバーしているため、安心して任せることができているのだ。
今回の視察では、男爵邸で二日間過ごす予定であった。
活気のある良い街であり、裕福な商家も多数存在していて、経済も豊かに潤っているように見えた。
しかし、レオンハルトとセオドアが男爵から近況報告を聞いて部屋へ戻ってきた際、二人の表情は重く沈んでいた。
どうやら夫人が病気にかかり、かなりの期間寝込んでいるらしい。
その影響で、少し男爵の周りで怪しい輩がウロウロと蠢いているとのことだった。
何かを企んでいることは確かであったが、まだ動いていない以上、こちらからは手を出すことができない。
自分たちが滞在している間は動かないだろうから、どうしたものかと悩んでいた。
「夫人の病気を治せば解決するのではないでしょうか?」
リリアからの提案により、病気を治す方向で動くことになった。
お見舞いという名目で面会を取り付け、アイラとリリアは夫人の病状を確認した。
表面上は風邪の症状であったが、魔力の乱れが気になる状態であった。
見慣れない症状ではあったが、千年以上生きる魔女であるアイラとリリアには知識だけはあった。
それは、魔力欠乏症と魔力停滞症の複合症状であった。
普通は同時に発症することはないのだが、魔力欠乏症の初期症状の際、未熟な術者や純度の低いポーションを使ったことで誤った対処をしてしまったのだろう。
自然回復しようとする力と、純度の低い外部魔力が拒否反応を起こしてしまい、自然回復が止まってしまっているのだ。
純度の低い外部魔力を取り除いて、魔力回路を正常な流れに導くことで解決する症状であった。
自然回復を待つと二、三年はこのままであるため、その場で治すことにした。
「魔法師団ではよくある症状ですから、安心してくださいね」
リリアたちは男爵たちを安心させつつ、分かりやすく説明しながらその場で綺麗に治した。
実際、魔法師団の団員なら治せるレベルであったため問題はなかった。
翌朝、すっかり回復した夫人も含めて、怪しい動きをしていた輩について話し合いが行われた。
夫人が回復したことは知れ渡ったので明日までは大丈夫だと思われるが、アイラたちが街を出た後に何か起こるかもしれなかった。
他の貴族絡みか、あるいは裏社会絡みか。
夫人が回復しても動きが変わらなかったら厄介である。
明日は一旦街から出た後に、気づかれないように戻ってきて様子を見ることとなった。
街の様子を見ながら今後の課題を探ろうと、馬車の移動が多い通りや買い物客で賑わう通り、飲食店の立ち並ぶ通りなどの生活区画と、人通りが少ないが重要な職人通りも見て回った。
区画が整理されていて、目的別にどの通りを行けば良いのかが一目瞭然であった。
しかし、街の一角に差し掛かった際、アイラの足がピタリと止まった。
視線の先にあるのは、どの街にも暗部として存在するスラムの区画であった。
そこは整備も行き届いておらず、薄汚れた路地裏を裏社会のギャングやギルドが仕切る無法地帯であった。
領主や街の代官であっても、おいそれと手を出せない場所でもある。
かつて孤児としてスラムの理不尽と貧困を味わった経験のあるアイラは、その淀んだ空気を遠目から見つめ、小さく溜息をついた。
「……どうなさったのですか、アイラお嬢様」
アイラの表情に落ちたわずかな陰りを真っ先に汲み取ったのは、レオンハルトでもセオドアでもなく、専属侍女のマリーであった。
マリーはすっと歩み寄ると、アイラの隣で静かに声をかけた。
「……マリー姉ちゃん。やっぱり、スラムのことが気になっちゃってね」
アイラはスラムの路地裏を見つめたまま、抱えている葛藤を吐露した。
「あそこを一掃すること自体は、魔法を使えば一瞬でできるわ。でも、その後の受け皿がないのが一番の問題なのよね。生きるか死ぬかしかない人間……特に子供たちの行き場を奪うわけにはいかないでしょう? かといって、スラムの住人だけに手厚い待遇を与えすぎれば、真面目に暮らしている一般の平民の中から不満が出てしまうわ。治安を良くしたいけれど、どうアプローチすればいいのか困っていたのよ」
アイラが少し悔しそうに眉をひそめると、マリーは慈愛に満ちた瞳でアイラを見つめ、フッと品良く微笑んだ。
「ふふ、お嬢様は相変わらずお優しくていらっしゃいますね。ですがお嬢様、スラムという場所は法や理屈が通用しない世界でございますわ。あそこを動かすルールは、昔も今も変わらずたった一つしかございません」
「……力こそ正義、ね」
アイラが答えると、マリーは満足そうに頷いた。
「その通りでございます。以前の時間軸のことを覚えておいででしょうか? あの時、私がスラムを牛耳っていたギャングたちを一人残らず拳で締め上げ、実質的な頂点に立ったことを」
「ええ、もちろん覚えているわ。マリー姉ちゃんがあの凶悪なギャングの人たちを、すっかり無害で気の良いおじさんたちにクラスチェンジさせちゃったのよね」
「ええ。スラムでは、圧倒的な力を持つ者が頂点に立ち、新たなルールを敷くのが最も手っ取り早く、かつ確実な方法なのですわ。力でねじ伏せて頂点に立ってしまえば、ギャングたちに子供の保護や街の警備を命じることだってできますもの」
マリーの提案を聞いたアイラは、ハッと目を輝かせた。
「なるほどね……! 圧倒的な力を持つ『個』を投入すれば良いのね。だったら答えは簡単だわ。私の魔力分身を使って、この街のスラムを直接率いてしまえばいいんだわ!」
「素晴らしいご決断ですわ、アイラお嬢様。それでしたら、私の魔力分身もサポート役としてお供させましょう。使い魔契約のおかげで、私もお嬢様の魔力を借りて分身を行使できますからね。二人でスラムの闇をしっかりと仕切って差し上げましょう」
「頼もしいわ、マリー姉ちゃん! 二人の分身で、スラムに新しい秩序を作り上げてしまいましょうね!」
方針が決まると、二人は誰にも気づかれないよう静かに魔力を練り上げた。
そして、アイラとマリーの魔力分身は、フールエル街のスラムの闇へと静かに溶け込んでいった。
翌日にはフールエル街のスラムに、圧倒的な力による新たな秩序が生まれることだろう。
すっかり体調の回復したフラーロイ男爵夫人と安堵した表情の男爵に見送られ、アイラたち一行を乗せた豪華な馬車は、夕刻のフールエル街を予定通りに出発した。
街の住人や周囲を監視する怪しい者たちに対しては、アルジェント公爵家の一行が何事もなく滞在を終えて次の視察地へ向かったのだと印象付けるためであった。
街道を進む馬車の中では、アイラとリリア、そしてレオンハルトとセオドアが密かに視線を交わし合っていた。
やがて日が完全に落ち、濃い夜の帳が街道を包み込んだ頃、一行は馬車を静かな林の中に止めさせた。
そして、アイラとリリアが張った高度な隠蔽魔法と転移魔法を駆使し、誰にも気付かれることなく密かにフラーロイ男爵邸へと引き返した。
夫人の病気が治ったと知って焦った裏社会の輩や怪しい者たちが、今夜あたり男爵邸や回復したばかりの夫人に仕掛けてくる可能性が高いと踏んでいたからである。
男爵邸の奥にある静かな一室で、レオンハルトとセオドアは剣の柄に手をかけたまま息を殺して潜伏していた。
「これで今夜、何者かが屋敷に忍び込んでくれば、一網打尽に捕縛できますわね」
リリアが音もなく声を潜めて呟いた。
「ええ、病気が治って計画が狂った連中が動き出すなら、私たちが街を出た直後の今夜が絶好のタイミングだものね」
アイラも深く頷き、暗闇の中で魔力眼を研ぎ澄ませて屋敷の周囲を警戒していた。
しかし、夜が更けても男爵邸の周りは不気味なほど静まり返っていた。
怪しい影が接近してくる気配もなく、屋敷に忍び込もうとする者も一人として現れなかった。
「おかしいわね、外の様子を窺っているけれど、襲撃の気配すら届かないわ……」
アイラが少し首をかしげると、リリアも不安そうに囁いた。
「私たちが残っていると勘付かれて、怖気づいてしまったのでしょうか?」
「いえ、完璧な隠蔽魔法を張っているからそれはないはずなんだけど……」
アイラたちは不思議に思いつつも警戒を続けた。
やがて東の空がゆっくりと白み始め、爽やかな朝の光が街を照らし始める。
「……結局、何も起こりませんでしたね」
セオドアが拍子抜けしたように息を吐き、緊張を緩めた。
「夫人が完全に回復して魔法師団の関与も匂わせたので、恐れをなして手を引いたのかもしれませんな」
レオンハルトも胸を撫で下ろし、安堵の表情を浮かべた。
「まあ、何事も起こらなかったのならそれに越したことはないわね」
アイラも微笑み、一行は再び誰にも見つからないよう隠蔽魔法を使いながら、明け方のフールエル街を静かに抜け出した。
街道沿いの林で待たせていた馬車へと合流し、一行は何事もなかったかのように次の目的地への旅路を再開した。
馬車が揺れながら街道を進み始めたその時、アイラとマリーの脳内に、同時に強い念話が届いた。
頭の中に響いたのは、昨夜スラム街の闇へと溶け込ませておいた、自分たちの魔力分身からの声であった。
『本体、聞こえますか? 昨夜のフールエル街についての報告ですわ』
アイラの分身が念話で報告を始めてくると同時に、マリーの分身からの念話を受信したマリーもハッと目を見開いた。
「……マリー姉ちゃんも、分身からの報告かしら?」
アイラが尋ねると、マリーは品良く微笑みながら頷いた。
「はい、お嬢様。私の方の分身からも連絡が入りましたわ」
『実は、昨夜何も起こらなかったのは、敵が諦めたからではありませんの』
アイラの分身が念話の向こうで悪戯っぽく笑った。
『外部の怪しい貴族から依頼を受けたスラムのギャングたちが、昨夜、男爵邸へ大規模な襲撃を仕掛ける手はずになっておりました。本体たちが街を出た隙を狙って、病み上がりの夫人を再不能にするか男爵を脅迫する予定だったようですわ』
「やっぱり何か起こるはずだったのね! でも、どうして奴らは動かなかったの?」
アイラが問いかけると、マリーの分身が念話を繋いで誇らしげに答えた。
『理由は実に簡単でございます。昨夜、決行される前に私とお嬢様の魔力分身がスラムの裏組織のアジトへ直接乗り込み、襲撃を企てていたギャングの幹部も、依頼を持ち込んできた怪しい手先も、一人残らず力ずくで締め上げて叩きのめしましたから』
『二人の圧倒的な力でスラムの頂点に立ち、闇の組織を完全に牛耳ってしまいました。襲撃を企んでいた悪党どもは全員、大人しくて気の良いおじさんたちにクラスチェンジさせられましたので、計画は決行前に跡形もなく頓挫いたしましたわ』
かつて周囲を威嚇していた凄むような強面の男たちが、今や満面の笑顔で路地裏の清掃に精を出し、子供たちのお守りを買って出ている様子が念話を通じて鮮明に伝わってきた。
分身たちからの驚くべき報告を聞いたアイラとマリーは、顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
「なるほどね……何事も起こらなかったんじゃなくて、起こさせなかったわけね」
アイラがぽつりと呟いた。
「さすがはアイラお姉様とマリーの分身ですわね。一晩でスラムの闇を完全に支配して、悪事を未然に潰してしまうなんて凄まじい解決法ですわ」
事情を聞いたリリアがパッと目を輝かせ、感心したように手を叩いた。
レオンハルトとセオドアも真相を知り、親バカとシスコンの表情を崩して深く頷いた。
「ほう、流石は私のアイラだ! 分身までもがこれほど頼もしいとは!」
「これでフラーロイ男爵夫妻に危険が及ぶ心配も完全に消え去りましたね」
こうしてフールエル街の陰謀は、誰にも知られることなく見事に解決したのだった。
「さあ、憂いも完全に無くなりましたし、次は本命の場所へ向かいましょう!」
アイラが上機嫌で声を弾ませた。
「ええ、お姉様! ついにあの村へ行けますわね!」
リリアも嬉しそうに身体を乗り出した。
次に向かう目的地は、アイラとリリアが事前に領地の資料を調べて見つけて、絶対に行く場所として予定していた村、その名もピノワール村であった。
その村は、先の大陸大移動で海の代わりに山脈ができた地域であり、元は日当たりと風抜けが抜群で、土壌の養分や水はけも素晴らしく、アイラの知識に照らし合わせても最高級のワイン用ブドウが栽培できる可能性を秘めた場所になったと思われる果樹園であった。
海から山脈になったことで塩害が無くなり、現地調査をすることで、土や風の性質や日照などの元の好条件が変化していないか確認する。
目論み通りの結果がでれば、アルジェント領の特産物の中に、ワインが加わることになる。
「このアルジェント領で本格的なワイン用のブドウが栽培できるかもしれないわね」
アイラは胸を躍らせ、馬車の窓から広がる美しいアルジェント領の景色を見つめながら、美味しいワインとお菓子の未来に想いを馳せるのであった。
アイラたち一行を乗せた豪華な馬車は、緩やかな丘陵を越え、日当たりの良い斜面に広がるのどかなピノワール村へと到着した。
村長をはじめ、村の重鎮や農夫たちが緊張と敬意の混ざった表情で丁寧な出迎えを行った。
レオンハルトとセオドアは、村の状況や近況報告を詳しく聞くため、村長たちと共に母屋へと移動した。
その間、アイラとリリアは事前に目をつけていた例の果樹園の候補地へと移動した。
小高い丘の上に広がるその土地に足を踏み入れ、アイラは足元の土をすくって手触りや匂いを確かめた。
地殻変動によって海が消失したことで、目論み通り塩害は無くなりかけていた。
このまま自然の経過に任せても数年もすれば素晴らしい土壌になるだろうということが、アイラの知識と魔力眼からも見て取れた。
さらに、丘の上には心地よく乾いた風が爽やかに吹き抜けており、気候も温暖で日照時間も申し分なかった。
これほどの条件が揃っていれば、アイラの思い描く最高級のワイン用ブドウを栽培できることは間違いなかった。
唯一の問題は、自然に土壌の状態が完璧に整うまでに数年という時間がかかってしまう点であった。
「ですが、時間がかかるという問題くらいなら、私たちの魔法で解決できますわね」
リリアがアイラの隣でふわりと微笑んだ。
「ええ、数年も待つなんてできないものね」
アイラは深く頷き、リリアと共に周囲を見回して誰も人がいないことを念入りに確認した。
周囲に誰の気配もないことを確かめると、二人は顔を見合わせて同時に魔法陣を足元に展開した。
「【土壌浄化】、【養分循環】、【土質調整】」
アイラとリリアが静かに詠唱を紡ぐと、温かな緑と茶の光が丘全体を優しく包み込んだ。
土の中に残っていたわずかな塩分や不純物が綺麗に浄化され、ブドウ栽培に最適なバランスの養分と理想的な水はけを持つ極上の土壌が一瞬にして完成した。
光が収まると、潮風の残香や酸っぱい土の匂いは消え去り、ふかふかと柔らかい土からは豊穣の香りが立ち上っていた。
丘一面の土がしっとりと柔らかく、最高の命を育む黄金色の土質へと変貌を遂げていた。
「完璧ね。これなら今すぐにでも苗木を植えられるわ」
アイラが満足そうに頷いたまさにその時、近況報告を聞き終えたレオンハルトとセオドアが追いついてきた。
二人に整えられた土壌とこれからの構想を説明すると、レオンハルトは感心したように目を細めた。
「ほう、流石は私の自慢の娘たちだ。これほど素晴らしい土壌が完成しているのなら、本格的なワイン用ブドウの栽培経験者を募りさえすれば、すぐにでも開墾を始められるな」
「ええ、お父様。土台は私たちが完璧に整えましたから、あとは実際にブドウを育てる人材の確保ですね」
リリアが嬉しそうに胸を張った。
報告の際に村長と話していたレオンハルトによれば、村長には各地の腕利きの農夫や果樹栽培の専門家たちに広い伝手があるとのことだった。
そのため、ブドウ栽培の経験者の募集や開墾に必要な人材の確保に関しては、村長をはじめとする村の人々に全面的に任せることに決定した。
その日の夜は、村長の家で温かいおもてなしを受け、村の美味しい料理を囲みながら今後のピノワール村の未来について賑やかに語り合った。
翌日の爽やかな朝、村長や村人全員からの温かい見送りを受けながら、アイラたち一行はピノワール村を後にした。
やり残した憂いも課題もすべて完璧に解決し、一同を乗せた馬車は晴れやかな気持ちで、次なる目的地であり今回の旅の終着点でもある公爵領の領都に向けて街道を出発するのであった。
晴れやかな気候の中、無事にアルジェント公爵領の領都へと到着したアイラたち一行は、公爵邸の出迎えを受けつつ久々の我が家へと足を踏み入れた。
長旅の旅情を抱きつつもやり残した課題のない晴れやかな心地でその夜を過ごした一行は、旅の疲れを癒やすように深い眠りについた。
翌朝、爽やかな朝日が差し込む公爵邸の広々とした書斎には、朝食を終えたばかりのアイラとリリアの姿があった。
二人は机の上に羊皮紙と羊毛のペンを並べ、グランベル村のための農業改革企画書の作成に取りかかった。
「お姉様、グランベル村では三毛作の実証実験が進んでおりましたけれど、やはり輪作へ切り替えるべきなのでしょうか」
リリアが真剣な表情で羊皮紙に目を落としながら問いかけた。
「ええ、この地方の気候と土壌の特性を考えると、三毛作の継続は土地を急速に疲弊させてしまうわ」
アイラは手元の資料に視線を送ったまま、分かりやすく説明を始めた。
「まず、毛作というのは『同じ土地で一年のうちに何回作物を育てるか』という回数のことなのね。二毛作なら年に二回、三毛作なら三回、それぞれ収穫を行うわけだけど、これは土の中にある養分を短い周期で激しく消費してしまうの。同じ系統の作物を続けて育てすぎると、土の特定の栄養だけが偏って減ってしまったり、害虫や病気が発生しやすくなる『連作障害』が起きてしまうのよ」
「なるほど、土地が休む暇なく養分を奪われ続けてしまうのですね」
リリアが納得したように深く頷いた。
「その通りよ」
アイラは卓上のメモに簡単な図を描きながら話を続けた。
「だからこそ、提案したいのが『輪作』なの。輪作は一年の回数ではなく『数年かけて順番に植える作物の種類を変えていく』手法なのよ。例えば、土の窒素を多く使う穀物を育てた次の年には、逆に空中の窒素を土に蓄えてくれるマメ科の作物を植えるの。そうやって異なる性質の作物を順番に回転させることで、土壌の養分バランスが自然と保たれて、連作障害も防ぐことができるのよ」
「土地に無理な負担をかけず、持続的に豊かな収穫を得るための知恵なのですわね。とても理にかなっています」
リリアが感銘を受けたように微笑むと、アイラはニシシと悪戯っぽく口角を上げた。
「さらにね、グランベル村の近くにある手つかずの森林を活用して『アグロフォレストリー』も導入したいと考えているの」
「あぐろふぉれすとりー、ですか?」
聞き慣れない言葉にリリアが首を傾げると、アイラは楽しそうに説明を続けた。
「アグロフォレストリーというのはね、樹木を栽培しながらその下の土地で農作物を育てたり、家畜を放牧したりする複合作業のことよ。森林を切り開いてただの畑にしてしまうのではなく、森の生態系を残したまま農業と畜産業を組み合わせるの。木々が日陰を作って土の乾燥を防ぎ、樹木の落葉が天然の肥料になり、家畜のフンも肥料として循環するわ。人材の配置や初期投資は必要になるけれど、長期的に見れば村の収入源を多様化できて、環境にも優しい最高のシステムになるはずよ」
「素晴らしいですわ、お姉様! 自然の力を最大限に活かした、まさに夢のような農業の形ですわね!」
リリアは目を輝かせながら、アイラの言葉を一文字も漏らさぬよう手際よく羊皮紙へと書き記していった。
二人が熱心に企画書を書き進めていると、書類の束を手にしたレオンハルトとセオドアが書斎を訪れた。
「アイラ、リリア、朝から熱心に何を書いているのだね?」
レオンハルトが優しく問いかけると、アイラは完成したばかりの草案を胸を張って差し出した。
「お父様、グランベル村の農業改革に関する企画書を作成しましたわ。三毛作から輪作への移行と、森林を活用したアグロフォレストリーの提案です」
レオンハルトとセオドアは提示された企画書を熟読し、そこに記された高度な理論と具体的な実現可能性に目を丸くして感嘆した。
「……素晴らしい。これほど完璧な提案であれば、領地の農業は劇的な進化を遂げるに違いない。視察の成果がこれほど早く形になるとは、流石は我が娘たちだ」
「ええ、父上。人材の移動や配置に関しても、この草案を元に代官と協議を進めれば何の問題もなく導入できますね」
二人が絶賛する中、セオドアがふと思い出したように言葉を繋いだ。
「そう言えばアイラ、ピノワール村の開墾の件ですが、あちらの進捗はどのように確認しようか?」
アイラはペンを置くと、少し考えを巡らせて答えた。
「そうね。土壌の浄化と調整は私たちの魔法で完璧に終わらせておいたけれど、ブドウの苗木の確保や経験者の募集には少し時間がかかるはずだわ。あまり急かしても村長さんたちが困ってしまうでしょうから、少し間を空けてから使いの者を送って近況を確認させるのが一番良いと思うの」
「なるほど、村の人々のペースを尊重するのだね。分かった、使いを出す時期はこちらで調整しておこう」
レオンハルトが満足そうに頷き、ピノワール村の方針も滞りなく決定した。
書類仕事が一区切りついた午後のこと、アイラは専属侍女のマリーを自室へと呼び寄せた。
「マリー姉ちゃん。フールエル街でのスラム掌握、すごく上手くいったわね。分身たちからの報告通り、あの街の治安は格段に良くなっているわ」
「ええ、アイラお嬢様。力で裏社会の悪党どもをねじ伏せ、無害なおじさんたちへクラスチェンジさせる手法は、スラムという無法地帯において最も迅速で効果的でございますから」
マリーが品良く微笑むと、アイラは青玉の瞳をギラリと輝かせた。
「だったら、この領都をはじめとする領内各地の街にあるスラムも、同じように私たちの魔力分身を使って全部掌握してしまいましょう! 闇の組織をまとめて牛耳ってしまえば、子供たちの保護もできるし、領地全体の治安も劇的に良くなるはずだわ」
「素晴らしいご決断でございます、お嬢様。スラムの悪党どもに、新しい秩序というものを叩き込んで差し上げましょう」
二人は顔を見合わせると、誰にも気づかれないよう静かに魔力を練り上げた。
アイラとマリーの精鋭なる魔力分身たちは、領内の各都市へと密かに飛び立ち、次々とスラムの闇の中へと溶け込んでいった。
圧倒的な力によってスラムのギャングたちが一晩で改心させられ、新しい秩序が打ち立てられていくことだろう。
それから数日後のこと、レオンハルトの執務室に領内各地の代官から驚きに満ちた報告書が続々と届いた。
「な、なぜか各都市のスラム街の治安が急激に改善し、荒くれ者のギャングたちが自主的に街の清掃や警備を始めた……だと?」
手紙を読み上げたレオンハルトは、呆然とした様子で目を丸くした。
「首謀者は『謎の美少女と姉と思われる美女の二人組』とのことですが……一体何が起きているのでしょうか」
セオドアも報告書を二度見しながら不思議そうに首を傾げた。
そんな二人を余所に、領都の公爵邸で穏やかで有意義な時間を過ごすアイラとリリア、そして二人の専属侍女のマリーは、領地の発展と平和な未来に想いを馳せながら、どこまでも満ち足りた笑顔を浮かべるのだった。




