回帰組の今の自分
レイラの身体も無事完成し、特製のスイーツを食べ終わったアイラたちは、満足した心地でそれぞれの日常へと帰って行った。
アイラとリリア、そして師匠であるマーリンはアルジェント公爵邸に戻り、完成したばかりの身体を得たレイラもまた彼女たちに同行することになった。
公爵邸に到着すると、レオンハルトはレイラを正式にアルジェント公爵家の養女とし、長女として迎え入れる手続きを迅速に進めた。
レイラがいなければアイラはこの世に生きて存在していなかったという事実が、レオンハルトにとって養子縁組を決断させる何より強く決定的な動機となったことは言うまでもなかった。
こうして、公爵家の長女となったレイラの淑女教育が始まった。
レイラは知識の全てをアイラと共有しているため、座学や教養を改めて学ぶ必要は全くなかった。
教育の目的はただ一つ、新しく手に入れた生身の身体の細かな使い方や、貴族令嬢としての優雅な身のこなしを身体に覚え込ませることであった。
一方、アイラとリリアの二人は、マーリンの師事の下でさらに魔女としての研鑽を積む日々を送っていた。
本来であれば貴族令嬢として受けるべきレッスンの時間をそのままマーリンとの修業の時間として確保することができたのは、彼女たちが未来の経験によって令嬢としてのマナーや教養の過程をすべて修了しているからであった。
平日は魔女としての力を磨き、休日になればお茶会を開いたり招かれたりして、優雅な貴族令嬢としての生活を満喫していた。
お茶会に集まるのは、アイラ、リリア、ミーア、ヒルディオーネ、エメロード、シズ、ノクターシア、レティシア、アマーリエという、いつもの親しいメンバーたちであった。
そんなある休日、ノクターシアが主催するお茶会に参加した際、アイラたちはこの時間軸におけるオルフィナと出会うことになった。
この頃のオルフィナは、極度の引っ込み思案で自己肯定感が著しく乏しく、アイラたちがかつて初めて出会った頃のままの姿であった。
ノクターシア自身はオルフィナとそれほど深い接点があったわけではないのだが、ノクターシアの母であるエルフリンデ伯爵夫人と、オルフィナの母であるフローレス伯爵夫人が大変仲が良いという縁があった。
「オルフィナ様は本来とても可愛らしい方なのに、自分に全く自信が持てないようなのです。この極端な性格をどうにか治せないかと、お母様を通じて頼まれてしまいまして」
ノクターシアが困ったように扇子を傾けて相談してくると、アイラとリリアは顔を見合わせた。
別時間軸の未来において、学園に入学した後のオルフィナは、ノアやクロードが自分たちの悩みの種を解消した姿を目の当たりにしたことで、自分の弱気な性格を治したいと強く望むようになった。
そしてアイラたちが見せた悪夢という強烈な荒療治を自らの意志で乗り越えることによって、トラウマとあがり症を克服したという経緯があった。
しかし、まだ悩みも自覚も浅く、自分を変えたいという強い意志すら持っていない今のオルフィナに対して、あの悪夢による荒療治を使うことはできないと二人は判断した。
「それなら、まずは形から入るのが一番ね」
アイラはニシシと悪戯っぽく口角を上げた。
「ええ、お姉様の言う通りですわ。まずはあの素敵な素顔をしっかりと表に出してあげましょう」
リリアも優しく微笑みながら頷いた。
今のオルフィナは、重たい前髪を大きく下ろして目元どころか顔の大半を隠してしまっている。
しかし、その前髪の下に隠された素顔が、人形のように整った絶世の美少女のものであることを、アイラたちは熟知していた。
「オルフィナちゃん、美味しいお菓子を食べた後に、私達と一緒にお買い物へ行きましょう!」
アイラが声をかけると、オルフィナはびくっと肩を揺らし、長すぎる前髪の隙間から怯えたように二人を見上げた。
「え……わ、私なんかが、アイラ様やリリア様とお買い物なんて……そんな、滅相もございません……!」
「遠慮なんていらないわよ。可愛いお洋服と素敵な髪飾りを身につけて、自分に自信をつける第一歩を踏み出してみましょう!」
アイラとリリア、そしてノクターシアたちお茶会メンバーは、おどおどと戸惑うオルフィナの手を優しく取り、王都で一番華やかなショッピング街へと連れ出すことにしたのだった。
華やかなドレスや絢爛な宝飾品が立ち並ぶ高級ブティック街に到着すると、オルフィナはあまりの煌びやかさに圧倒され、終始身を縮めていた。
アイラたちは次々とオルフィナに似合いそうな可憐なドレスを選び、店のフィッティングルームへと誘った。
「オルフィナちゃん、まずはこの前髪をすっきりと留めてみましょうか」
アイラが可愛らしい真珠の髪飾りを取り出し、オルフィナの重たい前髪に手を伸ばした、まさにその時であった。
ブティックの入口から、鈴の音のように軽やかで優雅な足取りで、一人の女性が入ってきた。
その女性は、凛とした立ち振る舞いと、深いアメジストの瞳を持つ、息をのむほどに美しく洗練された大人の女性であった。
アイラとリリアは、その女性の顔と醸し出す魔力の波形を一目見た瞬間、即座にその正体を察した。
その女性こそ、未来の戦いを生き抜き、回帰組としてこの時代へとやってきていた大人状態のオルフィナであった。
回帰組のオルフィナはアイラたちと静かに目配せを交わすと、優雅な仕草で上品にお辞儀をした。
「ごきげんよう、アイラ様、リリア様。このような場所でお会いできるとは奇遇ですわね。……私のことは『オフィーリア』とお呼びくださいませ」
彼女は自らを「オフィーリア」と名乗り、かつての自分である幼いオルフィナへと温かい視線の向けた。
アイラとリリアはニシシと悪戯っぽく微笑むと、気を利かせて二人だけで話ができる環境を整えることにした。
「オフィーリアさん、ちょうど良かったわ。あそこのテラス席で、オルフィナちゃんと少しお話ししていてもらえるかしら?」
「ええ、喜んで。アイラ様たちはお買い物を続けてくださいませ」
オフィーリアは柔らかく微笑み、戸惑うオルフィナの手をそっと引いて、店舗に併設された静かなオープンカフェのテラス席へと案内した。
テラス席で向かい合って座ると、オルフィナは緊張のあまりガタガタと体を震わせ、うつむいてしまった。
「あ、あの……オフィーリア様、私なんかが、こんなに素敵な方とお茶をご一緒してしまって……ごめんなさい……!」
オルフィナが小さく身を縮めると、オフィーリアは運ばれてきたハーブティーのカップを静かに置き、愛おしそうに彼女を見つめた。
不思議なことに、オルフィナは初対面のはずのオフィーリアに対して、不思議な安心感と、どこか他人ではないような強い直感を抱いていた。
アイラやリリアの親しい知り合いであるという信頼感も手伝い、オルフィナはほんの少しだけ顔を上げることができた。
オフィーリアは優しく微笑みかけ、自身の「昔の話」を打ち明け始めた。
「ふふっ、そんなに怯えなくても大丈夫よ。……ねえ、信じられないかもしれないけれど、私も昔はあなたと全く同じだったのよ」
「え……? オフィーリア様が、私と同じ……ですか……?」
オルフィナが目を丸くして尋ねると、オフィーリアは静かに頷いた。
「ええ。重い前髪で顔をすっぽりと隠して、自分の顔を人に見せるのが怖くてたまらなかったわ。誰も私の本当の顔なんて見てくれない……そう思って、前髪という名の小さな城壁の中に閉じこもっていたの。だけど、その外にはこんなにも広くて優しい世界が広がっていたのよ。自分のことを道端の石ころ以下だと思い込んで、人の前に立つだけで頭が真っ白になって、今にも息を止めてしまいたいと本気で思っていたの」
あまりにも自分の心境と一致する言葉の数々に、オルフィナは言葉を失った。
目の前にいるオフィーリアは、自信に満ち溢れ、誰よりも凛として美しく、神々しいほどのオーラを放っている。
そんな素晴らしい女性が、かつて自分と全く同じ悩みに苦しんでいたという事実は、オルフィナにとって絶大な衝撃であった。
「でもね、素敵な仲間たちと出会って、自分を変えたいと強く願った時から、世界が変わり始めたの。……あなたも、水魔法が得意でしょう?」
オフィーリアがそっと指先を立てると、小さな水の球体が現れ、光を反射してキラキラと美しく輝いた。
オルフィナは息を呑み、その清らかな水の輝きに見入った。
「私……オフィーリア様のように、強くて、綺麗で、凛とした女性になれたらいいのに……。でも、私なんかがそんな風になれるわけが……」
オルフィナが憧れと諦めの混ざった声で呟くと、オフィーリアは身を乗り出し、オルフィナの震える小さな手を優しく包み込んだ。
「いいえ、絶対にできるわ。……ただしね、あなたは他の誰か別の人間になることはできないの。それは私も同じよ」
「別の人間には、なれない……?」
「そう。でもね、他の誰かにはなれなくても、今の自分よりもっと魅力的で、より素晴らしい自分になることは絶対にできるのよ」
オフィーリアのアメジストの瞳から放たれる温かく力強い光に、オルフィナの胸は高鳴った。
「完璧な誰かを目指す必要はないわ。一歩ずつ、自分が好きになれる『理想の自分』へ近づいていけばいいの。まずは、その重い前髪を留めて、あなたの素敵な素顔を世界に見せてあげることから始めてみないかしら?」
「より素晴らしい……自分……」
オルフィナはその言葉を心の中で何度も反芻した。
同じ水魔法を扱い、自分と同じ暗闇の中にいた年上の女性からの温かい後押しは、オルフィナの心に灯っていた小さな勇気の火種を大きく燃え上がらせた。
「……はい! 私、やってみます……! オフィーリア様のように、自分をもっと好きになれるように頑張ります……!」
オルフィナが強く頷くと、オフィーリアは満足そうに微笑み、彼女の頭を優しく撫でた。
テラス席からその様子を遠目で見守っていたアイラとリリアは、顔を見合わせてニシシと笑い合った。
「ふふっ、大成功ね。やっぱり同じ悩みを乗り越えた先達の言葉は説得力が違うわ」
「ええ、お姉様。オルフィナ様にとって、オフィーリア様は最高の憧れの存在になりましたわね」
買い物を終えて戻ってきたアイラたちは、オルフィナの前髪を可愛らしい髪飾りで留めてあげた。
露わになった彼女の素顔は、陽の光を受けて天使のように輝いていた。
「さて、オルフィナちゃん! 次のお店へ移動しましょうか!」
アイラが声をかけると、オルフィナは背筋をピシッと伸ばし、力強く頷いた。
「はい、アイラ様! 喜んでお供いたしますわ!」
出かける前のおどおどと二人を見上げていた姿はどこにもなく、その瞳には小さな自信と未来への希望が満ちあふれていた。
アイラとリリア、そしてノクターシアたちお茶会メンバーは、弾むような足取りで次の高級ブティックへと向かった。
新しく足を踏み入れたブティックには、最新のトレンドを反映した絢爛豪華なドレスや帽子、エレガントな靴や洗練された小物が所狭しと並べられていた。
今度のオルフィナは、もう身を縮めて怯えるようなことはなかった。
「オルフィナちゃん、こちらの水色のドレスなんて、あなたの綺麗なアメジストの瞳にぴったりだと思わないかしら?」
アイラが軽やかなシルクのドレスを掲げると、オルフィナは瞳を輝かせて歩み寄った。
「まあ、本当に素敵ですわね! こちらのレースがあしらわれた帽子と合わせたら、とても華やかになりそうですわ」
オルフィナは自ら鏡の前に立ち、ドレスや小物を手に取りながら、アイラたちと楽しそうにコーディネートの相談を始めた。
「こちらの靴も履き心地が素晴らしくて、歩くのが楽しくなりそうですわね」
「ええ、オルフィナ様。あなたのその透き通るような肌には、こちらの真珠のネックレスもよく似合いますわ」
リリアが優しく微笑みながらネックレスをあてがうと、オルフィナは少し照れくさそうに頬を染めながらも、素直に笑みを返した。
アイラたちは時間を忘れるほど夢中になり、それぞれに似合う素敵なドレスや帽子、靴や小物を見立てて、たくさん買い込んでいった。
買い物を十分に満喫した一行は、それぞれの護衛や侍女を呼び寄せた。
「みんな、今日買い込んだ荷物は、それぞれのお屋敷へ届けるように手配しておいて頂戴ね」
アイラの指示に従い、侍女や護衛たちは大量の買い物袋を預かり、手際よく馬車へと積み込んでいった。
両手が自由になったアイラたちは、少し歩いた先にある王都で最も評判の高い高級ティーショップへと向かった。
静かで落ち着いた店内に入り、景色の良いテラス寄りのテーブル席につくと、芳醇な紅茶の香りと甘い焼き菓子の匂いが一同を包み込んだ。
運ばれてきた焼き立てのスコーンや色とりどりのタルトを前に、華やかなティータイムが始まった。
「ん〜っ! やっぱりたくさん買い物をした後のスイーツは最高ね!」
アイラがタルトを頬張りながら声を弾ませると、オルフィナも上品に紅茶のカップを置いた。
「ええ、本当に……! こんなに心躍るお買い物は人生で初めてでしたわ。アイラ様、リリア様、 そしてノクターシア様、私を外へ連れ出してくださって本当にありがとうございます」
そこにあったのは、おどおどとして己の存在を消そうとしていた少女の面影ではなかった。
優雅な仕草で紅茶を嗜み、ハキハキとした澄んだ声でアイラたちと対等に楽しくおしゃべりを交わす、立派で可憐な貴族令嬢の姿であった。
自分を肯定し、自信を手に入れたことで、オルフィナの内面は驚くほどのスピードで目覚ましい成長を遂げていたのである。
楽しそうに将来の夢や好きな魔法について語り合うオルフィナの横顔を見つめながら、アイラとリリアは顔を見合わせた。
アイラはニシシと悪戯っぽく口角を上げ、リリアも満足げに温かな微笑みを浮かべた。
自分たちの差し伸べた手と、憧れの存在からの温かい後押しによって、一人の少女が自分自身の力で殻を打ち破り、輝かしい一歩を踏み出していた。
その美しい変化を心から祝福するように、二人の探偵令嬢は静かに視線を交わし、深く微笑み合うのだった。
王都で最も評判の高い高級ティーショップのテラス席で、華やかで温かなお茶会が続いていた。
少し前までの怯えを消し去り、ハキハキと楽しそうに微笑むオルフィナの姿に、アイラとリリアは深く満足していた。
しかし、そんな穏やかで幸福な時間を切り裂くように、不躾で品のない足音が近づいてきた。
「やあやあ、可愛らしいお嬢さんたちが集まって、ずいぶんと楽しそうなお茶会をしているじゃないか」
声をかけてきたのは、華美な意匠の服をまとった三人の貴族令息たちであった。
年齢的には、お茶会メンバーの年長者であるヒルディオーネやエメロード、シズと同等か、あるいは少し上といった年格好であった。
彼らは見目麗しい少女たちのテーブルを取り囲むと、品のない下心を隠そうともせず、不躾な視線を投げかけてきたのだった。
「僕たちも仲間に入れてくれないかい? こんな子供たちだけでお茶をするよりも、僕たちのような紳士がエスコートした方がずっと楽しいはずだよ」
空気の読めない令息たちが強引に席へ割り込もうとし、ノクターシアやヒルディオーネたちが扇子を握りしめて不快感を示したその時であった。
「失礼、そこまでにしていただけますか」
静かだが凛とした少年の声が、テラス席に響き渡った。
一同が振り向くと、そこには整った顔立ちに分厚い眼鏡をかけた、一人の少年が立っていた。
この時間軸におけるノア・ウィンザーであった。
この頃のノアは、実家のウィンザー家がまだ没落しておらず、裕福な貴族の子息として身を立てていた。
その性格も、アイラたちが別時間軸の未来で知っていたような屈折した癖の強さはなく、どこか丸みを帯びていた。
貴族たる者、弱きを助け誇り高くあるべきだという『ノブレス・オブリージュ』を地で行く、誠実で真面目な少年であったのだ。
かつての時間軸での、皮肉屋でひねくれていたノアの姿しか知らないアイラとリリアは、あまりにも雰囲気の異なる少年の姿に驚き、思わず顔を見合わせた。
「なんだ、お前は……? ああ、ウィンザー家の『出来損ない』じゃないか」
令息の一人がノアの顔を見るなり、鼻で笑いながらあからさまな侮蔑の言葉を吐き捨てた。
「なんだ、お前か。貴族でありながら魔力が全く使えないという、あの有名な落ちこぼれだな」
この頃からすでに、ノアが魔法を使えない欠損体質であるという噂は、貴族社会の若者たちの間で広まっていたのだった。
令息たちはノアを嘲笑い、散々な言葉で馬鹿にしたが、ノアは眉一つ動かさず、静かに人差し指で眼鏡の位置をクイッと直した。
冷ややかながらも強い意志を湛えた眼差しで令息たちを射抜くと、淀みない口調で言葉を紡ぐ。
「僕の魔力適性の有無は、今この場での議論とは一切関係がありません。あなた方が行っているのは、年下の令嬢たちに対する威圧および不当な強要行為です」
ノアの冷徹なまでに冴えわたる明晰な頭脳は、この頃から健在であった。
「あなた方の着ている衣服の紋章から察するに、それぞれの家格は伯爵家および子爵家ですね。そちらのお茶会に参加されているのは、アルジェント公爵家やエルフリンデ伯爵家、アルトアンジュ侯爵家のご令嬢方です」
ノアはすらすらと、令息たちの家の格と、お茶会メンバーの家格を正確に言い当ててみせた。
「仮にあなた方が彼女たちに不敬を働き、その事実が各家々の当主に伝わった場合……あなた方の実家がどのような政治的・経済的不利益を被るか、すでにそのリスク計算はお済みでしょうか?」
完璧な論理と、退路を完全に断つ威圧的な事実の突きつけに、令息たちの顔から一瞬で血の気が引いた。
「くっ……お、覚えていろよ……!」
自らの立場と愚行のリスクを理解した令息たちは、捨てゼリフを残して逃げるようにティーショップから走り去っていった。
「失礼いたしました。お怪我やご気分を害されるようなことはありませんでしたか?」
ノアは何事もなかったかのように振り返り、アイラたちに向かって恭しく一礼をした。
あまりにも鮮やかな退散劇と、かつてのノアからは想像もつかない高潔で爽やかな振る舞いに、アイラとリリアはただ呆然と彼を見つめていた。
「あ、あの……助けてくれてありがとうございます! お礼に、何かご馳走させてくださいな!」
アイラが慌てて声をかけると、ノアはふっと優しく口元を緩めた。
「お気になさらないでください、アルジェント公爵令嬢。困っている貴族の令嬢をお助けするのは、貴族の男子として当然の務めを果たしたまでに過ぎません。それでは、これで失礼いたします」
そう穏やかに告げると、ノアはお礼を受け取ることもなく、背筋をピシッと伸ばして優雅な足取りで去っていった。
その立ち去る後ろ姿を、アイラとリリアはただ静かに見送っていた。
「まあ、見事な立ち振る舞いですこと。魔法が使えないとお聞きしておりましたけれど、あそこまで聡明で気品にあふれたお方でしたのね」
ノクターシアが感嘆の息を漏らすと、ヒルディオーネたち他の令嬢たちも深く頷き、立ち去った少年の見事な器量を誇らしく口々に称賛した。
「……お姉様。この時間軸のノア様、とっても素敵で高潔な方ですわね」
リリアがしみじみと呟くと、アイラも大きく頷いた。
「ええ。あんなに立派で優しい男の子なのに、魔法が使えないってだけで周りからバカにされているなんて、何だか納得がいかないわね」
アイラとリリアは、ノアの体内にある莫大な魔力と、それを外に出すための『魔力感覚神経』が切れてしまっているという真実を知っている。
「あんなに頭が良くて高潔なノアちゃんなんだもの。早く魔力感覚神経を繋ぎ直してあげて、あんな鼻持ちならない奴らを見返してあげたいわ」
「ええ、お姉様! でも、今の私たちの子供の体でいきなりあの荒療治をするのは怪しまれてしまいますわね」
二人は顔を見合わせ、同時につむじを回転させて名案を思いついた。
「そうだわ! 大人のノアに、相談に行きましょう!」
「素晴らしいですわ、お姉様! ノア様なら、ご自身の神経の構造も、どうやって治すのが一番安全かも、完璧に計算してくれるはずですわ!」
自分たちを助けてくれた真面目な少年ノアへの感謝と、彼の秘められた才能を開花させてあげたいという強い思いを胸に、アイラとリリアは後日、分家の屋敷に居るノアの下へ相談に向かうことを決意した。
数日後、アルジェント公爵家の分家として用意された豪奢な邸宅のサロンにて、アイラとリリアは回帰組のノアと向き合っていた。
先日、王都の高級ティーショップで起きた出来事と、この時間軸におけるノアの凛とした高潔な立ち振る舞いについて事細かに説明したアイラたちの前で、当のノアは顔を真っ赤に染めて悶絶していた。
「う、あぁぁぁ……っ! やめてください、お願いですからもうそれ以上、当時の僕の言動を再現しないでください……っ!」
頭を抱えてソファの上で身を捩らせるノアの姿に、同席していた回帰組のレオンハルトやセオドア、クロードたちは心底楽しそうに肩を揺らしていた。
『ノブレス・オブリージュ』を地で行き、一部年上の令嬢たちを鮮やかに護衛してみせたかつての自分の姿は、現在の彼にとって直視できないほどの甘酸っぱい黒歴史であったのだ。
「今のちょっと捻くれたノアも味があるけれど、あの素直で真面目なノアもすっごく好印象だったわ!」
「ええ! ノア様。あの時のあなたは本当に高潔で、とっても素敵でしたわよ?」
アイラとリリアが素直な称賛を贈ると、ノアは「余計に精神的ダメージが深まるだけです……!」と絶叫し、さらに深々と顔をうずめた。
しばらくして、ようやく呼吸を整えたノアは、ズレた眼鏡を中指でクイッと押し上げながら、コホンと咳払いをして真面目な表情を取り戻した。
「……ゴホン。失礼、取り乱しました。それで、本題である僕……いえ、現在の僕の『魔力感覚神経』の治療についての相談ですね」
アイラは深く頷き、真剣な眼差しをノアに向けた。
「ええ。私たちは以前の時間軸で、ノアの切れた神経を白魔法と黒魔法で無理やり繋ぎ直すっていう荒療治をしたでしょう? でも、今のノアはまだ幼いし、急にあんな激痛を伴う治療をしたら怪しまれてしまうと思ったのよ」
「僕の記憶にも明確に残っていますよ。あの脳髄を直接タワシで洗われるような凄まじい激痛は、二度と味わいたくない拷問のようなものでしたからね」
ノアは苦い表情で当時を振り返り、優しく目を細めた。
「僕自身が通ってきたあの治療の道は、過酷と困難を極めるものでした。幼いあの頃の自分に、わざわざ同じ思いをさせる必要はありません。僕の答えは最初から決まっています」
そう告げると、ノアの周囲に神々しくも深遠な魔力のオーラが静かに立ち上った。
「シュシュエル様から授かった古代の『虚無魔法』を応用すれば、対象に一切の痛みを与えることなく、切れている感覚神経を極めて精密に、かつ安全に再結合させることが可能です。施術は僕自身が行いましょう」
「さすがノア様ですわ! それなら安心ですわね!」
リリアが嬉しそうに手を叩くと、ノアは不敵な笑みを浮かべた。
「ええ。ですが、いきなり見知らぬ大人が現れて神経を治すと言っても怪しまれますからね。僕は本名を伏せ、『グラノーア』という偽名を名乗って現在の僕に接触することにします」
こうして、未来のノアによる過去の自分への接触と治療計画が始動した。
ノアは「グラノーア」と名乗り、魔法理論に精通した謎の流浪の魔導士として、ウィンザー家の屋敷へ巧みにアプローチを試みたのだった。
自身の体質や思考パターンを誰よりも熟知しているグラノーアの言葉は、魔法が使えず悩んでいた少年の心を正確に捉え、二人はすぐに師弟子のような信頼関係を築き上げた。
順調に深まる交流を経て、人知れず行われた虚無魔法による精密な施術により、少年の体内に眠っていた莫大な魔力は、痛み一つなく完璧に解き放たれたのである。
それから二ヶ月の時が流れた。
王都の貴族社会に、一つの衝撃的なニュースが瞬く間に駆け巡ることとなった。
「あの魔法不全とされていたウィンザー伯爵家の嫡男が、突如としてとてつもない規模の魔力を覚醒させた」という驚愕の報せであった。
さらに噂によれば、その才能を見抜き、秘められた魔力を開花させた立役者として、「グラノーア」と名乗る凄腕の魔法講師が正式にウィンザー家に雇われたという。
かつて落ちこぼれと侮蔑していた貴族令息たちは顔を青ざめさせ、ウィンザー家は歓喜に包まれているとのことであった。
公爵邸のテラス席でその知らせを聞いたアイラとリリアは、運ばれてきた焼き立てのタルトを口に運びながら、楽しそうに笑い合った。
「ふふっ、大成功ね! これでノアもバカにされずに済むわ!」
「ええ、お姉様! でも、ノア様……グラノーア様は、ご自身の指導だからと言って、現在のノア様に対してかなり厳しいスパルタ特訓を課しているみたいですわよ?」
「自分自身の限界を知っているからこそ、容赦なく鍛え上げられるってわけね。まさに究極の自縄自縛というか、自業自得だわ!」
未来の自分が過去の自分を厳しく、しかし確実な愛をもって鍛え上げている光景を想像し、二人の探偵令嬢は互いに視線を交わすと、心の底から満足そうにクスリと微笑み合うのであった。
ノアの魔力覚醒と凄腕講師「グラノーア」の噂で王都の社交界が持ちきりとなる中、アルジェント公爵邸のテラス席では、アイラとリリアがのんびりと紅茶を味わっていた。
そのとき、ふとアイラの頭に一つの疑問が浮かび上がった。
「ねえ、リリア。ノアの治療は大成功に終わったけれど、クロードの方は今どうなっているのかしら?」
「そういえば、クロード様のことはまだ何も聞いておりませんわね。ですが、お姉様……クロード様の治療は、ノア様のようにスムーズにはいかないのではありませんかしら?」
リリアは心配そうに眉をひそめ、小さく首を横に振った。
「ええ。ノアの場合は切れた感覚神経を繋ぎ直すだけだったけれど、クロードの場合は人為的に魔法回路そのものがペシャンコに押し潰されて癒着しているでしょう? あの回路を再開通させるには、生きたまま肉を割かれるような凄まじい激痛を伴うはずだもの」
アイラたちの脳裏に、かつて別の時間軸でクロードが治療の際に上げていた壮絶な悲鳴が鮮明に思い出された。
「母と呼ばれる偉大な魔女であるマーリン様でさえ『あの破壊された回路を痛みなしで治療するのは、どんな魔法を用いても不可能な領域だね』とおっしゃっていましたものね」
「回帰組のクロードは『今の俺のガキの頃なら、気合と根性で耐え抜くに決まってるぜ!』なんて豪語していたけれど、流石に十歳の男の子にあの脳が焼き切れるような拷問級の苦痛を味わわせるのは酷すぎるわよね」
二人が十歳のクロードの不遇さに頭を抱えていたその時、テラスの扉が豪快に開き、回帰組のクロードが大剣を担いで姿を現した。
「よっ、アイラ師匠にリリア嬢! なんだか俺の噂をしてたみたいだな!」
「あっ、クロード! ちょうどあなたの過去の身体の治療について心配していたところなのよ」
アイラが声をかけると、回帰組のクロードは白い歯を見せてニカッと豪快に笑った。
「ああ、それなら全く心配いらねえぞ! もう全部すっきりと治療も済ませてきたからな!」
「「ええええっ!? もう済ませてきたのですか!?」」
アイラとリリアは思わず素頓狂な声を上げ、揃って目を丸くした。
「ちょっと待ちなさいな! 激痛はどうしたのよ!? 十歳の子供にあの拷問みたいな激痛を耐えさせちゃったっていうの!?」
アイラが詰め寄ると、クロードは「落ち着けって、師匠」となだめるように両手を振った。
「俺だって無暗に十歳の自分をいじめたりしねえよ。実はな、たまたまこっちの屋敷に遊びに来ていたエレノワール様とミスティを捕まえて、助けてもらったんだ」
「エレノワールお姉様とミスティ様を……?」
リリアが首を傾げると、クロードは事も無げに信じられないような治療の裏側を語り始めた。
「まず、エレノワール様が魔法で空間を切り取って、現実の世界とは時間の流れが全く違う『時間の進みが早い亜空間』を作ってくれたんだ。その中に俺とガキの俺、それからミスティで立て籠もったのさ」
「空間を切り取って時間の流れを進める亜空間だなんて……相変わらずエレノワールお姉様の空間魔法は無茶苦茶で規格外ですわね」
「それで、激痛の方はどうしたのよ? 亜空間の中でも痛いものは痛いでしょう?」
アイラが追及すると、クロードは誇らしげに胸を張った。
「そこでミスティの出番よ! あいつ、魔女世界で磨いた技術を総動員して『魔力回路の痛覚を完全に遮断・緩和する特製魔道具』をあっという間に作ってくれたんだ! それをガキの俺に装着させてから治療を始めたから、痛みなんて欠片も感じずに、あっという間に回路の工事が終わっちまったんだぜ!」
頭に変妙な魔道具を取り付けられ、「え、何これ?」とポカンとした表情のまま、一切の痛みもなく回路を綺麗に修復されて呆然とする幼いクロード。そしてその横で満足げに腕を組んで特訓を指示する大人クロードの様子が、二人の頭の中に映像としてありありと浮かび上がってきた。
「まあ! さすがは魔女世界で工房を営むミスティ様ですわね! 痛みを和らげる魔道具を作ってしまうなんて素晴らしい技術ですわ!」
「亜空間の中でじっくりとリハビリと魔力操作の特訓も済ませたから、今のあいつは自分の体内に眠る莫大な魔力を完璧にコントロールできるようになってるぞ。術式や知識の面でも、ミスティが頭に直接叩き込んでくれたからバッチリだ!」
クロードの報告を聞き、アイラとリリアは呆れ半分、感心半分で大きくため息をついた。
「相変わらず回帰組の行動力と力技は無茶苦茶だけれど……痛みを感じずに治療できたなら、これ以上のハッピーエンドはないわね」
「ええ、本当によかったですわ! それで、治療が終わった現在のクロード様は、今どこにいらっしゃるのですか?」
リリアが尋ねると、クロードは遠くの空を見上げるように視線を向けた。
「ああ、あいつなら治療が終わった後、覚醒した自分の力に大喜びしてな。たまたま再会した俺たちの爺さん……伝説の剣聖と一緒に、そのまま修行の旅に出かけちまったよ」
「お爺様と修行の旅に……!?」
「おう! 爺さんも『まさか我が孫がこれほど見事な魔力と剣の才能を秘めていたとは!』って大感動してな。二人が旅から帰ってくる頃には、ちょうど王立学園の入学時期になってるだろうさ。それまでもっと強くなって戻ってくるって張り切ってたぜ!」
「ふふっ、あはは! 本当にクロードらしいわね!」
アイラは思わず腹を抱えて笑い出した。
「ええ、お姉様! 激痛に苦しむこともなく、大好きなお爺様と修行の旅に出られるなんて、最高の未来になりましたわね!」
リリアも嬉しそうに微笑み、二人の探偵令嬢は互いに頷き合った。
文字の呪いも、壊された魔法回路も過去のものとなり、かつての仲間たちがそれぞれの場所で着実に未来への一歩を踏み出している。
二人は眩しい陽の光が降り注ぐ青空を見上げながら、数年後に再会するであろう頼もしい仲間たちの姿を楽しみに思い描き、幸せそうにお茶を飲み干すのであった。




