アイラと記憶の秘密
—— 何処かの世界 ——
暗いオフィスの通路で、コツコツと小気味良いヒールの音が響いていた。
窓の外には、空を突き刺すような巨大なビル群が乱立しており、ここが豊かな自然に満ちた王国でも、神秘的な魔女の世界でもないことを静かに感じさせていた。
その静寂を切り裂くように、不意に、天空が鏡を叩き割ったかのようにガラスの音を立てて砕け散った。
世界は一瞬にして毒々しい夕焼け色へと染まり、足元の大地が激しく揺れ始めた。
各地の虚空に、赤く禍々しい混沌の渦が次々と出現していった。
渦の深淵から、人間界には存在するはずのない悍ましい魔物たちが、津波のように這い出してきた。
近代的な兵器を携えた軍隊は全く役に立たず、ただ蹂躙されるしかなかった。
やがて、一部の不思議な力に目覚めた者たちだけが、その身に魔力を宿して魔物と戦う過酷な時代が訪れた。
しかし、それは破滅へのカウントダウンでしかなかった。
時は進み、人口を百分の一にまで減らされた人類が細々と生き残る世界は、ついに完全な滅びの瞬間を迎えようとしていた。
世界そのものを賭けた生存闘争に、彼らは敗北したのだ。
すべてが赤黒い霧に包まれて崩壊していく中、この世界を生み出した神は、自らの創造物の無惨な末路に深い落胆を覚えていた。
「世界のゲーム盤は崩れてしまったな」
世界の神は、静かに大理石の床へ視線を落として嘆息した。
だが、この世界で人類が足掻き、築き上げてきた魔術の数々や世界の根幹までを、完全に消し去ってしまうのは惜しいと考えた。
神は、世界の根幹をアーカイブとして残すことに決めた。
滅びの最後の瞬間、迫り来る魔物の大群を前にして、一人で結界を張り続け、最後まで戦い抜いた一人の魔法使いの女性がいた。
神は、その勇敢な魂をじっと見つめた。
「あれにしよう。あの魂ならば、耐えられるはずだ」
世界の神は、滅び続ける世界の外側から根幹の記録を力ずくで切り離し、彼女の魂の奥底へと強引に押し込んだ。
バチバチと激しい魔力の火花が散り、強烈な負荷によって魂の自我が粉々に砕け散る甲高い音が響いた。
滅びた世界の神は、自らの力を使って砕けた魂の自我を丁寧に修復し、世界の根幹を完全にその魂へと埋め込んでいった。
出来上がったのは、黄金の輝きを放つ大樹を模した、大いなる文様を持つ特別な魂であった。
神は、次元の狭間に増え続ける無数の世界の中から、一つの未熟な世界に目を留めた。
「ここに放り込むとしよう」
神は、その世界のスラム街の路地裏で、ひどい頭痛と空腹によって今まさに死にかけている一人の少女を見つけた。
「この肉体と魂を使うか」
少女の肉体が静かに死を迎えたその瞬間、神は世界の根幹を封じ込めた大樹の魂を彼女の魂と融合させて再び肉体へと滑り込ませ、強引に蘇生させた。
「これで良い。あとは、彼女がどう生きるかを見守るだけだ」
神はしばらくの間、スラムから公爵家に拾われ、やがて世界を救う魔女へと覚醒していく少女の未来を、興味深そうに眺めていた。
しかし、その未来の途上、世界に強烈な歪みが発生した。
世界の時間が、パリンと音を立てて急激に逆行し、世界が二つの分岐した世界線へと分かれてしまったのだ。
「ふむ。どうやら、時間が巻き戻ったらしいな」
神は、次元の外側へと移動し、世界線の流れを眺めて首を傾げた。
「地上だけを戻し、魂をそのまま定着させるというのは、随分と手の込んだ面倒な作業だ。だが、この世界の管理者も、何か特別な狙いがあってこのような真似をしたのだろう」
この世界の神の顔を思い浮かべながら、神は世界の外側で、世界の根幹の歴史を手繰り寄せた。
「なるほどな。どうやら、この新しい世界線もまた、いずれあの日と同じような戦いの舞台となる運命にあるようだ」
神は、少しの間思案し、それから面白そうに目を細めた。
「まあ良い。あの魂が更に成長し、魂の力を取り出せるようになれば、いずれ自分が背負っている『滅びた世界』の記録とあの魔法使いを知覚する時が来るだろう。その時、この世界でも同じ破滅が迫っていることを否応なしに知るはずだ」
神は、空中に半透明の魔術回路を展開し、かつて彼女たちの近代世界で使われていたシステムを、この世界の仕様に書き換えて魂へと組み込んでいった。
「一度は発現したシステムだ。基本仕様は同じなのだから、あの魔女ならすぐに気づいて使いこなすだろう」
少女の魂は、二周目の時間を迎えた時点で、すでに世界を救うのに十分なほど強く、大きく育っていた。
「さあ、滅びた故郷のリベンジを果たそうではないか」
神の口元に、不敵で、かつてないほどに頼もしい笑みが浮かんだ。
「今回は、私がシステムを通じて、全力で君をサポートしてあげよう」
神は、自らの姿を温かい光の粒子へと変え、静かに虚空へと消えていった。
—— 現在 アウストラル帝国 ノアとクロードの拠点 ——
アウストラル帝国の帝都の一角に佇む、薄暗い隠れ家。
二階の窓からは寒々しい風が吹き込み、パチパチと音を立てて暖炉の火が燃えていた。
その部屋の中に、突如として眩い空間の裂け目が広がり、光の波紋と共に四人の少女たちが静かに舞い降りた。
「お姉様、無事にお散歩……ではなく、隠れ家への合流が完了いたしましたわ」
リリアが、ふんわりとしたドレスの裾を整えながら、天使のような微笑みでアイラを見つめた。
彼女たちの隣には、最新の魔導具を抱えたミーアと、少し心配そうに周囲を警戒しているオルフィアの姿もあった。
「待ってたぜ、師匠! それにリリア嬢も!」
暖炉の前で剣を磨いていたクロードが、元気よく立ち上がって拳を突き出した。
「……アイラ様。僕の計算によれば、予定よりも三日早い合流ですね。何か、帝国の中枢で致命的な動きがあったと見て間違いないでしょう」
分厚い眼鏡を中指で静かに押し上げながら、ノアが冷徹な声で状況を分析した。
「ええ、その通りよ、ノア」
アイラは、空間収納から一束の黒い羊皮紙の束を取り出し、テーブルの上へとドンと置いた。
「アウストラル帝国の第六皇子が、ついに動き出したわ。……奴らが裏で開発していた『動く死体』の試作型ウイルス兵器が、完全に完成したのよ」
その不穏な言葉に、ノアとクロードの顔がサッと強張った。
「動く死体……。以前、未来の神聖ルシエラ教国でお掃除した、あの噛まれて増えるおぞましいバケモノのことですね」
セリアが木剣を握りしめて呟くと、アイラは深く頷いた。
「今回のプロトタイプは、単に感染を広げるだけのものではないわ。感染力よりも、如何にして動く死体に『自我を持たせ、兵力として完全に制御するか』という、極めて軍事的な目標で作られているのよ」
「自我を持った死体の軍隊……。なんて恐ろしいことを企んでいるんだ、その第六皇子って奴は」
クロードが顔をしかめる。
「だから、私たちが事前にその研究データを丸ごと強奪してきたってわけ。ミーア、これでワクチンを作れそうかしら?」
アイラに振られ、ミーアは慌ててデータを覗き込んだが、やがて困ったように眉を下げた。
「あ、あの、アイラ様……。魔導回路の構築や機械的な調整なら私にお任せいただきたいのですが、これほど高度な生物学やウイルスの知識となると、今の私の実力では未熟すぎて、調合の計算すら追いつきませんぅ……」
「そうよね、ミーアは魔導具の天才であって、生物学の研究者ではないものね。ミスティは魔女世界で研鑽してたからか……あ、でも、資料のこの部分を見て」
アイラが強奪した書類の一角を指差した。
そこには、研究に使われていた微細な観測機械――顕微鏡に関する設計図が描かれていた。
「アウストラル帝国がアルトアンジュ侯爵家から買い取ったという顕微鏡は、一年前のものね。現行の帝国製顕微鏡は、そこからさらに発展しているようだけれど……まあ、私たちの開発した『千萬倍魔科学顕微鏡』に比べれば、ただの子供のおもちゃね」
「はい! 技術レベルにおいては、帝国の最新鋭であっても私の足元にも及びませんぅ!」
ミーアが誇らしげに胸を張る。
「顕微鏡は勝ってるけど、ワクチンの製造は別の専門知識が必要ね。……よし、それなら方針変更よ。生物学の大家である、アルトアンジュ侯爵にこのデータを渡して、共同でワクチンの開発を手伝ってもらいましょう!」
「侯爵閣下に、ですか? ですが、我々が勝手に他国の研究データを持ち込めば、政治的に問題になるのでは……」
ノアが冷静に指摘すると、アイラはニシシと悪巧みをするように不敵な笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。ジェラール国王陛下から、極秘裏に侯爵へ打診して命令を出してもらうように手配するわ。これなら誰も文句は言えないでしょう?」
「なるほど、王家の権力をフル活用するわけですね。相変わらず隙がない」
ノアが眼鏡を光らせて納得した。
「作戦が決まったところで、せっかくここまで来たんだし、みんなで帝国の街を散策しましょう! 私、アウストラル帝国の美味しいものをまだ一つも食べてないんだから!」
アイラの一言により、彼らは一時的に重苦しい任務を忘れ、帝都の大通りへと繰り出した。
春の柔らかな日差しを浴びて、帝都の街並みは活気と美しさに満ち溢れていた。
行き交う人々は穏やかな笑顔を浮かべ、市場には色鮮やかな食材が所狭しと並んでいる。
「……素晴らしい街ですね。とても、裏で死体を弄ぶような実験が行われている国には見えません」
オルフィアが、安心したように周囲を見渡しながら呟いた。
「そうね。あの第六皇子という狂人がいなければ、この国は普通にまともで、豊かな国だったはずよ」
アイラは、立ち並ぶ美しい建物を見上げながら、冷たい声で言った。
彼女の脳裏に、ふと、ある冷酷な思考がよぎった。
かつて、すべてを失った絶望の戦場で、世界を滅ぼす大戦を引き起こした帝国。
もし、この時間軸でも彼らが同じように暴走するのだとしたら、ここで根こそぎお掃除してしまうのが一番手っ取り早い。
(私たちは魔女。でも、人間界を見限って異次元に隠居した魔女や、別の世界の魔女が手を出すのは『野暮な干渉』かもしれないけれど……私たちは今、現にこの時代に生きて、ここで生活しているのよ? 自分の未来の食卓を脅かす芽を、自らの手で摘み取ることの何が悪いの?)
「……消すか」
ぽつりと零れ落ちたアイラの呟きは、春の暖かな日差しを凍りつかせるほどに冷ややかだった。
リリアはハッとして、姉の横顔を見つめた。
リリアの瞳にも、魔女としての揺るぎない覚悟が宿る。
「ええ、お姉様。私も同感ですわ。私たちの幸せな日常を邪魔する者には、今すぐ消えてもらいましょう」
リリアも不敵に微笑み、異論はないとばかりに頷いた。
「よし、全員で一旦ヴァリエール王国に帰還するわよ! そこでみんなを集めて、決議を取るわよ!」
アイラはそう言うと、全員を連れて一瞬にして公爵邸へと転移した。
本家のアルジェント公爵邸に集まった回帰組のメンバーたちは、王宮でジェラール国王に謁見し、アイラたちからの提案に、王家も含め満場一致で「第六皇子一派の社会的・物理的完全消滅」を可決した。
「まさか帝国の第六皇子の一派が、この様な恐ろしいモノを開発していたとは……」
動く死体に関する資料を読みながらジェラールは玉座に深く寄りかかり、深いため息を吐いた。
未来の話を聞いてはいたが、実際の資料や研究結果、実験結果の報告書を目の当たりにして、その異常さが見て取れた。
大切な国民や家族、これからの子供たちの平和な未来を脅かす芽は、一瞬の容赦もなく摘み取る。
それが、彼らの出した絶対の答えだった。
「そうだな。これほどの危険な爆弾、不確定な未来を待つまでもなく、今この瞬間に処分するのが最も合理的だ」
王太子としての冷徹な眼光を戻したジュリアンが、不敵に微笑みながら賛同した。
そしてその日の深夜、再び帝国へと転移したアイラたちは、神速の動きで第六皇子の研究所へと殴り込んだ。
「消えなさい、世界のゴミ。……概念崩壊」
アイラとリリアが放った混沌の魔力は、アジトにいた研究員たちを、これまで集められた非道なデータや機材を、そして完成したばかりのウイルス兵器のプロトタイプを、肉片一つ、紙屑の一片すら残さず空間ごと完全に消し去ってしまった。
お目付け役として同行していた魔女マーリンは、その圧倒的な破壊劇を、ただ微笑みながら静かに見守っていた。
「ふふっ。この世界に属するあなたたちが決めたことだもの。私から口出しすることはないわよ」
マーリンは優雅に扇を広げ、消滅したアジトの跡地を見下ろした。
「それにしても……。あの研究資料、本当に人間の業の深さには呆れ返るわね。死体を兵器にするなんて、悪魔でも思いつかないほどに下劣だわ。お掃除して大正解よ」
帝国の闇は、たった一晩で完璧に、そして物理的に浄化されたのだった。
帝国の諸悪の根源であった第六皇子一派が、チリ一つ残さず完全に消滅したことで、ノアとクロードの潜入監視任務も無事に終了した。
二人は荷物をまとめて、アイラたちと共に晴れやかな顔でヴァリエール王国へと帰国した。
その日の夕刻。
アルジェント公爵邸の美しいテラスでは、今回の偉大な功績を祝い、回帰組と王家によるささやかな内輪のお茶会が開かれていた。
「ん〜っ! やっぱり我が家のおやつが一番美味しいわね!」
アイラは、テーブルの上に並んだ特製のベリータルトを幸せそうに頬張っていた。
お腹も心も満たされ、周囲には愛する家族や仲間たちの笑顔がある。
世界は救われた。今度こそ本当に、何も心配することのない平和な日常が手に入ったのだ。
「アイラ、夕日がとても綺麗だよ。少し、風に当たろうか」
「ええ、ジュリアン様」
アイラは食べかけのタルトを置き、ジュリアンに手を引かれてテラスの端へと歩み寄った。
地平線の彼方に沈みゆく太陽が、王都の美しい街並みを、燃えるような、美しい夕焼け色に染め上げている。
「……綺麗ね」
「ああ。君と共に、この景色をいつまでも眺めていられるなんて、本当に夢のようだ」
ジュリアンが優しくアイラの腰を抱き寄せ、その銀髪に愛おしそうに口付けた。
しかし、その時だった。
「……っ!? あ……れ……?」
アイラの視界が、突然ぐにゃりと歪んだ。
目の前にあるはずの、王都の美しい夕焼けの景色が、まるで水面に波紋が広がるようにして、まったく別の『あり得ない光景』へと急激に切り替わっていく。
「アイラ? どうしたんだい、顔色が……」
ジュリアンの心配そうな声が、ひどく遠く、こもったように聞こえる。
アイラの目の前に広がっていたのは――。
夕焼け色に染まる空。
だがそこには、美しいお城も、のどかな街並みも存在していなかった。
空を突き刺すように乱立する、巨大な長方形のビル群。
アスファルトで舗装された道路を、無数の鉄の塊が行き交う、あまりにも高度に発展した文明の世界。
――パリンッ!
物理的な音ではない。
アイラの頭蓋の奥で、天空が鏡を叩き割ったかのようにガラスの音を立てて砕け散った。
世界は一瞬にして毒々しい夕焼け色へと染まり、足元の大地が激しく揺れ始める。
各地の虚空に、赤く禍々しい混沌の渦が次々と出現し、中から人間界には存在するはずのない悍ましい魔物たちが、津波のように這い出してくる。
近代的な兵器を携えた軍隊は全く役に立たず、蹂躙され、絶叫を上げて死んでいく人々。
「あ……あぁ……っ!」
それは、アイラの魂の奥底に封じ込められていた、『滅びた世界』の生々しい記憶だった。
アイラの魂が、この二周目の時間を迎えたことで完全に成熟し、肉体の脳細胞と魂の記憶が、強烈な化学反応を起こして完全にリンクし始めたのだ。
自分が何故、前世の高度な文明の記憶を持っていたのか。
何故、見たこともない料理のレシピや、近代的な兵器の概念が頭の中に流れてきたのか。
そのすべての謎が、今、パズルのピースがカチリと噛み合うようにして完全に解き明かされた。
そして、その滅びの瞬間の最後に、彼女の自我を丁寧に修復し、世界の根幹をその魂へと強引に埋め込んだ、あの不気味で神々しい存在の顔が、アイラの脳裏に鮮明に蘇った。
「神、様……」
「アイラ! アイラ、しっかりしろ! 目を開けてくれ!!」
ジュリアンの必死の叫び声と共に、アイラの視界が暗転した。
彼女の体は糸の切れた人形のように力なく崩れ落ち、ジュリアンが慌ててその体を抱き留めた。
「お、お姉様!!」
「アイラ様!!」
ただならぬ異常事態に、テラスにいたリリアやセオドアたちが、血相を変えて飛び出してきた。
「お姉様! どうしたのですか、お姉様! 私が今すぐ白魔法を……!」
リリアが泣きそうになりながらアイラの体に手をかざそうとするが、その白魔法の光は激しく弾き返されてしまう。
「ダメだ、リリア! 近づくな!」
現在のレオンハルトが、冷や汗を流しながらリリアを抱き止めて叫んだ。
「この魔力の乱れ、外からの攻撃ではない! アイラの魂の奥底で、何かが……凄まじい熱量で暴走している!」
「……これは、ただの魔力暴走ではないな」
その時、サロンの暗がりから一人のメイドが姿を現した。
エマの体に宿る天使、シュシュエルだった。
彼女は、普段の尊大な態度を完全に消し去り、その神々しい金色の瞳を驚愕と動揺に大きく見開いて、アイラの元へと駆け寄った。
「シュ、シュシュエル様!? アイラおねえちゃんは大丈夫なのですか!?」
セナが涙目で訴えかけるが、シュシュエルは震える手でアイラの額にそっと触れた。
その瞬間。
「……ば、馬鹿な……っ!? これほどの……これほど莫大な記憶と世界の根幹そのものが……魂の奥底に丸ごと入っているだと……!?」
シュシュエルは、天界の天使としてあり得ないほどに顔を青ざめさせ、激しく動揺していた。
「シュシュエル様、何が起きているのですか!? 説明してください!」
エレオノーラが詰め寄るが、シュシュエルは首を激しく横に振った。
「……我の手には負えん。このような、一つの世界のすべての質量と、神の絶対的な介入の痕跡……! これほどの真似ができるのは、世界を創造した『神』以外に存在しない!!」
シュシュエルは、黄金の光の翼を大きく広げた。
「私は今すぐ、天界へ行く!」
そう言い残すや否や、彼女はまばゆい光の尾を引きながら天井を突き破り、一瞬にして天界へと昇天していった。
「うむ! 訳は分からんが、お主がそこまで慌てるなどタダ事ではない! 私たちも行くぞ!」
セレスティアが天使の羽を具現化しながらそう叫んだ。
「はい、お姉様のために!」
リリアがそう答え、セナも静かに頷いた。
セレス、セナ、そしてリリアの三人は、それぞれの光の翼や魔力を輝かせ、シュシュエルの後を追うようにまばゆい光の粒子となって天界へと昇天していった。
人の魂など決して立ち入ることを許されない、絶対的な神聖領域である天界の最深部。
しかし、覚醒した魔女としての強大な魔力と、天使の眷属としての特別な繋がりを持つ彼女たちは、空間を遮る幾重もの神聖な障壁を力ずくでこじ開けて侵入した。
そこは、無限の白い霧と、温かな光だけが満ちる、世界のシステムを司る中枢であった。
「ハァ、ハァ……! 神よお聞きください……!」
シュシュエルが、息を切らせながら広大な大理石の壇上に立ち、声を張り上げた。
彼女の後ろには、同じく光の翼を広げたセレスティアとセナ、そしてリリアが控えている。
「――騒々しいね、我が天使たち。そして、若き魔女よ」
静寂を切り裂くように、厳かで、しかしどこか若々しく、戸惑いを孕んだ声が響いた。
光の霧の中から姿を現したのは、純白の法衣を纏った、金髪碧眼の可憐な『少年』の姿をした神であった。
彼こそが、天界、天国、魔女世界、地上、地獄からなる五界のすべてを創造し、治めているこの世界の創造神であった。
「神よ! 悠長に現れている場合ではありませんわ! 今すぐお姉様を……アイラお姉様を救いなさい! さもなくば、この天界ごとあなたを焼き尽くしますわ!!」
瞳を血走らせ、混沌の魔力を荒れ狂わせるリリアの気迫に、神は困ったように両手を挙げた。
「お、落ち着いておくれ、リリア。体調ならすぐに良くなるよ」
しかし、神の隣には、もう一人の存在が立っていた。
それは、創造神よりもさらに底知れない力の波動を放つ、黒いローブを羽織った男であった。
「勝手に僕の世界に避難してきて、僕の管理する大切な魂にそんなとんでもないものを混ぜるなんて、相変わらず無茶苦茶な先輩だな。おかげで僕の天使たちが大慌てじゃないか」
この世界の創造神である少年は、困ったように肩をすくめて隣の男を睨んだ。
「……お前たちが慌てて上がってくるのも無理はないな」
黒いローブを羽織った男は、少年の愚痴を意に介さず、ゆっくりと顔を上げた。
「どうやらアイラの魂と肉体がリンクしたようだな」
「魂と肉体のリンクじゃと……!? 一体何を言っておる!」
セレスティアが問うと、神は、困ったように頭を抱えて溜息をついた。
「……アイラの魂の中には彼の創造した世界の根幹が入っているんだ。それが魂の成熟と共に肉体の記憶領域に流れ込んでいるんだよ。これで彼が創造した世界、今は既に滅びてはいるが、アイラは、その全ての英知へのアクセスが可能となったのだ」
黒いローブを羽織った男が笑った。
「私の治めていた世界は滅亡した。だが、私は世界の根幹をアーカイブとして残し、最後まで戦い抜いた一人の勇敢な魔法使い……レイラの魂にそれを埋め込み、お前の世界へと放り込んだのだ」
「それが……お姉様、なのですね」
リリアが、震える声で尋ねた。
「その通りだ。お前たちの姉であるアイラには、今、かつて滅びた世界で最後まで戦い抜いた最高の魔法使い『レイラ』の意識と魔力が、完全に覚醒した。これからは、レイラの意識がアイラの行動を全面的にサポートするシステムとして稼働するだろう」
「...そして、その共鳴は、双子であるお前……リリアの力をも底上げする。魔女となったお前たち二人なら、システムを直に使いこなせるはずだ」
黒いローブを羽織った男。
いや、滅びた世界の神は、ゆっくりと歩み寄り、四人の顔を見渡した。
「空が砕け、混沌の渦から無数の魔物が溢れ出す日は、この世界でもそう遠くない未来に訪れる。……その時、この世界の戦力となるのはいかほどか」
滅びた世界の神は、そう言い残すと、自らの姿を温かい光の粒子へと変え、静かに虚空へと消え去っていった。
「……さあ、この世界の神よ」
残された光の粒子が、最後にアイラたちの脳内に直接、頼もしくも不敵なシステムメッセージを響かせた。
『――私がシステムを通じて、全力で君たちをサポートしよう。滅びた私の世界の復讐を果たすために』
天界の最深部に、再び静寂が戻る。
空が砕けるその日を迎えるために、彼女たちの真の闘いが、今ここに幕を開けたのである。
さあ、アイラよ。
目覚めの時だ。




