魔女編11
大陸の辺境に位置するその国に足を踏み入れた瞬間、アイラは思わず顔をしかめて鼻を覆った。
噂に聞いていた通り、確かにここは他国とは比べ物にならないほど瘴気が濃く、空はどんよりと濁り、枯れ木のような不気味な森がどこまでも続いている。
「ここがホパラク王国……『ホラー』と『パニック』から取ったという感じかしら? 相変わらず安直なネーミングセンスね」
アイラは、辺りに漂う陰鬱な空気と、時折聞こえてくる正体不明の不気味な鳴き声に、魔女特有の鋭い感覚でこの国の本質を理解した。
魔女世界のお姉様たちが、わざわざ人間の男を連れて遊びに来る理由。
それはズバリ、この国全体がお化け屋敷的な用途として機能しており、吊り橋効果で男をドキドキさせるための絶好のデートスポットだからだろう。
「……こういう場所は、一人で来ても全然楽しくないわね。私もジュリアン様と一緒に来て、キャーキャー言って抱きついたりしたいな」
天国で魂のクールタイムを過ごしている最愛の夫の顔を思い浮かべ、アイラは少しだけ寂しそうにため息をついた。
今後のデートのための下見をしておくのも良いかもしれないが、一人で先に仕掛けを知ってしまって、いざジュリアンと来た時に興覚めしてしまったら絶対に嫌だ。
「と言うわけで、予定変更よ! 今回はここはパスしましょ」
アイラは踵を返し、瘴気に満ちた森から早々に立ち去ることにした。
せっかくのソロキャンプなのだから、どこか未だ見ぬ、もっと明るくて美味しい新天地に行きたい。
「南の国は妹のリリアが行っているはずだから、私は北部の方を攻めてみましょう」
北の地と言えば、以前訪れたダイダロス王国のように、厳しい自然と魔物がメインの過酷な環境となる。
「良い感じの珍しい魔物の素材を手に入れて、凄腕のドワーフに頼んで何か面白い魔導具に加工してもらおうかしら」
目的が決まると、アイラの足取りは再び軽くなった。
目指すのは、ダイダロス王国よりもさらに北に位置する極寒の地である。
その地には氷の精霊が多く生息しており、珍しく人間と契約を結んで共存している精霊も居ると、魔女のお姉様たちから聞いたことがあった。
「過酷な環境だからこそ、独自の文化や料理が発展しているらしいから、きっと面白いわよね」
アイラは未知なる北の果ての国と、そこで出会うであろう新たな食材への期待に胸を膨らませ、空間跳躍の魔法を展開するのであった。
空間跳躍の魔法でアイラが降り立ったのは、視界の全てが白一色に染まる極寒の雪山であった。
吹き荒れる吹雪の中で、彼女は寒さを防ぐための結界魔法を展開しながら周囲を見渡した。
そこは王国や帝国といった国という単位で存在するのではなく、そびえ立つ巨大な山そのものを拠り所としている宗教国家『エベレンズピーク』であった。
天を突くほどに高いその霊峰の姿は、アイラの前世の記憶にある世界最高峰の山『エベレスト』を彷彿とさせるような、荘厳で圧倒的な存在感を放っている。
「過酷な環境とは聞いていたけれど、まさかこれほどとは思わなかったわ」
アイラが雪を踏みしめながら感嘆の息を漏らしたその時、突如として目の前の空間がぐにゃりと歪み、山そのものが意志を持ったかのような、圧倒的な質量の影が姿を現した。
それは、神々しい鱗に覆われた一匹の古代竜であった。
「おや、こんな最果ての地に、新しく誕生した魔女が来るとは珍しいのう」
地鳴りのような低い声で話しかけてきたのは、数千万年という途方もない時間を生きているという、世界の始まりからこの惑星を見守り続けているお爺さんの古代竜であった。
アイラが警戒して杖を構えようとするよりも早く、古代竜は気の抜けたような欠伸を一つした。
「安心せい、我はただ挨拶に来ただけじゃ。種族が滅びないように時々介入することもあるが、大体は天使やお主ら魔女が勝手にやってくれるから、我は暇で暇で仕方がないんじゃよ」
古代竜は、数百年から数千年というスパンでただ睡眠に時間を当てているらしく、今回は本当に新しい魔女の顔を見に来たというだけの理由でわざわざ起きてきたらしい。
「……そう。それじゃあ、ご挨拶も済んだことだし、私は私の目的を果たさせてもらうわね」
「うむ、若い者は精が出るのう。では、我はまた数百年ほど寝るとしようかの」
古代竜はそれだけ言うと、現れた時と同じように呆気なく空間に溶け込み、いずこかへと去ってしまった。
「……何だったのかしら、あのお爺ちゃん竜は」
アイラは嵐のように去っていった古代竜に呆れつつも、気を取り直して情報収集のために人里の酒場へと向かうことにした。
この国の独自の文化や美味しい料理の情報を引き出すため、アイラは変装魔法を使って、如何にも胡散臭い『怪しい占い師の老婆』の姿へと変身した。
薄暗い酒場の扉を開けると、そこには雪山の厳しい寒さを凌ぐために強い酒を煽り、暖炉の火を囲んで談笑する屈強な荒くれ者たちの姿があった。
アイラは老婆の曲がった腰を装いながら、杖を突いて酒場のカウンターへと近づいていった。
「ヒッヒッヒ、そこのお若いの。少しばかり婆の占いを……」
しかし、アイラが声をかけるよりも早く、酒場にいた男たちは一斉に鋭い視線を老婆へと向けた。
この国では目立った人間同士の争いはなく、あっても酒場での殴り合いのいざこざ程度で、生死を懸けるような陰惨な事件は滅多に起こらないという。
それは日々、過酷な自然環境と凶悪な魔物の脅威に晒されているせいか、人々の間に強固な団結力が生まれているためであった。
だが、その強い団結力は裏を返せば、得体の知れない余所者に対しては極めて厳しい排他性を持っているということでもある。
「なんだババア、見ない顔だな。怪しい真似をするなら、とっととこの雪山から出て行きな」
屈強な男たちから向けられるのは、明らかな警戒心と冷たい拒絶の眼差しであった。
これでは美味しい料理の情報はおろか、世間話の一つも聞き出すことは不可能である。
アイラは老婆の姿のまま舌打ちをすると、一度酒場を出て、物陰に隠れて変装の設定を変更することにした。
「老婆が警戒されるなら、警戒のしようがない子供の姿で懐に潜り込んでやるわ」
アイラが選んだのは、かつて初めて転生し、孤児からアルジェント公爵家に引き取られた頃の、あどけない九歳の少女の姿であった。
「これなら、誰だって庇護欲をそそられて優しく色々なことを教えてくれるはずよ!」
意気揚々と九歳の愛らしい姿で再び酒場の扉を開けたアイラであったが、その目論見はまたしても見事に外れることとなった。
「おいおい、こんな所にガキが迷い込んできたぞ。お嬢ちゃん、ここは子供が来るような場所じゃない、早く親のところに帰りな」
「ほら、お小遣いをやるから、飴でも買って大人しくお家に帰るんだな」
男たちはアイラを完全に子供扱いし、邪魔者として適当にあしらって早々に追い返そうとしてきたのである。
大人の会話に混ざって巧みに情報を聞き出すつもりが、そもそも同じテーブルに着くことすら許されないという屈辱的な扱いであった。
「……っ!」
アイラの中で、何かがプツンと切れる音がした。
「もういいわ! こんな回りくどいこと、やってられないわよ!」
アイラが酒場の中で怒りの声を上げた瞬間、彼女を包んでいた変装魔法がパリンと音を立てて砕け散った。
眩い光と共に現れたのは、光り輝く銀色の髪と宝石のような青玉の瞳を持つ、圧倒的なまでの神々しさと美しさを備えた、十二歳の本来のアイラの姿であった。
「な、なんだお前は……!?」
突如として酒場に顕現した、人間離れした美貌を持つ魔女の姿に、荒くれ者たちは驚愕で目を見開き、手にしたジョッキを取り落とした。
「私は魔女アイラよ。さあ、私に美味しいご飯と有益な情報を提供しなさい!」
酒場に響き渡ったアイラの堂々たる宣言に対し、屈強な男たちは一瞬の沈黙の後、腹を抱えて大爆笑し始めた。
「がはははっ! お嬢ちゃん、魔女のロールプレイとはたまげたぜ!」
「悪い魔法使いに姿を変えられたって設定か? いやあ、最近のガキは面白いことを考えるなぁ!」
アイラは、一度くらい魔女としての威厳を見せつけるようなロールプレイをやってみたかったのだが、どうやら彼らには全く通じていないらしい。
これだけ神々しい美貌と魔力を放っていても、彼らの目には『ちょっと背伸びをした痛い子供』としてしか映っていないようであった。
「くっ……ならば、これならどうよ!」
アイラはムキになって再び変装魔法を展開し、今度は大人の色気を漂わせた二十歳前後の美しい女性の姿へと変身した。
しかし、その姿を見た男たちは驚くどころか、何故か可哀想なものを見るような、極めて生温かい眼差しをアイラに向け始めた。
「おうおう、立派な大人になったな。よしよし、偉いぞお嬢ちゃん」
「あんまりからかってやるなよ。子供は早く大人になりたいもんさ」
どうやら、アイラが最初に十二歳の姿を晒してしまったため、彼らの中では完全に『ちょっと背伸びをして大人のふりをしている痛い子供』というレッテルを貼られてしまっていたのだ。
(……きぃぃっ! せっかく大人の姿になったのに、完全に子供扱いじゃないの!)
アイラが悔しさで顔を真っ赤にしていると、見かねた酒場の看板娘であるお姉さんが、苦笑いしながら話し相手になってくれた。
決して悔しくて泣きそうになっていたわけではないと、アイラは心の中で強く自分に言い聞かせた。
お姉さんの話によると、この過酷な雪山を生き抜く国では、年齢や身分に関係なく、とにかく魔物と戦える『強さ』が全てなのだという。
一度でも彼らと一緒に討伐に出て、その圧倒的な強さを証明して見せれば、すぐにでも仲間として受け入れてもらえるらしい。
「なんだ、そんな簡単なことなのね。それじゃあ、明日の討伐隊に私も混ぜてちょうだい」
アイラが意気揚々と提案すると、お姉さんは困ったように眉を下げた。
「それがね、いくら実力主義とはいえ、流石に子供を討伐隊に入れるような大人はこの街にはいないのよ」
最初の変装の選択を完全に間違えたと、アイラは激しく後悔した。
これでは強さを証明する機会すら与えてもらえないと、アイラはがっくりと肩を落とし、大人しく宿を取って酒場から出るのであった。
翌日、アイラが宿の部屋で暇を持て余していると、外から騒々しい足音と怒声が聞こえてきた。
どうやら、雪山へ向かっていた討伐隊が、手強い魔物の群れに遭遇してボロボロになって帰還してきたらしい。
アイラは、これは情報収集と恩を売る絶好のチャンスだと考え、急いで怪我人たちが運び込まれた広場へと向かった。
広場には、昨夜酒場でアイラをからかっていた男たちが、血まみれになって呻き声を上げている悲惨な光景が広がっていた。
この世界では治癒魔法の会得は非常に難しく、普通の魔法使いは回復が苦手な者が多い。
しかし、アイラは規格外の魔女であるため、白魔法も完璧に使いこなすことができるのだ。
「ほら、そこ動かないで。すぐに治してあげるから」
アイラは次々と怪我人の元へ歩み寄り、光の魔法で傷を塞いでいった。
最初は子供の治癒魔法などと半信半疑だった男たちも、一瞬で痛みが消え去る奇跡を目の当たりにして、アイラを見る目を驚愕へと変えていった。
しかし、怪我人の数が多すぎて、アイラは一人一人治療して回るのがだんだんと面倒になってきた。
「ええい、ちまちまやるのは性分じゃないわ! 【広域聖域】!」
アイラが杖を高く掲げると、広場全体を包み込むような巨大な光の陣が展開され、その場にいた数十人の怪我人たちの傷が、一瞬にして完全に塞がった。
その圧倒的でデタラメな魔法の行使に、広場は水を打ったような静寂に包まれた。
やがて、この街のまとめ役を担っているという屈強な戦士たちが、アイラの元へ深々と頭を下げてお礼にやってきた。
彼らはアイラの魔法の腕前を認め、謝礼として魔物から採れた珍しい素材や、防寒具などを気前よくプレゼントしてくれた。
話を聞くと、この国の討伐隊の人間は、そのほとんどが雪山に住む精霊と契約を結んでいるらしい。
中でも、上位精霊と契約している凄腕の戦士が四人おり、彼らがこの国のまとめ役として人々を統率しているのだという。
その夜、アイラが宿の部屋で休んでいると、まとめ役である四人の上位精霊契約者たちが揃って訪ねてきた。
彼らと契約している上位精霊たちは、長い時を生きる高位の存在であるため、当然のように魔女の存在を知識として知っていた。
そのため、彼らはアイラが本当に魔女であることを疑うことなく、深い敬意を持って接してきたのである。
「実は数日後、この雪山に途方もなく巨大な大物の魔物が現れると、精霊たちが警告しているのです」
リーダー格の男が、真剣な表情でアイラに切り出した。
「我々だけでは被害が大きくなるかもしれない。どうか、魔女殿のお力をお貸しいただけないでしょうか」
彼は、大物を倒してくれた暁には、その魔物から採れる極上の素材をすべてアイラに譲ると約束してくれた。
珍しい魔物の素材が手に入り、しかも美味しいご飯にありつけるかもしれないという美味しい話が舞い込んできたのだ。
「ええ、もちろん構わないわ。その代わり、この街で一番美味しい料理を食べさせてちょうだいね」
アイラは、二つ返事で大物討伐の依頼を快諾するのであった。
討伐当日、アイラは上位精霊契約者たちと行動を共にし、雪山の奥深くへと進んでいった。
アイラが適当に支援魔法をかけたり、邪魔な雑魚の魔物を氷魔法でサクサクと片付けていると、後ろを歩く戦士たちから「本当に子供なのに信じられないくらい強いんだな」と、感心する声がチラホラと聞こえてきた。
やがて、雪山を震わせるような地鳴りと共に、巨大な雪崩を引き起こしながら、目的の大物である巨大な氷竜の変異体が姿を現した。
「さて、あんな大物をどうやって倒そうかしら」
アイラは、ただ倒すだけなら簡単なのだが、素材を貰えるという約束である以上、倒し方を考えなければ素材が台無しになってしまうと少し悩んだ。
やはり、一番綺麗な素材を残すには、首をスッパリと刎ねるのが一番である。
しかし、風の刃ではあそこまで分厚い鱗と筋肉を一撃で斬り落とすのは難しいかもしれない。
「なら、これしかないわね。空間そのものを切り裂いてあげるわ」
アイラは杖を構え、魔力を極限まで高めて、巨大な氷竜の首元に向けて空間断裂の魔法を放った。
ピキィィィンッというガラスが割れるような甲高い音と共に、氷竜の首と胴体の間の空間が、無慈悲に一直線に断ち切られた。
次の瞬間、巨大な氷竜の首は音もなく滑り落ち、その巨体はドスンと地響きを立てて雪原に沈み込んだ。
「そういえば、最初に出会ったあのお爺ちゃん竜の親戚だったのかしら? まぁ、いっか」
あっけなく終わった大物討伐にアイラが一人で首を傾げていると、戦士たちは一瞬呆然とした後、割れんばかりの歓声を上げてアイラの勝利を称えた。
討伐を終えて街に戻ると、広場では盛大な宴会が開かれた。
アイラは、大活躍の英雄として歓迎されたものの、やはり見た目が子供であるため、「お酒は大人になってからだぞ」と笑って果実水ばかりを渡された。
「だから、私の中身は大人なのよ!」
アイラは再び二十歳の姿に変身して見せたが、既に十二歳の姿が本体だとバレている彼らには「はいはい、凄い凄い」と適当にあしらわれるだけで、結局お酒を飲むことは許されなかった。
しかし、お酒が飲めない不満を吹き飛ばすほどに、北国の料理はアイラの想像を遥かに超えて絶品であった。
厳しい寒さを凌ぐために工夫された、スパイスと薬草をふんだんに使った体の温まる香草焼きや、未知の調味料で深く味付けされた濃厚な煮込み料理。
それらは、平和な気候の国の貴族たちが食べるような、ただ上品なだけの食卓よりも、ずっと力強くて美味しいものばかりだった。
「……美味しい。こんなに美味しいなら、やっぱりジュリアン様と一緒に来たかったな」
アイラは、湯気の立つ熱々のシチューを頬張りながら、いつか必ず最愛の夫と共にこの雪山の国を訪れて、この温かい料理を一緒に食べようと、心に固く誓うのであった。
大物討伐での圧倒的な活躍により、アイラはエベレンズピークの人々から完全に実力を認められ、街の誰とでも気軽に言葉を交わす良好な関係を築き上げていた。
過酷な雪山での厳しい生活や、強力な魔物という共通の脅威に日々立ち向かう人々の姿を観察しているうちに、アイラの天才的な頭脳はある一つの恐ろしい真理に辿り着いた。
外敵という明確な脅威が常に存在している状態においてのみ、人間はこれほどまでに強固に協力し合い、些細ないさかいをなくして仲良く暮らすことができるのだ。
つまり、皮肉なことに完全な『平和』こそが、人間の欲望を肥大化させて腐敗を生み、人間をダメにしているのである。
「ということは、私が世界中に脅威をもたらすような新たな種族を創り出して解き放てば、人間は愚かな争いをやめて一つにまとまるんじゃないかしら?」
アイラは、世界の平和を強制的に実現するための、魔女らしいスケールの大きな危険思想に行き着きかけた。
しかし、過去の様々な物語や伝承の記憶が、アイラの脳裏に即座に警告のサイレンを鳴らした。
そんな魔王のようなことを実行した末路は、必ずどこからともなく現れる『正義の熱血野郎』の主人公によって討伐され、力で分からされるというお決まりのパターンが待っているのだ。
世の中の悪役たちは皆、最後に「こんなはずではなかった」と後悔しながら消えていくのがお決まりだ。
「ただでさえ狂気の魔女なんて呼ばれているのに、これ以上面倒な肩書きが増えて『災厄の魔女』にされるのはごめんよ」
アイラは、自分の平穏なソロキャンプの旅を脅かすような危険な考えをすぐに頭から振り払い、やれやれと肩をすくめた。
今のアイラにとって、世界平和や人類の進化などという壮大なテーマよりも、遥かに重要で優先すべき使命があった。
それは、この雪山の国で出会った、未知なる絶品料理のレシピと作り方を完璧に覚えることである。
前世である現代日本の豊富な食の知識にすら存在しない、この国独自の旨さの秘密を解き明かさなくて、何が名探偵アイラか。
「決めたわ。この国の料理、私が全てものにして見せるわよ!」
決意を固めたアイラは、街で一番料理が美味しいあの酒場へと真っ直ぐに向かい、厨房を任されている看板娘のお姉さんに弟子入りを志願した。
もちろん、ただの一方的な弟子入りではなく、アイラ自身の持つ前世のチートレシピや、ダイダロス王国で開発した調味料の知識なども惜しみなく提供し、共に料理の腕を高め合うという強かな算段も忘れていない。
「いらっしゃいませー! 今日のおすすめは、熱々の香草焼きよ!」
かくして、世界最強の魔女であるアイラは、威厳のある魔法使いのロールプレイを完全に投げ捨て、可愛い十二歳の姿のまま、酒場の元気な看板娘へと華麗なる転職を果たすのであった。
前世である現代地球の豊富な食の知識を持つアイラにとって、唯一足りない領域があったとすれば、それは香草とスパイス、そしてこの世界独特の魔物の肉の扱い方であった。
スパイスには少なからず地球には存在しない未知のものが存在しており、香草に至っては世界に『魔力』というものが存在していることで、前世とは全く違った風味を持つものや、そもそも概念すらなかった植物が自生しているのだ。
そして何より極めつけなのは、この厳しい最北の国エベレンズピークに生息する凶悪で巨大な魔物の肉である。
普通の動物とは違う大型の魔物の肉は、一見すると筋張って大味であり、とても料理に使えるような代物には見えない。
しかし、いかに硬くて臭みのある肉であろうとも、完璧な調理法さえ確立してしまえば、後はどこの世界でも同じように極上の旨い料理へと化けるのだ。
「ふふふっ、この香草とあのスパイスを組み合わせれば、もっと深いコクが出せるはずよ!」
アイラは可愛い看板娘として酒場で働きながらも、探求心を爆発させて貪欲に料理の修行を続けた。
それから、あっという間に三年の月日が流れた。
今では酒場の厨房を一人で任せてもらえるほどに、アイラはこの国の料理と食材を完全に熟知していた。
だが、アイラと酒場のお姉さんによる、飽くなき味の探求が終わることは決してない。
「と言うか、気がつけばもう三年間もこの地に滞在しているのね」
アイラは厨房の仕込みをしながら、ふとこれまでの日々を振り返って呟いた。
長命な魔女にとっての数年は瞬きのようなものだが、夫の魂のクールタイムが明けるまでの暇つぶしのつもりだったのに、思いのほか長く滞在してしまったと可笑しくなる。
その間にも、定期的に討伐隊と一緒に雪山へ魔物退治に出かけたり、おじさんたちからお小遣いをもらったり、街のおばさんたちに「可愛いわねえ」と頭を撫でられたりする、穏やかな日々を過ごしてきた。
普通の人間社会であれば、いくら子供の姿とはいえ、アイラのような規格外の魔女の力を目の当たりにすれば、いずれ恐れを抱いて迫害し始めるのがお決まりのパターンである。
しかし、このエベレンズピークの人々は、強大な魔女の力に依存することもなく、かといって恐れて遠ざけることもなく、アイラを一人の『ちょっと強くて料理の上手い可愛い女の子』として当たり前のように受け入れ続けていた。
やはり、常に過酷な自然と魔物という外敵が存在しているからこそ、人間同士の絆が深まり、純粋な良心が保たれているのだろう。
「この国は、人間の良心そのものでできていると言っても過言じゃないわね。今度、魔女世界のお姉様たちに会ったら、この国はずっとこんな感じなのか聞いてみましょう」
天国で魂のクールタイムを過ごしている最愛の夫、ジュリアンが再び召喚できるようになるまで、ずっとこの国でのんびりと待っているのもやぶさかではないと、アイラは心からそう思えた。
「とは言え、三年間も討伐を手伝っていたから、流石に珍しい魔物の素材が空間収納にパンパンに溜まってきたわね」
そろそろ、凄腕のドワーフの職人に頼んで、これらの素材を面白い魔導具や便利な調理器具に加工してもらいたいところである。
「よし、それじゃあ私の魔力分身を作って、ドワーフの街へお使いに行ってもらいましょうか」
本来であれば分身をこの街に留守番させて、本体である自分が目新しいドワーフの国へ遊びに行くところなのだが、アイラはそうしなかった。
本体がこの街に残って料理を作り続けたいと思うほどに、アイラはすっかりエベレンズピークでの生活を気に入っていたのである。
アイラの魔力分身は、空間跳躍の魔法を駆使して、大陸の奥深くに存在するドワーフの国へと辿り着いた。
しかし、ドワーフの国に足を踏み入れた途端、彼女はすぐに屈強なドワーフの戦士たちに取り囲まれてしまった。
「おい小娘、お前さん人間じゃないな。本体をどこかに隠して、魔法の分身だけをよこすとは良い度胸じゃねえか」
長寿であり、魔力や素材の本質を見抜くことに長けたドワーフたちの目は誤魔化せず、あっさりと分身であることがバレて問い詰められることになった。
「ふふん、流石はドワーフね。実は私、本体が今の生活を気に入りすぎて離れられないから、代わりにお使いに来たのよ」
アイラが不敵に笑って事情を説明し始めると、ドワーフたちは「人間が離れられないほどの場所だと?」と興味を惹かれたように耳を傾けた。
分身のアイラは、エベレンズピークの過酷でありながらも温かい人々の暮らしや、強大な魔物との熱い戦い、そして何よりも、凍える体を芯から温める絶品の料理と強い酒の魅力を、身振り手振りを交えて熱く語り尽くした。
「ほう……強大な魔物の素材がゴロゴロしていて、強い酒が飲める雪山の国か。そいつはたまらなく面白そうじゃねえか!」
アイラの話に完全に心を掴まれた数人のドワーフの職人たちは、是非ともその国を自分の目で見てみたいと言い出し、アイラの空間跳躍の魔法でエベレンズピークへと一緒に降り立つことになった。
かくして、数万年という途方もない歴史の中で、閉鎖的であったドワーフと人間が同じ場所に立つという、歴史的な瞬間が訪れたのである。
「おおっ!? お、おとぎ話のドワーフが本物で現れたぞ!」
突如として酒場に現れたドワーフたちの姿に、エベレンズピークの人々は目を丸くして驚愕した。
しかし、細かいことを気にしない雪山の荒くれ者たちは、「まあ、アイラが連れてきた客なら歓迎しようぜ!」と、よく分からないうちに盛大な宴会を開始した。
この国の人々とドワーフたちの相性は、アイラの予想以上に抜群であった。
寒い地方を生き抜くために強い酒を好むドワーフたちと、同じく酒を愛するエベレンズピークの人々。
そして、ドワーフたちが打つ最高品質の武器に憧れる討伐隊の戦士たちは、一晩で昔からの親友のように意気投合してしまったのだ。
そして、ドワーフの来訪からさらに五年という月日が流れた。
今ではエベレンズピークの街の片隅に、ドワーフたちが取り仕切る立派な鍛冶場が建設されていた。
彼らはエベレンズピークの討伐隊やアイラが提供した珍しい素材を使い、北国の過酷な環境に合った最高の装具や武器を次々と開発し、討伐隊の人々はそれを使って効率よく魔物の間引きを行い、街の平和を強固に守っている。
激しい戦いの後は、酒場で看板娘たちが作る絶品料理を囲んで、人間もドワーフも一緒になって朝まで楽しく宴会をする。
この極寒の雪山には、それだけがあれば十分に幸せなのだ。
アイラ自身の料理の腕前や、新しいレシピの開発も留まることを知らず、日々進化を続けている。
「ふふっ、ジュリアン様と一緒に地上に住む時は、絶対にこのエベレンズピークしかないわね」
アイラは、常連客たちの笑顔で溢れる酒場の厨房で、幸せを噛み締めるようにそう確信するのであった。
これほどまでに、この国の人間たちやドワーフたちは、アイラにとって掛け替えのない良い人たちだったのである。
エベレンズピークで八年という長い月日を過ごし、アイラは一度、自身の家がある魔女の世界へと帰還する準備を始めていた。
空間収納の中には、北国で研究し尽くした絶品料理の数々や、討伐で手に入れた素材を使ってドワーフたちに特別に作ってもらった便利な魔導具や防寒服がパンパンに詰まっている。
他にも、砂漠の国ドレビアン王国で大量に買い込んだ魅惑のスパイスや、ダイダロス王国で出会った可愛い子孫であるディーンとリアスティエーゼの土産話など、持ち帰るものは山のようにあった。
「ふふっ、これだけお土産があれば、ジュリアン様もリリアもきっと喜んでくれるわね」
アイラは荷物の最終確認を終えると、長年お世話になった酒場へと顔を出し、常連客やドワーフたちに向かって明るく別れの挨拶を告げた。
「みんな、今まで本当にありがとう。私、これから天界にいる夫と、妹と義弟に会いに行ってくるわ!」
アイラが満面の笑みで爆弾発言を投下した瞬間、酒場の中は水を打ったように静まり返り、直後に割れんばかりの驚愕の叫び声が上がった。
「お、夫が居るのか!? お前、本当に中身は子供じゃなかったのか!」
「いや待てよ……中身が大人だとしても、その十二歳の姿のアイラを妻にしているってことは、その旦那はとんでもないロリコン野郎なんじゃねえか!?」
「間違いない! アイラ、そんな危ない奴のところには帰るな! 俺たちが守ってやるから!」
荒くれ者たちは、アイラがただの人間ではない超常的な存在であることは十分に理解しているはずなのだが、何故か『夫のロリコン疑惑』に関してだけは妙に本気で心配し、言いたい放題に騒ぎ立て始めた。
「違うの、私の中身は……いや、見た目がこれだから何を言っても無駄ね」
アイラは、かつて変装に失敗して「十二歳が本体」だとバレてしまった時のことを思い出し、すっと遠い目をした。
(……まあ、本体の外見が十二歳だから、そう言われても仕方ないわよね。ジュリアン様、ごめんなさい)
アイラは、不名誉なレッテルを貼られてしまった最愛の夫に内心でそっと謝罪しつつ、常連客たちの温かい引き止めを笑顔で躱して、魔女の世界へと繋がる空間の扉を開いた。
見慣れた魔女の世界の自宅へと転移したアイラは、ただいまと言いながら居間の扉を開け、そこで信じられない光景を目にして思わず息を呑んだ。
「……リ、リリア? あなた、本当にどうしちゃったのよ!?」
アイラの視線の先では、最愛の妹であるリリアが、何故か簡素なパイプ椅子に深く腰掛け、文字通り全身が真っ白な灰のように色を失って項垂れていたのである。
「……お姉ちゃん。私、もう真っ白に燃え尽きました……」
リリアは、どこかで見たことのあるようなボクサーのポーズのまま、虚ろな瞳でボソボソと呟いた。
アイラが慌てて治癒魔法をかけながら事情を聞くと、どうやらリリアは南の国でのソロキャンプ中、一人で世界を救うレベルのとんでもない大事件に巻き込まれ、文字通り死に物狂いで頑張ってきたらしい。
「うんうん、本当に凄く頑張ったわね、お姉ちゃん鼻が高いわよ」
アイラは、すっかり疲れ切っている妹の頭を優しく撫でながら、心からその健闘を労った。
「さあ、天界に行って、エドワード様にたくさんヨシヨシして褒めてもらいましょうね」
「……はい、エドワード様に甘やかしてもらいます……」
リリアは、愛する婚約者の名前を聞いてようやく少しだけ目に光を取り戻し、フラフラと立ち上がった。
かくして、それぞれの充実した、あるいは過酷なソロキャンプを終え、久しぶりの再会を堪能したアイラとリリアは、最愛の人たちが待つ天界へと連れ立って向かうのであった。




