魔女編6
分厚い雲に覆われた北の大地は、太陽が沈むと同時に、より一層厳しく冷酷な表情を見せ始める。
窓の外では猛烈な吹雪が吹き荒れ、ヒュウウゥゥという獣の咆哮のような風の音が、堅牢な石造りの城塞を絶え間なく打ち付けていた。
しかし、ディーン公爵邸の広大なダイニングルームの中は、外の過酷な世界とは完全に切り離されたかのように、暖かく豪奢な空気に満ちていた。
部屋の四隅に置かれた巨大な魔力石のストーブが、ポカポカとした春のような陽気を室内に行き渡らせている。
磨き上げられた長大なマホガニーのテーブルの上には、純白のテーブルクロスが敷かれ、銀製の燭台に灯された何十本もの蝋燭が、ゆらゆらとオレンジ色の光を揺らめかせていた。
「今日の鹿肉のローストは、特に素晴らしい焼き加減ね」
私は、銀のフォークで切り分けた肉を口に運びながら、芳醇な赤ワインを使用した濃厚なソースの味わいに満足げに微笑んだ。
口の中に広がる獣肉特有の力強い旨味と、それを引き立てるローズマリーや黒胡椒の鮮烈な香りが、今日の魔法訓練で消費した体力を心地よく満たしていく。
「アイラ様のお口に合って良かったです! 厨房の者たちも、アイラ様に褒めていただけると張り合いが出ると申しておりました」
私の向かいの席に座るリアスティエーゼが、自分のことのように嬉しそうに花が咲いたような笑顔を見せた。
数カ月前までは、怯えた小鳥のようにいつも俯き、食事も喉を通らないような様子だった彼女だが、今では血色もすっかり良くなり、美しく健康的な令嬢の輝きを取り戻していた。
「お前が満足してくれているのなら、我が公爵家としても客人を歓待した甲斐があるというものだ」
テーブルの誕生日席、つまりこの家の主の席に座るディーン公爵が、ワイングラスを傾けながら少し得意げに口を挟んだ。
彼の視線は、なぜか食事の最中もずっと、自分の隣に座るリアスティエーゼではなく、客人である私の方にばかり熱っぽく向けられている。
揺れる蝋燭の光に照らされた彼の青い瞳には、隠しきれない憧憬と、不器用な情熱の炎がチロチロと燃え上がっていた。
最初の頃の険しい敵意はどこへやら、彼は最近、私がリアスティエーゼに魔法を教えている中庭に理由をつけては視察に現れ、こうして毎晩のように共にディナーの席を囲むようになっている。
「ところで、公爵様。今更のような気がして聞いていなかったのだけれど……」
私は、ディーン公爵のその熱っぽい視線を軽く受け流しながら、食後の紅茶のカップに手を伸ばして本題を切り出した。
「リアスティエーゼは隣国から『人質』としてこの公爵家に送られてきたのよね?」
「ああ、そうだ。隣国との不可侵条約を維持するための、政治的な担保としてな」
ディーン公爵は、真面目な顔つきに戻って深く頷いた。
「王侯貴族の間で、年頃の令嬢を担保として送り込むということは……つまり、リアスティエーゼは公爵様の『奥様』、この家の『公爵夫人』ということで間違いないのかしら?」
私の直球の質問に、リアスティエーゼは少し恥ずかしそうに頬を染めて俯き、ディーン公爵はゴホッ、と盛大に咽せて持っていたワイングラスを取り落としそうになった。
「なっ……! ま、まあ、書類上はそういうことになっているが……!」
顔を真っ赤にして慌てふためく彼を見て、私はなるほどね、と内心で冷ややかな溜息を吐き出した。
ずっと『令嬢』のように扱っていたから失念していたが、政略結婚の駒として送られてきたのなら、彼女の身分は公爵夫人であって然るべきだ。
つまり、目の前にいるこの朴念仁な北の公爵様は、れっきとした自分の『妻』が同じテーブルに座っているにも関わらず、どこの馬の骨とも知れない旅の女である私に現を抜かしているということになる。
貴族社会において、力のある男性が複数の妻や愛妾を持つこと、いわゆる重婚のような真似は、決して珍しいことではない。
血筋を残し、勢力を拡大するための手段として、それはむしろ当然の権利として認められている風潮すらある。
しかし、私個人の倫理観として、そして何より『愛』というものに対する価値観として、彼のこの態度は少しばかりカチンとくるものがあった。
私は、魔女の世界で私を一途に愛し、私の帰りを待ってくれている最愛のジュリアン様の、あの黄金の鬣と優しい琥珀色の瞳を思い浮かべた。
私はジュリアン様一筋だし、ジュリアン様も私一筋だ。
三十年間、一緒に一つの目標に向かって愛を育み、十年間のソロキャンプの間でさえ、私たちの心は硬い絆で結ばれている。
妻を蔑ろにして、よそから来た女を手籠めにできると思うなよ、この浮気性の一歩手前の脳筋騎士め。
私は、紅茶のカップをソーサーに置く時に、わざとカチャリと少しだけ鋭い音を立てた。
その音にビクッとしたディーン公爵を冷ややかな目で見据えながら、私はリアスティエーゼの方へと優しく微笑みかけた。
「それにしても、リアスティエーゼは本当に優秀ね」
「えっ……? 私、ですか?」
突然話を振られた彼女は、驚いたように青玉の瞳をパチクリと瞬かせた。
「ええ。魔法の吸収力も凄まじいけれど、昨日教えた隣国の歴史や、複雑な政治経済の相関図も、たった一晩で完璧に理解してしまったじゃない」
私は、この数カ月間で彼女の秘められた才能がいかに素晴らしいものであるかを、ディーン公爵に聞かせるようにわざと大きな声で褒め称えた。
実際、彼女の能力は私の想像を遥かに超えていた。
育った親戚の家での環境が劣悪だったため、これまで十分な教育を受けられずに自己肯定感がどん底まで落ちていただけなのだ。
私が魔法だけでなく、座学や貴族としての礼儀作法、領地経営の基礎知識などを少し教えるだけで、彼女は乾いた砂が水を吸い込むように、あらゆる知識を吸収して自分のものにしていった。
「アイラ様が、とても分かりやすく、根気強く教えてくださるからです……。私一人では、到底理解できませんでした」
リアスティエーゼは、謙遜しながらも、その瞳には確かな自信と知性の光を宿して微笑んだ。
その姿は、かつての怯えていた少女ではなく、公爵夫人として上に立つ者の器を十分に備えた、気高い女性のそれだった。
私は、テーブルの下でこっそりと黒魔法使いの杖の先端を指先でなぞり、リアスティエーゼに向けて極めて微弱な『血統鑑定』の魔法を放った。
視界が一瞬だけ青白い光に包まれ、彼女の体から立ち上る魔力の波長が、色鮮やかなオーラとなって私の目に映り込む。
彼女と初めて会った時、その顔立ちが少し大人びて儚げだったため、私はてっきり双子の妹であるリリアの直系の子孫なのだろうと勝手に思っていた。
しかし、魔法によって可視化された彼女の魂の奥底から香る匂いと、複雑に絡み合った魔力回路の構造は、リリアの陽だまりのような魔力ではなく、静かな夜の森を思わせる――けれど確かな熱を帯びた、私とジュリアン様の魔力の面影が、そこにははっきりと刻まれていたのだ。
私とあの人の血が、こんな遠い北の地まで脈々と受け継がれていたなんて。
胸の奥底から、愛おしさと感慨深さが温かい泉のように湧き上がってくる。
『なるほど……私の子孫だったのね。どうりで、美味しいものに対する執着心と、教えられたことを効率よく吸収する要領の良さが似ているわけだわ』
私は内心で一人納得し、自分と同じ血が流れているこの可愛い子孫を、さらに立派な女性へと育て上げる決意を新たにした。
「公爵様。リアスティエーゼは、ただの飾りの人質として部屋に閉じ込めておくには、あまりにも惜しい逸材ですよ」
私がディーン公爵に向かって鋭い視線を向けると、彼はハッとして居住まいを正した。
「彼女が持っている知識と魔法の力は、この過酷な北の大地を治め、魔物と戦う公爵家にとって、必ず大きな助けになるはずです」
「……ああ。お前の言う通りだ。最近の彼女の様子を見ていれば、私にもそれがよくわかる」
ディーン公爵は、どこか圧倒されたような顔で、初めてリアスティエーゼの顔を正面から真っ直ぐに見つめた。
窓の外では、夜の闇の中で吹雪がさらに勢いを増し、石壁を叩く風の音がまるで怒り狂う巨人のように唸り声を上げている。
しかし、この暖かいダイニングルームの中には、冷え切っていた夫婦の関係に少しだけ新しい風が吹き込むような、微かな変化の兆しが生まれていた。
「これからもっともっと色々なことを教えて、あなたを世界一の公爵夫人にしてあげるわね、リアスティエーゼ」
「はい、アイラ様! 私、一生懸命頑張ります!」
純粋な尊敬と親愛の情を向けてくる子孫の笑顔を見ながら、私は残りの赤ワインを優雅に飲み干した。
十年のソロキャンプの間に、この不器用な夫婦の仲を修復し、私の可愛い子孫を立派に独り立ちさせること。
それが、この極寒の地における、私の一つの大きな目標になりそうだった。
どこまでも続くような純白の雪景色を、ヒュオオオという唸り声を上げながら、切り裂くような鋭い風が吹き抜けていく。
北の大地の遅い春は、未だにその気配を厚い氷の底に隠したままで、吐く息は相変わらず肺を凍らせるほどに白く濃かった。
どんよりと垂れ込めた鉛色の雲からは、時折細かい雪の粒が舞い落ち、頬を刺すような冷たさを運んでくる。
ディーン公爵が治めるこの堅牢な城塞は、早朝から剣と槍が激しく打ち合う甲高い金属音と、鍛錬に励む兵士たちの野太い号令に包まれていた。
凶暴な魔物の脅威と常に隣り合わせにあるこの地では、一瞬の油断が領民の死に直結するため、朝の冷たく張り詰めた空気の中には、常にむせ返るような鉄の匂いと、戦士たちの熱い汗の匂いが漂っている。
そんな殺伐とした城塞の裏手にある、雪が深く積もった広い中庭で、私とリアスティエーゼは今日も朝から魔法の特訓に励んでいた。
「【氷槍の雨】!」
リアスティエーゼが高らかに澄んだ声で呪文を詠唱し、細く白い指先を曇天の空へと高く突き上げた。
その瞬間、彼女の体から立ち上る純度の高い青白い魔力が周囲の冷気と急激に結びつき、空中に無数の鋭い氷の槍を瞬時に具現化させた。
パチパチと空気が弾けるような音とともに、オゾン特有の匂いが中庭に充満し、大気が膨大な魔力によって歪んでいくのが肌で感じられる。
キィィィンッ、というガラスが共鳴するような高い音が鳴り響き、数百本もの氷の槍が、彼女の視線の先にある巨大な雪山の大岩に向かって一斉に降り注いだ。
ズドドドドドンッ!
鼓膜を震わせる轟音と共に、的となっていた大岩が粉々に砕け散り、白い雪煙と氷の結晶がキラキラと光を反射しながら周囲に舞い散った。
ズシンという地響きが足元を揺らし、舞い上がった細かい氷の粉が、私たちの顔に冷たく降り注ぐ。
「……ふぅっ」
リアスティエーゼは、額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、自分の放った魔法の凄まじい威力に満足げな吐息を漏らした。
その頬は、以前のような寒さと恐怖による青白さではなく、魔力を勢いよく循環させたことによる健康的な薔薇色に染まっている。
「素晴らしいわ、リアスティエーゼ! 魔力の収束スピードも、着弾の正確さも申し分ないわね」
私が手を叩いて絶賛すると、彼女は花が咲いたような嬉しそうな笑顔を向けてくれた。
「ありがとうございます、アイラ様! アイラ様に教えていただいた魔力の循環方法を試してみたら、以前よりもずっとスムーズに魔法が構築できるようになったんです」
「ええ、あなたのその吸収力と応用力は本当に見事よ」
私は、雪の上に無残に散乱する大岩の残骸を見つめながら、内心で深く感心していた。
アルジェントの濃い血を引いているとはいえ、彼女の成長速度は私の想像を遥かに超えている。
「ねえ、リアスティエーゼ。あなたの魔法の腕前は、もう基礎訓練の段階を完全に卒業したと言っていいわ」
私が真剣な声色で切り出すと、彼女は少しだけ緊張したように姿勢を正した。
「そろそろ、止まっている的ではなく、動く生きた的……つまり『実戦』での戦闘訓練に移ろうと思うのだけれど、どうかしら?」
私の提案に、リアスティエーゼは青玉の瞳を大きく見開いた。
人質として幽閉同然の生活を送ってきた彼女にとって、『魔物との戦闘』などという言葉は、本来なら恐怖の対象でしかないはずだ。
しかし、今の彼女の瞳の奥に宿っているのは、怯えや躊躇いではなく、自身の力がどこまで通用するのかを試してみたいという、強い知的好奇心と自立への渇望だった。
「はい……! 私、やってみたいです!」
リアスティエーゼは、両手を胸の前でギュッと握りしめ、力強く頷いた。
「アイラ様がせっかく授けてくださったこの力を、ただ中庭で氷を砕くためだけのものにしたくありません。私も、この地を脅かす魔物と戦えるだけの強さを身につけたいのです」
その言葉には、公爵夫人としての自覚と、自らの力で未来を切り開こうとする気高い決意が込められていた。
私は、我が可愛い子孫のその頼もしい成長ぶりに、思わず目頭が熱くなるのを感じた。
「よく言ったわ! その意気込みがあれば、どんな魔物だって恐れるに足ら……」
「待て待て待てぇーーっ!!」
私が彼女の決意を称えようとしたその時、中庭に続く回廊の方から、ザクッ、ザクッと雪を強く踏みしめる凄まじい足音と共に、ディーン公爵が血相を変えて飛び出してきた。
彼は分厚い毛皮の外套を翻し、猛烈な勢いで私たちの間に割って入った。
「実戦の戦闘訓練だと!? 馬鹿なことを言うな、絶対に許可できん!」
ディーン公爵は、肩で荒い息をしながら、私とリアスティエーゼを交互に険しい目で睨みつけた。
彼から漂う上質な革の匂いと、微かな汗の匂いが、彼が執務室からどれほど慌てて駆けつけてきたかを物語っている。
「あら、公爵様。随分と耳が早いのね。どこかで立ち聞きでもしていたのかしら?」
私がわざと意地悪く微笑むと、彼は一瞬だけ気まずそうに目を逸らしたが、すぐにまた強い口調で反論してきた。
「た、たまたま通りかかっただけだ! それよりも、リアスティエーゼを実戦に出すなど正気の沙汰ではないぞ!」
「どうして? 彼女の今の魔法の実力、あなたもこの数カ月間、嫌というほど見学していたでしょう?」
「確かに、彼女の魔法の威力は凄まじい。……それは認める」
ディーン公爵は、粉々に砕け散った大岩の残骸を一瞥し、奥歯を噛み締めるように言った。
「だが、魔法の威力が高いことと、実際に生きた魔物と殺し合いをすることは全く別の話だ! 北の雪山に生息する魔物たちは、凶暴で狡猾で、常に命を奪うことだけを考えて襲ってくるんだぞ!」
彼の言葉には、最前線で数え切れないほどの部下を失い、自らも死線を潜り抜けてきた者特有の、重く生々しい実感が籠もっていた。
「温室育ちの……いや、今まで屋敷から出たこともない令嬢が、いざ醜悪な魔物を目の前にして、冷静に魔法を詠唱できると思うのか? 恐怖で足が竦み、一瞬でも対応が遅れれば、あっという間に喉笛を食い破られて終わりだ!」
ディーン公爵の青い瞳は、怒りというよりも、強い焦燥感と心配に染まっていた。
最初の頃は彼女をただの『人質』としてしか見ていなかった彼だが、この数カ月間、彼女がひたむきに努力し、才能を開花させていく姿を近くで見守り続けたことで、彼の中にも無意識のうちに『自分の妻』に対する不器用な庇護欲や愛情が芽生え始めているのだろう。
その優しさは理解できるが、だからといっていつまでも鳥籠の中に閉じ込めておくわけにはいかない。
「公爵様のおっしゃる通り、恐怖で足が竦むかもしれないわね。だからこそ、私の目の届くところで、実戦の『勘』を養うための訓練が必要なのよ」
私が冷静に反論すると、ディーン公爵はぐっと言葉に詰まった。
「私、行きたいです」
ディーン公爵の背後から、リアスティエーゼが静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「……リアスティエーゼ?」
ディーン公爵が驚いたように振り返ると、彼女は怯むことなく、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「公爵様が私の身を案じてくださっていることは、とても嬉しく思います。ですが、私はもう、ただ部屋の隅で嵐が過ぎ去るのを待つだけの、弱い人質ではありません」
彼女の言葉は、冷たい雪山の空気のように凛と澄み渡っていた。
「このドミニケル公爵家に嫁いだ者として、そしてアイラ様に教えを受けた者として、自分の力で自分の身を守れるようになりたいのです。どうか、許可していただけないでしょうか」
リアスティエーゼの強い眼差しを正面から受け止めたディーン公爵は、大きく息を呑み、そして深く葛藤するように眉間を揉んだ。
彼の心の中で、妻を危険から遠ざけたいという男としての本能と、彼女の気高い決意を尊重したいという領主としての理性が激しくぶつかり合っているのが、手に取るようにわかった。
「……はぁぁっ」
やがて、ディーン公爵は肺の中の空気を全て吐き出すような、長いため息をついた。
「わかった……お前たちの本気度は十分に伝わった」
彼は仕方がないというように肩をすくめ、私たちに向き直った。
「だが、二人だけで雪山に入るなど絶対に許可しない。もしものことがあれば、取り返しがつかないからな」
「あら、私一人いれば、この国の魔物なんて束になっても敵わないのだけれど?」
「お前の実力が底知れないことは理解しているが、これはこの地を治める領主としての最低限の条件だ」
ディーン公爵は、私の軽口を真面目な顔で遮り、一つの妥協案を提示してきた。
「……近々、雪山の麓に出没する魔物的群れを間引くための、大規模な定期討伐隊を編成する予定がある。それに、私と共にお前たちも同行しろ」
「討伐隊に同行、ですか?」
リアスティエーゼが聞き返すと、彼は重々しく頷いた。
「ああ。春の訪れが近づくと、冬の間に飢えていた魔物たちが餌を求めて麓に降りてきて、活発に行動し始めるのだ」
「なるほど。被害が出る前に、先手を打って数を減らしておくのね」
「そうだ。今回の討伐は例年よりも規模を大きくし、熟練の騎士たちで強固な陣形を組んで当たる。その安全が確保された陣形の内側から、少数の魔物を相手に実戦の空気を体験してもらう。それなら、最悪の事態は防げるだろう」
なるほど、彼なりにリアスティエーゼの安全を最大限に考慮しつつ、彼女の意志を尊重するためのギリギリの着地点というわけだ。
「ふふっ、過保護な旦那様ね。まあ、実戦の空気を味わうという目的は果たせるし、それで手を打ってあげるわ」
私がにこやかに承諾すると、ディーン公爵はホッとしたように胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます、公爵様! 私、騎士の皆様の足手まといにならないよう、精一杯頑張ります!」
リアスティエーゼが嬉しそうに頭を下げると、ディーン公爵は再び顔を真っ赤にして、ゴホンと不自然な咳払いをした。
「勘違いするな、私はただ、領内の安全確保のついでにお前たちを連れて行くだけだ。決して、お前の我儘を聞き入れたわけではないからな!」
相変わらずの素直じゃない態度の彼を見て、私は思わずクスクスと笑い声をこぼしてしまった。
討伐隊の編成に向けて、ディーン公爵が慌ただしく執務室へと戻っていく後ろ姿を見送りながら、私はリアスティエーゼに視線を戻した。
彼女は、これからの初陣に向けて、緊張と期待が入り交じった表情で自分の両手を見つめている。
(ディーン公爵はあんなに心配していたけれど……)
私は、リアスティエーゼの体内を流れる、アルジェントの規格外の魔力量を改めて感知し、内心で呆れるように笑った。
(この数カ月の特訓で、彼女はすでに生半可な宮廷魔術師など足元にも及ばないほどの力を身につけているのよ。正直言って、この雪山にいる魔物程度なら、彼女一人で百匹囲まれたとしても無傷で殲滅できる実力が確実についているわ)
あとは本当に、血の匂いや魔物の殺気に慣れ、実戦特有の『勘』を養うだけの段階なのだ。
(まあ、騎士団の皆さんが彼女の魔法の威力を見て、腰を抜かさないといいけれどね)
私は、数日後に迫った討伐隊での一幕を想像し、意地の悪い笑みを浮かべながら、再びリアスティエーゼの魔法特訓を再開したのだった。
夜明け前のドミニケル公爵領の城塞は、凍てつくような暗闇と、肺を刺すような極寒の空気に包まれていた。
まだ太陽の光が届かない鉛色の空の下、吐く息は真っ白な霧となって視界を覆い、瞬時に凍りついてしまいそうなほどの冷たさが肌を突き刺してくる。
しかし、そんな過酷な自然環境とは裏腹に、城塞の中庭はすでにむせ返るような熱気と、張り詰めた緊張感に満ち溢れていた。
何十頭もの屈強な軍馬が興奮したように鼻を鳴らし、蹄で石畳を蹴る硬質な音が、早朝の冷たい空気を幾度も震わせる。
分厚い毛皮の外套を羽織り、魔力で強化された重厚な銀の甲冑に身を包んだ百名以上の騎士たちが、次々と中庭に集結し、整然とした陣形を組み始めていた。
彼らの装備が擦れ合うガチャリ、ガチャリという重々しい金属音と、武器の手入れに使われる鉄と油の入り混じった生臭い匂いが、これから始まる血みどろの討伐戦の過酷さを無言のうちに物語っている。
「アイラ様、防寒の準備はこれでよろしいでしょうか?」
城塞の二階にある客室の窓から、松明の炎に照らされた中庭の物々しい光景を見下ろしていた私の背後で、リアスティエーゼが少しだけ硬い声で尋ねてきた。
振り返ると、彼女は動きやすさを重視した濃紺の乗馬服に身を包み、その上から私が魔力を編み込んで特別に仕立てた、純白の分厚いウールのマントをしっかりと羽織っていた。
「ええ、完璧よ。そのマントには強力な【保温】と【物理耐性】の魔法を重ね掛けしてあるから、雪山の猛吹雪でも寒さは全く感じないし、万が一魔物の爪がかすっても傷一つ付かないわ」
私が微笑みながら彼女の肩の埃を払うようにポンと叩くと、リアスティエーゼはホッとしたように小さく息を吐き出した。
「ありがとうございます……ですが、いざ出陣の朝を迎えると、やはり少しだけ足が震えてしまいますね」
彼女は自分の細い両手を見つめ、ギュッと強く握りしめたり開いたりして、指先の感覚を確かめるような仕草を繰り返した。
その顔には、今まで部屋の中でしか魔法を使ってこなかった温室育ちの令嬢特有の、未知の戦場に対する本能的な恐怖が微かに滲み出ている。
しかし、彼女の青玉の瞳の奥で燃えているのは、決して逃げ出したいという弱音ではなく、これから自分の力を証明しようとする強い覚悟の光だった。
「恐怖を感じるのは当然のことよ。恐怖を知らない戦士は、ただの命知らずの愚か者だわ」
私は彼女の冷たくなった両手を私の手で包み込み、ゆっくりと魔力を流して温めながら優しい声で語りかけた。
「大切なのは、恐怖に飲み込まれず、頭を冷静に保つこと。あなたの中には、あの雪山の大岩を粉微塵にするほどの絶大な魔力が眠っているのだから、自分自身を信じなさい」
「はい……! 私、アイラ様に教えていただいたこと、絶対に無駄にはいたしません!」
リアスティエーゼは力強く頷き、その表情からは先程までの迷いが綺麗に拭い去られていた。
我が可愛い子孫のその頼もしい成長ぶりに満足し、私たちは部屋を出て、騒然とする中庭へと足を踏み入れた。
私たちが石階段を降りて中庭に姿を現した瞬間、それまで活気に満ちていた騎士たちの動きが、まるで時を止められたかのようにピタリと静まり返った。
何十もの鋭く険しい視線が、一斉に私とリアスティエーゼに向けられる。
「……おい、嘘だろう。本当に連れて行く気なのか?」
「公爵様は一体何を考えておられるのだ。魔物討伐は貴族の遠足ではないのだぞ」
「人質の分際で、しゃしゃり出てきおって……我々の足手まといになるだけだというのに」
声高に叫ぶ者こそいないものの、兜の奥で交わされる騎士たちのヒソヒソとした囁き声は、冷たい北風に乗って私たちの耳に痛いほどはっきりと届いていた。
彼らの視線には、明らかな侮蔑と、不満、そして強い苛立ちの色が混じっている。
それもそのはずだ。
彼らは何年もこの過酷な北の大地で命を懸けて魔物と戦い続けてきた歴戦の勇士であり、そんな血と泥に塗れた戦場に、華奢で可憐な令嬢が二人も同行するなど、彼らの常識からすれば完全な狂気の沙汰なのだから。
ましてやリアスティエーゼは、隣国から政治的な担保として送られてきた『人質』という微妙な立場の人間だ。
もし彼女に万が一のことがあれば、公爵家だけでなく国同士の戦争に発展しかねないという重圧を、騎士たちは背負わされることになるのだ。
「……アイラ様、皆様、やはり私たちの同行を快く思っていらっしゃらないようですね」
リアスティエーゼが、突き刺さるような冷ややかな視線に耐えかねたように、私の背後に少しだけ身を隠しながら小声で呟いた。
「気にする必要はないわ。実力を知らない人間が、見た目だけで判断して文句を言うのは世の常よ」
私は、不満を隠そうともしない騎士たちをぐるりと見渡し、むしろ楽しげにクスクスと喉の奥で笑い声を立てた。
彼らの目には、私たちが『守られるべき無力なお姫様』にしか映っていないのだろう。
しかし、現実の彼女は、並の宮廷魔術師など束になっても敵わないほどの規格外の魔力を秘めた、歩く大砲のような存在だ。
さらにおまけとして付いてくる私は、魔女であり、本気を出せばこの雪山ごと魔物を消滅させることすら可能なバグのような存在である。
(まあ、無理もないわよね。まさか自分たちが護衛しようとしているか弱い令嬢たちが、実は自分たちより遥かに強いバケモノだなんて、夢にも思わないでしょうから)
私は、彼らが戦場でリアスティエーゼの魔法の威力を目の当たりにした瞬間、一体どんな間抜けな顔をして腰を抜かすだろうかと想像し、意地の悪いワクワク感で胸を一杯にしていた。
「静まれ!!」
ざわめきが大きくなりかけた中庭に、腹の底に響くような野太く威厳のある怒声が轟いた。
騎士たちの群れがモーセの十戒のように真っ二つに割れ、その間を、見事な漆黒の軍馬に跨ったディーン公爵が進み出てきた。
彼は今日、普段の執務服ではなく、傷一つない白銀の全身鎧を纏い、腰には公爵家に代々伝わるという豪奢な装飾が施された魔剣を佩いている。
猛吹雪を切り裂くような鋭い青い瞳が、不平を漏らしていた騎士たちを力強くねめつけた。
「今回の討伐隊に、私の妻であるリアスティエーゼと、客人のアイラ殿が同行することは、この領主たる私が決定したことだ! 何か不満がある者は、この私の前に出て直々に申し立てよ!」
ディーン公爵の圧倒的な覇気と、冷気を孕んだ鋭い殺気に当てられ、騎士たちは一瞬にして口を閉ざし、深く頭を垂れた。
「誰もいないようだな。ならば、これ以上の不平不満は一切許さん! 我々の使命は、この地に蔓延る魔物を一匹残らず駆逐し、領民の平和を守り抜くこと、ただそれだけだ!」
彼の力強い演説に、騎士たちは一斉に右の拳を左胸の鎧に打ち付け、地鳴りのような鬨の声を上げた。
おおおぉぉぉっ!!という怒号が冷たい空気を切り裂き、討伐隊の士気が一気に最高潮へと達するのがわかる。
ディーン公爵は、部下たちの統率を完璧に取り戻したことに満足げに頷くと、馬首を巡らせて私たちの元へと近づいてきた。
「……すまないな、私の部下たちが無礼な態度をとってしまって」
彼は、兜の面頬を押し上げながら、私たちにだけ聞こえるような低い声で謝罪した。
「構わないわよ。彼らが心配するのも無理はないもの。私たち、見かけだけはとてもか弱そうに見えるでしょう?」
私がわざとらしく首を傾げて微笑むと、ディーン公爵は複雑な表情で深いため息をついた。
「お前の実力はともかく……リアスティエーゼ、本当に怖くなったらいつでも引き返していいんだぞ。前線に出ずとも、馬車の中から少し魔法を撃つだけでも十分な経験になる」
彼は、隣の馬上で背筋を伸ばしているリアスティエーゼに対し、まるで壊れ物を扱うような、ひどく不器用で過保護な声色で語りかけた。
「お気遣いありがとうございます、ディーン様。ですが、私は逃げません。皆様の背中を、この力で少しでもお守りできればと思っております」
リアスティエーゼが凛とした声で真っ直ぐに見つめ返すと、ディーン公爵はハッとしたように息を呑み、わずかに頬を染めてから、逃げるように前方の指揮官の位置へと戻っていった。
「……よし、全軍、出陣せよ!」
彼の号令と共に、城塞の巨大な鉄の門が重々しい音を立ててゆっくりと開かれ、猛吹雪が吹き荒れる白銀の世界への道が切り開かれた。
私たちは、公爵の直属の護衛騎士たちに囲まれる形で馬を進め、ついに実戦の舞台となる過酷な雪山へと足を踏み入れたのだった。
城塞を出てから数時間が経過し、私たちは太陽の光すら届かない、鬱蒼とした針葉樹林の広がる雪山の麓を行軍していた。
積雪はすでに馬の膝下まで達しており、一歩進むごとにズボッ、ズボッと雪を掻き分ける鈍い音が響き渡っている。
吹き付ける風はまるで無数の氷の針のように頬を刺し、吐く息が前髪の先端で凍りついて小さな氷柱を作ってしまうほどの異常な寒さだ。
「……くそっ、雪が深くて馬の足が遅い。魔物どもは一体どこに潜んでいるんだ」
「やはり、あの女たちを連れてきたせいで行軍のペースが乱れているんじゃないか……?」
厳しい自然環境と、いつどこから魔物が襲いかかってくるかわからないという極限の緊張感からか、騎士たちの間には再び不満と疲労の色が濃く漂い始めていた。
彼らの視線は、時折振り返るようにして私たちに向けられ、その中には「早く悲鳴を上げて逃げ帰ってくれ」という明らかな鬱憤が込められている。
しかし、彼らの期待に反して、私とリアスティエーゼは全く寒さを感じていなかった。
私の編み込んだ特製のマントが完璧に冷気を遮断しているため、むしろ春の陽だまりの中を散歩しているような快適さで、涼しい顔をして馬に揺られていたのだ。
「アイラ様……皆様、とても辛そうですが、本当に私たちはこのままで大丈夫なのでしょうか?」
リアスティエーゼが、凍えそうになりながら馬を進める騎士たちを見て、少し申し訳なさそうに小声で尋ねてきた。
「ええ、大丈夫よ。私たちが平然としているのを見て、余計に腹を立てているみたいだけれど、もうすぐ彼らも不満を言っている余裕なんてなくなるわ」
私は、口元を隠すようにマントの襟を引っぱり上げながら、前方から漂ってくる『それ』の匂いに気づいて、意地悪く目を細めた。
雪と木々の匂いに混じって、風の風下から微かに、しかし確実に流れてくる、獣特有の生臭い体臭と、血の匂い。
「……来るわよ、リアスティエーゼ。魔力回路を回して、いつでも魔法を撃てる準備をしておきなさい」
私の低い警告の声とほぼ同時に、先頭を進んでいた斥候の兵士が、空気を切り裂くような鋭い叫び声を上げた。
「前方に魔物の群れを発見!! 数はおよそ五十……いや、それ以上です! 白銀狼の群れです!」
その報告が響き渡った瞬間、騎士たちの間の緩んだ空気が一変し、強烈な殺気と緊張感が一気に場を支配した。
「盾兵、前へ出ろ! 槍兵はその後ろに控え、弓兵は側面を固めよ! 円陣を組み、女たちを中央で護衛しろ!」
ディーン公爵の怒号が飛び交い、騎士たちが素早く動き、重厚な鉄の壁を作り上げていく。
彼らは私たちが足手まといだと不満を漏らしながらも、命令通りに私たちを安全な円陣の中心に置き、命を懸けて守ろうとしていた。
(騎士としての誇りは立派なものね……でも、過保護すぎるとリアスティエーゼの練習にならないのよね)
私は、円陣の隙間から、雪煙を上げて猛烈なスピードでこちらに迫ってくる、巨大な白い狼の群れを見据えた。
「リアスティエーゼ。最初の獲物は、あの先頭を走っている群れのボスよ。私から教わったことを、存分に発揮してやりなさい」
「はいっ……!」
騎士たちが恐怖と緊張で武器を構える中、リアスティエーゼはゆっくりと馬上で立ち上がり、吹雪の空に向かって、細く白い両手を真っ直ぐに突き出した。
彼女の体から、騎士たちの予想を遥かに超える、桁外れな密度の魔力が青白いオーラとなって噴き上がり始めた。
「なっ……なんだ、この凄まじい魔力は!?」
「奥方様!? 一体何を……!?」
突然背後から発生した規格外の魔力の奔流に、騎士たちが驚愕の声を上げて振り返る。
彼らの常識が根底から覆り、あの見下していた冷ややかな視線が、信じられないものを見るような驚愕と畏怖の色に染まりつつあるのを確認して、私はたまらなく愉快な気分になり、マントの下で一人、ニヤリと深く意地悪な笑みを浮かべたのだった。
猛烈な吹雪が吹き荒れる北の雪山に、リアスティエーゼの細い体から放たれた青白い魔力のオーラが、静かに渦を巻き始めていた。
分厚い鉄の壁を作り上げていた歴戦の騎士たちは、これから始まる絶望的な戦いへの恐怖で、ガチガチと歯の根を鳴らしている。
「グルルルルゥゥゥッ!!」
雪煙を切り裂いて姿を現したのは、通常の狼の三倍はあろうかという巨体を誇る、白銀狼の群れだった。
その先頭を走る群れのボスは、血走った赤い双眸を爛々と輝かせ、鋭い牙の隙間から粘り気のある涎を垂らしているが、それすらも外気に触れた瞬間に氷柱となって顎にぶら下がっている。
濃密な獣の死臭と、血に飢えた狂暴な殺気が、突風に乗って私たちの鼻腔を強烈に突き刺した。
「怯むな! 盾を構え、槍の穂先を揃えよ!」
ディーン公爵が、自身の愛馬を落ち着かせながら、腹の底から絞り出すような大音声で騎士たちを鼓舞する。
彼らは迫り来る五十匹以上の凶悪な魔物の群れに対し、死を覚悟したように固く目を閉じ、武器を握る手に渾身の力を込めた。
「リアスティエーゼ。事前に言った通り、派手な魔法は禁止よ。氷の矢による援護と、彼らの身体強化だけに留めておきなさい」
「はい、アイラ様! 皆様のお力になれるよう、後方支援に徹します!」
リアスティエーゼは馬上でスッと背筋を伸ばし、凍てつく空に向かって細く白い両手を真っ直ぐに突き出した。
「我が声に応え、戦士たちに白銀の加護を! 【広域身体強化】!!」
彼女の澄み渡るような詠唱の声が雪山に響き渡ると同時に、その細い体から溢れ出した純度の高い青白い魔力が、放射状に広がって円陣を組む百名以上の騎士たち全員を優しく包み込んだ。
「なっ……なんだこれは!?」
「体が……熱い! 凍えきっていた手足に、無限の力が湧き上がってくるぞ!」
騎士たちが驚愕の声を上げるのも無理はない。
リアスティエーゼの放った強化魔法は、彼らの筋肉繊維を魔力で擬似的に鋼のように補強し、動体視力や反射神経を限界まで引き上げるという、極めて高度で繊細な代物だったのだ。
「ガァァァッ!!」
咆哮と共に、ついに白銀狼の群れが前衛の盾兵たちに猛烈な勢いで激突してきた。
通常であれば、その巨大な質量と突進力によって陣形が崩されるところだが、魔法によって限界突破した騎士たちの足腰は、分厚い雪に根を張った大樹のようにビクともしなかった。
「おおおぉぉぉっ!! 弾き返せるぞ!」
盾で魔物の牙をガキィィィンッと軽々と跳ね除けた盾兵たちが、自分たちの超人的なパワーに歓喜の声を上げる。
「今だ、突けぇっ!」
その後方から、槍兵たちが目にも留まらぬ神速の突きを放ち、分厚い毛皮に覆われた白銀狼たちの急所を次々と正確に貫いていった。
鮮血が空中に舞い散り、真っ白な雪原を次々と赤黒く染め上げていく。
むせ返るような鉄と血の匂いが充満する中、ディーン公爵もまた、先頭に立って愛用の魔剣を振るい、群れのボス狼と激しい剣戟を繰り広げていた。
しかし、魔物たちは数で勝っており、狡猾にも陣形の綻びを突いて横から回り込もうとする個体が現れ始めた。
「横から来るぞ! 誰かカバーに入れ!」
槍兵の一人が叫び、死角から迫る鋭い牙に絶望しかけたその瞬間。
ヒュッ、ヒュンッ!
空気を鋭く切り裂く音と共に、青白く輝く数本の氷の矢が吹雪の中から飛来し、回り込もうとしていた白銀狼たちの眼球や眉間を寸分の狂いもなく正確に射抜いた。
「ギャウンッ!?」
脳を貫かれた魔物たちは、悲鳴を上げる間もなくその場にドサリと崩れ落ちる。
「私の目は誤魔化せません! 皆様、どうかそのまま前だけに集中してください!」
リアスティエーゼが、両手から次々と【氷の矢】を生成し、騎士たちの死角を完璧にカバーしながら叫んだ。
彼女の放つ氷の矢は、ただの初級魔法とは威力が根本から違い、魔物の頑丈な骨すらも容易く貫通するほどの貫通力と速度を持っていた。
先頭で剣を振るっていたディーン公爵が、魔物の返り血を浴びて振り返った瞬間、その視線がリアスティエーゼに釘付けになった。
舞い散る氷の結晶の中で、凛とした横顔で次々と魔法を放つ彼女の気高い姿に、彼は戦場のど真ん中であることすら忘れたように、ハッと息を呑んで心を奪われていた。
(ふふっ、良い連携じゃない。騎士たちが前衛で肉壁になり、リアスティエーゼが完璧な司令塔兼スナイパーとして機能しているわね)
私は特製のマントの中で、騎士団の活躍と我が子孫の見事な後方支援に、一人で満足げな笑みを深く刻んでいた。
やがて、数十分間に及んだ激しい戦闘の音が止み、雪山に不気味なほどの静寂が戻ってきた。
五十匹以上いたはずの凶暴な白銀狼の群れは、騎士たちの剣と槍、そしてリアスティエーゼの氷の矢によって、一匹残らず雪原に物言わぬ屍を晒している。
「はぁっ、はぁっ……。お、終わったのか……?」
「俺たち……あれほどの群れを相手にして、誰一人として死んでいないぞ……! どころか、かすり傷一つ負っていない!」
息を弾ませていた騎士たちが、恐る恐る自分たちの体と周囲の状況を確認し、眼前の圧倒的な勝利の光景を目の当たりにして言葉を失っていた。
彼らは自分たちの武力だけで勝てたわけではないことを、肌で痛いほど理解していた。
リアスティエーゼの絶え間ない強化魔法がなければ力負けし、彼女の正確無比な氷の矢による援護がなければ、死角を突かれて確実に何人かは命を落としていたはずなのだ。
「はぁっ、はぁっ……。ディーン様、皆様、お怪我がなくて本当に良かったです」
後方で魔法を撃ち終えたリアスティエーゼが、微かに肩で息をしながら、ゆっくりと馬上で安堵の笑みを浮かべた。
彼女の放出した魔力の残滓が、純白のマントの周囲でキラキラとダイヤモンドダストのように輝き、彼女の美しさをこの世のものとは思えないほどに引き立てている。
その神秘的で気高い姿を見た瞬間、騎士たちの間に電流が走ったように、次々と武器を雪の上に置き始めた。
「お、奥方様……! 我々の命を救っていただき、言葉もありません!」
「何という素晴らしい魔法の采配だ! あのように的確に戦況を把握して我々を導き、力を与えてくださるとは!」
「我々は、あんな御方を足手まといだの何だのと……ああ、何と無礼なことを! どうかこの愚か者たちをお許しください!」
先程まで不平不満を垂れ流し、彼女を「飾りの人質」と見下していた騎士たちの態度は、完全に180度回転し、強烈なまでの手のひら返しを見せていた。
彼らは次々と馬から飛び降り、雪の上に膝をついて、リアスティエーゼに向かって深く頭を垂れた。
泥と血に塗れた巨漢の騎士が子犬のように目を潤ませていたり、歴戦の古傷を持つ小隊長が震える声で祈りを捧げていたりする姿を見て、私は思わず噴き出しそうになるのを両手で口を覆って必死に堪えた。
「あ、あの、皆様、頭を上げてください! 私はただ、アイラ様に教えていただいた魔法で、皆様の戦いのお手伝いをしただけで……すごいのは、魔物と直接戦った騎士の皆様です!」
突然の英雄扱いに、リアスティエーゼ本人はすっかり戸惑い、オロオロと視線を彷徨わせている。
しかし、騎士たちの熱狂は冷めるどころか、その前線で体を張った自分たちを立ててくれる謙虚な態度にさらに感銘を受け、感極まったような泣き声すら聞こえ始めていた。
「……アイラ殿」
その騒ぎの中、息を整えたディーン公爵が馬を静かに進め、私の隣にピタリと並んだ。
彼の兜の奥にある青い瞳は、先程までの私への熱っぽい視線とは全く違う、深い後悔と、そして妻に対する強烈な畏敬の念に揺れていた。
「私は、大きな思い違いをしていたようだ。彼女は、ただ守られるだけのか弱き人質などではなかった」
ディーン公爵は、キラキラと輝くリアスティエーゼの横顔を、眩しいものでも見るように見つめながら、ポツリと呟いた。
「ええ、その通りよ。彼女の魂の中には、どんな過酷な環境にも耐え抜き、人々の背中を力強く支えるだけの強大な力と気高さが眠っていたの」
私が誇らしげに胸を張って答えると、ディーン公爵は深く深く頷いた。
「お前が私に、彼女の本当の価値を教えてくれたのだな。……感謝する。私は、このドミニケル公爵家の主として、これからは彼女を真の妻として迎え入れなければならない」
彼のその言葉には、もう私に対する不器用な恋心のようなものは微塵も残っておらず、己の不甲斐なさを恥じ、これからリアスティエーゼと真正面から向き合おうとする男の誠実な覚悟が満ちていた。
(よしよし、これで計画通りね。私のソロキャンプの第一ミッション、不器用夫婦の仲違いの解決は、ほぼクリアってところかしら)
私は、マントの中で満足げに腕を組み、密かにガッツポーズをした。
「全軍、撤退する! 魔物の脅威は、我が妻であるリアスティエーゼの的確な魔法支援と、お前たち自身の剣によって完全に排除された! 意気揚々と城へ凱旋せよ!」
ディーン公爵の誇りに満ちた高らかな号令が雪山に響き渡ると、騎士たちは先程の鬱憤が嘘のような、地鳴りのような大歓声を上げて応えた。
帰り道の行軍は、行きの重苦しい空気とは打って変わり、誰もが笑顔でリアスティエーゼの魔法の恩恵を語り合い、まるで祭りの後のような活気に満ち溢れていたのだった。
その日の夜、ドミニケル公爵邸の巨大なダイニングルームでは、リアスティエーゼの初陣と大戦果を祝う、盛大なディナーが開かれていた。
部屋の四隅のストーブはいつもより火力を増してポカポカと暖かく、テーブルの上には、この北の地では珍しい新鮮な魚介のローストや、最高級のワインが所狭しと並べられている。
「リアスティエーゼ。今日の君の活躍は、本当に見事だった。この領地を治める者として、心から感謝の意を表したい」
テーブルの主賓席に座ったディーン公爵が、自身のグラスを高く掲げ、真っ直ぐな視線で彼女を見つめながら言った。
その言葉は、いつもの義務的なものではなく、一人の男から一人の気高い女性に向けられた、純粋な敬意と愛情に満ちていた。
「もったいないお言葉です、ディーン様。私も、このドミニケル公爵家の一員として、皆様のお役に立てたことを心から誇りに思います」
リアスティエーゼは、少し恥ずかしそうに頬を薔薇色に染めながら、上品にグラスを傾けた。
二人の間には、以前のようなどこかよそよそしい冷たい空気は完全に消え去り、互いを理解し、尊重し合う、本物の夫婦としての温かい絆が確かに結ばれ始めていた。
「……それで、公爵様。これからは、奥様をただ部屋に閉じ込めておくような真似はしないわよね?」
私が、こんがりと焼けたオマール海老の身をフォークで突きながら意地悪く尋ねると、ディーン公爵は顔を真っ赤にして勢いよく頷いた。
「と、当然だ! 彼女の優れた知性と魔法の力は、領地経営や防衛において不可欠なものだ! これからは私の隣で、共にこの領地を導いてほしいと思っている!」
彼の必死な弁明に、リアスティエーゼはクスクスと可愛らしい声で笑い、私は満足げに赤ワインを口に含んだ。
芳醇な葡萄の香りと、ほんのりとした甘みが、冷え切った体を芯から温めてくれる。
窓の外では相変わらず猛吹雪が荒れ狂っているが、この屋敷の中には、厳しい冬を越えて芽吹いたような、確かな春の温もりが満ち溢れていた。
私の十年のソロキャンプは、まだ始まったばかりだ。
(リリアは今頃、南の国でどんな冒険をしているのかしらね。お互い、最高のお土産話を持って帰れるように、私ももうしばらく、この可愛い子孫たちの成長を見守ってあげようかしら)
私は、暖炉の炎に照らされて幸せそうに微笑み合う二人の姿を見つめながら、まだ見ぬ十年後の再会に思いを馳せ、静かに目を細めたのだった。
次からどんどん実戦投入していきます。
今更ながらに小説の書き方を勉強中。




