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偽物令嬢にされて冷遇に文句を言ったら改善されたので本物の令嬢を探してあげました【連載版】  作者: ウナ
魔女編

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魔女編5

「ああ、懐かしい地上の空気ね」


レヴナント公爵邸の広大なエントランスに降り立った私は、胸いっぱいに爽やかな風を吸い込んだ。


大理石の床は磨き上げられて鏡のように輝き、吹き抜けの天井からは、豪奢なシャンデリアが眩い光の粒を降り注いでいる。


開け放たれた窓からは、手入れの行き届いた庭園から漂う、甘く芳醇な薔薇の香りが流れ込んできた。


「本当に、久しぶりの人間界の生活ですね、お姉様」


私の隣で、銀色の髪をふわりと揺らしたリリアが、優しく微笑んだ。


その足元には、ふさふさの黄金の鬣を持つライオンのジュリアン様と、艶やかな黒毛の猫の姿をしたエドワード殿下が、気怠そうに寝そべっている。


『やれやれ、異種族の視察も面白かったが、やはりふかふかの絨毯の上で昼寝ができる公爵邸も悪くないな』


ジュリアン様が、大きな欠伸をしながら念話を送ってきた。


「ふふっ、ジュリアン様ったら、すっかり猫科の生活に馴染んでしまっていますね」


「仕方ないわよ、魔女の世界ではあの姿が一番魔力効率が良いらしいし」


私たちは、レヴナント公爵家の養女として、再び地上の生活を満喫することになった。


とはいえ、完全に地上に定住したわけではなく、気分に合わせて魔女の世界と人間界を行き来する、なんとも自由で優雅な二重生活の始まりだった。


春には、レヴナント公爵邸の庭園で満開に咲き誇る薔薇の甘い香りに包まれながら、極上のダージリンティーを楽しむ。


夏には、魔女の世界の自宅に戻り、キンキンに冷えた魔法野菜のサラダと、獲れたての魔獣の肉のバーベキューで舌鼓を打つ。


秋には、地上の王都で開催される華やかな夜会に顔を出し、最高級の絹で仕立てられたドレスの裾を翻してワルツを踊る。


冬には、再び魔女の世界の暖炉の前で、パチパチとはぜる薪の音を聞きながら、ジュリアン様の温かい毛皮に埋もれてうたた寝をする。


そんな、夢のように穏やかで、甘く、そして刺激的な日々が、流れる雲のように過ぎ去っていった。


焦がしたバターの芳醇な匂い、ひんやりとした朝露の肌触り、小鳥たちの軽やかな囀り、そして愛する家族の温もり。


五感を満たす幸せな記憶が幾重にも積み重なり、気づけば、あの帰還の日から六年という長い歳月が流れていた。


私とリリア、そしてエイレーンお義姉様は、見事な十八歳の淑女へと成長を遂げていた。


「お姉様、このドレス、私の背中のリボンが少し曲がっていませんか?」


「大丈夫よ、リリア、完璧な結び目だわ」


全身を映す巨大な鏡の前に立つ私たちは、お互いのドレス姿を確認し合って微笑んだ。


私は深紅のベルベット生地に黒いレースをあしらった、少し大人びたドレス。


リリアは夜空の星屑を散りばめたような、淡いブルーのシルクドレスを身に纏っていた。


そして、今日の主役であるエイレーンお義姉様は、私たちの想像を遥かに超える美しさで、部屋の中心に立っていた。


「エイレーンお義姉様……本当に、女神様のように綺麗です」


リリアが、感嘆の吐息を漏らした。


純白のウェディングドレスは、光の角度によって真珠のように煌めき、何層にも重ねられたチュールが歩くたびに微かな衣擦れの音を立てる。


精緻な銀糸で刺繍された百合の花がドレス全体に咲き誇り、彼女の亜麻色の髪には、本物のダイヤモンドで作られたティアラが輝いていた。


「ありがとう、アイラ、リリア……私、本当に今日という日を迎えられて幸せよ」


エイレーンお義姉様は、頬を薄紅に染めながら、少しだけ潤んだ瞳で私たちを見つめた。


その手には、むせ返るほどに甘い香りを放つ、純白の薔薇のブーケが握られている。


今日は、エイレーンお義姉様と、この国の王太子であるテオドール殿下の結婚式の日だった。


王都の大聖堂は、荘厳なパイプオルガンの重低音が空気を震わせ、ステンドグラスから差し込む七色の光が、祭壇へと続く赤い絨毯を神々しく照らし出していた。


「テオドール殿下、エイレーンを……私の誇りである娘を、どうかよろしくお願いします」


レヴナント公爵が、少しだけ声を震わせながら、エイレーンお義姉様の手をテオドール殿下へと託す。


「ええ、必ず。私の命に代えても、彼女を幸せにします」


テオドール殿下は、力強く頷き、エイレーンお義姉様に優しく口付けた。


参列者たちから割れんばかりの拍手が巻き起こり、祝福の白い鳩が一斉に青空へと放たれる。


視界を埋め尽くすほどの花びらが舞い散る中、二人の幸せそうな笑顔は、誰の目にも永遠の愛の象徴として焼き付いた。


しかし、その華やかで熱狂的な歓声の裏側で、レヴナント公爵とエルレイン夫人の背中は、どこか急に小さくなってしまったように見えた。


愛娘が最高の幸せを掴んだという喜びの反面、これから先の邸宅から彼女の気配が消えてしまうという、冷たい喪失感が彼らの足元に忍び寄っていた。


空は晴れ渡っているというのに、公爵夫婦の心の中には、冷たい秋の雨がシトシトと降り続いているかのようだった。


結婚式から数日が過ぎた。


かつてはエイレーンお義姉様の明るい笑い声が響いていたレヴナント公爵邸は、嘘のように静まり返っていた。


「……紅茶が、少し冷めてしまったわね」


エルレイン夫人が、テラスのテーブルに置かれたティーカップを見つめながら、ぽつりと呟いた。


秋の冷たい風が庭園の木々を揺らし、カサカサと枯れ葉の擦れる乾いた音が、静寂をより一層際立たせている。


私とリリアは、顔を見合わせた。


私たちもまた、この邸宅を去る時が来たのだと、暗黙の了解で理解していた。


私たちは魔女であり、いつまでも人間の貴族社会の枠組みの中に留まり続けることはできない。


「お義父様、お義母様……実は、私たちも、そろそろ魔女の世界へ帰ろうと思っているのです」


私が静かに告げると、公爵夫婦の肩が、びくっと跳ねた。


「そうか……君たちも、行ってしまうのだね」


レヴナント公爵は、深くため息をつきながら、目尻の皺を深くした。


「エイレーンが嫁ぎ、君たちまでいなくなってしまっては、この広い屋敷はますます冷え込んでしまうな……」


エルレイン夫人も、ハンカチで目元を押さえながら、悲しげに頷いた。


「せめて、もう少しだけ……いえ、引き留めてはいけませんね。あなたたちには、あなたたちの果たすべき役割と、生きる世界があるのですから」


夫人の声は震えており、その手から伝わる温もりが、私の胸をきゅっと締め付けた。


「ごめんなさい、お義母様。でも、完全に縁を切るわけではありませんわ」


「ええ、いつでも次元の扉を開いて、美味しいお茶とお菓子を食べに遊びに来ますから!」


リリアと私が必死に励ますと、二人は少しだけ安堵したように微笑んでくれた。


しかし、レヴナント公爵の眉間の皺は、完全には消えていなかった。


彼は、手元の冷めた紅茶の表面を見つめながら、重々しい口を開いた。


「……君たちが遊びに来てくれるのは、心から嬉しい。だが、私の悩みはそれだけではないのだよ」


公爵は、ふうっと長く息を吐き出した。


「エイレーンは、我がレヴナント公爵家の一人娘だった。彼女が王家に嫁いだ今、この公爵家の跡継ぎはどうなるのかと……親戚や他の貴族たちから、連日つつかれていてね」


貴族社会において、跡継ぎ問題は家の存続に関わる致命的な課題だ。


「傍系の血筋から、誰か適当な若者を養子に入れようかとも考えているのだが……正直なところ、あまり気は進まないのだよ」


公爵の言葉には、深い疲労の色が滲んでいた。


「見ず知らずの他人が、急に『息子』や『娘』の顔をしてこの屋敷を歩き回るのを想像すると……どうしても、エイレーンの面影を探してしまって、辛くなる気がしてね」


その痛切な心理は、言葉にしなくても痛いほど伝わってきた。


私は、顎に手を当てて考え込んだ。


魔女の世界で培った途方もない魔力と、数々の不可能を可能にしてきた知識。


それを使えば、この悲しい問題を、もっと斜め上の方法で解決できるのではないか。


「……ねえ、お義父様。それなら、いっそのこと『エイレーンお義姉様のクローン』を作って、彼女に婿養子を取るというのはどうかしら?」


私の口から飛び出したその言葉に、テラスの空気が一瞬にして凍りついた。


「ク、クローン……? それは、一体なんだい? 魔女の国の言葉かな?」


公爵が、目を丸くして私を見つめ返す。


「簡単に言いますと、エイレーンお義姉様と全く同じ顔、同じ体を持った、もう一人のエイレーンお義姉様を魔法で新しく造り出すということですわ」


「なっ……人を、魔法で新しく造り出すだと!?」


公爵は持っていたティーカップをガタッと鳴らしてテーブルに置き、エルレイン夫人も信じられないものを見るように口元を両手で覆った。


地上の人間にとって、生命の創造など神の領域であり、到底理解の及ばない未知の概念なのだ。


「ええ、そうです! 私とリリアの魔力を使えば、生命の創造すら不可能ではありません」


私は、身を乗り出して熱弁を振るい始めた。


「傍系としてクローンを迎えるという名目にすれば、血筋も完全にレヴナント家のものですし、何より中身は、エイレーンお義姉様の意識を株分けして定着させれば、実質的に『娘がもう一度帰ってくる』のと同じことになりますわ!」


「な、なんと……意識を株分け、だと?」


「はい! 魔女の秘術である『魂の写し鏡』を使えば、エイレーンお義姉様の記憶や人格の一部を複製し、新しい体に宿すことができるのです!」


私のぶっ飛んだ提案に、リリアも目を輝かせて同調した。


「お姉様の言う通りです! クローンのお義姉様なら、お義父様たちも本当の娘として愛することができるはずです!」


公爵と夫人は、あまりの事態に口をパクパクとさせていたが、やがてその目に、一筋の希望の光が宿り始めた。


「王家に嫁いだエイレーンお義姉様の子供が生まれて、その子を養子にもらうまで何年も待つか……それとも、クローンを作って、今すぐ跡継ぎの憂いを無くすか。家族会議で決めてみてくださいな」


私がそう言って選択肢を与えると、二人は真剣な顔で顔を見合わせた。


数日後、公爵邸のサロンには、レヴナント公爵夫婦だけでなく、王宮から駆けつけたエイレーンお義姉様とテオドール殿下の姿もあった。


香ばしいアールグレイの湯気が立ち上る中、数時間の白熱した議論が交わされる。


そして、レヴナント公爵家の出した結論は、満場一致で「クローンの作成」となった。


「それで、意識の分離についてですが……どの年代のエイレーンお義姉様の記憶を定着させますか?」


私が魔導書をパラパラと捲りながら尋ねると、エイレーンお義姉様本人が、真剣な瞳で口を開いた。


「……私が、アイラちゃんとリリアちゃんに出会って、魔法の世界の存在を知った頃の記憶にしてほしいの」


「私たちと出会った頃の記憶、ですか?」


「ええ。魔法の国の規格外な出来事を知っていれば、自分が魔法で作られたクローンだという事実を知っても、決して自分を卑下することなく、前向きに受け入れて育ってくれると思うのよ」


エイレーンお義姉様は、ご自身の胸に手を当てて、母性すら感じさせる温かい微笑みを浮かべた。


「それに、その頃の記憶なら、私とテオドール殿下の間にまだ恋愛感情はないわ。将来、彼女の婚約者探しに私たち夫婦が口を出して加わっても、何の不自然さもないでしょう?」


隣で聞いていたテオドール殿下も、深く頷いて彼女の肩を優しく抱き寄せた。


「なるほど、それは理にかなっているな。私たちも、新しい家族となる彼女の幸せな未来のために、ぜひとも協力させてほしい」


魔法の恩恵を知り、かつ新しい人生を歩むのに最適な精神状態。


当事者であるエイレーンお義姉様の完璧な采配に、私は感嘆の吐息を漏らした。


「わかりました。それでは、新しい妹君のお名前はどうされますか?」


「『アイリーン』……アイリーン・レヴナントよ。私の大切な妹として、この家を託すわ」


その日の夜、公爵邸の地下にある広大な隠し部屋で、私とリリアは魔女の儀式を開始した。


部屋の中心には、まばゆい光を放つ巨大な魔法陣が描かれ、その上には純白の液体で満たされた水晶の揺り籠が置かれている。


「行くわよ、リリア! 【生命創造ジェネシス・レプリカ】!」


「はい、お姉様! 【魂の写しソウル・リフレクション】!」


私たちの杖の先から、圧倒的な密度の魔力が放出され、空間がぐにゃりと歪んだ。


バチバチと青白い火花が散り、強烈なオゾンの匂いが地下室に充満する。


水晶の揺り籠の中で、白く輝く光の粒子が集まり、徐々に人間の輪郭を形作っていく。


心臓の鼓動のような低い重低音が響き渡り、やがて光が収まると、そこには、私たちがよく知る、しかし少しだけ幼い顔立ちをした、アイリーンが眠っていた。


「……成功、ですね」


私が額の汗を拭いながら言うと、見守っていた家族全員が、堪えきれずに揺り籠へと駆け寄った。


「おお……アイリーン、私たちの可愛い娘……!」


公爵が震える手でその頬に触れると、アイリーンは、ゆっくりと重い瞼を開いた。


「……お父様、お母様」


寝起きの少し掠れた声で、彼女は両親の顔を見つめ、次にその隣に立つ自分と瓜二つの女性へと視線を向けた。


「そして……エイレーン、お姉様」


アイリーンは、ゆっくりと身を起こし、自分自身の小さな両手を見つめた。


魔法の光の残滓が、彼女の白い肌をチカチカと照らしている。


「私……アイラちゃんたちの魔法で、新しく造られたのね」


その瞳には混乱はなく、どこか澄み切った理解の光が宿っていた。


「エイレーンお姉様の中にある、魔法の国の記憶……それが私の中にもあるから、今の状況がすんなりと理解できるわ」


彼女は、魔法という常識を超えた力によって生命が誕生した事実を、驚くほど冷静に受け止めていた。


「それに……レヴナント公爵家の跡継ぎ問題を考えれば、これ以上完璧な解決策はないわね」


アイリーンは、十二歳の少女とは思えないほど、貴族然とした理知的な表情を浮かべた。


「見ず知らずの傍系の血筋から養子を迎えるとなれば、レヴナントの血筋は変わってしまう。でも、実の娘と完全に同じ血統と魔力を持つ『私』が跡継ぎを産むなら、レヴナントの血は受け継がれる」


そのあまりに冷静で論理的な分析に、私は思わず感心して頷いてしまった。


なるほど、造られた生命であるという倫理的な葛藤よりも、お家騒動を未然に防ぐという『貴族令嬢としての合理性』が勝っているのだ。


「公爵令嬢としての義務を果たすためにも、私の存在はレブナント公爵家のためには一番よ。私は、『アイリーン』。この家の新しい娘としてエイレーンお姉様の妹、公爵令嬢として、王太子妃の妹として誇りを持って生きていくわ」


力強く宣言した彼女を見て、エルレイン夫人が堪えきれずに涙を零し、彼女を強く抱きしめた。


「ええ、そうよ、アイリーン! あなたは間違いなく、私たちの愛する娘よ!」


「ありがとう、アイリーン……私たちの勝手な願いで、あなたをこの世に呼び出してしまって、すまない」


公爵も、大粒の涙を流しながら、二人を包み込むように抱き寄せた。 家族の温かい体温と、涙の塩気を含んだ匂いが、アイリーンの内にわずかに残っていた不安すらも完全に溶かしていく。


「謝らないで、お父様。私、大好きな家族と一緒に過ごせるお茶の時間が始まるんだって思うと……すごく嬉しいの」


アイリーンが花が咲いたような笑顔を見せると、地下室を満たしていた張り詰めた空気が、ふわりと春の陽気のように和らいだ。


エイレーンお義姉様も、優しく微笑みながら彼女の頭を撫でた。


「アイリーン。あなたは私のクローンかもしれないけれど、これからの人生は、あなただけのものよ」


「エイレーンお姉様……」


「だから、どんな未来を選ぶのも自由。でもね……」


エイレーンお義姉様の目が、ふいに獲物を狙う鷹のように鋭く光った。


「あなたの将来の旦那様、つまりこのレヴナント公爵家の婿探しに関しては、私とテオドール殿下も全力で加わって、厳選に厳選を重ねるから安心してね!」


「えっ?」


「ええ、その通りだ。王家の情報網をフル活用して、身辺調査から性格診断、魔力適性まで、一切の妥協なく徹底的に精査しよう」


テオドール殿下まで、なぜか腕を組みながら真剣な顔で頷いている。


「ど、どこから目線ですか……? というか、王家の情報網をそんな個人的な婿探しに使っていいんですか……?」


過保護すぎる二人の発言に、先程まで理知的だったアイリーンの顔が引きつり、ドン引きしているのが目に見えてわかった。


「当然よ! 変な虫がつかないように、私たちが完璧な防壁となってあなたを守るわ!」


「いや、防壁って……私、まだ十二歳の体なんですが……」


アイリーンの困惑をよそに、エイレーンお義姉様とテオドール殿下は、すでに具体的な婿候補の選定基準について熱く語り合い始めている。


その微笑ましくも少し狂気じみた家族のやり取りを見て、私とリリアは思わず顔を見合わせて吹き出した。


「ふふっ、これなら、レヴナント公爵家はこれからも賑やかで安泰ですね」


「ええ、本当に。アイリーンちゃんのお婿さんになる人は、色々と苦労しそうですけれど」


こうして、レヴナント公爵家の跡継ぎ問題は、魔女の規格外の力と家族の愛によって、信じられないほど円満に解決されたのだった。


私たちは、安堵に包まれた家族の姿を満足げに見届けると、静かに次元の扉を開いた。


「それじゃあ、私たちはこれで失礼しますわね」


「また、お茶を飲みに来ますから!」


私とリリアは、背後から聞こえる感謝の声に手を振りながら、輝く光の向こう側、愛する魔女の世界へと帰還していった。


空には、満天の星が、私たちの新たなる旅立ちを祝福するように煌めいていた。


「よしっ……遂に、遂に完成したわよ、リリア!」


魔女の自宅の地下深く、幾重にも張り巡らされた強固な結界の中で、私は歓喜の声を上げて思い切りガッツポーズをした。


空気中には、長時間の過酷な儀式によって生じた高濃度の魔力がパチパチと青白い火花を散らし、焦げたオゾンの匂いが充満している。


「お姉様……私たち、本当に、本当にやり遂げたのですね」


隣で杖を構えていたリリアも、額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら、感極まったように美しい青玉の瞳を潤ませていた。


私たちの目の前にある、部屋の床一面に描かれた巨大で複雑な魔法陣の中央には、二つの完璧な肉体が静かに横たわっている。


一つは、逞しく引き締まった胸板と、滑らかな金糸の髪を持つ、私がいちばん愛する男性の姿。


もう一つは、しなやかで無駄のない筋肉と、夜の闇を切り取ったような漆黒の髪を持つ、リリアが愛する男性の姿だった。


あのレヴナント公爵家での一件から、およそ三十年という長い歳月が流れていた。


私たちは魔女としての膨大な叡智と、底なしの魔力を全て注ぎ込み、神の領域すら超越した『完全なる人間の器』を創り上げたのだ。


「魔力回路の定着も完璧、骨格の強度はドラゴン並みに頑丈、そして何より……細胞レベルでの生殖機能の完全再現に成功したわ!」


私は、興奮で少し鼻息を荒くしながら、三十年間の血の滲むような研究成果を誇らしげに熱弁した。


これまでジュリアン様とエドワード殿下の魂は、それぞれライオンと黒猫の姿で、一時的に人間界や魔女の国で私たちと一緒に過ごしていた。


ふさふさの毛並みを撫でたり、一緒のベッドで丸くなって眠ったりするのは、それはそれで究極の癒しであり、幸せな時間だったのは間違いない。


しかし、いくらモフモフで愛らしくても、やはり本当の意味での『夫婦の営み』には、決定的な限界というものが存在する。


私たちは、愛する夫たちとの完全な愛の結実……つまり、私たち自身の子供を授かるという夢を叶えるために、この三十年間、寝る間も惜しんで研究を続けてきたのだ。


世界樹の根から抽出した生命の雫、幻の魔獣の心臓から精製した魔力結晶、そして私たち双子の魔女の血。


ありとあらゆる希少な素材を組み合わせ、失敗を繰り返しながら、ようやくこの完璧な器を完成させたのである。


「これでようやく、ジュリアン様たちと本当の意味で結ばれるのですね……!」


リリアも、両手を胸の前でぎゅっと組んで、頬を薔薇色に染めながらうっとりと夢見るような表情を浮かべている。


魔法陣の脇では、ライオンの姿のジュリアン様と、黒猫の姿のエドワード殿下が、尻尾を揺らしながら自分たちの新しい肉体を興味深そうに見つめていた。


『よく頑張ったな、アイラ。君のその三十年間の情熱と愛には、本当に頭が下がる思いだよ』


ジュリアン様が、大きな琥珀色の瞳を細めて、愛情たっぷりの念話を送ってくる。


『ああ。僕も、早くその新しい体で、リリアをこの腕に抱きしめたいよ』


エドワード殿下も、リリアの足元に体を擦り寄せながら甘く喉を鳴らした。


私たちは互いに視線を交わし、さあ、いよいよ魂をこの器に定着させる最終工程に入ろうと、杖を構え直した。


しかし、そんな私たちの歓喜と期待の絶頂は、直後に鳴り響いた天界からの無機質で場違いなファンファーレによって、あっさりと打ち砕かれることとなった。


『ピロリロリーン! お知らせします。特別許可枠・地上視察ツアーの魂レンタル期間が終了いたしました』


頭の中に直接響き渡る、大天使シュシュエルのひどく事務的な声に、私たちの笑顔がピシリと凍りつく。


「……は?」


私が間抜けな声を漏らした直後、地下室の天井から、神々しい黄金の光の柱が二本、真っ直ぐに降り注いできた。


『只今をもって、ジュリアン及びエドワードの両名の魂を、天界へ強制送還いたします。なお、次回のレンタル可能になるまでのクールタイムは、天界の規定により十年となります。ご利用、誠にありがとうございました』


「ちょ、ちょっと待って! シュシュエル! まだ器が完成したばかりで、これから魂を移すところだったのよ!」


私が慌てて天井に向かって叫ぶよりも早く、光の柱に包まれたジュリアン様とエドワード殿下の体が、ふわりと宙に浮き上がった。


『やれやれ……まさか、器が完成した瞬間に時間切れとはな。どうやら、本当の初夜は十年後にお預けらしい』


光の中で、ジュリアン様が苦笑いしながら、少しだけ残念そうな念話を送ってくる。


『すまない、リリア。君との愛の結晶を抱くのは、少しだけ先送りになりそうだ』


エドワード殿下も、名残惜しそうにリリアに向かって前足を伸ばした。


「そ、そんなぁ……っ! 嘘でしょ、私たちの三十年間の努力がぁぁぁっ!」


「エドワード殿下……! ああっ、行かないでください……!」


私とリリアが泣き叫んで必死に手を伸ばすも虚しく、二人の魂は無情にも光の粒子となって、天井の彼方、天界へと勢いよく吸い込まれていってしまった。


後に残されたのは、魂が抜けてぐったりと横たわるライオンと黒猫の抜け殻と、せっかく完成したのに中身が入っていない完璧なマッチョボディだけだった。


冷たい地下室の床に膝をついた私たちは、ぽっかりと空いた空間を見つめながら、絶望のあまり言葉を失っていた。


「…………」


「…………」


それから数日間、私たち双子の魔女は、完全に真っ白に燃え尽きた灰のようになっていた。


朝起きても、足元にすり寄ってくる温かい毛玉はいない。


食事を作っても、呆れたような念話を送ってくれる愛しい声は聞こえない。


魔女の世界で生きる私たちにとって、十年という歳月は、瞬きを数回する程度の取るに足らない時間であるはずだった。


百年、千年という途方もない時間を生きる魔女の感覚からすれば、十年など、お茶を一杯飲んで一息つく程度の短さだ。


……と、頭では論理的に理解しているのだ。


しかし、未だ魔女になって百年程度の新米であり、精神の根本が人間寄りの私たちにとって、愛する人とお預けを食らう十年は、途方もなく長く、気の遠くなるような苦行に感じられた。


庭園に咲き誇る色鮮やかな魔法植物の香りも、今はどこか色褪せて感じられる。


「……はぁ。仕方ないわね、こればかりは天界の絶対的なルールだし」


自宅の広大なテラスで、すっかり冷めてしまった紅茶を啜りながら、私は深く重い溜息を吐き出した。


秋の冷たい風が、どんよりと沈んだ私たちの心を撫でるように吹き抜けていく。


「そうですね……。でも、このまま二人で十年もただただ待っているのは、少し気が滅入ってしまいそうです」


リリアも、テーブルに突っ伏したまま、生気のない声で同調した。


この三十年間、私たちは人形の制作という明確な目標に向かって、二人で力を合わせて駆け抜けてきた。


しかし、その目標が一時的に保留となってしまった今、私たちにはあまりにも莫大な『空白の時間』が残されてしまったのだ。


私は、カップの底に残った紅茶の澱を見つめながら、ふと思いついた提案を口にした。


「ねえ、リリア。クールタイムが明けるまでのこの十年間、たまには別々に行動してみない?」


私の突拍子もない言葉に、リリアは突っ伏していた顔を上げ、パチリと瞬きをした。


「別々に、ですか?」


「ええ。今までずっと、どんな問題に立ち向かう時も、私たちは一緒に行動してきたわよね」


探偵令嬢として王都の事件を解決していた頃から、世界を救う戦い、そして魔女になってからの日常に至るまで、私たちは常に肩を並べて生きてきた。


「でも、私たちももう立派な一人の魔女だもの。それぞれが全く違う世界や国を見て回って、自分一人だけの経験を積むのも良いと思うのよ」


私がそう言って微笑むと、リリアの瞳の奥で、何かが小さく揺れた。


「十年後に再会した時に、お互いが見てきた未知の世界の話や、お土産話を交換するのも、悪くないと思わない?」


それは言わば、魔女としての見聞を広めるための、十年間のソロキャンプのようなものだ。


ただ待つだけの退屈な時間を、新鮮な驚きと発見で満たすための前向きな選択。


「……なるほど。それは、少し楽しそうですね」


リリアは、ゆっくりと上体を起こし、久しぶりにふわりとした笑みを浮かべた。


「私も、自分一人の力でどこまでやれるか、未知の世界でどんな出会いがあるのか……試してみたい気持ちがあります」


彼女の青玉の瞳に、かつての優秀な探偵令嬢としての、知的好奇心の光がはっきりと戻ってきたのを感じた。


かくして、私たち双子の魔女は、永遠にも似た時間を共に歩む約束の前に、一時的に別行動を取ることを決意したのだった。


出発の朝。


魔女の世界と他の次元を繋ぐ、巨大な大理石のゲートの前には、私たちを見送るために、天界からわざわざ駆けつけてくれた家族の姿があった。


「アイラ、リリア……本当に、本当に二人だけで大丈夫なのか? 十年という長きにわたり、別々の場所で暮らすなど……ああ、心配で夜も眠れん!」


金髪に白い羽を生やしたレオンハルトお父様が、大袈裟に純白のハンカチで目元を拭いながら嘆いている。


「父上の言う通りだ。何か少しでも困ったことがあれば、すぐに天国の直通ラインで連絡するんだぞ! 兄が一秒で駆けつけるからな!」


立派な騎士の出で立ちをしたセオドアお兄様も、三十年前と全く変わらない過保護な眼差しで、私の肩を力強く掴んできた。


「もう、お父様もお兄様も大袈裟なんだから。私たち、これでも天下の大魔女なのよ?」


私が苦笑しながらお兄様の手を軽く叩くと、二人は少しだけ寂しそうに目を伏せた。


「わかっている……わかっているさ。お前たちが立派に成長し、私たちなど足元にも及ばないほどの力を手に入れたことなど」


お父様は、遠くを見るような優しい目で私たちを見つめた。


「だが、親からすれば、いくつになってもお前たちは、守るべき可愛い娘たちなのだ」


「ええ。それに、ここ三十年ほどは、お前たちが頻繁に天国に遊びに来てくれたり、一緒にお茶を飲んだりして過ごせていたからな。いざ十年間も会えなくなるとなると……やはり、堪えるものがある」


お兄様も、照れ隠しのように鼻の頭を掻きながら言った。


もしこれが三十年前の二人であったなら、泣き喚いてゲートを体で塞ぎ、無理やりにでも私たちの旅に付いてこようとしただろう。


しかし、この三十年間で頻繁に交流し、私たちが自立してたくましく生きる姿を見せ続けたことで、彼らもようやく『子離れ』の第一歩を踏み出せるようになっていたのだ。


その少しだけ成長した家族の絆が、なんだかとても誇らしく、温かいものに感じられた。


「大丈夫です、お父様、お兄様。十年なんて、きっとあっという間ですから。見たこともない景色のお土産話、たくさん持って帰りますね」


リリアが優しく微笑み、二人の胸にそっと顔を埋めてハグをした。


「ああ、約束だぞ。必ず、元気な笑顔を見せてくれ」


お父様とお兄様は、愛おしそうにリリアの背中を撫で、私にも力強いハグをしてくれた。


こうして、私たちは愛する家族と少しの間の別れを交わし、それぞれの目的地へと繋がる次元の扉を開いた。


ゲートの向こう側には、光の渦が静かに回転しており、未知なる世界への入り口を示している。


「私は、南の大陸にある、古い魔術が栄えるという未知の国へ行ってみようと思います」


リリアは、トランクを片手に持ち、期待に胸を膨らませた声で言った。


「私はね、もう一度、地上の人間界に行ってみようと思うの。今度は、今まで行ったことのない国へね」


私たちが魔女になってから、人間界も様々な変化を遂げているはずだ。


その変化を、自分の目で確かめてみたかった。


「それじゃあ、十年後に。自宅のテラスで、最高のお茶会をしましょうね」


「ええ、お姉様。お気をつけて」


私たちは互いに微笑み合い、パチンとハイタッチを交わした。


そして、リリアは南の世界へ続く光の渦の中へ、躊躇うことなく足を踏み入れていった。


彼女の銀色の髪が光に溶け込み、完全に姿が見えなくなるのを見届けてから、私もまた、人間界へと続くゲートに向き直った。


胸の奥で、探偵令嬢だった頃の、あのワクワクとした冒険心が再び燃え上がってくるのを感じる。


愛する人との再会を待ちわびる時間は、きっと、この世界をもっと深く知るための素晴らしいスパイスになるはずだ。


「さあて、新しい世界の空気は、どんな味がするかしらね」


私は、誰に言うともなく呟き、杖を片手に、眩い光の中へと勢いよく飛び込んだ。


十年間の、私だけのソロキャンプの始まりだった。


光の渦を抜けた先は、視界を白一色に染め上げる猛吹雪の世界だった。


「うわっ……! なにこれ、すっごく寒いんですけど!」


私は次元のゲートが背後で静かに閉じるのを感じながら、あまりの温度差に思わず身震いをした。


魔女のコテージがある温暖で穏やかな気候とは打って変わり、ここ人間界の最北端の地は、分厚い鉛色の雲が空を完全に覆い尽くし、太陽の光すら届かない極寒の領域だった。


吹き付ける風はまるで無数の見えない氷の刃のように頬を容赦なく切り裂き、吐く息は口から出た瞬間に真っ白な霧となって視界を遮っていく。


足元には深い雪が積もっており、一歩踏み出すごとにキュッ、キュッと雪の結晶が押し潰される高く乾いた音が響いた。


私は魔女としての絶大な力を持っているため、気候を操作したり、自身の周囲の気温を自在に操ったりすることは造作もないことだ。


しかし、今回の十年に及ぶソロキャンプの目的は、あくまで「一人の人間として未知の世界を旅する」ことにある。


地上に降り立ったからには、無闇に魔女であることを周囲にひけらかすような真似は避けるべきだった。


「とりあえず、防寒具を……」


私は周囲の街ゆく人々の目を盗み、指先で小さく空に円を描いて、目立たないようにこっそりと魔法を紡いだ。


ポンッという微かな音と共に、上質な分厚いウールのマントと、毛皮の裏地がついた手袋が具現化し、私の体をすっぽりと包み込む。


その途端に、じんわりとした暖かさが凍りつきかけていた手足の指先まで広がり、私はようやく一息ついて周囲の景色を観察する余裕を持てた。


ここは、峻険な山岳地帯を越えた先に広がる『魔の領域』から、人間界を守る防波堤としての重い使命を担っている公爵家が治める大地だ。


その言葉通り、街並みは王都のような華やかさや装飾性は一切なく、厚い石と頑丈な木材で組まれた、まるで要塞のような無骨な家々が立ち並んでいる。


道を歩いている人々も、厳しい自然環境に耐えうる分厚い毛皮のコートに身を包み、その顔つきにはどこか張り詰めたような、常に警戒を怠らない険しさが滲み出ていた。


街のあちこちには、魔力で強化された重厚な鎧を着込んだ兵士たちが等間隔で巡回しており、この地が常に魔物との戦闘の最前線であることを無言のうちに物語っている。


私は、魔女になってからは外見年齢を十二歳ほどの少女の姿に固定していたが、さすがに一人の旅人として地上を歩くには目立ちすぎるため、今は少し魔力で成長を促し、十八歳前後の、かつて王都で暮らしていた頃の姿に整えていた。


「さて、まずは温かいスープでも飲める酒場か宿屋を探さなくちゃね」


鼻腔をくすぐる、香辛料と煮込まれた肉の芳醇な匂いを辿り、私は市場が立ち並ぶ広場へと足を踏み入れた。


その時だった。


「おい! 待て、こんな所で一体何をしている!」


背後から、ひどく焦ったような、それでいて強い怒気を孕んだ男の怒声が吹雪を切り裂いて響いた。


振り返る暇もなく、何者かの強い力で腕をガシッと乱暴に掴み上げられる。


「痛っ……! ちょっと、何するのよ!」


私が抗議の声を上げながら振り返ると、そこには、舞い散る雪の中でも一際目を引く、氷のように冷たく鋭い青い瞳を持った、二十代前半の若い青年が立っていた。


上質な黒い外套を羽織り、腰には魔力を帯びた業物らしき長剣を佩いている。


鍛え上げられた体躯と、周囲の空気を圧するようなその立ち振る舞いから、彼がただの騎士ではなく、この地を治める高位の貴族……おそらくは公爵家の中枢にいる人物であることは、その覇気から一目で見て取れた。


「探したぞ……! 黙って屋敷を抜け出すなど、一体何を考えている!」


青年は、私の顔を見るなり、安堵と怒りが複雑に入り混じったような険しい表情で怒鳴りつけてきた。


その手は私の腕を万力のように締め付けており、分厚いマント越しでも彼の体温と焦燥感がビリビリと伝わってくる。


「はぁ? 抜け出すって、私、今ここに着いたばかりなんですけど?」


「ふざけるな! 自分の立場を忘れたか! お前が勝手に姿を消せば、我が公爵家にどれほどの迷惑がかかると思っている!」


青年の吐く息が白く濁り、その青い瞳は私を射抜くように睨みつけている。


「だから、人違いだって言ってるでしょ! 離しなさいよ、この脳筋!」


私は力任せに腕を振り払おうとしたが、相手は最前線で魔物と戦う公爵家の人間らしく、その握力は鋼のように硬く、ビクともしなかった。


もちろん、魔女としての私の力を使えば、彼の手を弾き飛ばすどころか、この広場ごと跡形もなく吹き飛ばすことなど赤子の手を捻るより簡単なことだ。


しかし、先ほども決めた通り、私は地上では自分が魔女であることを絶対に隠し通すと決めている。


こんな人混みの中で大魔法をぶっ放せば、たちまち騒ぎになり、静かなソロキャンプの計画が初日から台無しになってしまう。


「言い訳は屋敷で聞く! 来い!」


「ちょっ、待っ、だから人違いだってばーーっ!」


私の必死の叫びも虚しく、青年は私の言葉に全く耳を貸すことなく、強引に私の腕を引っ張って歩き出した。


周囲の街の人々も、彼が公爵家の人間であることを知っているのか、誰も止めに入ろうとせず、ただ遠巻きに事の成り行きを眺めているだけだった。


私は、深い雪に足を取られながら、有無を言わさず彼が用意していたらしい豪奢な黒塗りの馬車へと押し込まれてしまったのだ。


「お前がいくらとぼけても無駄だ。私を誤魔化せると思うな」


ガタゴトと揺れる馬車の中で、青年は向かいの席に座り、腕を組みながら冷たい声で言い放った。


「誤魔化すも何も、本当に人違いなのよ。私は今日、初めてこの北の国に来たただの旅人よ」


私がため息をつきながら反論すると、青年は鼻で笑った。


「旅人だと? その銀色の髪と青い瞳を持つ者が、この国にそう何人もいるはずがないだろう。お前が神聖エルミナ教国から送られてきた存在であることは、私が一番よく知っている」


どうやら、彼は私が「神聖エルミナ教国から送られてきた何者か」だと完全に思い込んでいるらしい。


私が銀髪で青い瞳であることは、かつてのアルジェント公爵家の血筋特有の身体的特徴だ。


その特徴を持つ人間が、この時代、この土地にいるということは、もしかして……。


私の頭の中に、ある一つの推測が浮かび上がったが、それを口に出す前に馬車は重厚な音を立てて停止した。


「降りろ。逃げようとしても無駄だぞ」


青年に促されて馬車を降りると、目の前には、街の建物よりもさらに巨大で威圧感のある、巨大な石造りの城塞がそびえ立っていた。


鉄格子の門を抜け、無骨な石畳の中庭を歩かされている間も、青年は私が逃げ出さないようにしっかりと私の腕を掴んだままだった。


屋敷の中は、外の猛吹雪は防げるものの、石の壁からジンジンとした冷気が滲み出しており、決して快適とは言えない寒々しい空気が漂っている。


「中に入れ!」


連れてこられたのは、重厚なオーク材の扉の奥にある、巨大な暖炉が備え付けられた広い応接室だった。


赤々と燃える炎が、冷え切った部屋を微かに暖めているが、それでも部屋の隅には冷たい影が淀んでいる。


そして、その暖炉の前のソファに、一人の女性が俯き加減で座っていた。


「……え?」


青年が私を部屋に押し込んだ瞬間、ソファの女性がビクッと肩を震わせて顔を上げた。


私は、その女性の顔を見て、雷に打たれたように完全に息を呑み、言葉を失った。


暖炉の光の加減で少し色素が薄く見えるが、私と全く同じ、月明かりのような美しい銀色の髪。


そして、戸惑うように見開かれたその瞳は、私と寸分違わぬ、深い青玉の色をしていたのだ。


顔立ちは私よりも少しだけ大人びていて、目元の儚げな印象は、どちらかといえば私の双子の妹であるリリアに近い印象を受ける。


だが、その骨格や顔のパーツの配置は、紛れもなく私と血の繋がりがあることを強烈に証明していた。


「……あなたは?」


女性が、私を見て信じられないものを見るように目を丸くし、かすれた声で呟いた。


「ほら見なさい! だから、馬車の中で何度も人違いだって言ったじゃない!」


私が青年に向かってキッと睨みつけながら怒鳴ると、彼もまた、私とソファの女性を何度も交互に見比べ、まるで幽霊でも見たかのようにその場に硬直していた。


「なっ……馬鹿な。リアスティエーゼが……二人、だと?」


青年の顔から血の気が引き、驚愕のあまり口をパクパクとさせている。


「当たり前でしょ! 私は今日、初めてこの地に来た旅の者なんだから!」


私は青年の手を力強く振り払い、警戒する素振りも見せずに、その女性の元へと真っ直ぐに歩み寄った。


女性のすぐ近くに立ち、私は彼女から発せられる微弱な魔力の波長を、魔女としての鋭敏な感覚で正確に読み取っていく。


間違いない、この魔力の質と、魂の奥底から香る特有の匂いは、紛れもなく私の実家であるアルジェントの血筋のものだ。


私たちが魔女の世界へ旅立ってから、すでに数百年の時が流れているはず。


途中で分家したのか、あるいは何らかの複雑な理由でこの北の地に根付いたのかはわからないが、彼女は間違いなく『私の子孫』だった。


しかし、その事実をここで大っぴらに語るわけにはいかない。


「私の子孫だ」などと言えば、私が数百年前の人間であるということが露呈し、ひいては魔女であるという最大の秘密がバレてしまうからだ。


「あなた、もしかしてアルジェントの血を引いているの?」


私がわざとらしく、少し驚いたような演技を交えて尋ねると、女性は怯えたように身を縮めながら頷いた。


「え、ええ……。私の家系は、ずっと昔に王都の有力な貴族から枝分かれした、遠縁にあたると聞いていますが……」


「やっぱり! 奇遇ね、私もその遠縁の血筋なのよ。私たちの先祖が同じだから、ここまで双子のように顔が似てしまったのね」


私がポンと手を叩いて明るく言うと、女性は少しだけ安堵したように息を吐き、青年公爵は未だに信じられないという顔で額を押さえていた。


「先祖が同じ、だと……? いくら血筋が同じだからといって、ここまで瓜二つになることなどあり得るのか……?」


「あり得るから、現にこうして目の前に立っているんでしょうが。事実は小説より奇なり、ってやつよ」


私が冷たく言い放つと、青年は気まずそうに視線を泳がせた。


それにしても、と私は目の前の同じ顔をした女性を改めて観察した。


彼女の身につけているドレスは確かに上質な絹やレースを使っているが、この極寒の土地で着るにはあまりにも生地が薄く、寒さで彼女の白い肌には細かな鳥肌が立っていた。


さらに、ぎゅっと握りしめられた手首の隙間から、何かに強く縛られたような赤い痣の痕が微かに見え隠れしている。


その常に誰かの顔色を窺うような、深い諦めと恐怖の色が張り付いた瞳。


大切に扱われている客将や令嬢の姿には、到底見えなかった。


私の心の中に、この土地の氷点下の気温よりも遥かに冷たく、そして激しい怒りの炎が静かに燃え上がり始めていた。


私の可愛い子孫(設定上は遠い親戚)が、こんな辺境の屋敷で不当な扱いを受け、怯えて暮らしている。


魔女世界の魔女であり、アルジェント公爵家の長女だった私が、こんな理不尽な状況を見て見ぬ振りをして通り過ぎることなど、断じて許されることではない。


「……決めたわ」


私は、赤々と燃える暖炉の炎を背にして立ち上がり、腕を組んで青年公爵を真っ向から見据えて言い放った。


「決めたって……何をだ」


「公爵様。あなたは街中で、無実の旅人である私を無理やり誘拐まがいに連れ込んだわよね? この不祥事に対する謝罪と慰謝料は、当然払っていただきますよ」


「なっ……! 誘拐ではない! 私はただ、彼女が逃げ出したと勘違いして……!」


「結果的に拉致したことに変わりはないわ。王家に報告がいけば、魔物を防ぐ盾である公爵家といえど、ただでは済まないかもしれないわよ?」


私がニッコリと、しかし全く目の笑っていない冷酷な笑みを浮かべて脅しをかけると、青年の顔が再び蒼白になった。


「慰謝料の代わりに、私、しばらくこの屋敷に厄介になるから。同じ先祖を持つ彼女と、積もる話もあるしね」


「はあ!? ふざけるな、どこの馬の骨ともわからない女を、公爵邸に置くわけが……!」


青年が激昂して反論しようとした瞬間、私は魔女としての圧倒的な魔力の片鱗を、ほんの一瞬だけ、鋭い殺気とともに彼に向けて放った。


魔法を使ったわけではない、ただ『そこにいるだけで空気を歪ませる』ほどの、絶対的な強者のプレッシャーだ。


「くっ……!」


青年は目に見えない巨大な手に全身を鷲掴みにされたように言葉を詰まらせたが、最前線を預かる騎士としての本能か、震える手で腰の長剣の柄に手をかけ、必死に立ち向かおうと私を睨み返してきた。


へぇ……、中位の悪魔程度なら立ち向かえる力はある様ね。


「この子、なんだか酷く怯えているみたいだけど……まさか、公爵様ともあろうお方が、か弱き令嬢を虐待しているなんてことはないわよね?」


私がさらに一歩踏み込んで問い詰めると、彼は顔を真っ赤にして否定した。


「ば、馬鹿な! 私は騎士としての誇りにかけて、そのような卑劣な真似は断じてしていない! 彼女は神聖エルミナ教国からの重要な預かりものだ!」


「ふーん? なら、私がここに滞在して、あなたの潔白と、彼女が安全であることを私の目で確かめてあげるわ。問題ないわよね?」


私が有無を言わさぬオーラで押し切ると、青年公爵は完全に言葉を失い、項垂れるようにして私の滞在を許可せざるを得なかった。


こうして、私は魔女であることを完璧に隠し通しながら、私と同じ顔をした不遇な子孫の女性と共に、この極寒の公爵邸での波乱に満ちた居候生活をスタートさせたのだった。


分厚い石壁に囲まれた客室の窓を、ヒュルヒュルという不気味な風の音と共に、細かい氷の粒が絶え間なく打ち付けている。


私がこの極寒の北の大地、ディーン・エル・テスラ・ドミニケル公爵が治める堅牢な城塞に厄介になり始めてから、早くも一週間という時間が経過していた。


部屋の中心に設えられた巨大な暖炉では、よく乾燥した太い薪がパチパチと心地よい音を立てて爆ぜ、赤々と燃え盛る炎が、冷え切った室内の空気を優しく温めている。


「……それで、あなたはその神聖エルミナ教国の親戚の家で、ずっと部屋に閉じ込められていたというわけね」


私は、毛足の長い羊毛の絨毯の上に座り込み、両手で包み込んだ温かいハーブティーのカップから立ち上る湯気を見つめながら、静かに相槌を打った。


カモミールと少しの蜂蜜をブレンドした甘い香りが、鼻腔をくすぐって心を落ち着かせてくれる。


「はい……私の家系は、魔力もほとんどなく、ただアルジェントの古い血筋を受け継いでいるというだけの、没落した名ばかりの貴族でしたから」


私の向かい側に座るリアスティエーゼ・ソル・エミル・ドミニケルは、自分のカップの縁を細い指でなぞりながら、どこか遠くを見るような伏し目がちな瞳で語った。


彼女の話によれば、彼女は両親を早くに亡くし、引き取られた親戚の家で酷い扱いを受け、最終的にはこの北の国との不可侵条約を結ぶための『人質』として、体よく厄介払いされたのだという。


あの中庭でディーン公爵が私を彼女と間違えて激昂したのも、ただでさえ政治的にデリケートな立場にある人質が、勝手に屋敷を抜け出して逃亡したと勘違いしたからだった。


「なるほどね……ディーン公爵も、別にあなたを虐待していたわけじゃなくて、ただの不器用で言葉足らずな脳筋騎士だったってことね」


「はい……公爵様は、私のような者のためにわざわざ温かい部屋と十分な食事を用意してくださり、とてもよくしてくださっています」


リアスティエーゼは、少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げて微笑んだ。


しかし、その細い体は未だに十分な肉がついておらず、急な環境の変化と、いつ自分が切り捨てられるかわからないという人質としての重圧からか、常にビクビクと怯えたような空気を纏っていた。


私は、百年以上の時を経てこんな北の果てで苦労している自分の可愛い子孫を、たまらなく愛おしく、そして不憫に思った。


「まあ、公爵の誤解は解けたし、私がここにいる間は、誰もあなたをいじめたりしないから安心しなさいな」


私がそう言って彼女の銀色の髪を優しく撫でると、リアスティエーゼは驚いたように目を見開き、やがて嬉しそうに目を細めて私の手に頬をすり寄せた。


その時だった。


ヒュウゥゥッ!


窓の隙間から一陣の強い隙間風が吹き込み、暖炉の炎がフッと弱まり、部屋の温度が急激に下がった。


「あっ……寒いですね。火を、少し大きくします」


リアスティエーゼがそう呟いて暖炉の方へ視線を向けた瞬間、私は彼女の体から、微かだがはっきりとした魔力の波動が立ち昇るのを感じ取った。


パァンッ!


薪が弾ける音と共に、弱まっていた暖炉の炎がまるで生き物のように勢いよく燃え上がり、一瞬にして部屋中をぽかぽかとした暖気で満たしたのだ。


「……あなた、もしかして魔法が使えるの?」


私が驚きを隠せずに尋ねると、リアスティエーゼはビクッと肩を震わせ、自分の手をギュッと握りしめた。


「あ、あの……ごめんなさい。本当に少しだけで、火をつけたり、コップの水を冷やしたりするくらいしかできないのですが……」


彼女は、自分の能力を恥じるように、あるいは咎められることを恐れるように、深く俯いてしまった。


親戚の家では、この中途半端な魔法の力を「気味が悪い」と罵られ、隠すように強要されていたのだという。


私は、思わず呆れ果てて深い溜息を吐き出した。


「気味が悪いだなんて、とんでもないわ! あなたの魔力の波長、とても澄んでいて綺麗じゃない」


「えっ……?」


「ただ、魔力回路が少し錆びついているというか、上手く循環できていないだけよ。アルジェントの濃い血を引いているのだから、才能がないわけがないわ」


私は魔女であることを隠すため、あくまで「魔法に少し詳しい旅の者」という体裁を取り繕いながら、彼女の両手をしっかりと握りしめた。


「いいこと、リアスティエーゼ。魔法は決して恥じるような力じゃないわ。自分を守り、生活を豊かにするための素晴らしい技術よ」


「アイラ、様……」


「もしあなたが望むなら、私がこの屋敷にいる間に、魔法の基礎から正しい魔力コントロールまで、色々と教えてあげる。どうかしら?」


私がウィンクをして提案すると、リアスティエーゼの青玉の瞳に、薄暗い部屋に差し込んだ一筋の陽光のような、かすかな希望の光が宿った。


「教えて、くださるのですか……? 私のような、出来損ないに……」


「出来損ないなんて二度と言わないで。あなたは私と同じ顔立ちをしているんだから、絶対に立派な魔法使いになれるわよ!」


私の力強い言葉に、リアスティエーゼはポロポロと大粒の涙を零しながら、何度も何度も深く頷いた。


それから数日後、猛吹雪が少しだけ落ち着き、分厚い雲の隙間からかすかに冬の青空が覗いた日の午後。


私とリアスティエーゼは、分厚い毛皮のコートとマフラーで完全武装をして、雪が深く積もった城塞の中庭へと出ていた。


「いいわよ、リアスティエーゼ。まずは体の中にある魔力の塊を意識して、それをゆっくりと指先に集めるの」


「はい……こう、でしょうか?」


リアスティエーゼが両手を胸の前で合わせ、目を閉じて深く深呼吸をする。


雪に覆われた静寂の中、彼女の吐く白い息のリズムに合わせて、周囲の空気が微かにピリピリと振動し始めた。


私は魔女の感覚で、彼女の体内の魔力が、滞っていた回路をゆっくりとこじ開けながら、指先へと集束していくのを感じ取っていた。


「そう、その調子よ。魔力は無理やり押し出すんじゃなくて、自分の血流の一部のように自然に流すの。そして、頭の中で『氷の結晶』の形を鮮明に思い浮かべて……今よ!」


「【氷結アイス・メイク】!」


リアスティエーゼが目を開き、合わせた両手をスッと前方へと押し出した。


ピキィィィンッ!


高く澄んだ音と共に、彼女の指先から放出された魔力が周囲の冷気を急激に収束させ、中庭の空中に、手のひらサイズの美しく複雑な雪の結晶を創り出したのだ。


それは太陽の光を反射して七色にキラキラと輝き、やがてふわりと足元の雪山へと落ちていった。


「わぁっ……! できました! アイラ様、私、魔法でこんなに綺麗な氷を作れました!」


リアスティエーゼは自分の両手を見つめ、信じられないものを見たような顔をした後、花が咲いたような満面の笑みを浮かべて私の方を振り返った。


その頬は寒さのせいではなく、達成感と興奮によって林檎のように赤く染まっている。


「すごいじゃない、リアスティエーゼ! 初めての本格的な魔法構築でこれだけ安定した結晶を作れるなんて、やっぱりあなたの血は優秀ね!」


私が手放しで褒めちぎると、彼女は照れくさそうに笑いながら、何度も自分の手で氷の結晶を作り出し始めた。


魔法の力を使いこなし、自分にできることが確実に増えていくにつれて、リアスティエーゼの顔からは徐々にあの暗い諦めと怯えの色が消え去っていった。


教えたことをスポンジのように吸収していく彼女の成長を見るのは、私にとっても大きな喜びであり、この十年のソロキャンプにおける素晴らしい暇つぶしになっていた。


それから数ヶ月の時間が、静かに、しかし確実に流れていった。


季節は過酷な冬のピークを越え、雪はまだ深く残っているものの、日差しの温もりにほんの少しだけ春の訪れを感じられるようになっていた。


最初の頃は怯えた小鳥のようにいつも私の背中に隠れていたリアスティエーゼは、今では私と肩を並べて歩き、冗談を言って笑い合うほどに明るく快活な令嬢へと変貌を遂げていた。


「アイラ様! 見てください、今度は氷の矢を三本同時に出せましたよ!」


「ふふっ、お見事よ。でも、まだまだ精度が甘いわね。的の中心を正確に射抜けるようになるまで、今日の特訓は終わらないわよ?」


「ええーっ、アイラ様は本当に教え方がスパルタですね!」


私たちが中庭の雪原に作った雪だるまを的にして、キャッキャと楽しげに魔法の特訓をしていると、ザクッ、ザクッと雪を踏みしめる重い足音が近づいてきた。


「……おい」


振り返ると、そこには黒い軍服の上に分厚い毛皮の外套を羽織った、この地の主であるディーン公爵が立っていた。


手には、湯気を立てている銀製の立派なティーポットと、温かそうな焼き菓子が乗った籠が握られている。


最初の頃の、私を人質だと勘違いして激昂していた険しい表情はどこへやら。


最近の彼は、なぜか私たち……というより、私の方をやけに熱っぽい、それでいてひどく不器用な視線で見つめてくることが増えていた。


「何よ。また私たちが公爵家の中庭を勝手に使って特訓していることに、何か文句でもあるの?」


私がわざと冷ややかな声で言い放つと、ディーン公爵は気まずそうに青い瞳を逸らし、持っていた籠をゴホンと咳払いしながら差し出した。


「いや……そうじゃない。その……外はひどく冷える。鍛錬も結構だが、あまり根を詰めすぎると体を壊す。これを……温かい茶と菓子を持ってきた」


彼が差し出したティーポットからは、私が好きだと言ったアールグレイの香りが、雪の匂いに混じって微かに漂ってきた。


「あら、公爵様自らお茶の差し入れなんて、明日は槍でも降るんじゃないかしら?」


私が意地悪く笑って籠を受け取ると、彼の手が少しだけ私の指先に触れ、その途端、ディーン公爵はビクッと肩を震わせて慌てて手を引っ込めた。


彼の頬が、刺すような冷気のせいではなく、明らかに体温の上昇による朱に染まっているのが見て取れる。


「ば、馬鹿を言うな! 私はただ、客人であるお前が風邪を引かれては、看病で我が家の使用人たちに迷惑がかかると……そう思っただけだ!」


顔を真っ赤にしながら早口で弁解するその姿は、最前線で魔物と血みどろの戦いを繰り広げている屈強な騎士の顔とは程遠く、まるで初恋に戸惑う少年のように初々しかった。


どうやらこの不器用で堅物な北の公爵様は、数ヶ月間私と同じ屋根の下で過ごし、私がリアスティエーゼに堂々と接する姿を見ているうちに、あろうことか私にすっかり惚れ込んでしまったらしい。


「ふふっ……まあ、そういうことにしておいてあげるわ。ありがとう、公爵様」


私が彼に向けて少しだけ優しく微笑みかけると、ディーン公爵は一瞬呼吸を止め、さらに顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。


もちろん、私には最愛のジュリアン様という旦那様がいるのだから、彼のアプローチに応える気など毛頭ない。


しかし、この朴念仁な青年がどこまで私のペースに巻き込まれ、どうやって不器用な愛情表現を繰り返してくるのかを観察するのは、悪くない余興だった。


「さあ、リアスティエーゼ。公爵様のせっかくの好意なんだから、雪だるまの的当ては後にして、温かいお茶とお菓子をご馳走になりましょうか」


「はい、アイラ様! わぁ、このクッキー、アイラ様がお好きな王都の焼き菓子ですね!」


「……あぁ。君の好みを厨房の者に調べさせたからな。存分に食うといい」


ボソリと呟いたディーン公爵の言葉に、私は思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。


十年のクールタイムを埋めるための、私だけのソロキャンプ。


極寒の北の大地での生活は、思いのほか退屈することのない、賑やかで、そして心が温かくなる日々の連続になりそうだった。


舞い散る細かい雪の中で、私はリアスティエーゼと顔を見合わせ、二人で楽しげに笑い声を上げたのだった。

アイラのソロキャンプ開幕です。

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