第三話 毒キノコと勇者【2/3】
香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
焦げたパンの皮、じんわりとしたスープの湯気、そして……バターの風味。
それは、極限の空腹状態にある人間にとって、魔法に等しい誘惑だった。
「……う……?」
ハルトは、かすかにまぶたを開けた。
柔らかな布の感触。身体の下には藁を詰めた寝台。軋む木の床に、壁際でぐつぐつと煮える鍋の音。
――小さな、石造りの家。
その隅で、年老いた男が湯気の立つ器を両手に持ってこちらを見ていた。
「……目覚めたか、少年」
ひび割れた声。深いシワに白髪で無精髭を生やした体格のいい老人。
「あなたは......」
ハルトは気を失う前に現れた老人であると思い出す。
「まぁ落ち着け。あのキノコ......レッドデスキャップを食おうとするまでに腹が減ってたんだろ?まずは食えよ」
その手から器が差し出されると、ハルトの腹がきゅううう、と鳴った。
「……あ、ありがとうございますっ……!」
礼もそこそこに、ハルトは差し出された木椀を両手で受け取り、息もつかずにかき込んだ。
パンが浸されたスープ。決して豪華ではないが、今の彼には何よりのご馳走だった。
「落ち着いたら、ゆっくり話を聞かせてくれ」
男は笑った。
スープを飲み干し、ようやく落ち着きを取り戻したハルトは、頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。助かりました……」
「あぁ、お前みたいなのをずっと待ってたからな......」
「……待っていた?」
「いや、なんでもねえよ。で、お前……名前は?」
「あ、はい。神谷春人っていいます。高校生です」
「カミヤ......ハルト......?コウコウセイ?」
老人が首を傾げる。
(あぁ、異世界じゃ伝わらないか......)
「ハルトは名前で、カミヤが苗字です。学生です」
老人は薪をくべながら、ちらりとハルトを見やった。
「ほぉ、カミヤは家名か。ではハルトと呼ばせてもらおう」
「はい......それで、あなたは......」
「あぁ、すまんすまん。俺が名乗っていなかったか。
俺はこのヒルクレスト村で石工をやってる、ベンジャミンってもんだ。
石工の方はせがれに任せてるから、もう隠居みたいなもんだがな」
「ベンジャミンさん。お食事ありがとうございました!」
「あぁいい。気にするな。それでハルト……どこから来たんだ?」
「え、えっと……たぶん……異世界……です」
自分で口にして、恥ずかしくなるような言葉だったが、ベンジャミンの眉はぴくりとも動かなかった。
「......」
しばしの沈黙が流れる。
「イセカイ?そんな国があるのか?」
ベンジャミンは首を傾げた。
「あぁいや、国というか......俺もよくはわかってないんですが、この世界とは別の世界から来たって意味です......かね?」
ハルトの説明を聞いてもベンジャミンはポリポリと頭を掻くだけでピンと来ている様子はなかった。
「俺だけじゃ判断できねぇな。ちょっと婆さんに会いに行くぞ」
「ば、婆さん?」
「魔女だよ、魔女」
「えっ……?」
ハルトの脳裏に、“年寄りの魔女”というありふれたイメージがよぎった。
月明かりの下、ハルトとベンジャミンは村の外れへと歩いていた。
夜の空気はひんやりとしていて、草むらで虫がか細く鳴いている。
「……この時間に尋ねるのって迷惑じゃないですか?」
「気にすんな。あいつもお前が来るのを待ってたと思うからな」
ハルトは何も言えずについていく。
やがて見えてきたのは、鬱蒼とした森の手前にぽつんと建つ一軒の小屋だった。
草木に飲まれかけた石造りの家。屋根にはツタが這い、煙突からは微かに煙が上がっている。
ベンジャミンが重たい扉を「ドンッ」と叩くと、中から即座に怒声が返ってきた。
「誰よこんな夜更けに!あたしは睡眠時間を何より大事にしてるのよ!」
「うるせえ!ババァ!それよりこいつを見てやってくれ!」
ベンジャミンの怒鳴り返しに、扉が乱暴に開いた。
出てきたのは、ハルトの予想していた魔女のお婆さんとはかけ離れており、三十代後半か四十代前半にしか見えない、艶やかな赤髪の女性だった。瞳は鋭く、身に纏った赤いローブが靡く。
明らかに不機嫌な様子であった。
「ジジイ!ガキンチョなんて連れて何の用なのよ!」
「お前の方が年寄りだろうが、ババァ!」
「ババァって呼ぶな!」
ハルトは戸惑いながらも、ぺこりと頭を下げる。
「あ、あの……はじめまして。ハルトっていいます……」
魔女はハルトをまじまじと見つめた後、ふっと鼻を鳴らす。
「私はエルダよ。それで?このガキンチョがどうしたのよ」
エルダはぶっきらぼうに自己紹介を済ませるとすぐにベンジャミンの方へと視線を向ける。
「村外れの石碑の前で飢えて倒れていたんだ」
「あの石碑の前で......?」
エルダは何かを思い出した様に目を細める。
「あぁ、俺はこのハルトが......セオドアが言っていた、奴だと思う」
ベンジャミンの言葉にエルダは深いため息をつく。
「セオドアね......まったく五十年も経ってから厄介事を押し付けてくるとはね......」
エルダはそういうとハルトを顔を掴みまじまじと観察する。
女性の急な接近にハルトは少しドキっとして顔を赤面させる。
「言葉も通じるし、見た目も人間と変わらない。……けど、体の中は、ちょっと違うかしら」
「わかるのか?」
「そこらの魔法使いとは年季が違うのよ」
「さすが、村随一の魔法使いだ」
ベンジャミンの揶揄ったような口ぶりにエルダはきっと鋭い視線を向ける。
エルダは「ついてきて」と短く言い、ハルトを手招きした。
連れていかれたのは小屋の奥、薄暗い部屋に置かれた魔法陣の描かれた円卓。
「座って」
ハルトが言われるがままに椅子に腰掛けると、エルダは魔導具らしき杖を手にし、円卓の上に青白い光を灯した。
「少しだけ、魔力を使わせてもらうよ。危害は加えない。……たぶん」
「たぶん!?」
「大丈夫よ。死にはしないと思うわ。多分」
エルダが冗談めかして笑うが、ハルトは全く笑えなかった。
しかし次の瞬間、青い光が身体を包む。
「ひっ……光った!?」
突如、青白い光がハルトの身体を包み込んだ。肌の奥まで震えるような感覚。背筋がぞくりとした。
「な、なんですかこれ!?」
突如として身体が発光した事にハルトは驚嘆の声を上げる。
「魔法だから当たり前でしょ」
エルダはめんどくさそうに説明する。
「魔法......」
(俺、本当に異世界に......?)
「それで、ガキンチョはどこから来たの?」
エルダは魔法を行使しながら、ハルトに尋ねる。
「学校にいたと思ったら急にこの世界にいたんです。僕に知ってる限りだと異世界転移......だと思います」
「異世界転移......?」
エルダは眉を顰める。その時、ハルトの身体が強く発光する。
「――何よ......これ......」
「え?」
エルダはしばらく目を閉じ、何かを読み取るように集中し、それからぽつりと呟いた。
「スキル持ち。それも、ひとつやふたつじゃない。加護まである。これは……王都が嗅ぎつけたら放って置かないわよ......」
「……スキル?」
ベンジャミンもハルトと同調して首を傾げた。
「魔力に反応して能力が目覚める力の事よ。戦闘系、探索系、回復系――いくつか種類はあるけど、こんなに持ってるなんてまずありえないわ」
ハルトは呆然とする。
エルダは考え込むように顎に手を当てる。
「王都では三日前に勇者召喚の儀式をするって話があったのよ」
(勇者召喚の儀式......?)
「まさか……俺が……勇者とか、そういう……?」
「まあ、そう考えるのが妥当よね。このスキルと加護の量......異世界転移......このガキンチョが勇者だと思うわ」
エルダは肩をすくめた。
「ハルトが勇者なら王都で召喚された筈だろう?それが何故この辺境の村に?」
ベンジャミンがエルダに尋ねる。
「知らないわよ。大方、宮廷魔法使いのミスってところじゃない?」
「ははは!」
ベンジャミンが笑い声を上げる。
「こりゃ大変な事に巻き込まれたもんだ!ハルトも“セオドア”も!」
「すいません......そのさっきから度々名前が出てる“セオドア”ってのは誰なんですか......?」
「あぁ......“セオドア”ってのは俺の幼馴染だ。ハルト......お前がこの村に現れる事を予言した奴だよ」
「予言......?」
「ハルト、空腹に負けて石碑の前でレッドデスキャップ......キノコを食べようとしただろ?」
「あぁ......はい......でもキノコにバツがついた石碑が丁度あって、直前で思い止めたんです」
「あの石碑を作るように言ったのがそのセオドアだ」
「あの石碑がなかったら俺は......」
「あぁ。死んでいただろう」
「その人、セオドアさんは今はどうしているんですか!?」
ハルトの言葉にエルダとベンジャミンが顔を見合わせる。
「ついてこい」
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