第二話 勇者の師【2/2】
その夜。冒険者ギルドの雑踏のざわめきが窓ガラスを震わせる隅で、ハルトとエリナは例の男を見つけた。
ハルトは迷いなくその男に向かって歩みを進める。
「あ、ちょっとハルト!」
エリナもハルトを追いかける様にして後に続いた。
男は暗がりの片隅、壁を背に、酒杯を左手で持っていた。
二人が近づくと、男は目だけをこちらに寄越した。
「さっきは助けてくれて、ありがとうございました」
「礼などいらん。気まぐれだ」
男はぶっきらぼうに答える。
「俺はハルトって言います。お名前をお聞かせいただけませんか?」
ハルトが名前を名乗り、男を見つめる。
「……ビクトールだ」
男は静かに答えた。
「ビクトールさん。お願いがあります」
ハルトの言葉にビクトールと名乗った男は眉を顰める。
「俺に……戦い方を教えて下さい!!」
ハルトが深く頭を下げる。
「え?」
エリナは驚いて声を上げる。
ビクトールは杯を傾け、中身を飲み干すと短く息を吐いた。
「冒険者が他人に教えを乞うなどプライドの欠片もないのだな」
ビクトールの鋭い眼差しがハルトを見た。
「それでも、お願いします」
ハルトは顔を上げ、まっすぐに視線を受けとめた。
(俺は魔王を倒すために召喚された勇者かもしれない……もし本当なら、あんなモンスターにやられていては駄目なんだ……」
「俺はこの世界で戦う術を学ばなくてはならないんです」
数拍の静寂。店内の笑い声と、器の触れ合う音が遠のき、男の目の焦点が少年の奥を覗いたように細くなる。
「……そうか」
男は杯を置いた。左眉の傷が、わずかに歪む。
「明日の朝、風車の裏に来い。遅れたら二度と教えない」
それだけ言って、立ち上がる。
カウンターに硬貨を三枚置き、扉の前で足を止めた。
「私は甘くはないぞ……」
扉が閉まり、夜の風が一度だけ吹き込んだ。
夜明け、風車の裏。
露が草を縁取る冷たさのなか、ビクトールはもう立っていた。二人に木剣を投げる。
「まずは立ち方だ。足は肩幅、前後の幅は半歩。踵に体重を乗せるな。腰で構え、肩の力を抜け」
「こ、こう?」
「違う。胸が膨らんでる。斬る前に死ぬ」
言葉は刃のように容赦がない。
それでも、指摘の一つ一つには寸分の迷いもなかった。木剣が打ち込まれる位置、顎を上げた瞬間、視界の死角――すべて“死ぬ原因”とセットで突きつけられる。
「腕で振るな。腰で斬れ」
木剣がぶつかる。手から痺れが肘へ、肩へ走る。
「剣だけを見るな。敵を見ろ。肩、肘、足。動き出す部位が命令を出す」
言い終える前に、木剣が飛んでくる。反射が追いつかない動き出し速度。
何度も地面につっぷし、泥が顔に貼りついた。息が切れ、喉が鉄の味で満ちる。
「……っ、ぜぇ……」
「立てるうちは立て」
ビクトールは淡々と告げるだけだ。怒鳴らない。慰めもしない。
ただ、正しい位置に正しい圧を置き、何度でも同じ指摘を繰り返す。
日が傾くころ、足の裏は火傷のように熱く、手のひらには血豆が並んだ。
それでもハルトは、立ち止まりそうになる膝を叱咤した。
(――俺は立ち止まってはいられない!)
その言葉だけが、全身をもう一度前に押し出した。
稽古は日課になった。朝は風車の影で木剣、昼は依頼、夜はフォームの確認。
エリナは体力で食らいつき、ハルトは吸収の速さで追いすがる。二人の呼吸が合うほど、ビクトールの指摘は細かくなっていった。
ある日、街道で再びスナッチファングに遭遇した。
ハルトは一歩目の位置を狂わせず、肩の動きを先に読む。スナッチファングが踏み込む瞬間、わずかに腰が浮く。足の力が抜けた瞬間を狙い、刃を斜めに――
短剣が骨の間を滑り、獣が崩れる。
横からの影。エリナが受け、弾き、肩口から切り下ろす。
二人の動きは以前より滑らかだった。息切れはした。足は震えた。だが、視界は広く、恐怖の霧は薄かった。
「……悪くない」
いつの間にか後ろに立っていたビクトールが、ほんのわずかに顎を引いた。
「だが、慢心が一番の敵だ。忘れるな」
その夜、ビクトールはいつもの席で一人、杯を転がしていた。
酒の香に、油と鉄の匂いが混じる。コートの内側に隠した何かが、椅子の背に当たって小さく音を立てた。
彼は視線を落とし、片眉の古傷に指先を当てる癖を一度だけ出して、やめた。
(……冒険者などに情を移すとは……)
口に出さずに呟き、杯を空ける。
教えるつもりなど、本当はなかった。
彼の背中には、教えられる筋合いのない過去が幾重にも貼り付いている。名も、素性も、ここではビクトールという“借り物”。
それでも――
少年の目に宿った強くなりたいという色だけは、見過ごせなかった。
いつかの自分を見ている様で。
風車の羽根は日を追うごとに軽くなり、露店の果物は青から赤へ。依頼を重ねたハルトの袋には、銀貨が少しずつ溜まっていく。
冒険者を始めて一ヶ月が経とうとしていた。
「……これで、王都までの資金は足りる」
宿の部屋。
薄いカーテン越しに市場の喧噪が揺れる。ハルトは袋の口を縛り、深呼吸を一度した。
「王都に……行くの?」
エリナが尋ねる。ハルトは頷いた。
「あぁ。俺は王都で確かめないと行けない事があるんだ」
その言葉は喉を通るあいだ、少しだけ熱かった。
「なら、私も行く!」
「え……どうして?」
「仲間が真剣に目指してる。理由はそれで十分でしょ」
エリナは笑わなかった。真顔のまま、当たり前みたいに言った。
ハルトは目を見開き、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう。エリナ」
ハルトはそう言って下を向いた。
「ハルト?」
ハルトの様子がおかしい事にエリナが気付いて顔を覗き込んだ。
エリナは不思議そうな表情を浮かべている。
「エリナに言っておかなければならない事がある……」
「言っておかなければならない事……?」
(ウィンドミルについてからエリナにはずっと世話になっている。隠し事はしたくない……)
「俺はーーこの世界の住人じゃない」
エリナの呼吸の音が止まる。
「別の世界で暮らしていて気が付いたらこの世界に召喚されていたんだ……」
「それって……この間の解放祭で言われていた……」
エリナの言葉にハルトは頷く。
「俺はーー魔王を倒すためにこの世界に召喚された、勇者かもしれないんだ」
エリナの瞳が大きくなる。瞬きが一度。
しかし、すぐに彼女は、いつもの調子で拳を握った。
「なるほど!じゃあ、なおさら手伝わなきゃね!」
「お、驚かないのか?」
「驚いてるよ。けど、ハルトはハルトだよ!勇者だろうが何だろうが、もう私たちは仲間なのよ!」
エリナは笑顔を浮かべた。
「エリナ……ありがとう」
そのやりとりを、路地の陰で一人の男が聞いていた。
窓の外の通り、灯りと影の境で足を止め、顔だけをわずかに傾ける。
左眉の傷が、月明かりに白く浮かんだ。
(勇者……)
低く、喉の奥で笑いともため息ともつかない息を漏らし、ビクトールは夜の雑踏に溶けた。
闇のギルドで磨いた足取りは、今も鈍ってはいない。
「ハルトが勇者……」
誰にも聞こえない声で、誰にも届かない言葉を落とす。
彼は振り返らない。振り返らないまま、風車の影へ消えた。
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