第13話:夜明けの産声
時計の針が深夜二時を回った頃。
屋根を叩きつける雨音は未だ激しく、風の唸り声も収まる気配を見せない。
そんな嵐の夜の静寂を破ったのは、ほなみの小さな、けれど切迫した声だった。
「……孝文……さん……」
「ん……? どうした、ほなみ」
俺はソファで仮眠をとっていたが、すぐに跳ね起きた。
ほなみはお腹を抱え、苦痛に顔を歪めている。
額には脂汗が滲み、呼吸が荒い。
「お腹が……痛い……。さっきから、間隔が短くなってて……」
「まさか、陣痛か?」
「たぶん……。破水はまだしてないんですけど……」
予定日まではまだ時間があるはずだ。だが、赤ちゃんのタイミングなんて誰にも読めない。
俺は一瞬パニックになりかけたが、深呼吸をして自分を落ち着かせた。
ここで俺が慌ててどうする。大黒柱としての矜持を見せろ。
「大丈夫だ。落ち着いていこう。……ちょっと確認だけさせてくれ」
まずは時間を測る。間隔は十分を切っているようだ。調べてみたところ、これは本格的な陣痛だ。
次に病院への連絡。幸い、固定電話は生きている。
受話器を取り、事前に入力しておいた産院の番号をプッシュする。
『はい、霞ヶ浦みらい産婦人科です』
「あの、喜多ほなみの夫ですが、妻が陣痛を訴えていまして……」
状況を伝えると、助産師さんは冷静に指示を出してくれた。
すぐに入院の準備をして来てください、とのことだ。
だが、問題は外の嵐だ。
俺の車で山道を下るのは危険すぎるかもしれない。救急車を呼ぶべきか?
「……孝文、どうしたの?」
騒ぎを聞きつけて、サクラコが起きてきた。
眠そうな目を擦りながらも、状況を察したのかすぐに表情を引き締める。
「ほなみが産気づいた。病院に行くぞ」
「わかった! 私、準備する!」
サクラコは驚くほど冷静だった。
事前に用意していた「入院セット」のバッグを運び出し、ほなみの上着を用意する。
その手際の良さに、俺は救われる思いだった。
「よし、行こう。……アリス、留守番頼むな」
俺はアリスの頭を撫で、不安そうに見上げる瞳に「大丈夫だ」と言い聞かせる。
停電はまだ続いている。真っ暗な家の中に動物たちを残していくのは心苦しいが、今は一刻を争う。
外に出ると、風雨は想像以上だった。
横殴りの雨が視界を奪い、強風が車体を揺らす。
俺はほなみを後部座席に乗せ、サクラコを助手席に座らせると、慎重にハンドルを握った。
「ほなみ、大丈夫か?」
「は、はい……。うぅっ……」
バックミラー越しに見るほなみは、痛みに耐えながら必死に呼吸を整えている。
俺はアクセルを踏み込んだ。
頼む、この嵐を抜けさせてくれ。
山道は倒木や落石の危険がある。
ハイビームで先を照らしながら、慎重に、しかし可能な限り急いで車を走らせる。
ワイパーが激しく動き、雨粒を弾き飛ばす。
まるで世界中が敵に回ったかのような悪天候だが、不思議と恐怖心はなかった。
守るべきものが明確だったからだ。
「……孝文、電話!」
サクラコが叫んだ。
俺のスマホが着信を告げている。画面には『猫村』の文字。
こんな深夜に電話をかけてしまうのは少し気が引けるが……今は事態が事態だ。
電話を、ハンズフリーに切り替える。
『おーい喜多君! 無事か!? こっちも停電してるけど大丈夫かい?』
「猫村さん! 実は今、ほなみが産気づいて病院に向かってるんです!」
『な、なんだって!? この嵐の中でか!?』
猫村さんの驚愕の声。
だが、すぐに頼もしい言葉が返ってきた。
『わかった! 儂が先導してやる! 途中の道が土砂崩れで塞がってるかもしれないからね!』
「えっ、でも……」
『問答無用だ! もう出とるよ! 合流地点で待ってろ!』
通話が切れる。猫村さんが言っていた『合流地点』がどこなのかは分からない。だが、国道への道はあの道しかない。
無茶苦茶だ。だが、これほど心強い無茶苦茶はない。
山道を抜け、国道に出たところで、ハザードランプを点滅させた一台の軽トラが待っていた。
猫村さんの車だ。
俺たちが近づくと、軽トラがゆっくりと動き出し、先導を始めた。
「……ありがたいな」
「うん。……みんな、優しいね」
サクラコが、少し潤んだ瞳で前を見つめる。
◇
病院に着いた頃には、空が白み始めていた。
嵐はピークを過ぎ、雨脚も弱まっている。
ほなみはすぐに分娩室へと運ばれていった。
「頑張れよ、ほなみ!」
「ほなみちゃん、頑張って!」
俺とサクラコは、閉じていく扉に向かって声をかけた。
ほなみは苦しそうな表情の中にも、小さく頷いて見せた。
待合室のベンチ。
俺とサクラコ、そして駆けつけてくれた猫村さんが並んで座る。
時間は、残酷なほどゆっくりと過ぎていった。
中からは時折、ほなみの苦しそうな声が聞こえてくる。
その度に、俺の心臓は締め付けられるような思いがした。
代われるものなら代わってやりたい。だが、男にできることは、ただ祈ることだけだ。つくづく思う、男はなんて弱い生き物なんだろう、と。
「……大丈夫だよ、喜多君。奥さんは強い人だ」
猫村さんが、俺の肩に手を置く。
「……そうですよね。あんなに美味しいご飯を作れる人が、負けるわけないです」
「……孝文」
サクラコが、俺の手をぎゅっと握りしめた。
その手は小さく震えていた。
「ほなみちゃん、大丈夫だよね? 赤ちゃん、ちゃんと生まれてくるよね?」
「あぁ。大丈夫だ。俺たちの家族だぞ? そんなにヤワじゃないさ」
俺はサクラコの手を握り返し、自分自身にも言い聞かせた。
大丈夫だ。絶対に大丈夫だ。
一時間、二時間……。
どれくらい待っただろうか。
窓の外はすっかり明るくなり、嵐が嘘だったかのような青空が広がっていた。
朝日が待合室に差し込み、埃がキラキラと舞う。
その時。
『オギャアァァァッ! オギャアァァァッ!』
分娩室の向こうから、力強い産声が響き渡った。
世界で一番、美しい音色。
俺たちの時間が、再び動き出した瞬間だった。
「……生まれた……」
「生まれたっ! 聞こえたよ、孝文!」
俺とサクラコは顔を見合わせ、立ち上がった。
すぐに看護師さんが出てきて、満面の笑みで告げた。
「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ! 母子ともに健康です!」
「……っ!」
言葉にならなかった。
ただ、目頭が熱くなり、視界が滲む。
猫村さんが「やったなぁ!」と俺の背中を叩く。
サクラコは「やったー!」と飛び跳ねて、俺に抱きついてきた。
分娩室に入ると、ベッドの上に横たわるほなみがいた。
髪は汗で張り付き、顔色は白いが、その表情は聖母のように穏やかだった。
そして、その腕の中には、小さな小さな命が抱かれている。
「……お疲れ様。よく頑張ったな」
俺が声をかけると、ほなみはゆっくりと目を開けた。
「……孝文さん。……見てください。私たちの、樹くんです」
俺は震える手で、樹に触れた。
温かい。そして、柔らかい。
この小さな身体に、確かな命が脈打っている。
握りしめられた小さな拳は、まるで「これからこの世界で生きていくんだ」という決意を表しているようだった。
「……ようこそ、樹。俺たちのところへ来てくれて、ありがとう」
サクラコが、恐る恐る近づいてくる。
「……ちっちゃい。かわいい……」
「サクラコちゃん。今日からお姉ちゃんだよ」
「うん……! 私、絶対守るからね。樹くん」
サクラコが指を差し出すと、赤ちゃんはその指をぎゅっと握り返した。
その光景を見て、俺の涙腺はついに決壊した。
なんて、愛おしい光景なんだろう。
窓の外では、嵐に洗われた木々が、朝日に照らされて輝いている。
新しい一日の始まり。
そして、俺たちの新しい家族の物語の、本当の始まりだ。
俺は心の中で、天国の両親や、これまで支えてくれた全ての人たちに感謝した。
こんなにも素晴らしい奇跡を、ありがとう。
俺たちはこれから、もっと賑やかで、もっと騒がしくて、最高に幸せな毎日を送っていくことになるだろう。
その中心には、きっとこの小さな「樹」がいる。
そう確信できるだけの強さと温もりが、この部屋には満ち溢れていた。
烏骨隊長「うぉぉぉぉ! 産まれたのである!!」
クロエ「めでたいわね! まったく、ヒヤヒヤさせないでよ!」
作者「いやぁめでたい。そう言えば隊長の名前を今回発表すると言ったが」
烏骨隊長「そんなの今でなくてよい! 今は新しい命を歓迎するのであるぞ!」
クロエ「そうよ、鶏の名前なんて後回しよ! あぁ、なんて嬉しいのかしら!」
烏骨隊長「軍団も久しぶりに召集だ! ……それではいくぞ、せぇのー!」
烏骨隊長、クロエ、烏骨軍団、鷺ノ宮「「「「おめでとー!!!」」」」
作者「人間混ざってたぞ……?」




