第五章 大坂名人①
実はこの原喜右衛門、過去に将棋家の門人だったのである。
元々は当代名人宗看及び七郎の父である五世名人伊藤宗印の門人だったのだが、故あって弟子を破門になっている。
将棋史研究家の三宅青夢によると、破門に至った原因とは、喜右衛門が享保六年五月に出版した『象戯名将鑑』に不届きなことを書き立てたからだという。
『象戯名将鑑』は将棋史上稀に見る奇書であった、
全四巻のうち三巻までは定跡を扱っているのだが、第四巻は実戦譜集となっており、その指し手は、八幡太郎義家・鎌倉悪源太義平・鎮西八郎為朝・征夷大将軍源頼朝といった源平時代の武将達で、棋譜に説得力が増すようわざわざ解説が付されていた。
だが源平時代に今の形の将棋が指されていることはなく、言うまでもなくこれは偽作である。
喜右衛門は大衆受けを狙って、敢えて偽作を用いて棋書の出版をしていたのである。
併し、宗印の勘気を蒙ったのはこの偽作集のためではない。
『象戯名将鑑』の第一巻第八集に書かれている部分が問題とされたのだった。
喜右衛門は著書の中で、一世名人初代大橋宗桂の百回忌の取越し(期日を繰り上げての法要)のために将棋会を興行するので、その会場となる小堂の修繕費用を寄付するよう募ったのである。
その小堂というのは、喜右衛門の自己所有の物であったとされている。
それゆえ他の門人から、私腹を肥やすために寄付を募ったのではないかという声が上がったのも当然だろう
。それに、百回忌の取越しを、まだ没後八十九年しか経っていないのに行うというのもおかしな話であった。
喜右衛門の本心がどこにあったかは定かではないが、結果的にこの件が宗印の逆鱗に触れ、最終的に破門という結末となった。
喜右衛門は将棋家に対し人一倍尊敬の念があった一方で、何事にも捉われない自由奔放な発想がある人物であった。
権威に対しても畏れを抱かない豪胆さと反骨精神も持ち合わせていた。
喜右衛門のそういった部分が、『象戯名将鑑』の出版に至らしめたのだろう。
この事件以降自由な立場となった喜右衛門は、「棋界の御意見番」を自称し活動するようになる。
喜右衛門は慶安四年の生まれで、生国は筑前とある。
大坂は堂島新地に住むようになったのは、寛文十一年の二十五歳前後の頃で、在野の強豪棋士松本常古に師事し、その棋士生活は元禄時代を中心として浪花棋界の世話役の地位にあったとされている。
喜右衛門の将棋は華美で軽いところに特色があったとされ、全国有段者名簿である『将棊図彙考鑑』によると、四段として列されている。
だが残された棋譜を見る限り、四段の実力はなかったのではないかと後年の人々は分析している。
では、喜右衛門を四段と評価したのは一体誰か。
実はこの『将棊図彙考鑑』、喜右衛門自身によって書かれたものなのである。
残された種々の出版物から分かるように、喜右衛門はこの頃の将棋界に於いて、作家兼ジャーナリスト兼プロデューサーとして極めて優れた才能を発揮した人物であった。
享保二年に原喜鶴の変名で『将棊図彙考鑑』を出版し、享保六年に『象戯名将鑑』『将棋訓』の二冊を開板している。
炭屋大助と平野屋藤蔵の棋譜を『将棊図彙考鑑』に載せて二人を少年棋士として売り出したのも、喜右衛門の才覚に依るところであった。
棋譜だけに留まらず、『将棊図彙考鑑』には全国津々浦々の有段者及び愛棋家が掲載され、その身分も大名・旗本から町人に至るまで徹底したものとなっており、それが愛棋家には大いに受けた。
喜右衛門の取材力と情報力、大衆が求めているものを売り出すプロデュース力は正に天才的であった。
そんな喜右衛門であるが、兵助のことさえも大坂に居ながら知っているとは、やはり、その情報力が恐るべきものだということか、或いは兵助の棋力は天下に広く知られるほどになっているということだろうか。
*
鴻池新田は、本家のある船場今橋からは東へ二里近く離れたところにある。
宝永元年、幕府によって大和川の付替えが行われ、その結果大きな干拓地が生じたために、そこの開発権利を大和屋六兵衛・庄屋長兵衛の両名が落札した。
さらにその権利を鴻池三代当主善右衛門宗利が譲り受け、新田開発を行ったのが鴻池新田の始まりであった。
広大な新田の管理運営のために、鴻池新田会所と呼ばれる施設が建てられたのは、同じく宝永四年のこと。
鴻池家より派遣された支配人の管理下で、小作農人からの小作料の徴収、幕府への年貢上納、宗門改帳の作成、新田内での係争の裁定等様々な手続きが行われた。
そしてそこで、博奕が昼夜問わず秘かに行われているのだという。
兵助一行は、翌日四つ刻に堀江を発って、一旦堂島の喜右衛門宅へと向かった。
そこから喜右衛門の案内で、鴻池新田へと向かう手筈になっている。
余所者の兵助たちが会所に立ち入るためには、喜右衛門の存在が不可欠となる。
その堂島では、喜右衛門が羽織袴姿の正装をして、兵助たちのことを門前で待ちわびていた。
「御老体、そないな大仰な格好してどないしましたんや?」
大助が聞くと、
「今日は江戸対大坂のでっかい勝負が見られるんや。そないやったらわしが立会人を務めなあかん。せやさかい袴引っ張り出して来たんや」
大見得を切る喜右衛門の脇に、何故か大きなたらいが置かれている。
たらいには荒縄が巻かれ、その傍らには六尺はあろうかという天秤棒のようなものが転がっていた。
「へえさいでっか。ところで御老体、そのでっかいたらいはなんだす?」
「わしは腰が悪いさかい歩いて新田まで行くのんは敵わん。せやさかいおまえらにわしを担いでって貰お思てんねや。大助に清三郎、あんじょう頼むで」
喜右衛門はいつものように大声で笑った。
「冗談じゃねえや。なんで俺が爺さんの駕籠舁きみてえな真似しなくちゃなんねえんだよ。銭払って駕籠に乗れば済む話じゃねえか」
清三郎がふくれっ面をして言うと、
「乗物を使えば銭がかかるがな。たらいに乗っておまえらが担げばタダや。嫌とは言わせへんで。わしが行かんことには会所に入れんのやで」
大久保彦左衛門がたらいに乗って登城したエピソードへのオマージュです。




