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第四章 大坂の棋士たち③

       *


 大助の話によると、原喜右衛門は堂島新地に居住し、よわい八十を超えた老齢ではあるが、今でも精力的に将棋を指しているらしい。

 その実力もさることながら、真に特筆すべきは生き字引とも言える知識量で、古今の将棋界について詳しく、これまでに棋書も数冊出しているそうだ。


 関西将棋界の重鎮ともいうべき人物であるが、江戸でも数年にわたり暮らしたことがあるらしく、江戸の将棋にも通じているという。

 喜右衛門ならば、必ず望み通りの話が聞けるはずだと、大助は胸を張った。


 三人は久々の再開に話が尽きなかったが、長屋の外にはもう夕闇が迫っている。

 堀江から堂島へは堂島川を挟んだ対岸にあり、距離で言えば僅かだが夜道に橋を渡るのは心許ない。

 今日のところは堀江に宿を取り、翌日に喜右衛門を訪問することにした。


 翌朝、江戸からの一行三人に大助も加わり、四人で喜右衛門邸へと向かった。


 この頃の堂島は、有名な堂島米会所の設立がなされたばかりで、まだ本格的な取引は始まっていなかった。

 だが米廻送はそれ以前から続いており、その量年間百万石とも言われている。

 将来的には米取引はさらに活発化することが期待され、町中は異様な熱気に包まれている。


 喜右衛門はその堂島に、庭付きの瀟洒しょうしゃな邸宅を構えていた。

 塀の外からは中を窺い知ることはできないが、中々の広い敷地なのは分かる。


 表玄関から声をかけると、前掛け姿の、まだ新顔らしき二十歳くらいと思われる女中が応対に出てきた。

 大助が、

「御老体おりまっか?」 

 と尋ねると、女中は要件も聞かずに四人を中に通した。

 不思議に思って聞けば、喜右衛門は時間が許せば取り敢えず誰にでも会うのだという。


 四人が書斎に案内されると、喜右衛門はそこで無数の本に囲まれて、今も何かを調べものをしているようだった。

 来客に気づくと上目遣いでじろっと、まずは兵助のことを睨んだ。

 剃髪をして顔の皺深く、着流し姿でそこから延びる手足は細く筋張っているが、眼だけは大きくギョロついている。

 真っ白な口髭は胸元辺りにまで達していて、あたかも仙人のように見えた。


「おまえら江戸者か?」

 兵助たちが挨拶をする前に、喜右衛門から言った。

 耳が遠いのかやけに声が大きい。


「わしに何の用や?わしに分かることやったら何ぼでも答えるで。そん代わりおまえらにもわしからいろいろ聞かせてもらうで」

 老人は眼をギョロつかせながらガハハと豪快に笑った。

 喜右衛門の声の大きさと威圧感に兵助は及び腰であったが、新兵衛が真先に一歩前に身を乗り出し、真剣な表情をして喜右衛門に問いかけた。


「大坂で印将棋が盛んな場はどこでしょうか?」

 この質問に、兵助と清三郎は違和感を覚えた。

 新兵衛が大坂に来た理由は、棋書の版権を仕入れるためのはずである。

 そのために版元を紹介してほしいという話だった。

 相手は棋書発行経験のある関西棋界の大物だというのに、版元の話はせずに大真面目に印将棋が行われている場所などを聞いている。


 新兵衛と喜右衛門は、暫くお互いに睨み合ったままでいた。

「あんた公儀のお役人みたいなこと聞きまんなあ」

 喜右衛門の眼が怪しい光を帯びて、ニヤリと顔を歪めて笑ってから、

「よっしゃ教えたるわ。あんたが何を企んどるか知らへんが、生い先短いわしには関係あらへん。印将棋言うたらな————」

 勿体つけるように一呼吸開けてから、

「————鴻池の御屋敷や」

 したり顔をして言った。


「ま、町方にございますか?それでは公儀の取り締まりが入るはずでは?」

 博奕が寺社や中間部屋でよく行われるのは、町奉行の取り締まりが及ばないからである。

 喜右衛門の言う鴻池とは、両替商鴻池善右衛門だということが新兵衛には直ぐに分かった。

 即ち、町方である。


「そんなもんあらしまへんわ。袖の下たんまりもろて、奉行所のほうでも見て見ぬふりや」

「なんと…それはいつ頃からそのような様子でございますか?」

 新兵衛は何故か動揺が隠せないようである。


「んなもん昨日今日始まったこととちゃうで。何年も前からこんな調子や。浪花なにわじゃ銭金持ってるもんが一等偉いんや。金持ちは誰も侍の言うことなんか聞きゃせん。侍のほうでも承知してることや」

 喜右衛門は辺りを憚らずに大声で笑った。

 一方の新兵衛は俯き加減で益々考え込んでしまっている。

 新兵衛が黙っているので、ここが好機とばかりに兵助が喜右衛門に問いかけた。


「おじいさん、この大坂で一番強い棋士はどなたでございますか?」

 喜右衛門は、今度は兵助のほうを向いてニヤリと笑いを浮かべながら、

「その鴻池のぼんや————」

「えっ!」

 驚きの声を上げたのは大助である。


「あのだんさんが今そないなってるんか…」

 鴻池と言えば天王寺屋・平野屋と同様十人両替を務め、この時期には押しも押されもせぬ大坂一の豪商として、その栄華を極めていた大店である。


 鴻池の始祖は山中新六直文といい、戦国武将山中鹿之助の長男であったとされている。慶長年間に伊丹にほど近い鴻池郷にて醸造業を営み、清酒の製造に日本で初めて成功したことから財をなしたという。

 屋号は地名から取って鴻池屋と称した。

 直文の八男である善右衛門正成が摂津大坂に進出し、初め海運業を手掛けていたが、後年に両替商に転じて事業を拡大した。

 この善右衛門正成を鴻池財閥の初代と数え、鴻池家の当主は代々善右衛門を名乗ることになっている。

 多額の大名貸によって成長を続け、全盛期には全国百十藩が鴻池家からの融資を受けていたと言われているから、その力は大名諸侯のみならず幕政にも大きな影響を及ぼしたのである。


 江戸では紀伊国屋文左衛門のような新興の豪商が、個人の才能によって彗星のごとく現れ、無茶な金の使い振りにて一代でその身代を潰して経済の表舞台から去って行ったが、上方の豪商は同族にて経営を行い、今でいう企業統治を徹底して成長を続けた。


 鴻池家は日本最大の財閥として君臨し、幕末まで長くその栄華を保つことになるのである。

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