それぞれの思いと、再会と
連れて行かれたのは藍后の部屋だった。部屋と言っても、専用の中庭に湯殿もある広い場所で、
「皆には青の間と呼ばれているわ」
藍后はそう言いながらアリアの手を取ったまま湯殿へ入り、自らアリアの襦裙と下着を脱がせ、アリアが恥ずかしがる間も与えず、
「目を閉じてなさい」
と、アリアの頭から湯をかけた。
「洗い終わるまで頭を上げては駄目よ」
藍后は己の襦裙が濡れるのを厭わず、アリアの頭を洗い流していく。墨を落とされ湯殿から出ると、柔らかい絹布で髪と体を拭かれた。
「月の間から着替えを持ってこさせたわ」
藍后の側仕えの女官たちに、上は薄い緑、下は白の襦裙を着付けられた。上も下も金糸の刺繍が入っている。その襦裙は、実はアリアが月の間の衣裳部屋で一目見て気に入った物だったが、明らかに高価な物だったので触れてもいなかった。
「衣裳部屋の服がほとんど手つかずのようだけれど、気に入らなかったかしら? 実は、皇帝陛下に頼まれて、わたくしが選んだ物だったのよ」
「いえ、すごく綺麗な服ばかりで………一着だけお借りして、自分の服と交互に着ておりました。この服も、私、緑色が好きなので、すごく好きです」
「アリアは緑がよく似合うわ。そうそう、落ちていたので拾っておきました。あなたの簪よね」
翡翠の簪を渡される。
「はい。ありがとうございます」
「髪を結いましょう。そこへ座って」
鏡の前の椅子に腰を下ろすと、藍后が櫛で髪を梳かしてくれた。
「あの、私の髪、短くなりましたか?」
「………右側の耳の後ろを切られたようね。縦に一房切られているから、全体的には短くなっていないわ。ただ、結い上げると、右側が落ちてきてしまうかもしれない」
藍后が短くなった部分を鏡越しに見せてくれた。思っていたよりは少ない量だったが、切られた事は悲しく、そして恐怖だった。耳元で聞いた切られた時の音が耳の奥に残っている。思い出し、再び泣きそうになったが、寸前で堪えた。それを見て藍后が、
「ごめんなさいね。わたくしがもっと早くに会いに行っていればこんな事にならなかったのに」
今回アリアとアルスの二人を呼び出したのは藍后ではなかった。
「いいえ、藍后様のせいではありません」
「わたくしはこの前アリアに会った後、その事が皇帝陛下にばれてしまって、勝手に会いにいっては駄目と言われてしまったの。余計な事を言うからですって」
「そうだったんですか」
「どうしてわたくしに会おうとしたの?」
アリアが後宮から出る方法を聞こうと思っていたと告げると、
「それは簡単よ。不祥事を起こせばいいの。あなたと弟君に墨をかけ、この髪を切った者たちの様にね」
鏡に映る藍后の顔は笑顔だったが、目が笑っていなかった。その目に怖さを感じ、
「あの、あの方々はどうなるのでしょうか」
「一時代前なら死罪でしょう。後宮では女同士の意地悪は日常だけれど、それが皇帝陛下の目や耳に入ってはいけません」
死罪の言葉にアリアは驚き振り向いた。そのアリアに対し藍后は優しい目で、
「大丈夫。せいぜい後宮から出されるだけでしょう。あの子たちは皇帝陛下の妾妃候補として後宮入りした貴族の娘たちでしたが、皇帝陛下が彼女らを側に置く事は、もうけしてありません。本来、妾妃候補から外れた娘は、ある程度の地位に就く者へ下げ渡されるのが常ですが、今回はそれをせず、家に戻されるでしょう。後宮から実家へ戻されると言うのは、その娘とその家にとって最大の恥です。嫁ぎ先はないでしょうね」
「………」
藍后の口調は柔らかだが、内容はむごいものだった。アリアの哀しげな顔に、
「アリアが気に病む事はないわ。あの子たちは自分で責任をとるだけ」
「でも」
「髪が乾いたわね。結い上げて、短くなった所は飾りで止めましょう。これはどうかしら?」
藍后が差し出したのは、銀で作られた花の髪飾りだった。
「綺麗!」
「ありがとう。これは、先々帝がわたくしにくださった物なのよ」
「そんな大事な物、使えません!」
「あげないわよ。貸してあげるだけ。これはわたくしも大切にしている物なの。さ、鏡を向いて」
藍后はアリアの髪を結い上げると、翡翠の簪を挿して、短くなって落ちてきそうな部分に銀の花飾りをつけた。
「これで落ちてこないわ。うん、よく似合うわ。いいわ。わたくし、息子はいるけれど、娘はいないから、楽しいわ」
藍后は、鏡に映るアリアを見つめながら、
「わたくしはね、先々帝の隆綜嘉様の妾妃であり、一番寵愛を得たのに、陛下の大事な御子を月足らずで死産してしまったの。皇子でした。後宮では、御子を流した者や亡くした者は、二度と皇帝陛下のお側に上がれないわ。わたくしもそうだった。後宮を出されそうになった。その頃、春の宴の席で綜嘉様が仰ったの。『慶嘉との間に子供を作れ』と。皆は宴の席で陛下が悪ふざけをされたと思ったわ。でもわたくしは綜嘉様の仰った通りに事をなし、綜藍陛下を産みました。そして母后となった時、わたくしは綜嘉様の愛を感じました。綜嘉様はわたくしを母后とするべく、わたくしに慶嘉様の子を産むよう命じたのです」
藍先はアリアの赤い髪に飾られた髪飾りに触れて、
「わたくしは幸せです。でも慶嘉様をその為に利用しました。その事だけは、ずっと悔いています。アリア、どうかあの方を幸せにしてあげてほしいの」
「藍后様」
「アリアは慶嘉様を好きなのでしょう?」
「………」
「どうして答えないの?」
「好き、です。好きだと思います。でも、私、慶嘉様とお会いした回数が三回で、そのうち二回は弟のフリをしていて、三回目はついさっき、頭も顔も墨で真っ黒の状態で………恥ずかしい。慶嘉様は私をお嫌いになったかもしれません」
藍后はアリアの手を取って椅子から立たせると、大きな姿見の前に連れて行った。
「自分の姿を御覧なさい。これほど美しい娘はこの後宮にもいないわ。炎のように赤い髪に、赤みをおびた茶色の目。肌は真珠を溶かしたよう。あなたは西の国とこの帝国、両方のいい所をすべて持っている。自信をもちなさい。この姿を見れば、あの意気地なしも本気を出すでしょう」
「意気地なし………」
ひどい言われようだが、間違っていないだろう。
「慶嘉様は皇帝としては申し分ない方よ。武術の腕もあるわ。でもね、襲い掛かってくる敵は怖くないのに、蟷螂が怖いのよ。蟷螂の方が動きが読めないんですって」
「西の離宮では、子猫を怖がっていました」
「でしょう? そういう方なのよ!」
アリアと藍后はクスクス笑いながら、
「そういう方だから、アリアがガンガン押して、迫ってあげてちょうだい。喜ぶわよ」
「はい」
藍后はアリアに薄化粧を施すと、
「弟君の様子を見て来るわ」
と言って、部屋を出て行った。
アリアは一人、鏡の前の椅子に座って息を吐いた。鏡に映る自分の姿は、藍后が褒めてくれただけあって普段よりも綺麗に見える。だからこそ、
「さっきの、なかった事にしてほしい」
鏡に向かって呟く。墨をかけられ髪を切られた自分は、慶嘉の目にどう映っただろう。悲しくて泣いてしまったから余計にひどい顔だっただろう。
「これなら、慶嘉様、綺麗だと思ってくださるかしら」
せっかく藍后が着飾ってくれたのだ。今度こそ、何事もなく、この娘姿を慶嘉に見せたい。そう思っていると、どたどたと誰かが走ってくる音が聞こえた。
「誰?」
椅子から立ち上がる。また誰かが自分に対し危害を加えに来たのではないかと身構えていると、
「姉さん! 大丈夫?」
部屋に入ってきたのはアルスだった。アリアの服と同じように金糸の刺繍が入った濃い緑色の深衣を着ていた。ただ、肩につく長さの赤い髪はまだ濡れており、結っていなかった。
「うわあ、姉さん、綺麗だね」
弟とはいえ、異性からの賛辞は嬉しい。
「アルスも、その服、すごく似合っているわ」
「へへ。藍華が選んでくれた」
照れながら笑うアルスの後ろから、藍后が、
「アルスも髪を結いましょう。鏡の前に座ってちょうだい」
「はい、藍后様」
アルスはすっかり藍后に懐いたようで、大人しく椅子に腰かけた。櫛を手にした藍后が、アルスには見えないようにアリアの耳元に口を寄せると、
「様子を見に行って正解だったわ」
「どうされました?」
「皇帝陛下が、弟君を抱きしめていました」
藍后はそれ以上言わず、アルスの髪を梳かし始めた。アリアは藍后の言葉の意味を考えた。そして先日言われた事も合わせて思い出した。
『皇帝陛下は、あの坊やにご執心のようね』
『大層お気に召していると聞いているわ。忙しいのにわざわざ時間を作って街へお忍びで出ているのは、あの坊やに会う為ですって』
『皇帝陛下が、弟君を抱きしめていました』
アリアは考え、考え、行きついた結論に目を見開いた。
「あ、あの、藍后様」
小声で話しかける。
「なあに?」
藍后も小声で返す。髪を梳かしてもらっているアルスは、気持ちがいいのか鼻歌を歌っているので聞こえていないようだ。
「大変失礼な事を申し上げますが、皇帝陛下は、あの、男を、好きなのでしょうか?」
「男女で言えば、もちろん女が好きよ。妾妃も既に迎えているし、皇女もいます」
でも、と話は続き、
「弟君の事は別みたい。そうとう入れ込んでいるわ」
「!」
「わたくしが様子を見に行かなければ、間違いなく押し倒していたでしょうね」
「!!」
声にならない悲鳴を上げたアリアに、
「姉さん、どうかした?」
鏡に映るアルスに聞かれ、アリアは笑顔を無理やり作り、
「ううん、何も。アルス、藍后様に髪を整えていただくなんて、よかったわね」
「うん。ありがとうございます、藍后様」
「いいのよ。二人ともわたくしの子供のようだわ」
「………嬉しいな。僕は母さんの思い出がないから、すごく嬉しいです」
「あら、そうなの?」
藍后がアリアに視線を向けると、
「私が三つ、アルスが一つの頃、母は西の国へ戻ってしまいました。私もアルスも、母の思い出がないのです」
「そうなの………」
藍后はアルスの髪を高い位置でまとめ上げ、
「それなら早く謁見の間へ行きましょう」
「謁見の間?」
「アリア、わたくしと皇帝陛下、それに慶嘉様があなたたちを探していたのは、驚くような方が宮殿へいらっしゃったからです」
「驚くような方?」
「その方は僕たちに関係ある方ですか?」
「ええ、そうよ。その方は、西の国『ソリュシュエレン』の王女であり女将軍である、アイシャ・ムフタール殿下。あなたたちの………お母様よ」
姉と弟はこれ以上開かないぐらい茶色の目を見開いた。
墨がついた服を着替え、一足先に謁見の前に戻った隆慶嘉太上皇は、港に到着した西の国『ソリュシュエレン』の船団の指揮官であるアイシャ・ムフタールと、椅子に腰かけ大きな机を挟んで向かい合っていた。
「お待たせして申し訳ない」
「いえ、こちらこそ申し訳ございません」
先日と違い重苦しい雰囲気のアイシャは、胸元が大きく開いた西の国の装束姿で、大きな紅玉がついた額飾りをつけている。港に現れた十隻の船団の指揮官として宮殿を来訪したアイシャではあるが、本当は、
『勝手に国を出てきたのがばれてしまい、追っ手が来て捕まった』
らしく、アイシャの背後には強面の男が立っている。アイシャの副官だと言う、焦げ茶色の髪をしたその男は、
「アイシャ殿下は国王の反対を押し切り国を出奔されました。こうして追って来てみれば、なんとこの帝国内にお子がいると仰る、殿下のお子であれば、我が国の王族であり、男子であれば王位継承権を持つ方です。すぐさまお引渡しください」
本国では一軍の大将でもあるらしい男の威圧感は強く、慶嘉は愛想笑いを浮かべながら、
「もう少しお待ちください」
そんな慶嘉に、アイシャが小声で「すまない」と言ってきた。
(どうしたものか)
慶嘉は対応に苦慮していた。アイシャはアリアとアルスの存在を祖国に隠していたようで、今回それが露見した事になる。男の言う通り、アルスは王位継承権を持ち、アリアもまた、王族であるのだ。
西の国と帝国は、大きな砂漠を挟んだ大国同士である為、交易は主に海上航路を使っている。砂漠には北と南に蛮族が存在しており、それらは西の国と帝国、双方の共通した敵であるので、西の国と帝国の間には敵愾心はなく長く友好国として過ごしてきている。
ここでアリアとアルスの引き渡しを拒む事は、外交政策上好ましくない。
それは分かっているが、分かってはいるのだが、
(わたしはどうしたらいいのだろう)
慶嘉は悩んでいた。もし今皇帝であったらな、迷わなかったかもしれない。だが、自分は隠居した太上皇である。
(二人を西の国へ渡したくない)
と思ってしまうのだ。
(二人はどもかく、藍華も遅いな)
アルスを湯殿へ連れて行った皇帝だが、まだ戻ってこない。だいぶ時間が経っている。
(早く戻って来てほしい)
責任を息子に押し付けたい慶嘉である。
そんな思惑が伝わったのか、誰かがこの謁見の間に近づいて来たのか、侍従たちがざわめく声が聞こえた。
「………」
慶嘉は皇帝だと思い、椅子から立ち上がり迎える体制を取った。大きな二枚扉が音を立てて開き、飛び込んできたのは、
「母さんはどこ!」
「お母様はどこ!」
赤い髪の姉と弟だった。
二人は謁見の間をきょろきょろと見回し、やがて、自分たちと同じ赤い髪の女性を見つけると、見る間に大粒の涙をぽろぽろ流し、
「お母様!」
「母さん!」
走り出した。
アイシャは椅子から立ち上がって、腕を広げると、走り込んできた二人を抱きしめた。
「アリア! アルス!」
誰もが一目で分かるほど三人は似ていた。髪も目も顔立ちも、そして雰囲気も。親子の再会に、慶嘉は自然に顔がほころんだ。
「二人とも顔を良く見せて。ほら、顔を上げて。ああ、二人とも会いたかった。本当に、本当に会いたかった」
幼子の様に泣く子供たちを抱きながら、アイシャもまた涙を流す。
「ごめんなさい。あなたたちを置いていって。ごめんなさい、会いに来なくて。会いたかったわ、本当に会いたかった」
強面の男も、慶嘉も、何も言わずに親子をしばし見守った。