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第一話

西洋化が進みつつある和暦1921年の日ノ本のひのもとのくに

千年前に妖の者たちが起こした”物の怪の動乱”により、東側は人間中心の国、西側は妖中心の国に分断され、それぞれの均衡を保っていた。



東部の中心都市・京之宮きょうのみやに住む人間の少女、茅吹かやぶき 蜜葉みつはは、元は華やかな暮らしをしている貴族だった。しかし父親が事業で失敗し、財産を失った末に失踪した。


残された蜜葉と病弱な母親のてるは、住んでいた屋敷を売り払って小さな崩れかけの家屋に引っ越した。2人は生活のために朝から晩まで働いていたが、元々病弱だった照は体を壊し、ついに数年後に倒れてしまう。

蜜葉はそんな母親を支え、生活費と母親の薬代を稼ぐために、身を粉にして料亭で給仕と雑用として懸命に働いた。



そんなある日、蜜葉は”太客に粗相をしたから”と身に覚えのない罪を着せられ、料亭を解雇されてしまう。次の仕事を見つけたものの、過酷な労働環境に身を置いたことで体を壊し、蜜葉は気管支系の病気を患う。


母親は弱った体を起こして泣きながら蜜葉に謝り続け、遂には『足手まといになりたくないから自分を殺してくれ』と懇願する。泣き言を言う母を励ましながら生活を続けるも、貯蓄は底をつき、蜜葉も心身ともに疲れ果ててしまっていた。

しかし、お金がないと生活はできないため、体に鞭を打って泣きながら新しい仕事を探そうとしていた蜜葉の元に、1人の男が現れた。


◇◇◇


「この仕事なら雇ってもらえるかもしれない…ゴホゴホッ…。」


私、茅吹蜜葉かやぶき みつはは1枚の求人が書かれた紙を見つめていた。かつては手書きだった広告も、今では印刷技術の発展で大量生産が可能になっていると聞いた。茅吹家がまだ栄えていたころに一度だけ印刷工場を見せてもらったことがあるけど、幼い私は機械の大きさと騒音にびっくりして泣いてしまった記憶がある。


「…蜜葉…。」


書面を見つめていたら、後ろから布団で寝ている母のか細い声が聞こえた。失職してからは薬どころか満足な食事もさせてあげられなくて、母は日に日に弱っていく一方だった。


「どうしたのお母さん。…ゴホッ。…私、そろそろ次の仕事探してくるね。」

「…蜜葉、私を殺しなさい。……貴女には、貴女の人生があるのだから…。」


私は母の言葉を聞かなかったフリをして、話を続ける。枕元に置いてある桶に布を浸し絞って、母の顔を優しく拭いていく。


「またそんなこと言って。面白くない冗談はやめてって言ったでしょ?…ゲホッ。」

「私は…蜜葉の足手まといになりたくないの…お願い…お願いだから…。」

「……お母さん、やめて…やめてよ…。」


私は必死に母を励ますが、母はひたすら泣きながら死を懇願してくる。そんな様子を見ていると、現状をどうしようもできない自分の不甲斐なさをまじまじと感じ、目に涙が滲んだ。私は母が変な気を起こさないように、周りのものを片付け、鋭利なものも見えないところに隠した。


ぐしぐしと乱暴に目を拭ってみるけど、一度出た涙は止まることなく次々と溢れ出る。だけど、泣いたところで現状はどうにもならない。お金がなければ、生活すらできない。求人の紙を懐にしまい、玄関に向かって履物を履こうと屈んだその時、家の玄関が勢いよく開け放たれた。



「なんや、湿った空気してんな。なあお嬢さん、あんたがここの家主か。」



私は屈んだまま、声のする方を見上げた。

そこには、真っ白な髪に真っ赤な瞳を持つ、京之宮の蛇神として恐れられている蛇神一族の当主、篠崎雪也様が佇んでいた。篠崎様は懐から手拭いを取り出すと、私の涙を拭き取った。


「今は埃被っとるけど、あんたは美人さんやな。そんな泣きなさんな、可愛いお顔が台無しや。」


突然の出来事に、私はすっかり涙が引っ込んでしまった。されるがまま涙を拭かれ、篠崎様の顔を見つめる。


「し…篠崎様。」

「………篠崎様、か。俺のこと知ってるんやな。」

「そ、それはもう…。京之宮で篠崎様を知らない者はいません…。けほけほ。」

「それは過大評価しすぎやと思うけど、まあ…ありがとさん。」


蛇神一族である篠崎家は、比較的最近日ノ本の東部に拠点を移した、爵位を持たない宝石商だった。以前働いていた料亭でも噂は流れてきており、彼と商談をしたり仕事を共にしたと語るお客様が結構いたのだ。


それに、神秘的な蛇を彷彿とさせるあの見た目に黄色い声を上げる者もおり、彼は商人としても男性としても有名な人であると私は認識している。


「今日は、あんたにある話をしに来たんや。聞いてくれるか?」

「は、はい…。今、お茶を出しますので…お茶請けはありませんが、お許しください…。…あ、母は今病気で臥せておりまして…寝たままで申し訳ありません…。」

「あーあーあー、気にせんといて。俺のことは構わんくていいから。お茶もいらん、気持ちだけでええ。お母さんも寝かせとき、病人に無理させるほど鬼やない。蛇やけど。」


台所に向かおうとする私を、篠崎様は乱暴な口ぶりで引き留める。威圧的な声色ではあるけど、私を責めて追いつめようとする意思は感じられない。

というかそもそも、篠崎様のようなお方がこんな貧乏母子に何の用なのか。


「単刀直入に言うわ。俺と結婚してくれや、蜜葉。」

「………?」

「何言ってんねんこいつって顔しとるな。まあ聞いてや。」


そう言うと、篠崎様は玄関の式台に腰を掛けて座る。私は彼に勧められ、彼の正面に少し離れて座った。


彼の話はこうだった。篠崎様は貴族としての爵位が欲しいがために、私との結婚の提案をしてきたのだ。実は、茅吹家は大昔に財産を失ったものの、爵位だけは残っていたのだった。父が私に借金と共に爵位も押し付け逃げたため、今私の元にある茅吹家の財産に成り得るのは、この埃をかぶった爵位だけだった。


「結婚してその爵位をくれたら、あんたさんのお母さんの病気も治したる。良い病院に入れて、治療を受けさせたる。どうや?悪くないやろ。」


彼の言葉は非常に魅力的だった。だけど、即決するにはあまりにも現実味のない話だった。


爵位が欲しいから結婚したいとのことだけど、篠崎家ほどの家なら喜んで娘を嫁がせる家が圧倒的に多いはず。そうして、貴族との繋がりも爵位も手に入れることができるはずなのに、どうして私なのか。


「『他にもええとこのお嬢さんはいるのに、何で私なの?』って顔しとるな。」

「え?あっ…。」

「素直な女は嫌いやあらへん。教えたる、あんたさんが以前働いていた月見屋で見かけて、一目惚れしたからや。」


月見屋。それは私が以前働いていた料亭の名前だった。

確かに、何度か篠崎様が来店していたのは話で聞いている。だけど、私は彼と顔を合わせたこともないし、給仕したこともない。私の知らないどこかで、見られていたということなのか。


「ええ女や思ったんや。これは絶対嫁さんにしたい思って調べて、今日に至るわけや。」


そう言われて、私は深く追及することはしなかった。同僚の1人に、月見屋の客である貴族に見初められて結婚して退職した者を見たことがある。彼も、そういう客の1人ということなのだと解釈した。


(結婚…。)


私はゆっくりと彼の顔を見る。色白で整った顔が、微笑みながらこちらを見ていた。蛇を彷彿とさせる赤く鋭い目でじっと見られ、身動きが取れなくなったように感じる。


辛うじて顔を背け、部屋の奥で寝る母の様子を見る。か細く呼吸をし、目を凝らしてみないと動いてすらいないように見えてしまう。


「俺はあんたから爵位が貰える。あんたは俺からお金による恩恵を受けられる。それでお母さんも治したれる。」

「あう…。」

「こんな良い条件、逃したらどうなるん?必死こいて日銭貯めても、それまでにお母さん死んでしまったら、意味ないで?」


彼は私に顔を近づけ、小さな声で訴えかける。彼の程よく低い声が、私の耳と脳に響く。薄く微笑んではいるけど、馬鹿にしているわけではない、けど真意も読めない不思議な表情をしている。


(…私のためじゃない…お母さんのために結婚すれば良いんだ…。)


彼の言っていることは嘘かもしれない。だけど、今のままでは現状を打破できそうな未来が見えない。彼が私を利用したいと言うなら、私も彼を利用するまで。



私は彼の申し出に応じる決意をした。

母だけでも助けてもらえるのなら私はどうなっても良いと、彼の声に答える。


こうして、その日のうちに私と篠崎様の結婚が決まった。

後日篠崎様の手配した業者により私たちの少ない荷物がまとめられ、運び出された。私と母は長く暮らしていた崩れかけの家屋を後にした。


この時、私はまだ知らなかった。

彼が私に抱える、大きな感情と執着を。

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