第01話-1◆泥と牙と足あと
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森を抜ける少し前、まず鼻に来たのは町の匂いではなかった。
泥だ。
湿った獣の毛と、腐った木の根と、腹にたまるだけでうまくもなさそうな肉の匂い。それが風下からどっと流れてきた時点で、俺は荷袋の紐を肩に掛け直した。
「リリィ、後ろ」
「うん」
返事は早い。早すぎる。
俺が横目を向けると、リリィは傷んだ薄衣の裾を握ったまま、一歩下がった。足元はもう悪い。森越えで細い足はかなり来ているはずだが、本人は背筋だけはまっすぐにしようとしている。
頑張り方が危ない。
「走るな。転ぶ」
「転ばな――」
言い終わる前に、木の根へつま先を引っかけかけた。
俺は外套の端でリリィの肩を引き、ついでに自分の背中側へ回す。
「ほら転ぶ」
「まだ転んでないです」
「転ぶ前に止めたんだ」
リリィが少しだけむっとした顔をした。いい。むっとできるなら、まだ動ける。
俺の左肩で、白い丸いものがふくらんだ。
「君ってのは、子供に言葉を投げる時も石ころみたいだねえ」
「やわらかく言ったら転ばないのか」
「言い方の話をしてるんだよ。まったく」
エイヴァは羽づくろいをするふりをして、首だけ森の奥へ向けていた。小鳥の姿になっても、目だけは年寄りだ。見ているものが多い。
木の陰が揺れた。
太い鼻先が出る。泥を固めたような毛皮。左右に曲がった短い牙。背は低いが、胴が太い。突っ込まれたら子供の身体など簡単に飛ぶ。
泥牙猪だ。
肉は臭い。皮も安い。魔石も小さい。なのに力だけはある。
最悪ではない。だが、腹の減った旅人にとってはかなり腹の立つ相手だ。
「……もう少しで町だったんだがな」
「町に着いたら、ごはん、買えますか」
リリィが俺の背中越しに小さく訊いた。
俺は斧の柄を握る。正直に言えば、買えるかどうかは魔石次第だ。もっと正直に言えば、俺が町に入れるかどうかも怪しい。
それを今言っても、猪は待たない。
「買う。まずあれをどける」
「食べられる?」
「まずい」
「じゃあ、がんばって倒すの、少し悲しいですね」
「倒す理由がまた一つ減ったな」
俺がそう言うと、エイヴァが「ちちっ」と鳴いた。笑ったのか呆れたのか、鳥の顔では判別しにくい。
泥牙猪が前足で地面をかいた。
来る。
俺は一歩、右に出た。リリィとエイヴァを背中から外さない位置。猪の突進路に俺だけを置く。足場は湿っている。正面から止めると滑る。左の根が少し高い。あそこに前足が乗る。
突進。
泥の塊が低く走ってきた。
怖がる暇はない。怖がる前に距離を見る。鼻先、牙、肩の高さ、後ろ足の蹴り。傭兵の仕事で覚えたのは、強い相手の倒し方より、雑に強い相手を安く片付けるやり方だ。
俺は斧を振りかぶらない。大きく振ると遅い。
牙を避け、肩をぶつける寸前で半歩ずらす。猪の前足が根に乗った。重い胴が浮く。
そこへ、斧の背を首の横へ叩き込んだ。
鈍い音。
猪の体が横へ折れ、泥をまき散らして転がった。近くの細い木が一本、折れた。土の上を滑った巨体が、根にぶつかって止まる。
まだ動こうとしたので、俺は首筋へ刃を入れた。無駄に暴れさせると、こっちも汚れる。
遅かった。
跳ねた泥が鎖帷子と外套にべったり付いた。顔にも来た。右耳の欠けたあたりまでぬるい。
「……そう来るか」
「グローさん、顔が」
「わかってる」
袖で拭った。余計に広がった。
リリィが言葉を探すように口を開け、閉じる。目だけが忙しい。笑っていいのか心配していいのか、迷っている顔だ。
「笑うなら今だぞ」
「笑ってないです」
頬が少しふくらんでいる。
エイヴァは俺の肩からぴょんと跳ね、泥のかかっていない枝に移った。
「いやあ、実に勇ましい。町の門番が見たら、さぞ入れたがらない姿だねえ」
「鳥は黙ってろ」
「ぴっ」
普通の小鳥のふりをするな。遅い。
俺は泥牙猪の腹を浅く裂き、臭い臓物を避けて魔石だけ取り出した。小さい。指先で弾くと軽い音がした。旅費にはなる。だが、子供用の服と靴、食料、水、薬草、できれば寝床。そこまで数えると、音の軽さが腹に来る。
リリィがそっと近づいた。
「わたし、持ちます」
「持つな。臭い」
「でも、役に立ちたい」
まっすぐ言われると、困る。
俺は魔石を布に包み、荷袋の浅いところへ入れた。それから泥のついていない干し肉の端を一つ出して、リリィに渡す。
「じゃあ食え」
「え?」
「倒したあとの仕事だ。食わないと歩けん」
「それは、役に立つことですか」
「倒れないのは役に立つ」
リリィは干し肉を両手で持った。大事なものみたいに見つめてから、小さくかじる。固くて少し顔をしかめた。
少し歩き出してから、リリィが泥の上を指差した。
「グローさん」
「あ?」
「こっち、町の方に足あとがあります」
俺は振り返った。
泥牙猪のものとは違う。細い靴の跡が、森の浅いところから町の方へ続いている。新しくはない。雨に少し崩れている。大人の足ではない。
「人間の子供か」
「たぶん。でも、つま先が外を向いてる。急いでたみたい」
リリィはしゃがみかけて、ふらついた。
俺は襟の後ろをつまんで止める。
「見るのはいい。倒れるな」
「倒れてないです」
「二回目だぞ」
リリィが口を結ぶ。悔しそうだが、目はまだ足あとを追っていた。
エイヴァが枝から飛び戻り、リリィの肩に乗る。
「よく見つけたね。足あとを見る時は、自分の足も見な。君の足が先に音を上げるよ」
「うん」
俺は足あとをもう一度見た。
町へ向かっている。今すぐ追うようなものではない。だが、リリィはちゃんと見ている。守られるだけの荷物ではない、と本人が言いたがっている理由はわかる。
「覚えとけ」
「はい」
「役には立った」
リリィが少し固まった。
「……今、ほめました?」
「報告した」
「ほめたみたいでした」
「なら、そういうことでいい」
リリィは嬉しそうにしたあと、少し不満そうに眉を寄せた。難しい顔だ。
エイヴァが胸を張る。
「アタシの分は?」
「おまえ、さっき腹の足しにもならんとか言われたら怒るくせに、食う時だけ一人前だな」
「一人前ではないよ。小鳥前だ」
「量がわからん」
「そこからもう間違ってるんだよ」
仕方なく、干し肉を爪の先ほど裂いて差し出す。エイヴァは一瞬だけ目を輝かせ、それからわざとらしく咳払いした。
「まあ、受け取ってあげよう」
「偉そうな毛玉だ」
「白い賢者とお呼び」
「白い食費だ」
リリィが今度こそ少し笑った。
それだけで、泥牙猪を倒した意味は少し増えた。
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