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豪奢な公爵邸の寝室、微睡みの中でリリアーヌの寝顔を見つめていると、不意に、私の胸の奥に閉じ込めていた古い記憶の蓋が開くことがある。
それは、色彩を欠いた灰色の世界。私がまだ「完璧な人形」として生きていた頃の、遠い日の記憶だ。
レナード公爵家の嫡男として生まれた私は、物心ついた時から、周囲の期待という名の「型」に嵌められて生きてきた。
魔導、剣術、帝王学。何をさせても、私は瞬時にその本質を理解し、教師たちの想像を超える成果を出した。大人たちは口々に私を「神童」と称え、未来の国を背負う逸材だと持ち上げた。だが、私にとっては、すべてが予定調和の繰り返しに過ぎなかった。
他人の感情は透けて見え、欲求は手にとるようにわかる。この世はあまりに底が浅く、退屈な硝子細工の箱庭のようだった。
そんな私に、初めて「痛み」という名の鮮烈な色彩を与えたのが、私が十歳の時に出会ったリリアーヌだった。
王宮で開催された、子供たちのための園遊会。
色とりどりの花が咲き乱れる庭園の片隅で、彼女は一人、噴水の縁に座っていた。当時、彼女はまだ七歳ほどだったはずだ。ヴァリエール公爵家の可憐な愛娘として、すでに「学園の至宝」の片鱗を見せていた彼女を、私は遠巻きに眺めていた。
その時だ。
一人の高慢な令息が、リリアーヌに意地悪を仕掛けた。彼女が大切に抱えていた、亡き母の形見だという青い魔石のブローチを奪い取り、笑いながら茂みの奥へ投げ捨てたのだ。
普通の子供なら、泣き叫ぶか、大人に助けを求めるだろう。
だが、リリアーヌは違った。
彼女は一滴の涙も流さず、ただ、その令息を射抜くような冷たい目で見つめた。その瞳は、幼子特有の無垢さなど微塵もなく、深淵のような暗さを湛えていた。
『……あなたは、自分が何をしたか分かっていないようね』
彼女が静かに口を開いた。その声の低さに、からかっていた少年たちがたじろぐ。
リリアーヌは立ち上がり、ドレスが汚れるのも構わず、自ら茂みの棘に腕を傷つけながらブローチを拾い上げた。そして、傷口から流れる赤い血を、あえて自分の頬に塗りつけたのだ。
『助けて、なんて言わないわ。……でも、あなたが私を傷つけ、王家への献上品であるこのブローチを壊そうとした事実は、明日にはあなたの家を焼き尽くす火種になる。私の血は、その証拠よ』
彼女は微笑んだ。その頬に流れる血の赤さと、氷のような微笑。
少年たちは恐怖に顔を引き攣らせて逃げ出したが、私はその場から動けなかった。
ああ……なんて、凄絶な生き物なんだ。
私はその時、生まれて初めて「震え」を経験した。
彼女は、自分が弱者であることを理解した上で、その弱さや傷さえも「武器」に変えて相手を破滅させようとしていた。その苛烈な魂に、私はどうしようもなく惹きつけられたのだ。
私は彼女の元へ歩み寄り、膝をついて、自分のハンカチで彼女の頬の血を拭った。
『おせっかいよ、レナード公爵令息』
『いいや、私はただ、君のその美しい戦いぶりに見惚れていただけだよ。……リリアーヌ嬢。君が将来、誰かを地獄へ落としたいと願うなら、その時は私を呼んでほしい。私が、君の最も鋭い剣になろう』
幼い私の言葉に、彼女は不信感を露わにしながらも、小さく頷いた。
それが、私と彼女の「血の契約」のようなものだった。
それから十年以上の歳月が流れた。
私は彼女の成長を、常に影から見守り続けてきた。
彼女がエドラス王子という、救いようのない凡夫と婚約した時も、私は反対しなかった。なぜなら、彼女がその婚約を「目的」ではなく、何らかの「手段」として利用していることを知っていたからだ。
そして案の定、エドラスはマリアという浅はかな女に溺れ、リリアーヌを裏切った。
世間は彼女を「捨てられた惨めな女」と呼んだが、私にとっては、ようやく待ち望んでいた「収穫の時」が来たに過ぎなかった。
彼女が私の執務室に現れ、『私を惨めに捨てさせてください』と言ったあの日、私は狂喜で叫び出したいのを必死で抑えていたのだ。
「……ん? ヴィンセント……?」
回想の霧を振り払うように、リリアーヌが目を覚ました。
寝起きの、わずかに掠れた声が、私の耳朶を甘く擽る。
彼女は私の視線に気づくと、わずかに眉を寄せ、私の頬に手を伸ばした。
「そんなに熱い目で見つめて……。何を、思い出していましたの?」
「君が初めて、私の世界に火をつけた日のことだよ。……あの園遊会の、血まみれの少女のことを」
私がそう告げると、リリアーヌは「ふふっ」と低く、艶やかに笑った。
「まあ、随分と昔の出来事を。……あの時から、あなたは変わらないのね。他人の不幸や痛みを、美しい宝石のように愛でる。……本当、救いようのない悪趣味だわ」
「君限定だよ、リリアーヌ。君が流す血も、君が抱く殺意も、私にとってはどんな聖歌よりも気高い。……さて、目覚めの一杯には少し強いかもしれないが、面白い知らせが入っている」
私はサイドテーブルに置いていた、数通の封筒を彼女に見せた。
一つは、公式な廃嫡の通達。もう一つは、幽閉された元婚約者、エドラス王子からの支離滅裂な「謝罪と復縁を乞う」手紙だ。
リリアーヌは、眠気を吹き飛ばしたように目を輝かせ、その手紙を手に取った。
エドラスの筆跡は、恐怖と困窮でひどく乱れている。
『リリアーヌ、愛しているのは君だけだ。マリアに騙されていたんだ! 頼む、公爵に口添えして私をここから出してくれ! これは君にとってもチャンスだぞ』
……読むに堪えない、醜悪な命乞いだ。
リリアーヌはそれを一通り眺めると、無造作にベッドの下へ放り捨てた。
「……退屈ね。あんなに威勢よく私を断罪した方の末路が、これかしら? 謝罪なんて、何の娯楽にもなりませんわ。地獄へ落ちるなら、せめて最後まで私を呪い続けてほしかったのに」
「同感だ。期待外れもいいところだ。……だが、安心するといい。彼には、謝罪する暇もないほど、忙しい日々を送ってもらう手はずになっている」
私は彼女の腰を引き寄せ、その耳元に唇を寄せた。
「明日、あの塔へ行こうか。……君に婚約破棄を突きつけたあの男が、泥水を啜りながら、君の足元に縋り付く様を。……それを眺める君の横顔を、私は一番近くで鑑賞したいんだ。この私のわがままを聞いてくれるかい?」
リリアーヌは、私の首に腕を回し、満足げに微笑んだ。
その瞳には、かつての園遊会で見せた、あの「毒」を含んだ光が宿っている。
「ええ。最高のティータイムになりそうですもの、ヴィンセント」
彼女が私の唇に、そっと自分の唇を重ねる。
それは愛の誓いなどではなく、さらなる破滅への招待状。
私は彼女に狂わされ、彼女は私の狂気を糧にして、より一層残酷に、美しく咲き誇る。
窓の外、夜明けの光が王都を照らし始めていた。
だが、私たちの世界は、これからさらに深く、暗い夜へと突き進んでいく。
リリアーヌが、すべての敵を蹂躙し、私の腕の中で、本心で微笑むその時まで。




