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深い夜を切り裂いて走る馬車の揺れは、今の私にとって子守唄よりも心地よかった。
向かいの席に座るリリアーヌは、窓の外を流れる闇を見つめている。先ほどまでの、あの修羅場を演じきった高揚感の残滓が、彼女の白い頬をわずかに赤く染めていた。
私はあえて声をかけず、その横顔を瞳の奥に焼き付ける。
銀色の髪が、車内の微かな灯りを受けて真珠のような光沢を放っている。彼女は今、何を考えているのだろうか。復讐を遂げた虚無感か、あるいはこれから始まる新しい「地獄」への期待か。
「……ヴィンセント様。そんなに見つめられては、毒が移ってしまいますわよ」
リリアーヌが、視線だけを私に向けた。唇の端に浮かぶのは、隠しきれない嘲弄の笑みだ。
「毒ならば、三ヶ月前にすでに回っている。全身の血管に、君という名の猛毒がね。……今さら浄化されるつもりもない」
私は身を乗り出し、彼女の膝の上に置かれた細い手を取った。
指先は、驚くほど冷えていた。あんなにも鮮やかに王家を壊してみせたというのに、その体は、一人の女性としての脆弱さを抱えたままだ。そのギャップが、私の独占欲を猛烈にかき乱す。
「君の家――ヴァリエール公爵家には、すでに根回しを済ませてある。エドラスとマリアが仕掛けた不当な罪状はすべて、明日には公式に否定されるだろう。君の父上も、君が私の庇護下に入ることを……いや、実質的に私の婚約者になることを、二つ返事で承諾された」
「父らしい判断ですわ。無能な王子に媚びを売るより、この国の喉元を掴んでいる公爵閣下に娘を差し出すほうが、家のためになると踏んだのでしょう」
「ひどい言い方だ。……だが、その冷徹さが好きだよ、リリアーヌ。私はエドラスとは違い、君のすべてを愛している」
私は彼女の手を自分の唇に押し当てた。
彼女は拒まない。それが、愛ゆえの沈黙ではないことを私は知っている。彼女にとって私は、復讐を完遂させるための最高の「道具」であり、今この瞬間も、私をどう利用すれば最善かを計算しているに違いない。
それでいい。むしろ、そうでなくては困る。
やがて馬車は、王都の喧騒から離れた森の奥、レナード公爵邸へと到着した。
鉄柵の門が重々しく開き、整列した使用人たちが無言で頭を下げる。彼らは皆、私の狂気を知っている。そして今日から、この屋敷に「本当の主人」が降臨したことも悟っているだろう。
私は彼女を抱き上げ、車外へと降り立った。
「降ろしてくださいませ。歩けますわ」
「嫌だね。君は今、世界で一番尊い『罪人』だ。泥の付いた靴で、私の屋敷を汚してほしくない」
軽口を叩きながら、私は彼女を二階の一際豪華な寝室へと運んだ。
そこは、私が彼女と出会った日から、この日のために整え続けてきた部屋だ。最高級のシルクの壁紙、深紅の絨毯、そして四柱式の大ベッド。
ベッドに彼女を横たえると、リリアーヌは不敵に微笑んだ。
「ここは、お城の牢獄よりも豪華な檻ですこと」
「気に入ってくれたかな? 君が望むものは、宝石でも、他人の首でも、明日にはここに揃えてみせよう。……ただし、この部屋から一歩でも外へ出る時は、私の鎖に繋がれてもらうがね」
私は彼女のドレスの襟元に手をかけ、ワインで汚れた生地を指でなぞった。
「さて。まずは、その醜い残骸を脱ぎ捨てようか。君の肌に、エドラスの記憶を一欠片も残しておきたくないんだ」
私がベルを鳴らすと、控えていた侍女たちが現れ、手際よく彼女を浴室へと導いていく。
私は独り、寝室に残された長椅子に身を沈めた。
窓から見える王宮の方向では、今頃、憲兵たちが慌ただしく走り回っているはずだ。エドラスの横領、マリアの偽証、そして王家を揺るがす売国の証拠。それらはすべて、私の執務室の机の上で「完成」されたものだ。
リリアーヌが自力持ち込んだ事実を、私が百倍の破壊力を持つ「真実」へと書き換えた。
あの王子は、明日には王位継承権を剥奪され、北の最果ての塔へ幽閉されるだろう。そして、あの男爵令嬢は……。
「旦那様、報告書が届いております」
影の中から、私の影――影護官が現れ、一枚の紙を差し出した。
「読め」
「畏まりました。エドラス王子は地下牢にて発狂。己の無実を叫び続けておりますが、誰も耳を貸しません。マリア・ドレイクは、取調室にてすべての罪をエドラス王子になすりつけようとしておりますが、彼女が『自ら署名した』告白書がすでに受理されており、絶望的な状況です」
「……ふむ。マリアには、私からのささやかなプレゼントを贈ったか?」
「はい。彼女が最も欲しがっていた『美しさを保つための特効薬』を。……中身は、一度飲めば嘘をつけなくなり、二度と人前に出られなくなる遅効性の毒でございます」
「よろしい」
マリアは鏡を見るたびに、自らの招いた愚かさと、リリアーヌへの非道を思い出すことになるだろう。
私は満足げに目を細めた。
復讐などという言葉では生ぬるい。
リリアーヌの横顔を曇らせた代償は、死よりも重い絶望で払わせる。それが、リリアーヌに魂を売った私の誠実さだ。
やがて、浴室の扉が開いた。
湯気とともに現れたリリアーヌは、薄いシュミーズ一枚を纏い、濡れた銀髪を肩に垂らしていた。
石鹸の香りと、彼女自身の甘い香りが部屋に充満する。
私は立ち上がり、彼女の元へ歩み寄った。
鏡の前に座らせ、自ら、熱対流式魔導機を手に取り、その美しいリリアーヌの髪を乾かし始める。
「ヴィンセント様……公爵閣下が侍女のような真似をなさるなんて、世間が知れば驚きますわ」
「私は、君の前では一人の男でありたいだけだよ。君に人生を狂わされた、哀れな虜囚だ」
私は髪の間から覗く、彼女の美しい瞳を時より見つめた。
彼女の脈打つ鼓動が伝わってくる。リリアーヌは今、何を考え、何を求めているのか。
「……リリアーヌ。エドラスがいなくなって、満足したかい?」
鏡の中の彼女と、視線がじっと、ぶつかる。
リリアーヌは、一瞬だけ寂しげな、だがすぐに氷のように冷たい笑みを浮かべた。
「満足、ですって? いいえ……あんな程度では足りませんわ。私は、私を否定したこの国の者たちすべてが、私の足元で跪くまで止まりません」
「ああ……。素晴らしい」
私は歓喜に震えた。
救われたことで満足するような女性なら、ここまで愛しはしなかった。
彼女はどこまでも高く、どこまでも傲慢に、地獄の業火の中でも美しく咲き続けようとする。
「ならば、次はどこの国を壊そうか。どこの一族を滅ぼそうか。君が望むなら、私はこの大陸すべてを戦火に包み、君の戴冠式の焚き火にしてもいい」
私は彼女を後ろから抱きしめ、鏡越しにその唇を塞いだ。
リリアーヌの手が、私の後頭部に回される。
彼女の爪が、私の皮膚に食い込む。痛みとともに、確かな悦びが脳を焼く。
(そうだ……もっと私を壊してくれ、リリアーヌ。君が地獄の女王になるのなら、私はその足元に横たわる、最も忠実な猟犬にでもなってみせよう)
夜はまだ長い。
元婚約者のエドラスが冷たい石畳の上で絶望に打ち震えている頃、私たちは、贅を尽くした檻の中で、さらなる破滅の計画を愛し合うように語り合う。
窓に映る、私を見つめるリリアーヌの瞳。
その瞳に宿る、昏い情熱。
やはり世界で一番美しいのは、君だ。リリアーヌ。




