第1話 メリーさんの電話
夏休みに入って三日目の夜だった。
窓の外では蝉がまだ鳴いていて、湿った夜風がカーテンをわずかに揺らしている。時刻は午後十一時を回ったところ。
二階の自室で、桜庭ユキは数学の宿題と格闘していた。
正確には、格闘するふりをしながらスマホでSNSを眺めていた。
三角関数のプリントは机の端に追いやられ、シャープペンシルはペン立てに戻されている。まあ夏休みはまだ長い。明日やろう。いや来週やろう。再来週でもいい。
そんなことを考えながら、ユキはベッドに寝転がってタイムラインをスクロールしていた。
そのとき、スマホが震えた。
着信。番号非通知。
「……なに、これ」
ユキは眉をひそめた。こんな時間に非通知なんて、ろくなものじゃない。
無視しようかと思ったが、間違い電話の可能性もある。一応出ておくか。そう思って通話ボタンをタップした。
「もしもし?」
数秒の沈黙。
かすかにざわざわとした、風のような雑音が聞こえる。
そして
「……わたし、メリーさん」
少し高い、少女の声。
ユキの指先が、一瞬だけ冷たくなった。
「今ね、あなたの街にいるの」
声はゆっくりと、一語一語を区切るように続けた。抑揚のない、感情の読めない声。
都市伝説そのままの台詞回し。ユキは思わずベッドの上で身体を起こした。
「……は?」
「すぐに会いに行くから。待っていてね」
ぷつん、と通話が切れた。
ユキはしばらくスマホの画面を見つめていた。非通知。履歴には番号が表示されていない。
「なに……今の……」
心臓がどくどくと脈打っている。いや、冷静になれ。どう考えてもイタズラだ。夏休みに暇を持て余した誰かの悪ふざけ。クラスの誰かが番号を回したんだろう。
そう自分に言い聞かせて、ユキはスマホを枕元に置いた。
だが、ベッドに横になっても気になって眠れなかった。
——五分後。
スマホが震えた。非通知。
ユキは唾を飲み込んでから、通話ボタンを押した。ここで怯えたら負けな気がする。
「もしもし」
「わたし、メリーさん。今ね、あなたの最寄り駅にいるの」
同じ声。同じトーン。ユキは反射的に窓の外をちらりと見た。
最寄り駅は私鉄の小さな駅で、自宅からは歩いて八分ほど。住宅街の中にぽつんとあるような無人駅だ。この時間、人通りはほとんどない。
「……ふうん。で?」
できるだけ平静を装って言った。声が少しだけ上ずったのが自分でもわかった。
「今から、あなたの家に向かうわ」
ぷつん。通話が切れた。
ユキは唇を噛んだ。階下ではリビングのテレビの音が微かに聞こえる。お父さんとお母さんはまだ起きているようだ。
下に行こうか。いや、「変な電話が来た」なんて言ったら大事になる。お父さんは心配性だから、警察に電話しかねない。
とりあえず、もう一回かかってきたらはっきり「やめろ」と言おう。
ユキはそう決めて、スマホを握りしめたまま待った。
五分が経った。
十分が経った。
最寄り駅からうちまで八分。とっくに着いていてもおかしくない。
十五分が経った。
来ない。電話も鳴らない。
なんだろう、この中途半端な感じ。怖がらせるなら怖がらせるで、ちゃんと最後までやってほしい。
ユキはだんだん恐怖とは別の、苛立ちのような感情を覚え始めていた。
二十分。
二十五分。
三十分。
さすがにおかしい。
「……飽きたのかな」
そう呟いた瞬間、スマホが震えた。
非通知。
ユキは即座に通話ボタンを押した。今度は恐怖よりも、「遅い」という気持ちのほうが勝っていた。
「もしもし」
「わたし、メリーさん。……あのね、ちょっと聞きたいんだけど」
声のトーンが変わっていた。
さっきまでの不気味な囁きに、わずかに、困惑のようなものが混じっている。
「あなたの家の近くに、セブンイレブンってある?」
「……え?」
「セブンイレブン。コンビニの。赤と緑と橙の看板の」
「あるけど……」
長い沈黙。
「……セブンが見つからなくて……ファミマがあったからそっちかなと思って進んだんだけど……」
「は?」
「見つからないから、とりあえずコンビニがある方が正しいと思って……ファミマがあったからそっちに行ったの」
「…………」
ユキは一瞬考えた。
確か、駅から出て右に行くと踏切があり、その近くにファミマがあったはずだ。
「あんた、間違ってるよ」
「え?」
「そっちは逆方向。セブンは駅から出て左」
「…………えっ」
「ファミマって、駅から出て右の踏切がある方でしょ」
「そ、そうだったかしら……」
ユキはこめかみを押さえた。
恐怖はとっくに消え去っていた。代わりに、なんとも言えない脱力感がじわじわと全身を覆っている。
「……あのさ、Googleマップ使いなよ」
「ぐーぐる……?」
「地図アプリ。スマホに入ってるでしょ。青いピンみたいなアイコンの」
「あ、これ?使ったことないけど……」
画面を操作する音に混じって、「えっと」「あれ」「ここ押すの?」という独り言が漏れてくる。
「……起動した」
「よし。画面に地図が出てるでしょ。青い丸が今の自分の位置」
「うん……なんか丸が動いてる」
「ナビ機能を使って。検索バーに駅の名前を入れて、経路案内を」
「あれ、広告が出た。閉じ方がわからないわ」
「右上のバツ!」
「押したら別のアプリが開いちゃった」
「戻って!!」
「どうやって戻るの?」
ユキは深く、深く息を吸った。
そして、静かにスマホを耳から離した。
「もしもし?ユキちゃん?ねえ、聞いてる?今ね、また別のファミマが——」
ユキは通話終了ボタンを押した。
窓の外では相変わらず蝉が鳴いていて、階下ではテレビの音が聞こえる。
なにも変わらない、いつもの夏の夜。
ユキはスマホを枕元に置いて、ベッドに倒れ込んだ。
「…………なんだったんだ、今の」
スマホが光った。見知らぬ番号からのSMSがきている。
『ごめんなさい。今日はもう帰ります。また来るから。——メリーさん』
ユキは天井に向かって、盛大にため息をついた。
「……勝手にすれば」




