第一章 親父の背中と、江戸への降下
親父の地獄
東京都練馬区。坂上家の裏庭には、鈍く重い打撃音が響き渡っていた。
「……ッ!」
肺から空気が強制的に絞り出される。
身長180センチを超える屈強な肉体が宙を舞い、容赦なく固い土の地面に叩きつけられた。
「どうした信長。その程度か」
土煙の向こうから、見下ろすように声が降ってくる。
坂上真一。海上自衛隊のトップたる海将であり、俺の父親だ。
五十歳とは思えないその体躯は、岩山のように分厚く、隙というものが一切存在しない。
「クソッ……まだだ!」
俺――坂上信長は、口の中に広がった鉄の味を吐き捨て、跳ね起きた。
防衛大学校を卒業し、陸上自衛隊に入隊。地獄と呼ばれる過酷な訓練をくぐり抜け、25歳で1等陸尉、さらには最精鋭であるレンジャー部隊の隊長にまで上り詰めた。
北辰一刀流と鹿島神流、そして自衛隊徒手格闘を融合させた『北辰無双我流』も免許皆伝。
誰が見てもエリート街道のど真ん中。だが、この巨大な親父の背中には、まだ指一本届かない。
俺が渾身の踏み込みで放った右の正拳突きは、真一の分厚い掌に軽々と受け止められた。
その瞬間、真一の纏う空気が一変する。
「ええか? 信長」
普段の厳格な標準語から、ドスの利いた広島弁への変化。
それが、親父の『本気』のスイッチだ。
「オドレはまだ地獄に浸かっとらん。半人前や」
ギリィッ、と手首を握り込まれ、全身の骨が軋む。
「国民に地獄を見せる気か? 兵士が地獄に浸かって進まんと、国民は守れんのじゃ!」
直後、視界が反転した。
受け身を取る暇すらない完璧な投げ。背中から地面に激突し、俺は完全に意識を飛ばしかけた。
「……今日のところは、これくらいにしといたる」
薄れゆく意識の中で、親父の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、俺は地面の土を強く握りしめた。
(海じゃねぇ。俺は陸で見返して、絶対に親父を超えてみせる……!)
悔しさを噛み殺し、俺は静かに目を閉じた。
***
「……隊長。坂上隊長」
「……ん、ああ」
部下の声で目を覚ます。
練馬駐屯地。自分の部隊の仮眠室だ。実家での手痛い敗北から戻り、泥のように眠っていたらしい。全身の筋肉が軋むように痛む。
「お疲れのようですから、あと少し休んでいてください。次の演習ミーティングまでまだ時間があります」
「悪いな。……少し外の空気を吸ってくる」
重い体を起こし、俺は仮眠室を出た。
左腕にはめられた相棒、G-SHOCK(RANGEMAN)のデジタル時計が、正確な現在時刻を刻んでいる。
ポケットからソフトパックのメビウス10ミリを取り出し、金色のオイルライターで火をつける。
「カチッ」
小気味よい金属音と共に炎が揺れ、深く煙を吸い込む。
『タバコや酒は仲間と仲良くなれるツールや。そこに飛び込まんでどうする』
煙と共に耳の奥に蘇る親父の言葉に、思わず舌打ちが出た。
「チッ……どこまでも親父の手のひらの上かよ」
ふと、異常な眩暈が襲ってきた。
おかしい。さっきまで寝ていたはずなのに、立っているのもやっとだ。
視界がぐにゃりと歪む。吸いかけのメビウスが手からポロリと落ちる。
(……なんだ、これ……)
そのまま、俺は深い闇の中へと引きずり込まれていった。
***
――土と、木と、獣の匂い。
そして、行き交う人々の喧騒。
「……ん?」
アスファルトではない、土の感触。
重い瞼を開けると、そこは練馬駐屯地の喫煙所ではなかった。
木造の平屋が立ち並び、丁髷を結った男たちや、着物姿の女たちが歩いている。まるで時代劇のセットのような光景だ。
「おい、見ろよあの男……」
「奇妙な格好だ。南蛮の者か?」
行き交う人々が、遠巻きに俺を見てヒソヒソと囁き合っている。
俺はベンチのような切り株に腰掛けたまま、自分の格好を見下ろした。
陸上自衛隊の迷彩服。タクティカルブーツ。左腕にはG-SHOCK。腰には、虎徹一族が打ったとされる大業物、名刀『夕日丸』が鞘に収まったまま帯びられている。
「……マジかよ」
G-SHOCKの電波受信機能は完全に沈黙していた。
どうやら、俺は親父の言う『地獄』に落とされたらしい。




