桜の季節、重なるいろ。
桜色が、春の空気を淡く染めていた。
新しい制服に袖を通して、鳴神浅葱は二年九組の教室の前に立っていた。
二年生。
ついこの間まで一年生だったはずなのに、春休みを挟んだだけでひとつ上の学年になったことが、なんだか少しだけ不思議だった。
「よし」
鳴神浅葱は小さく息を吐いて、教室の扉に手をかける。
ガラリ。
「おっ」
中を覗けば、見知った顔がちらほらと見える。
去年と同じクラスだった子もいれば、初めて見る顔もいる。
その中に、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「祓!」
声をかけると、その男子生徒が振り返った。
「ん? ……あ、浅葱じゃん」
「おはよー。今年も同じクラスだね!」
「ほんとだな。よろしく」
照柿祓。
去年も同じクラスで、よく話していた友達だ。
「席どこ?」
「俺、あそこ」
「じゃあ近いじゃん」
「浅葱は?」
「まだ見てない!」
「じゃあ一緒に探すか」
「お、助かる!」
そんな調子で他愛のない話をしていると――
キーン、コーン……。
「あ、やば。鐘鳴った」
「先生来るな」
「じゃ、またあとで!」
「おう」
二人はそれぞれ自分の席へ向かった。
ほどなくして担任が教室へ入り、二年九組の最初のホームルームが始まる。
そして、恒例の自己紹介。
名前、部活、簡単な一言。
一人ずつ順番に立ち上がっていく中、鳴神浅葱は頬杖をつきながらぼんやりとクラスメイトの話を聞いていた。
「つきみず るりです」
その名前が耳に入った。
「……つきみず、るり?」
鳴神浅葱は顔を上げる。
声のした方を見ると、そこには眼鏡をかけた男子生徒が立っていた。
どこか近寄り難そうな雰囲気。
表情も硬く、淡々と名前だけを告げると、すぐに席へ戻っていった。
「つきみず……るり、か」
珍しい名前だな。
そんなことを考えながら、鳴神浅葱は次の自己紹介へと視線を戻した。あ、祓のやつ噛んだな…としょうもないところにボソッとツッコミを入れる。
やがて――
「鳴神浅葱です!」
自分の番が来た。
「バドミントン部所属です! よろしく〜!」
軽く頭を下げると、教室のあちこちから小さな笑い声が聞こえた。
これで全員の自己紹介が終わり、担任から始業式やら今後の予定やらの説明が始まる。
長い。
鳴神浅葱は机に頬杖をつきながら、ちらりと前を見る。
そして、ふと思い出した。
つきみず るり。
さっきの名前。
漢字も分からないし、なんとなく気になった。
ホームルームが終わると、鳴神浅葱はまず照柿祓のところへ向かった。
「祓ー」
「ん?」
「ちょっと聞きたいんだけどさ」
「何?」
「あのさ、つきみずって子」
「ああ、眼鏡の?」
「そうそう。漢字どう書くの?」
「知らん」
「えっ、友達じゃないの?」
「いや、今年初めてだし」
「あ、そっか」
鳴神浅葱は笑いながら、つきみず るりの席へ向かった。
「ねえ、つきみずくん」
「……何?」
振り向いたつきみず るりは、やっぱり少し近寄り難そうだった。
「漢字どう書くの?」
「……月に」
「うん」
「不……不可能の不」
「うんうん」
「で、見る」
「へえ」
「るりは……瑠璃色とかの、やつ。宝石の」
「あー!」
鳴神浅葱は鞄からシャーペンとノートを取り出した。
「ちょっと待ってね」
さらさら、とペン先が紙の上を走る。
書き終えたノートを見て、鳴神浅葱は満足そうに笑った。
「月不見瑠璃!」
「……そう」
「へえー。こう書くんだ」
月不見瑠璃は鳴神浅葱の手元を見た。
自分の名前。
何度も書いてきた、見慣れた五文字。
けれど。
「女っぽい名前だろ。苗字も難しいし珍しいし」
月不見瑠璃は少しだけ視線を逸らした。
「昔から嫌なんだ」
「あー……」
鳴神浅葱は月不見瑠璃の名前を眺める。
そして、首を傾げた。
「えー、そうかな」
「……?」
「苗字はめちゃくちゃ響きが綺麗だし、名前も宝石みたいだし」
「……宝石?」
「ほら、なんだっけ」
鳴神浅葱は眉を寄せて考え込む。
「えっと……あれ」
「何?」
「深い青色の宝石!」
「宝石?」
隣にいた照柿祓が口を挟んだ。
「ラピスラズリだろ」
「あー! そうそう、それ!」
鳴神浅葱はぽん、と手を叩きぱっと顔を明るくした。
「ラピスラズリ。あの深い青色が綺麗な宝石ね」
「……」
「だから、いい名前じゃん」
あっけらかんと言って、鳴神浅葱は笑った。
「瑠璃って、宝石みたいで綺麗じゃん。で、月不見でしょ。つきみず、月が見えないみたいなさ。なんか神秘的で」
月不見瑠璃は何も言わなかった。
ただ、鳴神浅葱がノートに書いた自分の名前を見つめる。
癖のない、綺麗な字だった。
自分の名前なのに、なんだかいつもより少しだけ違って見える。
「……ありがと」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「ん?」
「……なんでもない」
月不見瑠璃はそう言って、目を逸らした。
けれど。
その日からしばらくの間、ふとした瞬間に思い出していた。
自分の名前を見て、笑った少女のことを。
――まるで、宝石みたいだと。
春の光が、窓から教室へ差し込んでいた。




