第39話 時空ユカリー届かない愛、あるいは呪縛ー
私が母の胎内に宿ったと知られた、その瞬間。
一族は、失意と落胆の底へと突き落とされた。
御神体である、時写しの水時計。
その内部は、空のままだったからだ。
巫女が純潔を失うと、御神体である時写しの水時計を満たしていた水は消失する。
時写しの神は、純潔を失った巫女の生の時間を受け取らない。そのとき、水時計に残されていた水は、すべて巫女自身へと返される。
神に選ばれた巫女――「御饌の御子」の血筋であれば、誰もがその力を継承できるわけではない。
たとえ巫女の血を引いていようとも、最後に神に選ばれた御饌の御子から連なる血筋でなければ、継承の資格は認められない。
そして、その血筋に連なる女性が初めて胎に宿す子が女児であった場合に限り、神に選ばれる可能性がある。
母体に宿った女児が神に選ばれると、御神体である時写しの水時計は、その瞬間から、巫女の生の時間で満たされ始める。
水が満ちるか否か。
それこそが、神の選定を示す唯一の証だった。
祖母は、御饌の御子だった。
私の母には妹がいた。私の叔母にあたる人だ。
叔母は、母よりも先に子を成した。
けれど、その子が叔母の胎に宿ったとき、御神体に水が満ちることはなかった。そして、生まれた子は男児だった。
母が初めて胎に宿した子――つまり私もまた、神に選ばれなかった。
それでも、時空家にとって唯一の救いは、私が将来、御饌の御子を宿す可能性を残していたことだった。
母の代、私の代。
二代にわたって御饌の御子が現れなかったのは、時空家始まって以来のことだった。
一族の失望は、私ひとりに向けられたものではない。
母もまた、中継ぎの巫女として、失意のなかで育てられた人だった。
無理もない。
時空家は、御饌の御子が持つ「力」を背景に、国の庇護を受けてきた。その庇護のもと、一族は事業を興し、政界との結びつきを深め、莫大な財を築いてきたのだから。
母は、愛されることを知らなかった。
愛情を与えられることもなく、ただ次代の巫女を産み、育てるための存在として扱われてきた。
そして、私もまた、同じように育てられた。
母が私を愛せなかったのか。
それとも、愛し方を知らなかったのか。
今となっては、分からない。
ただ、私に求められたものは、はっきりしていた。
一日も早く、次代の巫女となる女児を産むこと。
そして、その子に巫女の力と、その使い方を継承させること。
私自身が神に選ばれることは、もうない。
ならばせめて、次の巫女を産み、育てよ。
それが、私に与えられた役目だった。
二十歳になったとき、私は婿を迎えた。
秘儀と御饌の御子にまつわる秘密を外部に漏らさず、血筋を守るため、時空家ではできる限り血縁の近い者同士で婚姻を重ねていた。
私もまた、その慣習から逃れることはできなかった。
私は、叔母の息子と結婚した。
けれど。
夫となった人を、私は心の底から愛した。
そして、彼も私を愛してくれた。
誰かに愛されること。
誰かを愛すること。
それがどれほど幸せなことなのか、私は初めて知った。
幸せだった。
二十三歳のとき、私はようやく子を授かった。
ワタルちゃん。
私のお腹に宿った、小さな命。
この子が生まれてきてくれる。
ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
こんな幸せが、本当に自分の身に起こるのだろうか。
そう疑ってしまうほど、私は幸せの絶頂にいた。
――あの忌まわしい御神体に、水が満ちたことを知るまでは。
水時計の内部を満たしていく水。
それを目にした瞬間、私は理解した。
この子は、神に選ばれてしまったのだ。
一族にとっては、待ち望んだ奇跡だったのだろう。
二代続けて神に選ばれた巫女を欠いていた時空家に、ようやく御饌の御子が現れた。
時空家は救われる。
けれど、私にとって、それは祝福などではなかった。
御神体に水が満ちたということ。
それは、この愛おしい我が子が、国家権力に屈し、その思うがままに利用され、身を削りながら搾取される運命にあるということと、同義だった。
私は知っていた。
巫女に選ばれた者が、どのように扱われるのかを。
神のため。
国のため。
一族のため。
そうして、ひとりの人間の人生が、どれほど容易く踏みにじられるのかを。
私は、そんな人生を歩みたくなかった。
愛する人と出会い、愛され、子を授かる。
そんな、当たり前の幸せを手に入れたかっただけなのだ。
それなのに。
ようやく授かった、この小さな命まで。
私と同じように、誰かの望む役目を果たすためだけに生きなければならないというのか。
嫌だった。
この子の人生を、奪われたくなかった。
どうか。
どうか、この子だけは。
私が知らなかった幸せを、私がようやく知ることのできた幸せを。
この子には、奪われずに生きてほしかった。
しかし、私の願いなど嘲笑うかのように、待ちに待った御饌の御子は、初めての時写しを成功させたその日から、二代分の空白を埋め合わせるかのように、その力を浪費されていくこととなった。
まるで、人としての尊厳など初めから与えられていない、ただの「供物」であるかのように。
私は必死だった。
一族と国に、どうかこの子の力を使い潰さないでほしいと懇願した。
この子が次代へと血を繋ぐことなく、その力を使い果たしてしまえば、御饌の御子の血筋は途絶えてしまう。
それがどれほど重大なことなのか、彼らが理解していないはずはなかった。
けれど、私の訴えは届かなかった。
そして私は、やがて耳を疑うような事実を知ることになる。
二代にわたって御饌の御子が現れなかったことは、国にひとつの考えを抱かせていた。
――神の定めた継承の掟を、別の方法で補うことはできないだろうか。
最後に力を継承した御饌の御子から連なる血筋の女性が、初めて胎に宿す子が女児であること。
それが、神に選ばれるための条件だった。
しかし、本当にその条件は絶対なのか。
医学の進歩は、体外受精や代理出産という新たな生殖技術の選択肢をもたらした。
ならば、正当な血筋さえ引き継げば、ひとりの母親が産む子だけに頼る必要はないのではないか。
体外で複数の受精卵を作り、可能な限り多くの命を残しておけばいい。必要とあらば、別の女性の胎を借りて産ませればいい。
神がそのうちの誰かを選ぶかどうかは、神のみぞ知ること。
重要なのは、最後に力を継承した巫女の血筋を、決して途絶えさせないことだった。
その計画のために、ワタルちゃんの未成熟卵子は、私が知らないところですでに採取されていた。
一族に繰り返されてきた近親婚。
その影響もあってか、時空家に生まれる子供は、遺伝性疾患を抱えて生まれることが少なくなかった。
ワタルちゃんも例外ではなかった。
生まれつき身体が弱く、5歳の頃には足の大きな手術も経験している。
私は、その手術の際に行われた処置について、何も知らされていなかった。
あの子の身体を治すための手術。
そう信じていた。
けれど、その手術の裏で、将来の継承に備えた未成熟卵子の採取が行われていたのだ。
私が、この子の身体を案じていたそのときから。
国と一族は、すでにこの子の未来を、私と夫の知らないところで決めていた。
ワタルちゃん自身が、どれほど生きたいと願っているのか。
何を望み、どんな人生を歩みたいと思っているのか。
そんなことは、彼らにとって取るに足らないことだった。
彼らにとって最優先なのは、自らと国の繁栄、そして一族の存続だったのだから。
この子が生きている間に、力――命を使い尽くそうとも。
この子が次代を産み育てることができなくなろうとも。
血筋さえ残せるのなら、それで構わない。
彼らにとっては、それだけのことだったのだ。
◇ ◇ ◇
ワタルちゃんの朝は、私の熱い抱擁から始まる。
寝起きの悪いワタルちゃんを、よしよしとあやしながら起こしてあげる。それが、私にとって毎日のささやかな幸せなのだ。
その日の朝も、いつものように私はワタルちゃんの部屋をノックした。
普段なら返事がないか、あるいは「ひゃい……」という愛らしい生き物の鳴き声が聞こえてくるはずだった。
ところが、その日は違った。
「どうぞ……」
今までのワタルちゃんからは聞いたことのない、落ち着いた声が返ってきたのだ。
私は瞬時に「心渡り」という言葉を思い浮かべた。
「……未来のワタルちゃんなのかしら……?」
扉を開けると、そこにはすでに着替えを済ませ、自力で車椅子に座っているワタルちゃんの姿があった。
私は様子をうかがいながら、慎重に問いかける。
七歳児とは思えないほどの間を置いて、ワタルちゃんは私から視線を逸らすことなく、こくりと頷いた。
「……初めまして、って言うべきなのかしら? うふふ……」
私はいつものようにワタルちゃんを抱きしめようと、両腕を広げた。
その瞬間だった。
ワタルちゃんの身体が、びくりと強張った。
……何かが違う。
いつもなら、抱きしめた途端に全身を預けるようにして、私に体重をかけてくるのに。
目の前のワタルちゃんは、まるで私を警戒するかのように身を固くしていた。
「……ダレ?」
信じられないものを見るような目で、ワタルちゃんが私に問いかける。
「な、何言ってるのよ! もう! いくら未来のマママが老けてるからって! マママに決まってるでしょう!?」
「マ……ママ……?」
ワタルちゃんは、理解できないというように、ますます困惑した表情を浮かべた。
………。
「……ワタルちゃん、お話を聞かせてもらえるかしら……?」
私はワタルちゃんとの間に慎重に距離を取り、目線が合う高さまで身を沈めて話しかけた。
「ええ……そうね。そうしてもらえると助かるわ……」
未来のワタルちゃんは、ツンツン属性なのね……。
◇ ◇ ◇
そうして私は、ワタルちゃんから心渡りをするまでの経緯を聞かせてもらった。
お互いが感じている違和感についても、ひとつずつすり合わせることができた。
一緒に飛んできたという同行者、晴渡虹介さんも交えて話し合おうとした、そのとき。
ワタルちゃんは、過去に飛んだあとの晴渡虹介さんとの連絡手段を決めていなかったことに気づいた。
んもう! ワタルちゃんたら、詰めが甘いんだから!
◇ ◇ ◇
「私が行った術式には……確かに、欠落している部分があったわ」
「不完全な形で、ワタルちゃんに伝わっていたのね?」
私は、薄々感じていた。
認めたくなかった確証へと、とうとう辿り着いてしまったことに、慄く気持ちを何とか抑え込む。
ワタルちゃんは、静かに頷いた。
「きび団子の巫女が、『心渡り』に必要な条件を指定している箇所があるって言っているわよね――」
「そのうちの三つ目の『どこへ』。つまり、移動先となる世界線を指定するための術式の部分よ」
私は、思わず耳を塞ごうとする自分の手を、必死に押し留めた。
「でも……私に伝えられた祝詞には、その部分がなかったわ」
ああ……やっぱり……。
「え……?」
晴渡さんが、困惑した表情で私を見る。
「でも、ワタルさんに……次代の巫女に、力の使い方を伝承したのは……」
「…………」
ワタルちゃんは俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
「……ママよ」
私は一体、自分の娘に何をしようとしたんだろう……。
一族と国家に思うがままに利用され、身を削りながら生きてきたであろう我が子に、私は一体……。
くらりと目眩がした。
「……笑い草よね」
ワタルちゃんが、自嘲するように呟いた。
「まさか、そこまで私のことが嫌いだったなんて……」
違う!
違うわ!!
そんなのあり得ない!!!
私は思わず、反射的にワタルちゃんを強く抱きしめていた。
「ワタルちゃん……!」
腕の中に閉じ込めた小さく痩せた身体は、冷え切っていた。
「……どうして、そんなことになってしまったのかしら……」
何を伝えよう。
どうしたら伝わるのかしら……。
ねえ、もう一人の私。
本当にあなた、ワタルちゃんのことが嫌いだったの……?
「でもね、これだけは信じて。たとえあなたが違う世界のワタルちゃんでも、マママはあなたが大切だし、可愛いし、心配なのよ……」
言葉を紡げば紡ぐほど、それを拒絶するように、腕の中の身体は固くこわばっていく。
「こんなことを言っても、違う世界の私を庇っているようにしか聞こえないと思うけど……きっと、何か理由があったはずよ……」
ワタルちゃんが、深く息を吐いた。
そして――。
「どんな理由があったにせよ、私は違う世界に飛ばされた。それが全てよ……」
そして、私の肩に手を添えると、ゆっくりとその身体を押し離した。
「私がされたことが、帳消しになるわけじゃないの」
私を見ているはずの目は、私を映していないかのようだった。
私は初めて、人が人を恨むとき、このような目になるのだと知った。
◇ ◇ ◇
ワタルちゃんとグズ渡さんが、丸鶏を代替贄にして、数時間前へ遡るための心渡りを実行した。
瞬きをするほどの、ほんの一瞬の出来事だった。
代替贄の丸鶏二羽は、マジックショーのように、綺麗に肉だけが消えた骨の姿へと変わっていた。
目の前には、この世界に元々いた自我が戻ったと思われるグズ渡さんと、ワタルちゃんが呆然とこちらを見ている。
よかった。
成功したのね……。
まずは、術の成功に安堵する。
ワタルちゃんは、不安そうに私とグズ渡さんを見比べている。
今すぐ抱きしめて、安心させてあげたい。
そう思った瞬間、私の身体は咄嗟に動き出そうとしていた。
――私がされたことが、帳消しになるわけじゃないの。
少し前のワタルちゃんの言葉と、そのときの表情が脳裏をよぎる。
私は、今のワタルちゃんを無条件に抱きしめてあげることができなかった……。
今のワタルちゃんには、きっとあのやり取りは残っていないと思う。
それでも、あのときのワタルちゃんの仄暗く恨みに染まった「目」に、今も見られているような気がして体が竦む。
その時、グズ渡さんから向けられてくる何かを品定めするような視線に気付いた。
この世界に元々いた意識……おそらく、今の状況を理解していないはずよね。
厄介だわ……。
それに、なんだかやたらと私の胸を見ているし……。
こっちのグズ渡さんは、随分と破廉恥な男の子なのね……。
世界線が違うだけで、こんなにも各々の性格は違ってくるものなのかしら……。
だとしたら……。
向こうの世界の私が、あの子にどんな感情を向けていたとしても……不思議ではないのかもしれない。
環境も、置かれた残酷さも変わらない世界で、もしも私の周囲のあり方や、私自身の心が180度違っていたのだとしたら。
私は……本当にあの子を、今と同じように愛せていたのだろうか。
『まさか、そこまで私のことが嫌いだったなんて……』
そう呟いたワタルちゃんの絶望を、私は『そんなはずない』と笑い飛ばすことすらできない。
向こうの私が、あの子の心をそこまで追い詰めるような『何か』に成り果てていたかもしれない可能性に、私は自分の胸を掻きむしりたい衝動に駆られた。
お久しぶりの更新となってしまい、本当にごめんなさい。
少し前に母が倒れて入院してしまい、なかなか画面に向き合う余裕がない日々を送っていました。
それでも管理画面を開くたび、毎日変わらず読み来てくださっている誰かがいることを知り、「申し訳ない、でも本当にありがたいな」と胸が熱くなりました。言葉では言い尽くせないほど感謝しています。
待っていてくださった方(がいると信じて笑)のおかげで、無事にこの第39話を届けることができました。
まだ落ち着かない部分もありますが、物語はしっかり最後まで書いていきますので、これからも付き合っていただけたら嬉しいです!




