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凋落  作者: anonymous writer
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後編

五、


 先程、車の中の描写で田中と会話していた岡本正は、会社員の父親と、看護師の母親のもとに生まれ、子供の頃から堅実に育てられた。「勉強ばかりではいけない」と、小学生の頃からサッカーを習わされ、中学時代もサッカーを続け、高校は、進学校で、かつサッカーの強豪校でもあった地元の公立高校に進んだ。高校時代は、成績は決して悪くなかったのだが、サッカーは万年補欠といった感じで、彼の中ではもう、「サッカーに俺の未来はない」と感じるようになっていた。この頃に、音楽に関心を持ち始め、ベースを弾くようになった。


 その後、彼が「お堅い」仕事に就くことを望んでいた両親の期待に応える形で教育大学に進学し、彼は高校時代から音楽に関心を持っていた延長線上で、軽音楽部に入部し、音楽活動に明け暮れるようになった。


 所詮は大学のクラブ活動に過ぎなかったから、ライブも仲間内の集まりのようなものでしかなかったのだが、ライブで人前に立ち、注目と喝采を浴びた経験は、それまで「真面目に、お堅く」生きてきた彼に、「俺がいるべき本当の場所は、ここなんだ」という、一種の陶酔感を与えることになった。一応は社会の教員免許を取得はしたのだが、バンド活動によって得られた快楽が忘れられず、大学を卒業後も、ネットカフェでアルバイトをしながら、仲間とともにバンド活動に没頭する生活を続けた。


 だが当然、バンド活動で食っていくのは、それこそ彼が挫折したサッカーでプロになるくらい、難しい話である。彼も、他のメジャーデビューしていくバンドのレベルを目の当たりにするにつけ、そのことは痛いほどわかり始めていたのだが、なにせ退路を断ってこの道を選んだようなものだったから、今更、後には引けなかった。


 そうこうして紋々とした気持ちのまま、大学卒業から二年ほどが経った頃である。友人からの勧めで、大島利信の「夢実現カウンセリング」についての著書を読む機会があり、「これだ!」と深く感銘を受けた。彼にとっては、夢実現カウンセリングは精巧な理論背景や技術体系を持ち、これを習得すれば他人を幸福にでき、さらに、その活動を通じて自分の人生も豊かにできるもののように思えた。もっとも彼には、夢実現カウンセリングの手法を用いて、自らのバンドマンとしての目標を達成しようという発想はなく、あくまで他人の夢の実現を手伝うためのもの、として夢実現カウンセリングに惹かれるようになったのだが、そのあたりは彼のリアリストとしての側面によるものだったと言えよう。いずれにせよ、サッカーで挫折して音楽活動に励むようになったのと同じような思考回路で、自身の次の舞台として、夢実現カウンセラーとしての活動を選んだのだった。


 色々調べていくと、夢実現カウンセラーのライセンスを得るには、多額の大島ラボへの入会金と、さらに、それに匹敵する講習料(大島からの指導料)が必要だということがわかった。もちろんそんな大金を、一介のフリーターに過ぎなかった彼が準備できるはずもなかった。しかし当時の彼には、学生時代から付き合っていた女性がいた。その女性はバンドマンとしての彼に、心底惚れていたようだった。結論を言うと、岡本はその女性から金を借りることに成功し、晴れて大島ラボに入会し、大島からの講習を受け、「夢実現カウンセラー」になるに至った。


 そして彼はまだ若く、しかも学生の頃からサッカー部や軽音部という、いわば花形の界隈に属していたことから、決して眉目秀麗というわけではなかったが、若い女性とのコミュニケーションが巧みで、そのために若い女性に向けた大島ラボへの勧誘のための要員として、駆り出されることが多かったのである。


 「お前が思っている以上に、終わってんだよ。何もかもな。」


 先日、田中が発した言葉の余韻は、いつまでも岡本の脳裏から消えることがなかった。そして、それを反芻するたびに、この言葉を発した張本人である田中への並々ならぬ怒りが、自身の中に湧き上がってくることを感じた。


 そもそも、岡本が大島ラボへの入会を考えていたときにラボの窓口になっていたのも田中だったし、多額の入会金や講習料の支払いに対して難色を示していた岡本に、「身の周りの誰かから、お金を借りればよい」と入れ知恵したのも田中だった。


 結局、岡本が金を借りた女性は、岡本が夢実現カウンセラーになった後に女性対象の勧誘要員に駆り出されていたことに反感を持つようになり、「つまるところ、ネズミ講と変わらないじゃない!」と言い捨てて、岡本のもとを去ってしまっていた。しかし岡本は、彼女からの借金の支払いを、今でも続けている。


 「ラボに入れば、あなたの人生は変わるんです。そう考えれば、このくらいの料金は、安いものだと思いませんか?」


 初めて出会ったとき、田中はこのように言って、岡本にラボへの入会を勧めてきた。あれはつい、二年前のことである。多分、その時点ですでに、田中は自らの乗っている船が「泥船」であることを知りながら、岡本をそっちに引きずり込もうとしたのだろう。一つの組織がそこまで急激に腐敗することは、普通に考えてあり得ないからだ。


 その日は雨だった。岡本はいつも通り、田中に同行して若い女性の勧誘に出かけていた。その日、彼らが勧誘のターゲットにしたのは27歳の公務員の女性で、田中は「うまくいくだろう」と見込んでいたようだったが、その目論見は、見事に外れることになった。岡本の方も、できるだけ表面に出さないように取り繕ってはいたものの、例の言葉を聞いてからは、どうしても勧誘活動に、身が入らなくなってしまっていた。


 勧誘活動を終えて、大島ラボがある高層ビルの地下駐車場に営業用の車を止めて、田中と別れた後、岡本は、自身が一人暮らししているアパートに、地下鉄で向かった。アパートに到着し、部屋に戻る前に郵便受けを見ると、大島ラボからの小さな封筒が届いていた。


 部屋に戻って、雨水で少し湿気た封筒を丁寧にハサミで切って開封すると、A4の紙が二枚、三つ折りになって入っていた。そのうちの一枚目の折り目をほどいていくと、「夢実現カウンセラー・ライセンス更新のお知らせ」と書かれた大きな文字が、目についた。そこには、


「岡本正様


 春暖の候、益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。


 貴殿のカウンセラーとしてのご活躍、および常日頃の大島ラボへの多大なる貢献につきまして、大島先生をはじめ、ラボの一同、心より感謝しております。


 さて、貴殿が夢実現カウンセラーのライセンスを取得されてから、来月でちょうど二年が経過致します。大島ラボの規定と致しまして、すべてのカウンセラーの方に、ライセンス取得から二年ごとに、大島先生からライセンス更新講習をお受け頂く運びとなっております。つきましては、講習料と致しまして、別途送付致しました用紙に記入致しました振込先に、所定の料金を今月末までに収めていただきますよう、お願い致します。


 なお、理由の如何に問わず、期日までに入金を確認できない場合は、貴殿のライセンスは自動的に失効致しますので、ご注意ください」


 と、書かれていた。岡本は震える手でその書類を一読した後、全身の力が尽きたかのように、その場にしゃがみこんだ。


 「何が、『愛がある世界を作る』だ。結局、カネ、カネ、じゃないか。」


 岡本はうつむいたままで独り言のようにそう呟いたあと、そこからしばらく立ち上がることができなかった。


六、


 それから数か月が、何事もなく過ぎていった。田中はあんなことを言っていたことが嘘のように、大島に対しては低頭平身の態度を取り続けていたし、岡本に接する態度も、以前とまるで変わらなかった。


 岡本の中でも、件の田中との会話で感じた衝撃は次第に薄らいでゆき、勧誘活動の際の爽やかな笑顔を取り戻していった。慣性とは恐ろしいものである。いくら頭で、「自分は間違ったことをしている」とわかっていても、それを当然のこととして行動している人間が周りにいて、さらにそれを当然のこととした行動を自身がとり続けていくと、あれほど強かった疑念も薄らいでいくのが、自分でもわかった。


 「どちらにせよ、もう二十代後半で、フリーター時代にしていたネットカフェのアルバイト以外の職歴も、特別なスキルもない自分が一般社会に戻ることは、不可能なのだ。」


 と自分に言い聞かせて、田中をはじめとしたラボの同僚たちと一緒に、せっせと勧誘活動に勤しんだ。大島をはじめとしたラボの首脳陣は、一般の会員同士が交流を持つと不穏な動きにつながりかねないと本能的にわかっていたから、会員同士の交流は制限されており、実際は「仲間」と呼べるほどの濃密な付き合いはなかったのだが、それでも共に「ラボの収益拡大」という目標のもとに活動していた同僚たちに対して、仲間意識のような感情も、取り戻し始めていた。


 ひょっとしたら、田中が言うように、自分たちが乗っている船は泥船なのかもしれないが、それでも必死でオールを漕ごうとしている他の船員たちがいる限りは、自分も足並みを乱すわけにはいかない。そう考えて、田中との会話で聞いたことに、努めて意識を向けないようしていた。


 そうこうして、件の岡本と田中の会話から、数か月が経った頃である。岡本は、マリーノとの会食の時と同じように、大島がラボに招いた前川という元格闘家との会食に参加することになった。マリーノの時と同様、弟子たちはアスリートとして成功するためのコツなどについて前川に問いかけ、前川も彼らに対して好意的な態度を見せて、和気あいあいとした雰囲気の中、会食が進んでいった。


 しかし、宴も酣になった頃、マリーノのときのように、前川が、会食に参加していたラボの若い女性会員の方を指差して、大島に、なにやら耳打ちをしだした。大島は前川のその耳打ちを聞いてニヤついた表情になり、


 「ふっふ、前川クンも好きだねえ。」


 と呟いたと思うと、この時もテーブル越しに前方に座っていた森山に対して、顎先をクイっと持ち上げる動作をした。マリーノの時とは違って、「ヘブン」という言葉こそ出さなかったものの、大島のその動作が何を意味しているかは、その時の岡本には明白だった。


 その時の大島の表情の下品さは、まさに筆舌に尽くしがたいものだった。卑しい、嫌らしい、下劣、そういったありきたりの語彙をいくらつなぎあわせても、そのときの大島の表情を正確に形容することはできない程の、嫌悪を催す表情だった。「仲間」のはずの弟子をモノとして扱い、自らの虚栄心と権威を保つためだけに、他人の都合など一切おかまいなしで生贄として差し出し、そしてその行為が自分には許されるのだという、他人への蔑視、歪んだ自己愛、優越感、そのすべてが、そのときの大島の所作に表れていたのである。


 「ブチッ」


 その時の大島の所作は、岡本の中の、触れてはいけない部分に、触れてしまったようだった。


 岡本は、それまでの数か月間、首の皮一枚で辛うじてつながっていて、その上にかさぶたも張り始めていたはずの、自身の大島への忠誠心が、一気に引きはがされてしまったことを感じた。


 「もう、この男にはついていけない。『天罰が必要』だ。」


 岡本は、本当はその時、大島に殴りかかってしまいかねないくらいの気持ちだったのだが、深呼吸をして必死でこらえ、その場をやり過ごすことにした。元格闘家の前川もいる前で、暴力に訴えることは、賢明ではない。岡本は辛うじて残っていた理性で、そう判断したのだった。


 会食が終わって、自宅のアパートに戻った岡本は、すぐさまパソコンに向かい、猛烈なスピードで、なにやらタイピングしだした。大島の、数々の悪行を暴露するためのブログ記事を作成していたのである。感情のままに、怒涛の勢いで筆が進んでいき、気が付いたら、パソコンに向かい始めてから、二時間以上が経過していた。その間に彼がブログ記事に書き込んだ文字数は一万文字近くにもなり、そこには、冷静かつ客観的な文体で、大島が有名人をカネと女で接待して味方につけていることや、大島の立ち上げたプロジェクトの実体のなさ、さらに、「ライセンス料」と称した弟子たちからの搾取など、大島の数々の裏の顔が暴露されていた。


 彼はさらに、大島に、詐欺の嫌疑をかけられた過去がある、という内容も付け加えた。これについては、本当は確証があるわけではなかったのだが、記事をよりセンセーショナルに見せるためと、あんな商売をしていたら、「自分が知らないだけ」で、本当にそういうことがあっても何の不思議もない、という理由からだった。


 岡本は、ブログ記事を書き上げると、慎重に何度か推敲してから、ようやく「投稿」ボタンを押した。もちろんこのままでは、彼のブログ記事はインターネットの大海に埋もれたままで、見るべき人たちの目には届かないだろう。彼もそのくらいのことはわかっていたので、ブログ記事の投稿を終えたあと、そのURLを、大島や、大島ラボの関係者たちのSNSへの返信の形で、何時間も時間をかけて、片っ端からばら撒いて回った。


 もちろんこの行為の意味と、それがもたらす結果を、岡本がわかっていないはずはなかった。むしろ、この行為が大島ラボと、何よりも自身にもたらすであろう帰結について、痛いほどよく理解した上での行動だった。怒り、憤り、義憤、正義感、そういった感情が複雑に入り混じった心境で、岡本は、自身が何かに突き動かされている感覚を覚えた。


 「ひょっとすると、破滅の道しかないとはわかっていても、『もう、こんなことはやめにしたい』というラボの人間の集合意識のようなものが、俺を突き動かしたのかもしれない。田中があのときに、あんなことを口にしたのも、その壮大なストーリーの一幕だったのかもしれない。俺がやらなければ他の誰かがやっただろうし、遅かれ早かれ、こうなる運命だったのだ。」


 やることをやってしまった後で、岡本は一人、このようなことを考えていた。アパートの外を車が走り抜ける音だけが、彼の部屋の静寂を破っていた。岡本は、深くため息をついて、パソコンの前からゆっくりと立ち上がり、こう呟いた。


 「賽は投げられた。」


七、


 「おい、昨日のあれ、見たか?」


 「ああ、誰だか知らないが、とうとうやっちまったよな。」


 その日の大島ラボのオフィスの雰囲気は、いつになく浮ついていた。大島利信も、何かが起こっていることを察知していたが、彼は自身のSNSの運用も部下にやらせていたため、岡本が投下した「爆弾」について、知る由もなかったのである。


 「センセイがいつまで気づかないか、賭けようぜ。」


 「バカ、聞こえるだろ!」


 オフィスの中にいる弟子たちは、いずれも時折、大島の方に視線を向けながら、なにやらヒソヒソと、大島が知らない噂話をしていたようだった。おまけに大島が、彼らが何を話しているのか確かめようと近づくと、皆、潮が引くようにさーっと大島から離れていってしまった。


 大島は、右腕の田中に事情を問いただそうとしたが、この日に限って、なぜか姿が見当たらなかった。弟子たちがスマホの画面を見ながら話しているところから見ると、どうもネット上に、何かありそうだった。そこで、大島は自分もスマホを取り出して、「大島利信」とエゴサーチをかけてみた。すると・・・。


 「大島利信の裏の顔」とか、「大島利信は最低の男だった―仰天の暴露―」のようなSNSの投稿が、大量にヒットした。こんな投稿は、今までなかったはずである。そもそも、彼はインターネットを弟子たちにつぶさに監視させていて、自分に不利な投稿が少しでもあれば、すぐに対応を協議できる体制を整えていたはずだった。なぜ、こんなことになっているのか、さっぱり理解できなかった。


 ゾクゾクっと嫌な悪寒に全身が襲われたが、とにもかくにもいくつかの投稿を見てみたところ、どうもあるブログ記事―しかも、その記事のURLが本人も含め、大島ラボの関係者のSNSに、片っ端からばら撒かれていたようだった―が元凶になっているらしい、ということに気が付いた。そのブログ記事を読んで、大島は思わずスマホを投げつけて故障させてしまうくらいの、激しい怒りを覚えた。彼は、急に姿を消した田中を真っ先に疑ったが、結局オフィスのどこを探しても彼の姿はなく、しかもスマホが故障してしまったので、電話をかけることもできなくなってしまった。


 他の弟子たちも、とても話しかけられる雰囲気ではなかった。大島は途方に暮れて、「ウオー」と大声で叫びながら、オフィスを何時間も徘徊した。弟子たちはそれを見て大笑いして、本人から巧みに距離を取りながら、その様子を動画に撮影していたようだった。


 数か月もすると、大島ラボのオフィスの郵便受けは、「内容証明」と書かれた書類で、溢れかえっていた。誰もいなくなったオフィスからは時折奇声が聞こえるという噂だったが、またさらに数か月も経つと、そのオフィスには、別のテナントが入っていた。


 さてその頃、岡本は、某地方都市のドヤ街で、「鷲見」の偽名で派遣会社に入り、肉体労働に従事していた。


 その日は、廃校になった小学校の解体作業の一環で、大量の勉強机を解体する作業にあたっていた。校庭に座り込んで、慣れない工具を使って机のネジの一本一本を外していき、板を外し、金属の脚を束ねて、所定の場所に積み上げていく。そして量がたまったら、外にとまっているトラックに運び込む。単純な作業の連続ではあったが、かなりの重労働で、もう秋だったにも関わらず、昼休みの時間までには全身が汗に濡れていた。


 「鷲見さん、だっけな。あんた、どこから来たんだ?」


 中年の恰幅の良い作業員の男性が、横で粗末な昼食を取っていた岡本に話しかけた。岡本は前を向いたままで、


 「・・東京です。」


 とだけ答えた。


 「東京か、やっぱりな。ここには色んなやつがくるけど、あんたはどこか上品というか、他の奴らとは毛色が違うような気がしたんだ。なんだって、こんなとこに来たんだ?」


 再び問いかけた作業員の男性に、岡本は、今度は遠くを眺めながら、


 「過去と決別したいからです。」


 と答えた。それは、偽りのない彼の本心だった。そして、「過去と決別」し、法外な低賃金で重労働に励む日々は、居心地が良いとは言えないまでも、それほど悪いものには感じなかった。少なくともここでの労働は、社会や他人の役に立っているし、他人を騙して良心の呵責に捉われることも、心を押し殺して、醜いものを美しいと言う必要も、もうなかったのだ。


 それからさらに、数年が経った頃。都内の、生活保護の申請が通りやすいと評判の、某地区の役所の窓口に、太くてだらしなく垂れ下がった眉毛が印象的な、冴えない風貌の中年男性が現れた。


 その窓口を長年担当してきた猪狩という男性は、非常に人情に厚いことで有名で、困った者には、必ず救いの手を差し伸べてきた人物だった。仮に、制度的に生活保護を支給することが難しい来訪者でも決して見捨てることはなく、どうすれば状況を改善できるのか、最後まで親身に相談に乗る姿勢を、忘れたことはなかった。彼はいつもにこやかで、相手に安心感を与える人物だった。


 だがその日、突如として現れた中年男性が提出した書類に書いてあった名前を見た瞬間、猪狩の目から、慈悲の光が消えた。その中年男性はなにやら早口で、自分が生活保護受給の要件を満たしていることを必死に説明していたようだったが、一通り話を聞いた猪狩は、素っ気ない態度で書類を突き返した。


 「なるほどねえ、ビジネスで失敗して自己破産し、うつ病で働けないから、生活保護を支給して欲しい、ですか。スーパー・ビジネスマンのセンセイでも、どうにもならないこともあるんですねえ。」


 猪狩が低い声で発したこの言葉に、中年男性は「ビクっ」と反応して、上体を仰け反らした。猪狩は、その反応を気に掛ける様子もなく、鋭い眼光で男性を見つめながら、話を続けた。


 「あんたは、自分が思っている以上に有名人なんだ。あんたがやってきたことは、儂もよーくわかっている。これまで散々、他人や社会をバカにしてきたんだろう?その自分の行いを差し置いて、困ったら、『助けてください』で済むと思うか?ここには、それこそいろんな人間がやってくるが、あんたはその中でも最低の部類だよ。人権団体にでもなんでも、アテがあるなら行けばいい。儂は誰が来ようとも、目の黒いうちは、あんたの思い通りにはさせないつもりさ。」

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