EP10--悠野静香1――初めて聞いた声
2022年 11月25日 1時27分
頬に小さい、でも暖かい手が触れる。
その手は私の頬から口元、額に腕と、せわしなく移動する。ひとしきりいろいろな場所に触れてから、ゆっくりと離れていった。
何をしていたんだろう、寝起きのぼやけた思考ではその行動が意味することが少しの間分からなかった。
手が離れてからほんの数秒後、今度は私のすぐ隣で小さな物音がした。少しの間、がさがさとした物音が続いた後、それも止む。
「次は……うぅ……」
小さな、少し震えているような声が聞こえた。それはとても聞きなれていた妹の、涼香の声だと思う。
断言できなかったのは、その声が今まで聞いたことのないような、感情が溶け込んでいる声のような気がしたからだ。
不審に思ってゆっくりと重たい瞼を開く。少し離れた場所に涼香の姿が見えた。声の主を間違えていなかったことに、安堵する。
……でも、何をしているんだろう?
そう思って注意深く観察していると、
「お待たせしてごめんなさい、お兄さん……」
仰向けに倒れている少年の姿が見えた。そしてその少年に話しかけている涼香。
涼香の顔は熱に浮かされているような、みごとな真っ赤に染まっていて、見ていて少し不安になる。
ハラハラとした気持ちでそれを見守っていると、涼香は男の子の横に座った。
あの少年はいったい誰なのだろう?それに[お兄さん]って……。
頭の中に浮かび始めた疑問に頭を悩ませていると、涼香の口から突然、予想していなかった言の葉が紡がれる――。
「お兄さんのことも、大切になっちゃいました……」
思考が止まる、私の視線は、耳は、この状況を見逃すまいと釘づけになってしまった。
「単純だなって笑われちゃうかもしれないけど……お兄さんのこと、好きになっちゃいました」
その言の葉を耳で拾った私の頭は、驚きと、表しようのない多幸感でぐちゃぐちゃになっていく。
――今まで一度もわがままを言ってくれなかった涼香が、強い感情を表すことのなかった涼香が、そこまで気を許すことのできる相手を見つけたことが何よりもうれしく、そして――。
「私、負けちゃったなぁ……」
少し悔しいと思ってしまった。だが――。
「……私は応援したいな」
小さくつぶやいた、その声に気付かなかった恋する少女は、私が目を覚ましているということに気付くことのないまま、少年の頭を軽く持ち上げ、自分の膝へと乗せた。
涼香はまだ何か言っているようだったが、私の耳には届かなかった――だけどそれでいい。
涼香の顔もまた、私と同様に幸せそうな笑みを浮かべていたのだから――。
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10分ほど涼香たちの姿を眺めながら、自分たちの置かれている状況について回想する。
引越しをしていたこと、高速道路に乗って新しい家へと移動していたこと、その途中で大きな地震が発生したこと。
車にはがれた天井のコンクリート片がぶつかったこと、それによって車のコントロールが利かなくなり、トンネルの壁へとぶつかったこと。
そこまで回想したとき、一つの疑問が沸き起こった。どうして私たちは無事なのだろうか?
私たちが乗っていた車へと視線を向ける。天井は抜け落ち、原型を留めていない、かつては車だったものが、弱い火を放っていた。
この惨状で、意識を失っていた私たちが生きているということ。すなわちそれは、誰かが自分たちを助け出し、安全まで避難させてくれた人がいたということだ。
妹の膝の上で意識を失っている少年の姿を見る、ひどい怪我だ。私や横にいる父、それに涼香と比べてもその負傷の度合いは大きい。
それは、少年が私たちのことを助けてくれたのだということを雄弁に示していた。――なるほど。
妹が少年を慕っている理由に思い至る。そして共感する。
「……ありがとう」
素直にお礼の言葉を口にすることができた。母を失って以来、家族以外の人と話すときは自分を繕うようにしていた私でも――
少年のしてくれたことはそれくらい感謝するべきことで、その少年が私の妹の想い人であることに感謝した。
少年が目を覚まして、涼香に不埒なことをしようとしたらひっぱたいてやる! とか真面目に考えていたことが恥ずかしくなる。
この少年を信頼してみよう、そのためには――。
「涼香、ちょっとこっちにきてくれ」
涼香に声をかけることにした。
私の声を聞いた涼香は、文字通り飛び上がりそうなほど驚いて顔をこちらに向ける。
「お姉ちゃん?! お、起きてたんだ……」
「なにバカなことを言ってるんだね……いいからこっちに来てくれ」
二度目の私の言葉に、見ていると不安になるような表情を浮かべた涼香が一度だけ、少年の髪を撫でてからこちらに近づいてくる。
「お、起きてたらすぐに声をかけてくれたらよかったのに……」
「ずいぶん幸せそうだったのだけど、すぐに声を掛けちゃってよかったのか?」
そう尋ねると、涼香の顔は、また真っ赤になった。
「こ、これはその……お礼なんだよ! 」
白々しい、だけどかわいらしい言い訳に少しだけ頬を緩める。けれど、
「お礼、というのはいいんだけどそちらの少年、怪我してるだろ?」
「う、うん……私を助けてくれた時に爆発に巻き込まれちゃったんだよ……」
「なら、するべきことは膝枕じゃないよな?」
すこしきつい言い方になってしまったかな、そう思うのだが仕方がない。
「こういう時、どうしてあげたらいいのかわからなくて……とりあえずは体を冷やさせたらダメだと思ったんだよ……」
「その心遣いはいいと思うけどまず、確認しないとだよね?もし大きな怪我とかしていたら体を冷やす冷やさない以前に大事になるかもしれない」
私たちの命の恩人で涼香の想い人なら、何かあったら、最悪死んでしまったらどうなるだろうか?そう考えるとここは叱らないといけないと思った。
「ごめんなさい……今すぐ確認するよ! 」
「うん、そうしたほうがいいね、私も手伝うから」
きつくなっていた口調を緩め、優しく提案した。その変化に気付いた涼香が、
「ありがと!お姉ちゃんは大丈夫?痛いところとか、ない?」
見ていると守りたくなるような、不安そうな表情で尋ねてくる。
「私は大丈夫よ、大きな怪我はないみたいだし……そっちの男の子がいてくれたおかげなんだよね?」
半ば確信していたことだが、涼香にも確認してみる。
「そうだと思う、私を助けてくれたときに気をうしなっちゃったんだけど、その前からお姉ちゃんたちはさっきお姉ちゃんがいた場所にいたし……」
その答えを聞きながら、2人で少年に近寄り、怪我の確認を始めた。
「まだ小さい子なのに勇敢だね……」
「何歳くらいなのかな?」
「涼香と同じか、もっと年下なのかもしれないね」
少し場違いな言葉を交わしながらも、少年の体を触診していく。服で隠れている部分は、血がついていないかどうかだけを確認することにする。
頭、顔、呼吸に首筋の脈と順番に確認していく。左腕まで確認し、右腕に触ると意識のない少年が痛みで顔を顰めた。
「この子、右腕を痛めてるみたい……素人だからわからないけど、骨折しているかもしれない……」
幸い複雑骨折をしているというわけではない。だが見えない場所は確実に傷ついていた。
「涼香、なにか添木になるようなもの、それと包帯の代わりになりそうなものを探してきてくれ」
右腕を負傷しているということを知り、オロオロしている涼香に指示を出す。
「わかったよ! お姉ちゃん、待ってて! 」
返事をし、すぐに身を翻す。トンネルの出口のほうへと――。
「涼香! 待ちなさい、どこに行くの?」
「え?添木と包帯を探しに……」
どうやら気ばかり焦っていて冷静さは失っていた。
「それなら多分、反対側にこの子が乗ってた車があるはずだからそっちを探してみて」
「え?どうしてわかるの?」
ポカンとした顔で尋ねる涼香。
「トンネルに入るときに私たちの車の前に他の車はいなかったよね?だから、出口側よりも入口側にこの子の車があると思ったんだ」
私のちょっとした推理に目をキラキラさせながらうなずく涼香。
「わかったよ! お姉ちゃん探偵さんみたいでかっこいいね! 」
「おだててないで早くいってらっしゃい……」
そういうと舌をちらっとだしながら、おどけた顔で涼香は入口方面へと走って行った。
その背中を見送りながら、私は少年の触診を続けることにした――。




