画面の中の恋人 (後半)
翌日の早朝、携帯電話のランプが点滅しているのに気がついた。メッセージ受信のお知らせ。飛び起きてパソコンを立ち上げ、メッセージ画面にアクセスする。新着メッセージは1件、名無男から。
『ミコさんへ
おはようございます。昨日のメッセージを受け取ってから、僕はずっと眠れずにいました。ああ、もう敬語はやめようということでしたね、気をつけます。でも、急には難しいですね(笑)
ご主人との関係で悩んでいることは、ブログからわかっていました。僕も……複雑な事情があって詳しくは書けないのですが……妻との間にトラブルを抱えていて、ミコさんと同じように、もう修復は無理かもしれないと思っている。
女性の方からあんなことを書かせてしまって申し訳ない。僕の方から言うべきだった。僕もミコさんをひとりの女性として大切に思っています。妻がいながら、不誠実だと思われそうですね。
あなたさえ良ければ、僕は画面の中の恋人、ということでどうだろう。この画面の中では、僕にたくさん甘えてくれていい。僕はあなたの支えになりたいと思う。
返事は急ぎません。 名無男』
そのメッセージを読みながら、乃理子の胸は高鳴った。画面の中の恋人、だって……。ずいぶんと久しぶりの、甘く切ない感情がしっとりと広がっていく。甘えてくれていい、という一言には涙が滲んだ。
『名無男さま
いま、メッセージを読みました。文字だけでどこまで伝わるかわからないけれど、あなたの言葉を震えるような思いで読みました。不誠実なのは、わたしのほうです。お互いに結婚していて、支え合うべき相手がいることを知っているのに、こんなにも名無男さんのメッセージを嬉しく思ってしまうから。
わたしも、あなたの画面の中の恋人になりたい。 ミコより』
他人には恥ずかしくて絶対に見せられない文面。読み返す前に送信する。また、5分とたたないうちに返事が来て、そのまま何通もメッセージを交換し続けた。その中に並ぶ言葉は、これまでのものよりもずっと親密で、愛情に満ちたものに感じられた。
お昼を過ぎるまでメッセージのやり取りを続けた後、名無男が出かけるというのでそこでやりとりは小休止となった。恋人同士の雰囲気を盛り上げてくれるためか、これまでの彼には見られなかった言葉……『ずっと可愛らしいひとだと思っていた』『こんなに素敵なひとをきちんと愛さないご主人が信じられない』という蕩けそうになる言葉……を名無男はたくさんくれた。
乃理子はもらったメッセージを何度も何度も開いては、食事も摂らずにそこに書かれた言葉たちを眺めていた。
夕方近くになり、買い物に行く気にもなれずに、乃理子は冷蔵庫の中の材料で夕食の準備を始めた。あまり手の込んだものは作りたくなくて、カレーライスに決めた。炊飯器に米をセットしてスイッチを入れ、具材を鍋で煮込む。そういえば明彦とまだ仲が良かった頃は、カレーぐらいなら自分もできると言って、よく作ってくれたっけ……。不器用なくせに張り切って、皮をむかれたじゃがいもはもとの大きさの半分くらいになっちゃって、にんじんも変な形で、玉ねぎの皮むきで涙も鼻水もダラダラ流して……出来上がったカレーはものすごく不細工だったけど、それでも世界一おいしく感じられた。
ふたりの笑い声が、うるさいくらい響いていたはずなのに。日が暮れて薄暗くなりはじめたキッチンは、そんな頃があったことすら打ち消すように冷え冷えとしている。
この家を出たら、わたしはもっと自由に、幸せになれるのだろうか。そんな勇気もないくせに。でも、もしも『彼』とやり直せたら……らちもない想像をめぐらせながら、乃理子はぐつぐつと音を立てる鍋を見つめていた。
出来上がったカレーを、いつものようにひとりで食べる。とりあえずお腹におさまりさえすれば、味なんてどうでもよかった。食器を片付け、階段の上を見上げる。電気は消えているらしい。寝ているのか、それとも外出しているのか。考えても苦しいだけ。だから無理に考えないようにする。頭をぶるぶると左右に振って、乃理子は自室に戻った。
名無男は夜中まで用事があるということだったから、それまでの間、ハルカに話を聞いてもらうことにした。メッセージで確認すると、すぐにチャットルームに来てくれるという。パスワードを入力していつもの場所に入ると、すでにハルカが待機していた。
『なになに? ミコからお誘いなんて珍しい。彼のこと、進展あったの?』
何でも率直に言うところがハルカの良いところだと思う。ミコはそんないつも通りのハルカに苦笑しながら、昨日からの名無男とのやりとりを打ち込んだ。
『画面の中の恋人!? すごいじゃない、なんなの、たった一晩のうちに何があったのよ! 甘えてくれていい、とか、支えになりたい、なんて大人のひとって感じでいいなあー。わたしもそんなこと言われてみたいよ』
それから、そのあとのやりとりで言われた『可愛い』『素敵だ』という言葉が嬉しかったことも伝えると、
『なにそれ、いきなり急展開! どうなの? ミコとしては、名無男ってひととこのままどうにかなっちゃってもいいの? ミナミみたいに』
ミナミみたいに……会って、セックスして……どうだろう。そんなことまで考えられない。ただ、望んでいないと言えば嘘になる。
『もう恋人、とか言っちゃってるんでしょう? そしたらその後に来る当然の展開だと思うんだけどな。リアルでもそうじゃない? ちょっと仲良くなって、食事にでも行って、お互いの相性がよさそうならエッチしてみて、ってなるよね。完全にダブル不倫まっしぐらに見えるんだけど、それ大丈夫なの?』
たしかに、子供の付き合いでは無い以上、そうしたことは考えておかなくてはいけない。わかっているはずなのに、ダブル不倫なんて言われると、汚らしい感じがして少し気分が良くなかった。まだうまく考えられない、とだけ答えておいた。
『そっか、そうだよね。まあ、お互い大人なんだから、誰にも止める権利なんて無いとは思うけどさ。ほら、でも何かあったときに傷つくのは女の方だから、って思っちゃうんだ。ごめんね、余計なこと言って』
ハルカ自身も少し前にこのサイトで知り合った男性と、リアルで会ったことがあると聞いている。ただ、画面上で接していたときのイメージと、実際に会った時のギャップが激しすぎて合わず、一度食事に行っただけで終わったらしい。慎重派のコウが、いつだったか『文字だけのやりとりだといくらでも取りつくろうことができるし、嘘ばっかり書いてる可能性もある』と言っていた。たしかにそれもそうだと思う。でも、名無男に限ってはそんなことはない……はず。
『あーあ、ミコったらすっかり恋愛モードに入っちゃってる。そうだよね、好きな人のこと、疑いたくないよね。たしかに、あのコメントみてると悪い人には見えない。わたしはミコがどの方向を選んでも、ちゃんと応援するつもり。またなにかあったら教えてよ』
優しいハルカ。ちゃんと乃理子の気持ちを汲んでフォロー入れてくれる。そのまま恋愛って難しいよね、というような話をしばらく続けてチャットルームを閉じた。会話の最後の方で、ハルカが『彼と写メの交換すれば? きっと文字だけよりずっとリアル感あって楽しいと思う』と言うのを聞いて、乃理子は少し気持ちが弾んだ。
深夜1時過ぎ、名無男からのメッセージはまだ届かない。どうしても写真の交換のことを相談したくなって、短文のメッセージを書いて送った。
『名無男さま
こんばんは。お仕事お疲れさま。いきなりですが、提案があります。
名無男さんと顔写真の交換をしたいな、と思ったのですがどうでしょうか? 携帯で撮ったものでも、プリクラでも、なんでもいいのですが……。それを見ながら、メッセージを読むことができたら本当におしゃべりしているような気持ちになれるかなって。
お返事お待ちしています。 ミコ』
そのメッセージを送ってから数日過ぎても、名無男からの返信は届かなかった。
乃理子は余計なことを書いてしまったのかと落胆し、家事をする気もなくなり、仕事でもミスを連発するほどショックを受けた。やっと返事が届いたのは、メッセージを送信してからちょうど1週間後のことだった。
『ミコさんへ
まず、お返事がこんなに遅くなってしまって申し訳ない。いくつかの仕事に追われていたことと、もらったメッセージにどう返信していいか迷っていたのが正直なところです。
結論からいえば、写真の交換はできない。それは僕の方の勝手な事情で、決してあなたのことを大切に思う気持ちに嘘は無い。なにかをごまかすために言っているのではないと、それだけはわかってほしいと思う。
1週間も放っておくなんて、僕は早くも恋人失格かな。最近はブログも更新していないね。僕の返事が無いことに落ち込んでいたのかな、と思うのはうぬぼれすぎだろうか。もしもそうだとしたら、不謹慎ながら嬉しく思います。 名無男』
もう写真のことなんてどっちでも良かった。名無男がまたメッセージをくれたことで、乃理子は緊張の糸が切れたように涙ぐんだ。画面が涙で滲む。急いで返信を打つ。
『名無男さま
こちらこそ、本当にごめんなさい。いきなり写真だなんて……こうしてメッセージをやり取りできるだけでも幸せなのに。この1週間、わたしはたしかにおかしかった。あなたに恋人宣言されてから、ずっとわけのわからない妄想ばかりしていました。笑わないで読んでくれますか?
この家を出て、名無男さんとふたりで新しい生活を始めるという妄想です。休日には一緒に買い物に出かけたり、たまには旅行に行ったり、仕事から帰ってきた後に他愛もない話をしあって笑ったり……そんな当たり前の夫婦のようなことを一緒にできたらいいなって思っていました。ごめんなさい、奥様もいらっしゃるのに、勝手にこんなこと考えてしまって。
これからもたくさんメッセージのやり取りを楽しみたいです。 ミコより』
送信し終わって画面をぼんやり眺めているうちに、すぐに返信が届いた。
『ミコさま
あなたは本当に可愛らしい人ですね。よければ、あなたにとっての理想の家庭像をもっと聞かせて欲しい。休日に一緒に買い物に行って、両行もして……ほかにどんなことがしたいと思っているんだろう。僕もできることなら、あなたとそんな生活がしたい。
無責任にこんなことを言うのはいけないことですね。反省します。 名無男』
『名無男さま
メッセージの中だけでも、そんなふうに言ってもらえて嬉しいです。やりたいことはまだまだたくさんあります。
例えば、お給料日の夜だけはふたりでお気に入りのお店のディナーを食べに出かけたり、何か共通の趣味を持つのもいいと思うし……季節ごとの洋服を一緒に見に行くのも楽しそう。あなたに似合う洋服を、わたしがあれこれ選んで試着してもらったり。
どれもこれも、あたりまえすぎることばかりですよね。でも、わたしがしたいのは、心を許せる相手とそんなあたりまえの暮らしをすることなんです。 ミコより』
『ミコさま
僕たちはすごく考えが似ているように思います。ミコさんが書いたような暮らしは、僕の憧れでもあります。現実にはなかなか難しいこともあるかもしれないけど、そういう毎日を重ねていける夫婦は幸せだろうと思う。
あなたを妻にしたご主人は、幸せ者ですね。 名無男』
夫は……明彦は乃理子と結婚して幸せだと感じたことはあったのか。今はそれすら疑問に思う。乃理子と名無男は一晩中メッセージのやりとりを続け、その中で乃理子は拗ねて見せ、彼に甘え、彼はそんな乃理子をどこまでも受け入れた。幸せな時間は瞬く間に過ぎ、気付けば朝がやってきていた。
ふたりはお互いの生活に支障がないようにとルールを決めることにした。平日は夜中に1時間だけ、休日前夜は気が済むまでメッセージのやり取りやチャットをしようということに決めた。
夜になれば必ず彼と話ができる。そう思えば、何もない日常生活にも張りが出た。だらしない生活をしていたら、もしも名無男と共に生活するようになったときに悪い気がした。だから、どんなに疲れていても家事は以前よりもきちんとするように頑張った。料理も手を抜かず、栄養のバランスを考えたものを作るようにもなった。それがすべて夫のためではなく、名無男のためだというのが皮肉ではあるけれど。
夫の態度は一貫して変わらない。顔を見ても話すことはなく、目も合わさず、たまに2階で物音がすると「ああ、いるのかな」と思う程度だった。少しだけ罪悪感のようなものを感じたが、だからといって名無男との関係にブレーキをかける要素にはならなかった。
日がたつごとに、どんどん気持ちが惹かれていくのがわかった。手の届くところに相手がいたら、迷わず抱きあっていたに違いないと思えるほど、乃理子の気持ちは燃えあがっていった。
メッセージを交換するようになって3カ月ほど過ぎた頃、星座か何かの話の流れでお互いの誕生日の話題になった。乃理子の誕生日は2週間後の10月15日だというと、名無男はびっくりするようなことを言い出した。
『ミコさま
10月14日の誕生日、僕にお祝いをさせてもらえないだろうか。少し前に、大きな花束を恋人からもらうのが夢だって言っていただろう? あれを実現させてあげたい。もちろん、直接会って渡すつもりだ。それとも、やっぱり会うのは難しいかな? 名無男』
名無男と……会う? 心臓が壊れそうなくらいバクバクと音をたてた。文字だけのやり取りで、こんなにも好きになってしまった。会いたくないわけが無い。でも……不安が無いわけじゃない。会ってしまったことで、せっかくのふたりの関係が壊れてしまったら……またあの張りの無い毎日に逆戻りなんて絶対に嫌。
ぐるぐるといろんな考えが渦巻く。少し考えさせてほしい、と返信して、いつかの名無男と同じように1週間ほど悩んだ。
いざこういう事態になると、ハルカたちにも相談する気になれない。否定も肯定もされたくなかった。大切な人からの、大切な誘い。いい加減な気持ちで答えたくない。自分だけでしっかりと答えを出したかった。
そして、乃理子は答えを出した。
『名無男さま
お返事をお待たせしてごめんなさい。どうしてもいい加減な気持ちでお返事したくなかったのです。
わたし、あなたに会いたい。誕生日を一緒にお祝いしてください。 ミコより』
『ミコさま
突然困らせるようなことを言って、こちらこそ悪かった。当日は君が好きだと話していたイタリアンレストランを予約しておくよ。待ち合わせ場所と時間はまた連絡する。今週はもう忙しくてあまりメッセージを送れないかもしれないけど、当日会えるのを楽しみにしているよ。 名無男』
その翌日には、具体的な待ち合わせ場所と時間の連絡がきた。場所は乃理子の家から電車で30分ほどのところにある、有名な時計台の下。誰が言い出したのか、そこで待ち合わせをするカップルは必ず幸せになれるとか。時間は午後6時。チャコールグレイのスーツに濃い赤のネクタイ、それに大きな花束を持っていくからすぐにわかると思う、と書いていた。
乃理子も当日着て行く予定の服装を伝え、楽しみにしています、と送った。
31歳の誕生日、わざわざ花束を用意して祝ってくれる名無男のためにも、これをただのデートにしたくは無かった。ひとつの区切りをきちんとつける、新たな旅立ちの日にしようと乃理子は決めていた。
誕生日の2日前、会社の昼休みに区役所へ出かけた。滅多に来ることがなく、少し戸惑ったが目的のものはすぐに見つかった。家に帰って、ダイニングテーブルにそれを広げる。薄っぺらい紙に緑の枠組みと文字。離婚届。
こんな紙一枚で夫婦の関係は終わらせることができるのか、と思うと、拍子抜けしそうになる。そういえば婚姻届もこんな紙一枚のことだった。あのときの気持ちは、もう忘れてしまった。
自分が書くべきところだけしっかりと記入して印鑑を押す。これを、誕生日に名無男と会う前にテーブルの上において出る。おそらく夫は迷わずサインして、この中途半端で面倒くさい関係を終わらせてくれるに違いない。
印鑑を押すとき、一筋だけ涙が流れた。でも、それはいったいどういう涙なのか、乃理子にもよくわからなかった。
そして誕生日。もう、今日のデートから帰ったら翌日には家を出て行くつもりだった。ほとんどの荷物は段ボールに詰め終わっている。別に名無男に頼る気持ちは無かったので、しばらくは地元の関西でもう一度自分を見つめ直そうと思っていた。家のローンもほとんど終わっているし、特に財産分与や何かを請求するつもりはない。
予定通りテーブルの上に離婚届を広げて置き、がらんとした自分の部屋をもう一度眺めてから乃理子はドアを閉めた。
日曜日の夕方、電車の中は幸せそうな親子連れや恋人たちが溢れていた。きゃあきゃあと楽しそうな声を聞きながら、乃理子は車窓を流れる風景だけをじっと見ていた。夕暮れが迫る街並みにはキラキラと照明が灯りはじめ、昼間とは違う表情に変わっていく。心はもう波立つこともなく、ただ静かに名無男との不思議な関係に思いを馳せた。
午後5時半を少し過ぎたところで待ち合わせ場所に着いた。さすがに有名スポットだけあって、若いカップルたちで混雑している。まだ時間には早すぎる。乃理子は時間を確認した後、すぐ近くのコーヒーショップでカフェオレを頼み、それを持ったまま時計台の真下にあるベンチに座った。
日が暮れた後、しんしんと寒さが忍び寄ってくる。昼間は暑いくらいだったのに……半袖のワンピースで来たことを後悔しながら温かいカフェオレを啜った。名無男はいったいどんなひとなんだろう。写真を断るくらいだから、ものすごく容姿にコンプレックスがあるひとなのだろうか。ちらっと頭の中で漫画に出てくる太っちょでいじめっ子のキャラクターを想像して、乃理子はひとり笑った。
「あの……」
急に声をかけられて、手に持ったカフェオレを落としそうになる。顔をあげると目の前に色とりどりの花束が突き出されていた。それは、赤、黄色、白、ピンク……カラフルな花たちが何十本もまとめられたもので、乃理子が名無男に話した理想の花束そのものだった。
「名無男さん、ですか?」
花束で視界を遮られ、顔が見えない。足元の革靴とチャコールグレイのスーツの膝下だけが確認できた。相手は答えない。
「わたしです。ミコです。今日はありがとう……」
花束の隙間から、ようやく相手の顔が見えた。乃理子は言葉を失い、まだ半分ほど残ったカフェオレのカップが地面に転がった。思わず立ち上がる。
「明彦……どうして……?」
眉尻を下げたバツの悪そうな、夫、明彦の顔がそこにあった。明彦は頭をぽりぽりと掻きながら、小さな声で「少し話そう」と言った。
もう一度ベンチに座り直す。せっかく席が空くと思っていたカップルたちの舌打ちが聞こえる。頭が混乱して、何から言えばいいのかわからなくなった。明彦が静かに頭を下げた。
「ごめん。だますようなことして、本当に悪かった。おれ、馬鹿だからこんなことしか思いつかなくて……でも、なんか、ほんとどうしていいかわかんなくて……」
「あ、明彦、本当にあなたが名無男なの?」
ただでさえ口下手な明彦は、必死でいままでのことを説明しようとしていたが、話の前後関係がばらばらな上に興奮してよけいにわからなくなるので、話の途中で何度も乃理子が内容を整理しながら聞かなくてはならなかった。
明彦が乃理子のブログを知ったのは、ちょっとした偶然だった。ある日、どうしても必要な書類が見当たらなくて、もしかして乃理子の部屋に紛れ込んでいないかと、乃理子が入浴中に部屋に入ったことがあったらしい。
「それでさ、ほんとに、見るつもりなんて無かったんだけど、ほら、なんとなくパソコンの画面見たら……あの、ブログの画面でさ……」
「ああ……」
たしかに、ブログ画面にアクセスしたまま放置したことも珍しくは無かった。それを見た明彦は、何を書いているのか興味をそそられて、自分のパソコンから検索してアクセスし、当たり障りのないコメントを入れるようになったという。
「ほら、俺たち、こんなふうになって……まともに話なんかできる状態じゃなかっただろ? でも、嘘臭いって思われそうだけど、なんていうか、乃理子のことずっと気になっててさ……なら、直接言えばいいって思われるかもしれないけど、ほら、そんな空気じゃなかったし……」
「そう……」
「職場のことでも、俺のことでも、すげえ悩んでて、悪いなって思ってたけど、ずっと乃理子が俺のこと怒ってるんだって思ってて……でもほら、コメントとか入れると悦んでくれただろ? メッセージを始めたときも、すげえ楽しそうで、なんか俺も嬉しくなって……」
「それは写真交換なんてできないわよね……」
「そう、あれは本当にどうしようかと思って、でも……あ、うん、ほんと、ごめん……メッセージみたいにゆっくり考えながらだったら、乃理子が喜ぶようなことも言えるんだけど、だめだな、直接しゃべるとこんなふうになって……もう、許してくれないと思うけど、俺、ほんとにおまえのこと大事に思ってた。ごめん……」
同い年なのに、まるで子供のようにうつむいて鼻をすすりあげる明彦の腕をとって、乃理子はゆっくりと立ち上がった。花束を両手で受け取り、そのかぐわしい香りを胸一杯に吸い込む。
「もういいわ。あーあ、なんだか気が抜けてお腹すいちゃった。話は後にしましょう。ちゃんとイタリアンレストラン予約してくれてるんでしょ?」
「う、うん、もちろんだ。奮発して一番高いコース頼んでるよ」
「じゃ、行きましょうか。名無男さん?」
花束を右手で抱き、左手を明彦の腕に絡ませる。顔を見合わせて大きな声でげらげらと笑いながら、ふたりは歩幅をそろえて歩き始めた。もう一度、わたしたちやりなおせるよね。乃理子は、帰ったら真っ先にあの離婚届を破り捨てようと心に誓った。
(おわり)