第2話「予定された夜会」
違和感は、静かに広がっていた。
それは、明確な異変ではない。誰もが気づくような出来事でもない。
ただ、ほんのわずかに――空気が、歪んでいる。
夜会の後半。舞踏が終わり、談笑の時間へと移った頃。
私はいつも通り、殿下の半歩後ろに控えながら、周囲の会話を整理していた。
誰が誰と繋がり、どの話題に興味を示し、どこに利害があるか。
それらを頭の中で組み立て、必要であれば殿下に補助的な情報を渡す。
それが、私の役割。
それが、私の価値。
「リゼル様」
名を呼ばれ、視線を向ける。
若い伯爵令嬢だった。柔らかな笑みを浮かべているが、その奥にある感情は読み取りやすい。
――好奇心と、わずかな優越感。
「本日はお美しいですわ。まるで本物の王妃のよう」
「ありがとうございます」
定型の返答。
「……でも」
彼女は声を潜めた。
「やはり少し、冷たく見えてしまいますのね。殿下もお可哀想に」
私は瞬きを一つ。
それだけで、十分だった。
感情を表に出す必要はない。
「ご忠告、感謝いたします」
「まあ、ご忠告だなんて。そんなつもりでは――」
言葉を濁す彼女の視線が、ふと別の方向へ流れる。
つられて、私もそちらを見る。
そこには、王太子殿下と――見慣れない少女がいた。
淡い色のドレス。装飾は少なく、貴族としては控えめな装い。
だが、その表情は柔らかく、どこか無防備で。
殿下は、その少女に向かって――笑っていた。
それは、私に向けるものとは明確に異なる表情だった。
温度のある、笑み。
「……あの方、ご存じありませんの?」
伯爵令嬢が、わざとらしく言う。
「最近、殿下がお気に入りの……」
言葉は最後まで続かなかった。
なぜなら私は、すでに理解していたからだ。
必要な情報は揃っている。
あとは、結論を出すだけ。
――あれは、問題だ。
しかし。
問題であっても、私が動くべきかどうかは別だ。
私はゆっくりと視線を戻す。
「存じ上げません」
それだけ答えた。
伯爵令嬢は一瞬、拍子抜けしたような顔をしたが、すぐに笑みを取り戻す。
「まあ。そうですの」
それ以上は何も言わない。
言う必要がないからだ。
彼女にとって重要なのは、情報ではなく“確認”だったのだろう。
私がどう反応するか。
それだけ。
私はその期待に応えなかった。
応える必要がない。
なぜなら――
これは、私の問題ではないからだ。
王太子の交友関係は、私の管轄ではない。
それが政略に影響するなら話は別だが、現時点では判断材料が足りない。
ならば、優先順位は低い。
処理を保留する。
それだけのこと。
――本当に?
思考の奥で、何かが小さく軋む。
だが私は、それを無視する。
感情はノイズだ。
判断を鈍らせる。
「リゼル」
再び、殿下に呼ばれる。
私はすぐに歩み寄る。
「はい、殿下」
「少し、話がある」
周囲の視線が集まる。
私は一瞬で状況を整理する。
この場で個別に話を持ちかけるということは、私的な内容か、あるいは――
公開される前提の何か。
いずれにせよ、拒否はできない。
「承知いたしました」
殿下の後に続く。
その途中、私はもう一度だけ、あの少女の方へ視線を向けた。
彼女は、こちらを見ていなかった。
ただ、殿下の背中を見つめている。
その目は――
憧れ。
あるいは、信頼。
少なくとも、打算ではない。
その事実を、私は冷静に認識する。
そして同時に、理解する。
――これは、私の知らない領域だ。
私は、ああいう視線を向けられたことがない。
向けたこともない。
必要がなかったから。
役割の中に、それは含まれていなかった。
だから、知らない。
知らないものは、扱えない。
ならば。
――排除するか、無視するか。
どちらかだ。
「……リゼル」
殿下が、少し低い声で言った。
「お前は」
また、言葉が止まる。
その迷いは、先ほどよりも明確だった。
私は、静かに待つ。
促さない。
急かさない。
それが、正しい対応だから。
数秒の沈黙。
やがて、殿下は小さく息を吐いた。
「……いや。後にしよう」
「かしこまりました」
私は頷く。
それ以上、何も言わない。
言うべきではない。
今の段階では、情報が不足している。
結論を出すには早い。
だから私は、ただ一つの事実だけを保持する。
――何かが、確実に動いている。
そしてそれは、おそらく。
私の“役割”に関わるものだ。
夜会のざわめきが、少しずつ形を変えていく。
視線が、増えている。
ひそひそと交わされる声。
断片的に拾える単語。
――冷たい
――向いていない
――あの方の方が
意味は明確だ。
だが私は、それを処理しない。
処理する必要がない。
評価は結果で覆せる。
それが、これまでの常識だった。
だが。
もしも。
その“結果”を出す機会すら与えられなかったとしたら。
――その時、私は。
何になるのだろうか。
答えは、まだ出ない。
だが、確実に近づいている。
その瞬間が。
読んでいただきありがとうございます。
少しずつ「ズレ」が広がってきました。
まだ大きな事件は起きていませんが、
この違和感がどう繋がるのかを楽しんでいただけたら嬉しいです。
ここから一気に動きます。
続きが気になる方は、ぜひブックマークして追っていただけると嬉しいです。




