第三十話 ラス。
「お?起きた見たいだねぇ。」
へらへらとそのモルフはロイに話しかける。美しい黒い髪に切れ長の瞳。高い鼻に薄い唇。ドレスのような真っ黒なカーディガンをふわりと羽織った色白の青年はベッドの傍の丸椅子に腰掛けていた。長い脚を器用に組んでいる。ロイは驚いた。目の前に居るのは、滅多に見ることが出来ない完全人化した……一切の他生物の要素の無い……モルフだった。初めて見た。驚くロイはしかし、一瞬で九頭竜との激闘を思い出し、狼狽した。皆は?ハクは無事だったのだろうか?飛び起きようとするロイをその男は片手で軽く押さえ込む。
「全員無事だ。黒山羊の爺様が全部癒したよ。」
言ってからその男はゲラゲラと笑った何が可笑しいのかわからなかったが、兎に角、愉しそうだ。黒い外衣から黒羽が零れる。ここは霧城。医療棟の一室だ。ロイは目の前の男よりも街が気になり、ベッドから降りようとして、落ちた。
「ああ、外殻は全部オシャカだ。暫くは丸裸でがんばんな。」
ひひひひとそのモルフは笑った。ロイの外殻は剥がされていて、ハクやクウからはローと呼ばれている状態になっていた。リツザンの端の崖に取り付くように建設されている霧城の本丸の中段に医療棟はあった。病室の直ぐ外には崖に住まう隼達が、宙を舞っていた。空は良く晴れて空気は澄んでいた。ローは痛む体をベッドに引き上げる。何とか端に腰掛けた。
「何故、ここに?」
ローは単刀直入に聞く。そのモルフはゲラゲラと笑う。
「俺はラス。別の世界からやってきた……所謂、歩む者だ。」
ローは驚いた、が全てを信じた。たったの一撃であの九頭竜を仕留めたのだ。六角金剛達とどちらが強いだろう?
「どうして?何故ここに?」
ローは質問を繰り返す。あの時、意識を失う瞬間に黒丸がこの男……ラスに詰め寄っていなかっただろうか?それが?なぜ、霧街の中枢である霧城にいるのだろうか?だが、ラスはローの質問に答えない。
「内緒だけど教えるよ。お前がこの街最強のモルフと見込んだからさ。他の奴と話す気は無いねぇ。」
ロイはぎくりとなった。単純にラスの言葉を鵜呑みにして喜んでいる自分がいたのだ。突然現れた見知らぬモルフの言葉であるとわかっていても嬉しかったのだ。一文字や黒丸よりも上と見なされたのだ。前からその自負はあった。だが、六角金剛達はそれを認めようとはしていなかった。その不満は熾火のように燻り続けていた。今もなお。事実、実の父親である一文字をロイは倒した。それも成体になって初めての一対一の舞闘で倒したのだ。その舞闘で一文字が負った傷は癒えること無く、一文字は角と腕を失った。思い出すたびに後悔で喉が詰まる。だが、強弱とは別の話だ。自分は六角金剛より強いのだ。そして、振り返らないハクや捕まえることの出来ない首切り、倒すこと出来なかった九頭竜。傷ついて、すり切れたロイの自尊心にその痩せた男の言葉は蜜のように染みこんで、万能薬の様に効果を現した。ロイの中の何かを見透かし鷲掴み、ウィウはへらへらと続ける。
「なぁ……俺は歩む者、だ。遠く遠くからここまで旅してきた。色々見てきた。良いものも、悪いものも。権力者も無力な者も。世界は滅ぼうとしている。それは必然。避けれないんだねぇ。」
ラスの言葉にロイの心はざわつく。世界が滅ぶ必然?何だろう。そんな事って有るのだろうか?ラスは自信ありげだ。答えを知っている者の全能感が発散されている。にやりと……どこか下品に……笑い、高い鼻をロイに近づける。
「貴様はどうだ?貴様は生きる価値があるのかねぇ……?それとも、滅ぶかぁ?」
ロイは答えられない。
「いや、そもそもお前は生きているのか?」
何を言いたいのかロイは理解出来ずにいた。だが、恐ろしくて体の芯が凍りつくのを感じた。言葉には魂が宿る。今、ラスが吐き出した言葉は単なる言葉を超えて実行力のある、魔法の一つとなった。
(世界は滅び、俺の命は価値がなく、そしてそもそも俺は生きていないんだ。)
ラスはゲラゲラ笑う。ショックを受けているロイが面白かったのだ。
「いや、冗談だよ冗談。ほんと、来てみて良かったねぇ。ニチリンの頭がおかしくなるのも無理ないねぇ。」
ラスは長い足を折り畳むように組み、背中を丸めて丸椅子に腰掛けている。白い肌だけが浮き上がり、闇色の衣服は全く光を返していなかった。時折、服から黒い鳥の羽が落ちる。はらり、はらはら。黒目の大きい瞳が高い鼻を挟んでいる。ロイの頭の中を覗き込むかのようだ。ラスには不思議な魅力があった。冒涜的な破滅を胸の内に抱えているようで、崖上から覗き込む谷底の引力を備えていた。ラスは右手首をロイに見せる。手首には呪符が巻かれていた。
「この呪符で俺の位置が常に判るんだと。あと、俺が悪さしたら呪符から式神が現れてお仕置きするってよ。」
また、ラスはひとしきり笑った。頭のねじが緩んでしまってぐらぐらしているかのような、抑制の無い笑いだった。
「まあ聞けよロイ。俺は今は滅んでしまった歩む者だ。舞闘場の大門は敵役のクリーチャーを取り出すためのものじゃねぇ。俺達、歩む者の通り道なんだよ。この街のお偉いさん達はそれを覚えていたから、怪しみながらも俺を拘束しないで、自由にさせとくことにしたって訳だねぇ。一応はこの街を九頭龍から救った英雄でもあるしねぇ。さぁ――さて。」
ラスはここで、ぐいっと顔をロイに近づけた。
「教えてくれないかねぇ?この街の事を。ここはもうじき戦争になる。俺なら救ってやれるぜ?なぁ、気狂いが居るんだろう?滅びに向かって進んでいるんだろ?教えろよ。この街の全てを。」
ロイは他人事のように思った。ああ。自分は吸い込まれてしまった。魔力に惹かれて、谷底に堕ちたのだ、と。




