第十五話 夜の帳。
深夜。ひやりとした何かを感じて、クウは目覚めた。首に冷たい何かが当てられている。暗闇。首に感じるのは金属的な冷たさ。一瞬の迷いが走った。このまま動かずじっとしているべきか。首に当てられた……大きな鋏のようにも思える……冷たい物体を払い除けるべきか。ここの所、キリマチを騒がせている首切りモルフが思い浮かんだ。決断。クウは全力で蹴り上げた。
ぎゃあっ!
何処かで聞いたような鳴き声だった。何も見通せない暗闇の中、クウは悲鳴を上げた何かを追撃しようとして、方向を変える。跳び上がってバスルームの天井の隅を蹴り込む。そこに居た、赤い眼を持つ別の何かは作業室に逃げ込む。冷たい鋏はバスルームの窓から逃げて行った。クウは素早く立ち回って、赤い眼を追いかけて作業室に飛び込み、継ぎ接ぎだらけの錫杖を握り、部屋の明かりを付けた。天井の照明が部屋全体を明るくさらし出す。が、照明の一つが千切り取られ、床に落ちた。一角に闇が生まれた。クウは睨む。何者だろうか。さっきのは例の首切りだろうか。天井に隠れるこいつは?明かりが余計に闇を濃くして、その姿は全く見えない。
「出て来い!弱く無いよ。僕は。」
天闇に向けてクウは声を投げる。彼の言葉に嘘は無かった。体は徐々に弱っていて、状況は悪いが舞闘となれば、まだ一流だった。勿論、以前は望むべくも無く、ハクやロイには敵わないがそれでも一般人の中では十二分に強かった。天闇が揺らぐ。赤い眼が瞬く。一つ、二つと眼は増えていった……合計八つ。闇が溶けて垂れるように、天井から光を反射しない真闇が降りてきた。巨大な毒蜘蛛。獣化状態で降りてくるそれは、セアカだ。
「久しぶりだな。クウ。元気そうで何より。」
クウは突然の事で金縛りにあっていた。そう言えば、誰かが言って無かっただろうか。セアカが失踪したと。クウは持ち前の勇気でセアカに挑む。
「どうしてここにいるの?さっきの冷たい鋏は何?首切りなんじゃないの?」
ぼとりと床に着地して、セアカは笑う。
「相変わらず賢しいな。その通りだが、それを知ってどうする?そうだよ。あれが沢山のモルフ達の首を切った首切りだ。だから何だよ?お前に何が出来る。」
完全獣化しているセアカは怒りに赤く光る八眼を瞬かせてクウに近づく。
「お前のお陰だよ。クウ。感謝している。俺を解き放ってくれて。俺をあの下らない狩猟隊から救い出してくれて。俺は今、幸せだ。夜の街に埋もれて彷徨い首切り……冷たい鋏の方が良いか?……と戯れる時。俺は自由だ。お前のアニキがファンブルして、消えてしまって、俺はある意味呪われてしまったんだ。でもそれももう、昔の事だ。助けられたよ、クウ。」
クウはぞっとなった。身体中が粟立った。そう言えば昔、セアカに首を絞められた事があった。ソウイウコトなのだ。セアカはクウに顔を寄せる。グワイガに殴られて欠けた牙をカチカチさせながら、息が掛かる距離まで近いた。クウは怯えながらも、間合いを計った。後には引けない。ここで死ぬ訳にはいかない。この事実を誰かに伝えなくちゃ。ファンブルしてしまった今では、セアカを倒せる見込みは無いが、諦める訳にはいかない。事実をこの闇の中から持ち出さなくてはいけない。クウは間合いを読む。いつ仕掛ければよいのか?いつ逃げればよいのか、セアカと自身の拍動を、空気の流れを読む。その一瞬を計る。そして……。
ぎゃあっ。
夜の街の何処かで、冷たい鋏の悲鳴が響いた。一瞬で、セアカが消える。クウはセアカを見失った。セアカは闇に溶け込み、何処かへ消えた。クウは崩れ落ちた。冷や汗をかいていた。全く太刀打ち出来ない事を悟った。クウはセアカに。冷たい鋏が鳴かなかったら、セアカがクウをほったらかしにして出ていかなかったら、きっと殺されて……モルフが本当にモルフを殺すことがあるのだろうか……いた。倒れ込んだクウは再び吐き気に襲われて、バスルームに駆け込んだ。少し落ち着いたらセアカを探しに行かなくちゃ。そう思いながら、しかし、クウは気を失うようにバスルームに倒れた。気を失って見た寒い夢の中で、クウはファンブルして失踪した兄を見た。夢の中で兄は死んでいた。死体に兄の首は無く、クウはただそれを見下ろし、立ち尽くしていた。闇は深く、帳は重かった。




