第二話 死にゆく世界 2
今、樹海の底の王国はモルフ達の絶叫で埋め尽くされていた。
誰も彼もが走って走って走り続けた。ファゴサイトから逃げる為に。当初、樹海の奥に現れ、木々を溶解しながら貪食するファゴサイトを発見したジュカの兵士達は巨大な城壁に取り付けられた門を閉ざす事でその脅威をやり過ごそうとした。しかし、その行為には意味が無かった。門の隙間や大地からファゴサイトは溢れて染み出し、モルフ達を捕食した。更には高さ十メートルの城壁を超えて、ファゴサイトは雪崩れ込んで来た。ファゴサイトは獲物を生きながらに溶解する。その痛みは絶望。戦いを挑もうにも、不定形のゾル状生物が相手では有効な武器は無い。兵士達は自慢の剣や槍を振り回しながら消化されて、絶叫しながら死んでいった。ヒトビトは恐慌を来しながらも、王都の中へ中へと移動して、遂にはジュカの最大防壁の内側に逃げ込んだ。防壁の高さは百メートルを超える。世界が繁栄を極め、漂泊者や歩む者が国々を渡り歩き、戦争が存在していたあの時代にも破られたことのない最大防壁だった。ここは壁と床が一つの巨大な岩をくり抜かれて作られた浮かない方舟だった。この内部に戦争の際に人々が避難する場所や王城が設けられていた。ここであればファゴサイトも足元から染み出して来る心配は無かった。だが、ジャガーモルフのミントはそこに辿り着けなかった。既に防壁門は閉ざされて壁は取りつく場所など無い。取り残された多くの国民達……ファンブル達だ……も同様だった。街中に取り残され、高い所高い所へと逃げ惑い、街中の小高い丘に追い込まれていた。ミントも正にその一人だった。ガラクタを積み上げたような狭く雑然とした建物の内部を駆け上がり最上階に到達し、その窓から屋根へと上がった。狭いスペースしか無い脆い屋根で、ミントは、逃げ込んだ場所はもうこれ以上進む事も引き返す事も出来いのだと悟った。周りを見渡せば同じように追いやられたモルフやファンブル達が其処此処の屋根の上に居る。空は空の眼に支配されて、ごおうごおうと不気味な呼吸音を発していた。屋根上の住人達は不安を叫び絶望で震えた。窪地に密集していた神経質なモザイク模様の集合住宅は完全に黒半透明の海に沈んでいた。その激痛の海には悲鳴を上げながら泳ぐモルフ達で溢れかえっていた。彼らはもうどの岸にもたどり着かない。生きながら躰の内部から消化されていく激痛に精神を削られて死ぬのだ。彼らが溶かされて立ち上る淡黄色の煙が空に巻き上がりセルの目に吸い込まれて行く。空の眼は煙りを吸い込む度にごおうごおうと笑い声を上げる。空の眼は霧のような雨を絶望の世界に振りまいている。ミントが取り残された世界は狂気しか無かった。ミントは少しでも希望を見出そうと、王城を見やる。最大防壁の向こう側に高く高くそびえている王城。自分は間に合わなかったが家族は中に居るはずだ。大切な人達は全て王城の中だ。ミントは自身の状況に絶望しながらも、安心していた。死ぬのは自分だけだ。父も母も弟も無事だ。王城にはどれだけのヒト達が逃げ込めたのだろうか?確か防壁内の広場を使えば五十万人が避難出来ると父が言って居なかっただろうか?ミントは助かる筈のたくさんのヒト達の事を思い心を落ち着かせた。これから激痛の中で死んでいく自分の事は考えないようにした。目を閉じて空を仰ぐ。呼吸を整えて目を開く。宝石のように耀く瞳が上空の空の眼を写す。見下ろせば、貪食生物の海がミントが追い込まれた屋根の五十センチメートル下まで迫っていた。元は何だったかわからないモルフの上半身が黒い海に浮かんでいた。目を開いたまま絶命していたと思われたソレは、ミントを見つけると絶叫し始めた。
痛い痛い助けて助けて。
ソレはミントを見たまま叫び続け、溶かされ絶命して沈んだ。ミントは心の中の何かが割れて崩れるのを感じた。正気なんて無くなってしまえば良い。狂った方が楽だ。どうせ死ぬのだから。ミントは最後の正気を打ち払うために叫
「ジャガーモルフのミントだな?」
穏やかで力強い声だった。狂気に飲み込まれる最後の瞬間で、その声に救われた。その声の主は、豪奢な角を持つ、白い鹿のモルフ。空中に浮かんでいた。
「君の父上に頼まれた。君を国外に逃がすように、と。」
言うと共にそのモルフはミントを攫い、六眼白鹿に変じて雨粒を蹴り、風のように大空を駆け上った。その一瞬で樹海の底の王国ジュカを置き去りにした。ミントは国外ではなく、王城に連れて行って欲しいと頼んだが聞き入れて貰えなかった。空を飛べるのなら引き換えしてまだ幼い弟を連れ出して欲しいと懇願した。しかし、鹿のモルフは聞き入れない。
「しっかりと捉まって、前だけを見ろ。」
白鹿は冷静に命令する。嫌な予感がしてジュカを振り返るミントは、その時漸く全てを悟った。貪食生物の海は王国ジュカを中心に数十キロメートル四方に広がっていた。それが、王城を目指して収縮しているのだ。結果は見えていた。最大防壁も絶対ではなく、王城は呑み込まれるだろう。皆、死ぬのだ。ミントは白鹿の背中に顔を埋めて泣いた。皆の苦痛を思って。そして、自分は助かったと安堵している……自身に恐怖して。




