第42話 最後の夜
夜が、深くなっていた。
城内。
宗茂は、地図を広げる。
伊勢。大坂。関ヶ原。
西軍の布陣を——頭の中で描く。
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「殿」
誾千代が、部屋に入る。
「遅い」
「考え事をしていた」
誾千代は、隣に座る。
地図を、見る。
「……いつ、出ますか」
「明後日」
「そうですか」
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しばらく——二人とも、地図を見ていた。
水の音が、聞こえる。
花宗川。
「誾千代」
「はい」
「柳川を——頼む」
「当然です」
「民のことも」
「わかっています」
「花宗川の——」
「殿」
誾千代が、遮る。
「全部、わかっています」
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宗茂は、誾千代を見る。
その顔が——いつもと同じだった。
揺れていない。
強い。
「……そうだな」
「はい」
「頼りにしている」
「知っています」
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一拍。
「誾千代」
「はい」
「……怖いか」
誾千代は、少し間を置く。
「何が、ですか」
「今度の戦は——九州の戦とは違う」
「はい」
「天下が、相手だ」
「……はい」
「勝ち目は——薄い」
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誾千代は、地図を見たまま。
しばらく——答えない。
やがて。
「怖いです」
静かに、言う。
「そうか」
「ですが——」
一拍。
「それは殿も、同じでしょう」
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宗茂は、答えない。
誾千代が、続ける。
「怖くても——行くのでしょう」
「ああ」
「ならば——」
誾千代が、宗茂を見る。
「怖くても——待ちます」
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その言葉が。
胸の奥に、刻まれた。
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「……帰る」
「はい」
「必ず」
「はい」
「約束する」
誾千代は——少し間を置く。
「約束より——」
「準備をしろ、か」
「……今回は、違います」
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宗茂が、誾千代を見る。
誾千代は——
「信じています」
静かに。
強く。
「帰ってきてください」
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風が、吹く。
水の音が、続く。
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その夜。
二人は、長い間——花宗川を見ていた。
言葉は、少なかった。
だが——
言葉がなくても。
伝わるものが、あった。
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夜明け前。
宗茂は、城を出る準備をする。
備前長光を、腰に差す。
紹運から受け継いだ刀。
「……父上」
小さく、呟く。
「また——戦います」
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城門前。
兵が、並ぶ。
立花の旗が、揺れる。
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誾千代が、立っている。
いつもと同じように。
送る側として。
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宗茂は、馬に乗る。
誾千代を、見る。
誾千代も——宗茂を、見る。
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何も、言わない。
言葉は——もう、昨夜に尽くした。
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馬が、歩き出す。
城門を、抜ける。
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その瞬間。
誾千代の声が、した。
「殿」
止まる。
「立花の名に——」
一拍。
「恥じないでください」
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同じ言葉だった。
朝鮮へ渡る前と——同じ。
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宗茂は、振り返らない。
ただ——
小さく、頷く。
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馬が、進む。
柳川の道を、北へ。
水路が、光っている。柳が、揺れている。
民が、立っている。
声もなく——ただ、見ている。
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その目を、感じた。
「……必ず」
小さく、呟く。
「終わらせる」
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十時が、隣に並ぶ。
「殿」
「なんだ」
「……奥方が、泣いていました」
宗茂は——
前を向いたまま。
しばらく——黙っていた。
「……そうか」
「はい」
「初めて、見た」
「私も——初めてでした」
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風が、吹く。
立花の旗が——なびく。
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誾千代が、泣いた。
それだけで——
十分だった。
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帰る。
必ず。
その女のもとへ。
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天下が——待っている。
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次回、第43話「勝敗に拘らず」——石田三成と、宗茂の選択。
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あとがき
この話で一番書きたかったのは——誾千代が泣いた、という事実を、宗茂が直接見ない、という構造です。
十時から聞く。それだけ。誾千代は宗茂の前では泣かない。でも——見送った後で、泣いた。
この女の強さと、その強さの裏にあるものを、一行で表現したかった。「初めて、見た」という十時の言葉が、この話の核心です。
「立花の名に——恥じないでください」が朝鮮出兵と同じ言葉になったのは意図的です。繰り返しによって、二人の間にある歴史の重さが出ると思いました。
次の43話は石田三成との接触と、「勝敗に拘らず」という宗茂の言葉を描きます。
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