第32話 出兵
春。
柳川の水路に、靄が立つ。
宗茂は、城の高台に立っていた。
遠くを、見ていた。
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「殿」
十時が、近づく。
「秀吉公より、御書が」
宗茂は、振り返らない。
「読め」
十時が、開く。
「……朝鮮へ、渡れとのことです」
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沈黙。
水の音だけが、続く。
「いつだ」
「早ければ——今年中に」
宗茂は、空を見上げる。
春の空。
柔らかい、青。
「……そうか」
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城内。
誾千代は、すでに知っていた。
宗茂が部屋に入ると——
地図が広げられていた。
朝鮮半島の、地図。
「早いな」
宗茂が言う。
「情報は、早い方がいい」
誾千代は、地図を見たまま。
「釜山から漢城まで——およそ四百里」
「調べたのか」
「当然です」
⸻
宗茂は、隣に座る。
地図を、見る。
知らない地名が、並んでいる。
「……遠いな」
「はい」
「海を渡る」
「はい」
誾千代の声は、変わらない。
だが——
その指が、地図の上で、止まっていた。
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「誾千代」
「はい」
「怖いか」
誾千代は、少し間を置く。
「何が、ですか」
「海を渡ること。知らない戦場。……俺が、帰らないこと」
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誾千代は、地図から目を上げる。
宗茂を、見る。
「帰らない前提で話さないでください」
静かに。
しかし——
その目の奥に、何かがあった。
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「……そうだな」
宗茂は、頷く。
「帰る」
「当然です」
「約束する」
誾千代は、また地図を見る。
「約束より——準備をしてください」
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それから。
二人は、地図を見続けた。
夜が更けるまで。
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翌朝。
城下。
兵が集まり始める。
立花の旗が、並ぶ。
二千五百。
宗茂が率いる軍勢。
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宗茂は、馬に乗る。
誾千代が、城門に立つ。
見送る側と——見送られる側。
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「行ってくる」
「はい」
「柳川を——頼む」
誾千代は、頷く。
「花宗川の工事——終わらせておきます」
「ああ」
一拍。
「帰ったら、見せてくれ」
「必ず」
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宗茂は、馬を進める。
振り返らない。
だが——
城門を抜ける瞬間。
誾千代の声が、した。
「殿」
止まる。
「……立花の名に、恥じないでください」
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宗茂は、答えない。
ただ——
小さく、頷く。
馬が、歩き出す。
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十時が、隣に並ぶ。
「……よい奥方ですね」
「うるさい」
「はあ」
十時が、笑いを噛み殺す。
宗茂は、前を向いたまま。
その口の端が——
少しだけ、上がっていた。
⸻
行軍。
筑後の道を、北へ。
やがて——海が見える。
玄界灘。
灰色の、海。
波が、荒い。
「……渡るか」
宗茂は、海を見る。
十時が、隣で言う。
「渡ります」
「怖くないか」
「怖いです」
即答。
宗茂は、十時を見る。
十時は、真顔だった。
「ですが——」
一拍。
「殿が渡るなら、私も渡ります」
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宗茂は、前を向く。
「そうか」
「はい」
「では——行くぞ」
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船が、出る。
柳川が、遠くなる。
筑後の山が、遠くなる。
九州が——
霞の向こうに、消えていく。
⸻
宗茂は、甲板に立つ。
海風が、吹く。
波が、船を揺らす。
「誾千代」
誰にも聞こえない声で、呟く。
「待っていろ」
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海は、広かった。
果てが——見えなかった。
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だが。
宗茂は、前だけを見ていた。
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(第33話へ)
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