第21話 崩れ
霧が、山を覆っていた。
筑後の戦線は後退し、軍勢は高地へと退いていた。
その中心にあるのが、高良大社。
古くから神を祀るその地は、今や戦場の匂いをまとっている。
だが——その空気は、これまでとは違っていた。
静かすぎる。
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「……まだ、目を覚まされぬか」
低く問うたのは、高橋紹運。
傍らに控える医師は、首を横に振った。
「熱が下がりませぬ。ここ数日、ほとんど……」
言葉を濁す。
紹運は、無言で頷いた。
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輿の中。
立花道雪は、横たわっていた。
かつて戦場を駆けたその身体は、今は微動だにしない。
呼吸は浅く、時折苦しげに揺れる。
その姿は、誰が見ても明らかだった。
「……殿」
小さく呼びかける。
返事はない。
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数刻後。
「……紹運か」
かすれた声が、わずかに響いた。
「はっ、ここに」
紹運は身を乗り出す。
道雪の目が、ゆっくりと開かれた。
その眼光は——まだ、消えてはいなかった。
「ここは……」
「高良山にございます。高良大社の麓にて」
「……そうか」
短く息を吐く。
「退いたか」
「はっ。兵を保つため、やむなく」
「良い判断よ」
即座に返る言葉に、紹運はわずかに目を見開いた。
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「柳川は」
「……未だ、落ちてはおりませぬ」
「そうか」
それ以上は問わなかった。
勝敗に執着する様子は、もはやなかった。
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沈黙。
外では、風が木々を揺らしている。
「……静かだな」
道雪が呟く。
「はっ」
「戦の音が、せぬ」
「……」
「良いことよ」
そう言って、かすかに笑った。
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「紹運」
「はっ」
「近う」
紹運は膝を進め、顔を寄せる。
道雪の声は、もう遠くまで届くものではなかった。
「兵は……どうしておる」
「疲弊は見えますが、士気はまだ保っております」
「……そうか」
「皆、殿の回復を——」
言いかけて、言葉を飲み込む。
道雪は、静かに首を振った。
「それは、違う」
「……」
「兵はな、“先”を見ておる」
その言葉は、静かで、そして鋭かった。
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「将が倒れれば、次を考える」
「……」
「それでよい。それが軍よ」
紹運は、何も言えなかった。
理解している。
だが、認めたくはない。
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「お主はどうだ」
突然の問い。
「……何が、にございますか」
「儂が倒れた後を、見ておるか」
空気が止まった。
「……そのようなことは」
「ある」
遮るように言う。
「必ず来る」
その声に、迷いはなかった。
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「……見ては、おりませぬ」
絞り出すように答える。
道雪は、わずかに目を細めた。
「ならば、見よ」
短く、言い切る。
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「戦は続く」
「……」
「龍造寺はまだ折れておらぬ」
その名は出なかったが、
誰のことを指しているかは明らかだった。
(※ここでは敢えて固有名の連発を避けて重さを出す)
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「お主が、担うのだ」
その一言が、重く落ちた。
紹運は、うつむいたまま動かない。
拳が、わずかに震えている。
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「……できぬか」
「……」
「できぬと言うなら、それでもよい」
その声音は、責めるものではなかった。
ただ、事実を置くだけ。
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「だが——」
道雪は、ゆっくりと息を吸う。
「戦は、止まらぬ」
その言葉は、呪いのようでもあった。
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外で、風が強く吹いた。
木々が大きく揺れる。
まるで何かが、崩れ始めるように。
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「……殿」
ようやく顔を上げる。
「私は——」
言葉が続かない。
覚悟が、まだ形にならない。
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道雪は、それを見ていた。
責めもせず、急かしもせず。
ただ、静かに。
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「よい」
一言だけ、言った。
「今は、それでよい」
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再び、目を閉じる。
呼吸が、ゆっくりと遠のいていく。
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霧は、なおも濃く。
山を、軍を、すべてを覆い隠していた。
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その中で。
確かに、一つの時代が——
終わりへと、傾いていた。




