■ 第28節:【3歳5ヶ月/5月〜6月(初夏)】前編
■ 第28節:【3歳5ヶ月/5月〜6月(初夏)】
赤岩山脈の麓に位置するアルカ村にも、目にも眩しい新緑の季節が巡ってきていた。 冬の間に降り積もった雪は完全に姿を消し、共有畑には新芽が鮮やかな緑の絨毯を広げている。風が吹き抜けるたび、澄み切った青空の下で瑞々しい草木の香りが鼻腔をくすぐった。
「お父ちゃん! やぎさんたち、新芽いっぱい食べてるよ! おちち、そろそろ張ってきた!」
3歳5ヶ月を迎えたサリマは、極上バイオシルクの軽やかな作業着を身に纏い、トコトコと滑らかな二足歩行で村の放牧用の柵へ向かって走っていた。
サリマの手には、自分用に作ってもらった小さな木製の搾乳桶と、ドワーフのバルドから贈られた「魔導ルーンの万能調合具」がしっかりと握られている。
「がはは! おーいサリマ、あまり走ると転ぶぞ! ……しかし、一昨年の冬にクラウス様経由で手に入れた山ヤギの雛たちが、もう立派な成体になって子供まで産むとはなぁ」
村長ガノスが、畑の土を耕す手を止めて汗を拭いながら、頼もしそうに目を細めた。
「本当ですわねぇ、ガノス様。今では山ヤギの数も十頭以上に増えて、毎日元気にメァメァと鳴いておりますもの。お乳もたくさん出始めて、村の子供たちの良い栄養になっておりますわ」
母エリスが、かまどで沸かした野草茶の入った竹筒を持ち、温かな笑顔でサリマの傍らへ歩み寄ってくる。
「かぁか! お茶ありがと! でもね、今日のおちち(ヤギミルク)は、子供たちが飲むだけじゃないの! さりま、すごいのつくるよ!」
サリマは両手で竹筒を受け取ってゴクゴクと喉を鳴らすと、小さな親指をグッと立てて見せた。
ガノスとエリス、そして近くで畑の雑草抜きをしていた15歳の少年カイと13歳の少女リラが、興味津々といった様子でサリマを取り囲んだ。
「サリマ様! ヤギミルクを使って、また何か新しいバイオの食べ物を作られるのですかっ!?」
カイが目を輝かせて身を乗り出す。夏に避難民として加わったカイやリラたち25人以上の若者たちは、今やサリマの「新しいバイオ実験」と聞くだけで胸を躍らせるようになっていた。
サリマ(明日香茅理紗)は、前世のアラサー社畜バイオ研究者としての記憶と知性をフル回転させ、小さな胸を張った。
(ふぅ……! 3歳5ヶ月! 機動力も、指先の精密操作も、ハッキリとした言語能力も100%完璧!)
(先月(第27節)、隣領の悪徳代官の手下(徴税人)の抜き打ち巡回を、私の『バブバブ幼子演舞』とガノスお父ちゃんのセールストークで完璧に返り討ちにしたわ。表向きは『貧しいけれどシロップ造りに必死な健気な寒村』を完璧に擬態しているけれど、裏では王都大商人クラウスとの交易で金貨が山のように蓄えられているわね)
(……そして! 初夏の爽やかな季節を迎えた今、バイオ研究者として前々から狙っていた『未開拓の巨大市場』に乗り出す時が来たのよ!!)
サリマの瞳が、科学者特有の不屈で妖しい輝きを放ち始めた。
(ターゲットは……ヤギミルクから作る『超長期保存型・琥珀の熟成ハードチーズ』よ!!)
前世の食品生化学の知識が、サリマの脳内で瞬時に展開された。
(搾りたてのヤギミルクは栄養満点だけど、そのままじゃ数日で足が早い(腐敗する)。それに、独特の獣臭(カプロン酸・カプリル酸)があって苦手な人もいるわ。でも! 私の【キン】のスキルで適切な酵素分解と乳酸発酵、そして恒温の熟成処理を施せば……!!)
(雑菌を完全にシャットアウトし、タンパク質を旨味成分のアミノ酸(グルタミン酸)へと劇的に変化させた、至高の熟成ハードチーズへと変貌するのよ!!)
サリマはガノスの太い腕をギュッと引っ張った。
「お父ちゃん! ヤギのおちち、固めて熟成させるの! 王都のお金持ちが、金貨たくさん出しても欲しがる『黄色い宝石』になるよ!!」
「なに……!? ヤギのミルクを固めて熟成……『チーズ』だと……!?」
ガノスとカイ、リラが目を見開いた。
◇
【ヤギミルクの搾乳と凝乳酵素のバイオ抽出】
さっそく、サリマを中心とした「バイオチーズ試作プロジェクト」が始動した。
「ヤギさん、痛くしないからね〜。おちち、ちょっとちょうだいね〜」
サリマは13歳のリラと一緒に放牧場へ入り、お腹の張った母ヤギの前にかがみ込んだ。サリマの小さな手が、手際よくヤギの乳房をやさしく包み込み、リズムよく搾っていく。
ピューッ、ピューッ……!
木製の搾乳桶に、真っ白で濃厚な搾りたてのヤギミルクが溜まっていく。
「すごいですサリマ様! 手つきがとってもお上手で、ヤギさんも気持ち良さそうにしていますわ!」
リラが感心して目を丸くする。
搾り立ての新鮮なヤギミルク数バケツ分が、ボロ小屋の作業場へと運び込まれた。
「サリマ様、ミルクが集まりました! これを温めて固めるのですか?」
カイが尋ねる。普通、この世界で牛乳やヤギ乳を固める技術は極めて粗雑で、酸っぱくなった乳を布で漉した「生豆腐のような酸っぱいカッテージチーズ風」のものしか存在しなかった。水分が多く、数日でカビが生えて腐ってしまうシ物だ。
だが、サリマの目指すものはそんな生ぬるいものではない。何ヶ月も長期保存でき、熟成させるほどに芳醇なコクと旨味が爆発する「超高級熟成ハードチーズ」である。
そのためには、液体状のミルクのタンパク質だけを凝固させる特殊な酵素——『レンネット(凝乳酵素)』が必要不可欠だった。
(本来なら子ヤギの第4胃から抽出するレンネットだけど……命を奪う必要なんてないわ! 私には【キン】のスキルと、植物・真菌由来のバイオレンネット抽出技術があるもの!!)
サリマは裏山の隠れ温室から摘んできた「野生のイチジク風の魔草の樹液」と「植物性乳酸菌の培養液」を取り出した。
サリマは3歳の誕生日にドワーフのバルドから貰った「魔導ルーンの万能調合具(卓上リアクター)」の前に立ち、小さな両手をかざした。
(スキル【キン】——全開発動!!)
サリマは全身の集中力を極限まで高めた。
(ターゲット設定:魔草樹液に含まれる植物性プロテアーゼ(フィシン様酵素)と、特選乳酸菌! 【キン】の力で不純物を分解し、ミルクのカゼインだけをピンポイントで強力凝固させる『バイオ・凝乳活性酵素(レンネット代替液)』を精製しなさい!!)
シュワシュワシュワ……!
調合具の中で、琥珀色に輝く奇跡の酵素液が精製された。
「出来た……! これがミルクを宝石に変える『魔法の固め液』よ!!」




