第1節:【3月】細胞の目覚めと、0.1グラムの酵素革命 3月3日(受精後 1日目/誕生まであと297日)前編)
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二つの新作を投稿します。
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題名は
『−300日から始まる転生のんびりスローライフ』
『W転生〜パパがスライムだった件〜』の二本です
お昼前に投稿する予定です
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よろしくお願いします
第1節:【3月】細胞の目覚めと、0.1グラムの酵素革命
3月3日(受精後 1日目/誕生まであと297日)
暗闇だった。
どれだけ目を凝らしても視界はゼロ。外部の音や空気も直接は届かず、ただ重厚で規則的な「ドックン、ドックン」という生命の脈動音だけが、世界のすべてのように響いている。
(……あれ? 私、確かラボで……?)
明日香茅理紗の意識が、混濁した記憶の糸をゆっくりとたぐり寄せる。
最後の記憶は、深夜二時のバイオベンチャーのラボだった。締め切り間際の論文、倒れそうなほど積み上がったシャーレ、冷めきった缶コーヒー。二十九歳。独身。社畜研究者として馬車馬のように働き続けた末、激しい胸の痛みに襲われて倒れたのだ。
(ああ、私、過労死したんだ……。まあ、あの残業時間なら当然か……)
諦めと自嘲が混ざった溜め息をつこうとしたその瞬間、暗闇の中にぼんやりとした光の文字が浮かび上がった。
『受精卵の定着を確認。魂の結合完了』
『獲得スキル:【キン】(細菌・代謝操作)』
『状態:細胞(男・受精卵レベル)』
『現在の日時:3月3日(早春)』
『誕生予定日:12月25日(あと297日)』
(……はい?)
茅理紗——いや、細胞となった彼女の思考が一瞬フリーズした。
(受精卵!? 私、いま人間の受精卵なの!? しかも『男』!? 3月3日に宿って、生まれるのが12月25日……って、ちょっと待って、異世界転生!?)
読書家としての知識と理系研究者としての観察眼が、瞬時に現状を把握する。どうやら自分は、今まさに母親の胎内に宿ったばかりの極小の受精卵らしい。
(赤ちゃんとして生まれるんでもなく、十五歳くらいの少年に憑依するんでもなく……細胞から!? 気が早すぎるにも程があるでしょうが!)
しかし、愚痴をこぼしている暇はなかった。
スキル【キン】——自身のミクロな影響範囲にある「細菌の生息比率や代謝」を微細に誘導する能力の概要を把握していると、外界からかすかな音の振動が、羊水と母体を通じて伝わってきたのだ。
「……あ、あなた……ごめんなさいね。今日のご飯も、これだけで……」
弱々しく、今にも消えてしまいそうな女性の声。続いて、しわがれて疲れ切った男の声が応える。
「……気にすんな、エリス。お前が食え。お腹に新しい命が宿ったのかもしれないんだろ? アルカ村の村長として、妻一人満足に食わせられないのが情けない……」
「でも、ガノス様……あなただって昨日は何も食べていないでしょう? 20世帯・80人しかいないこの小さな村に、もう蓄えなんて……」
「クソッ……! 何年も続く干ばつで畑の作物は全滅、山に棲む魔物の肉も毒と獣臭が強くて喰えたもんじゃない……。その上、代官様は秋になれば収穫の『半分(50%)』を年貢として容赦なく持っていくんだぞ!? こんな状態でどうやって村人が生きていけるってんだ……!」
(えっ……?)
細胞であるサリマ(茅理紗)の意識が冷え切った。
(待って! 3月の早春でまだ雪が残ってるのに飢饉!? 魔物の毒肉!? しかも秋には税率50%の過酷な搾取!? 80人の村全体が飢え死に寸前じゃないの!!)
直感的に己の状況を分析する。
今、自分を宿している母親エリスの体温は低く、送られてくる微小な栄養素(血糖値やアミノ酸)は極めて乏しい。
(まずい……! このままだと細胞分裂に必要な最低限の栄養すら足りなくて、定着失敗(流産)する!! 誕生どころか、あと一週間でゲームオーバーになっちゃうじゃないの!!)
声も出ない。手足もない。
ただの細胞膜と核が存在するだけの極小の生命。
しかし、二十九年間バイオ研究に捧げてきた女の意地と専門知識が、サリマの中で激しく火花を散らした。
(やってやるわよ……! 声も届かないミクロの存在だけど、科学の知恵で生き残ってみせる!!)
3月5日(受精後 3日目/誕生まであと295日)
目覚めてから二日後の朝。
まだ冷え込む3月頭の空気の中、粗末な木のベッドの上で、母親のエリスが「うっ……」と顔をしかめてお腹を押さえた。
「うっ……うう……」
「エリス! どうした、気分が悪いのか!?」
傍らにいた村長のガノスが、慌てて妻の肩を抱き寄せる。
「ええ……お腹が……なんだかすごくゴロゴロ鳴って……しくしく痛むのです……」
「くそっ、やっぱり昨日拾ってきた芽の生えた雑穀が当たったのか……! 薬草なんて村には残っていないというのに!」
(あちゃーーーっ!! やっちゃったーーーっ!!)
胎内の奥深くで、サリマは青ざめていた。
(ごめなさいお母さん! 善意だったの! 本当に善意だったのよ!!)
昨日、母体の流産を防ぐため、サリマはスキル【キン】を使って母親の腸内に「有用な乳酸菌やビタミン生成菌」を増殖させようとした。
しかし、ミクロの調整を焦り、特定の菌だけを増殖させすぎてしまい、見事に母親の腸内フローラの均衡を崩して腹痛を引き起こしてしまったのだ。
(バカバカ、私のバカ! 前世でも培養液の濃度を間違えて大腸菌のバランス崩したことあったでしょ! 相手は人間の体、しかも私を育ててくれてるお母さんの胃腸なのよ!?)
「エリス、苦しいか? 水を……水を持ってくるから横になっていなさい」
「いいえ……あなた……不思議ですわ。お腹は少し痛むのに……なんだか、体の奥からじわっと温かいものが……」
「え?」
ガノスが首を傾げる。
エリスの顔を覗き込むと、昨日まで土気色だった妻の頬に、わずかだが赤みが差していた。
胎内では、サリマが冷や汗を流しながら精密な微調整を続けていた。
(失敗を分析しなさい、茅理紗! 急激な乳酸菌の増殖を抑える! 代わりに、ビタミンB群を合成するビフィズス菌の比率を慎重に上げる! 雑穀の固い食物繊維を分解する菌を極小量だけサポートさせて……胃腸の負担を最小限に抑えつつ、栄養の吸収効率を限界まで高める!)
バイオ研究者としての泥臭い経験値が試される。
魔法のように一瞬で変わるのではない。サリマの【キン】は、あくまで腸内に元から存在する菌の増殖速度をほんの少し誘導するだけだ。数時間をかけて、徐々に、確実に、理想的な腸内環境へと整えていく。
その日の昼過ぎ。
「……あれ? お腹の痛みが……引いてきたわ」
エリスがゆっくりとベッドの上に起き上がった。
「本当か、エリス!? 気分はどうだ?」
「すごく……不思議です。ほんの少しの水っぽいお粥しか食べていないのに、なんだかお腹の奥が温かくて……身体が軽くなったような気がします」
「そんなバカな……。お前、顔色が昨日よりずっといいぞ。肌のカサつきも……」
ガノスは信じられない思いで、妻の手に触れた。カサカサに乾燥していた手が、かすかに潤いを帯びている。
(ふぅぅ……っ! なんとか軌道修正できた……!)
サリマは胎内で深く息を吐き出した。
(母体の消化吸収能力を、安全な範囲で最大限に高めたわ。これで、たとえ水っぽい粗末な雑穀粥一杯でも、そこから得られるわずかなビタミンや糖質を無駄なく身体に吸収できる。私への栄養供給ルートも、これでひとまず確保完了ね)
「ガノス様……私、なんだか少しお腹が減ってきましたわ」
「おお、そうか! 食えるか! 待ってろ、外に行って何か食べられる野草でも探してくる! 今日の畑の様子も見てこなきゃならんしな!」
ガノスは嬉しそうに声を弾ませ、破れた上着を羽織ってボロ小屋を飛び出していった。
エリスはお腹に優しく手を当て、静かに微笑んだ。
「ありがとうね……お腹の赤ちゃん。あなたが私に生きる力をくれている気がするわ……」
(ふふ、お母さん、私は神様でも魔法使いでもなくて、前世アラサー社畜のあなたの息子(受精卵)だけどね! 無事に生まれるためにも、お互い頑張りましょう!)
最初の危機を乗り越えたサリマ。
しかし、根本的な「食糧難」という現実が、すぐに次の課題として突きつけられるのだった。
3月10日(受精後 8日目/誕生まであと290日)
3月中旬に入り、村の雪解けが少しずつ進み始めた頃。
細胞になって一週間が過ぎたサリマは、猛烈な「精神的欲求」に苛まれていた。
(……甘いものが食べたい)
(甘いものが食べたいよおぉぉぉ!! チョコレート! パフェ! ケーキ! 最低でも砂糖の入った缶コーヒー!! 砂糖を私に補給させてぇぇぇ!!)
前世の茅理紗は、過酷な研究生活のストレス解消として「甘いお菓子」を主食のように愛していた。しかし、この貧しい異世界の最果ての村には、砂糖などという高級品は存在しない。母親が口にするのは、塩気すら薄い不味い雑穀と、濁った水だけだ。
(お母さんの腸内環境を良くして流産は防いだけど、私のメンタルが死にそう! 人間には……いや、細胞には甘味が必要なのよ!!)
だが、個人の欲望以上に深刻な問題があった。
夕方、外から戻ってきたガノスが吐き捨てる、重い溜め息と悲痛な報告だ。
「……ダメだ。今日も畑の麦は発芽しない。土が完全に痩せこけている……」
ガノスは頭を抱えて床に膝をついた。
「このまま秋になれば、例年通り代官の手下が来て収穫の『半分』を奪っていくだろう。半分の年貢を取られたら、残るのはわずかな雑穀だけ……。今年の冬こそ、アルカ村の80人全員が干からびて死んじまう……!」
「あなた……」
エリスが心配そうに寄り添うが、かける言葉もない。
胎内のサリマは、ガノスの言葉に青ざめた。
(やっぱり、元の『食糧(畑)』が壊滅してたら、いくらお母さんの胃腸を強化しても限界があるじゃない! 根本的な解決になってないわ!)
何とかして、外の父親に指示を出さなければならない。
「土壌を改善しろ」「作物の育て方を変えろ」「山に行って特定の植物を採ってこい」と。
(うう……言葉が喋れれば! 手足が動かせれば! 『お父さん、私の言う通りにして!』って言えるのに!!)
サリマは必死に考えた。
(そうだ! 胎動よ!! お腹を叩いて、信号を送ればいいんだわ!)
まだ手足の形すら怪しい段階だったが、サリマは【キン】の力を使って、子宮の壁を微小な衝撃でトントンと叩いてみた。
……ト・ト・ト…… ……ト・ト・ト……(モールス信号:SOS)
(伝われ……! 前世の物語で見たことあるわ! 胎児がモールス信号でお母さんと会話する話!! 私のこの必死のSOSを聞き取って、お父さん!!)
「ん……? あなた、ちょっとお腹が……」
エリスが不思議そうにお腹に手を当てた。
ガノスが顔を上げる。
「どうした、エリス!?」
「あ……あのね、お腹の中で、ちいさくトントンって……まるで何かを叩いているような規則的な振動が……」
ガノスは目を見開き、慌ててエリスのお腹に耳を押し当てた。
「な、なんだって!? どれどれ……うおっ! 本当だ! 小さく、ト・ト・トって叩いてるぞ!」
(通じた!? すごい! お父さん、勘が良いじゃない!!)
サリマは歓喜し、さらに力を込めて叩いた。
……ト・ト・ト(山へ行け)……ト・ト・ト(麦を拾え)……!
「ガノス様、これって……何の合図かしら? まさか、この子が私達に何かを伝えようとして……」
ガノスは感動に震える面持ちで、妻のお腹を撫で回した。
「ああ……間違いない! これは……『お父さん大好き! 元気だよ!』って言ってるんだよ、エリス!!」
(違うわよバカぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!)
サリマは胎内で絶叫した。
「おおお! 俺の子だ! 生まれる前からこんなに元気に運動して! 男か!? 男なのか!? ぐははは、頼もしい奴め! お前のためにも、お父ちゃん頑張るからなー!」
「ふふ、まあ……ガノス様ったら。でも、本当に元気な男の子かもしれませんね」
(伝わるわけないでしょ常識的に考えてぇぇぇぇ! なんで古代の村長がモールス信号理解できると思ったのよ私のバカ!! 漫画や小説の読みすぎよ!!)
サリマは己の甘さに悶絶した。
赤ちゃんがお腹を叩いたところで、親から見れば「元気に動いてるな〜」としか思われない。当たり前だ。リアリティの壁が厚すぎる。
(だめだ……直接的な会話やシグナルは100%不可能! 言葉も文字も通じない相手に、どうやって私の意図した行動を取らせればいいの……!?)
ガノスはお腹に頬ずりしながら、無邪気に笑っている。
「よし! 我が子の力強いパンチに勇気をもらったぞ! 明日はもう少し奥の山まで行って、食えそうな野草でも探してくる!」
「まあ、奥の山は危険ですわ……残雪もありますし、凶暴なトゲイノシシも出ますもの……」
「大丈夫だ! この子とエリスを飢えさせるわけにはいかんからな!」
(……あ)
サリマの思考に、電撃が走った。
(ちょっと待って……『山に行く』……?)
ガノスが偶然口にした言葉。
サリマは自分のスキル【キン】の性能を、もう一度細かく脳内で精査した。
(【キン】は、菌の生成や増殖の誘導だけじゃない……菌が発する『匂い(発酵臭・芳香成分)』の代謝スピードもコントロールできる。そして、お母さんの汗や息を通じて、極めて微量なら外界に香気を拡散できる……!)
サリマの頭の中で、泥臭い作戦が組み上がっていく。
(ダイレクトにメッセージを送るのは無理。でも……『本能』を誘導することならできるかもしれない!)
サリマは前世で読んだ生物学の論文を思い出していた。
昆虫や動物は、特定の「匂い」に引き寄せられて無意識に行動を変化させる。人間だって同じだ。芳香成分や、特定の脳内物質を分泌させる香りを嗅げば、「なんとなくそっちに行きたくなる」「なんとなくそれが気にかかる」という誘導が可能になる。
(お父さんが明日、山に入る……。なら、お母さんの体を通じて、お父さんの嗅覚に微弱な『発酵の匂い』を刷り込んでやるわ!)
目指すのは、山に自生しているかもしれない「発芽しかけて放置された野生の麦」。
それをガノスに「偶然」発見させるのだ。
(言葉が通じないなら、環境と本能からアプローチするまで! 待ってなさいお父さん……あなたを優秀な採集者にしてあげるわ!)
3月11日(受精後 9日目/誕生まであと289日)
翌朝。日差しが少しだけ暖かくなってきた3月11日の早朝。
山へ向かおうとするガノスに、エリスが手拭いを渡した。
「ガノス様、お気をつけて……」
「ああ、行ってくる。エリスも無理をするなよ」
ガノスがエリスの肩を抱き寄せた瞬間。
サリマは【キン】のスキルを集中させた。
母エリスの皮膚の常在菌に働きかけ、ごく微量の「甘く香ばしい、フルーティーな発酵臭(エステル香)」の代謝を誘発。それをエリスの呼吸に混ぜて、ガノスの鼻腔へと送り込んだのだ。
(いけっ……! 『でんぷんが分解されて糖になったときの、甘くて香ばしい匂い』のイメージを、お父さんの脳に焼き付けろ……!)
「ん……?」
ガノスが不意に足を止めた。
「どうしました、ガノス様?」
「いや……なんだか今、すごく良い匂いがしたような……。甘くて、香ばしくて、こう……腹が減ってくるような匂いだ」
「え? 私は何も感じませんけれど……」
「気のせいかな……。いや、だが……何となくだが、山の西側の湿った谷間に行けば、あの匂いの元があるような気がするぞ……?」
ガノスの目が、無意識のうちに山の西側を向いていた。
(勝った……! 誘導成功!!)
胎内でサリマは安堵の溜め息をついた。
人間の脳は、本能が求める栄養素の匂いに対して異常なほど敏感になる。飢えに苦しむガノスにとって、サリマが提示した「甘い糖の匂い」は、抗いがたい強力な導き(ルーツ)となったのだ。
「よし、今日は西の谷を探してみる!」
ガノスは迷いのない足取りで山へと登っていった。




