ハーピー
オクトルの月、第三週。アルはぬかるんだ土の上を歩いている。絶妙に足を取ってくる泥を、弱音を吐くことなく一歩一歩確実に歩んでいた。泥から足を引き抜くたびに腰に差している剣と、風よけのマントの下に身に着けた軽鎧が音を立てる。
「よっと……。あ、見えてきた」
歩む道は泥まみれだった土から、徐々に草が覆う面積が増え始め、アルの視線の先には所々紅葉した木々が立ち並び、そこが森の入り口である事を示していた。
『はぁ、やっと着いたのね。疲れたわ』
アルの肩に乗る人形が、人の言葉を発する。出発の時から肩に乗り、微塵も動かずにいるその人形は、アルの友人であるユマの自作品だった。造り上げた人形には様々な魔法を施され、アルは遠く離れた地から、ユマは自室から出ることなくその声をお互いに届け合うことができる。
「ユマは、部屋から動いてないよねぇ?」
『当り前じゃない、何で私が歩く必要があるのよ。あんたの歩く音を聞いているだけで疲れるのよ』
とんでもない暴論を展開しながら呆れと共にユマは大きく息を吐いたが、その言葉を伝える人形の目に感情はなく、僅かに声に合わせて動く口元が絶妙な不気味さを放っていた。
「やっぱりまだ慣れないよ、この人形」
アルは肩に乗る人形を見つめながら、何とも言えない表情で感想を述べる。
『可愛いでしょうが、私に似て』
ユマは自信に満ちた声を人形に送り込んだが、アルははっきりと否定した。
「え、ユマのが可愛いよ?」
無表情の人形から、照れと戸惑いの混じった声が響いてくる。
『そ、そんなの当り前じゃない。じゃなくて、そういうこと言ってるんじゃないの! 早くそれ無しじゃ生きていけない位の、愛着を持ちなさいって言っているの!』
「やだよ僕、そんなの」
一月前に、ユマが家から出ずに、アルの依頼に同行するための奇案として手渡されたその人形は、ユマの調整を受ける時以外は持ち主の傍を、片時も離れる事は無かった。人形にはアルの血が術式の中に組み込まれており、強い揺れや衝撃で落ちる事は無く、たとえ落ちたとしても自動的にアルの元に戻ってくる仕組みになっている。
『我が儘ね。早く進みなさいよ』
「進んでるよー」
会話をしながらもアルはしっかりと森を進んでいる。森の奥に近づくにつれて木々は増えていったが、植物や落ち葉が地面を覆っているので歩きにくいという事は無く、アルの足取りは先程よりもかなり軽くなっていた。
「この先に、ちょっと休めるとこがあったはずなんだけど」
アルのいる森は拠点の町からは遠く離れてはいたが、普段の依頼でも通る事が多く、地形の把握はある程度できていた。
『やっと休憩ね』
一歩も動いていないはずのユマが、疲労困憊といった声を上げる。アルは上を覆う木々の間から空を見つつ、ユマに返答する。
「あ、ううん。その休憩できる所から、大きく道を外れる予定だから、明るいうちに進もうと思って」
人形は何の言葉も発しなかったが、アルにはユマが不満に満ちた顔を作っている姿が容易に想像できた。
「普段の道じゃないから、迷ったら大変だよ?」
森は広く深く、奥に行くほど強い魔物が生息している。アルは昼の間に野営できる場所に着くために、なるべく急いで目的地に向かっていたのだった。
『って言うか、何のために森に来たのよ?』
「朝言ったんだけどなー」
アルは口をとがらせて、人形に声を向ける。
『寝てたわ、半分くらい』
アルは辺りがまだ暗いうちに出発したが、ユマは普段から時間の概念を気にする事は少なく、昼夜も逆転している場合が多かった。そのため寝ていたという言い分を、アルは座った目をして聞いていた。アルは目の前の蔦をナイフで叩き切りながら、依頼の内容を伝える。
「えっとね、行方不明の男性の探索、生死は、問わずだね。街の大商会の息子さんで、いなくなってから、もう一か月も立っているよ。依頼主の話だと、誰とも会話しないかと思ったら、何か思いつめた顔で急に出て行ったらしいよ」
ユマは呆れを隠さずに、後ろ向きな発言を発した。
『絶対、もう死んでるでしょ、それ。なんて無駄な依頼なの。見つかりっこないんだから帰りましょうよ』
「もー、すぐ諦めるんだから。それに無駄じゃないよ。遺体を見つけられれば、遺品を家族に届けられるじゃないか。家族もそれで、答えを得られるんだからさ。見つけてあげようよ」
アルの前向きな発言を、ユマは間違いなく聞いているはずだったが、人形から返答は帰ってこない。ユマは気に喰わない意見や、都合の悪い話には黙り込んでしまう癖があった。
「まぁ、ユマの言う通り、僕もこの人がまだ生きてるとは思わないよ。依頼の紙も下の方だったし、受付の人にも、本当に受けるの? って聞かれたし」
『……じゃあ、何で受けたのよ? まさか本当に、遺品を届ける為だけなの?』
ユマの質問に、アルは照れた顔を浮かべ頬をかきながら答えた。
「本来はそうあるべきなんだけど……。今の時期が、スルトベリーが生ってる最後の時期なんだよね。野営できる所に一杯あるらしいから、その、持って帰ってユマと食べたいなって」
スルトベリーは大振りの真っ赤な実で、オガースの月からオクトルの月の終わり頃までが旬であり、今がまさに採集時だった。比較的柔らかい部類の木の実でありながら日持ちも良く、狩人や木こりが食すだけでなく、街にも食べ頃の物が並ぶため購入者も多い。しかし取れる場所が限られている上に魔物の棲息圏である事が多く、単価は高い方だった。
『そ、そういう事なら、仕方ないわね。早く行きましょう』
アルと一緒にという事が嬉しいユマは、そわそわとした口調を人形から伝えている。そんな会話を続けているうちにアルは休憩地となる、大きな切り株の所まで来ていた。切り株の存在感は凄まじく、見える年輪からは周りの木々の樹齢と見合わない位の年月が確認でき、何故ここまでのものが存在しているかが未だに研究されている。
ここからは道が分岐し、切り株からさらに北へ進めば、次の街へ向かう道に合流することが出来る。踏み固められ轍となった植物たちは、この場所の往来の多さを示しており、実際に魔物が少ないこの道は街同士を繋ぐ重要な道だった。
しかしアルは依頼の為に西へと向かう。道とは呼べない道を目視し、ギルドで仕入れた情報と頭の中で照らし合わせながら、進む覚悟を決める。生い茂る植物たちを掻き分けて進もうとしたところで、アルの後ろから声が飛んできた。アルは警戒しつつ、振り向いた。
「そっちは、危ないですよ。魔物も多いし、北の街に行くなら、あっちです」
声を掛けたのは、壮年の樵姿の男だった。樵の男が着けた腰駕籠にはスルトベリーが幾つも入っており、手には仕留めたのか小さな兎が持たれていた。アルは笑顔で、しかし距離を保ちつつ自身がギルドの者である事を伝えた。
「こんにちは、僕はアル。ギルドの者です。依頼の目的地がこの先なんです」
「ああ、そうでしたか――」
納得した声を出した樵の視線が、肩にある人形へと向かう。視線に気が付いたアルは用意していた台詞を口にした。
「ああ、これは魔法で動く人形で、魔力を探知したり、喋って危険を教えてくれたりするんですよ」
「ほう、すごいですねぇ」
男が感心し、期待に満ちた目を人形へ向ける。人形越しのユマは緊張が極限まで高まっており、アルが促すとどうにか消え入りそうな声で挨拶した。
『……んに、は』
ほとんど『は』しか聞こえなかった樵は形容しがたい顔を作り、人形の事には触れずにここにいる目的を聞いた。
「どのような、ご依頼なのでしょう?」
男は興味を示しつつ樵に似つかわしくない口調で丁寧に質問したが、アルは詳細を語らずに適当な言葉でその場を凌ぐ。魔物の討伐やギルド公表の直命でなく、個人からギルドを通しての依頼では、詳細を多く語らないのが通例であった。
「いやぁ、探し物を少々。気を付けて進みますから、ご心配なく」
「そうですか」
そう伝えると樵は顔を顰めたが、深く追求することなく、アルの無事を祈る言葉を言うと切り株で休憩を始めた。再び生い茂る植物たちに対峙したアルは、蔦を切り、草を掻き分けながら荒れた道を通っていく。不意にユマの声が人形から響いた。
『何で、あんなところに人がいるのよ』
理不尽に怒りを発するユマを、アルが優しい口調で宥める。
「まぁまぁ……。皆が休憩する所なんだから、いてもいいじゃない」
『違うわ。私がいる時にいるのが、不愉快なのよ。全く……』
人形越しでさえ人に接した際には声も出せなくなるにも拘らず、他に誰もおらずアルと二人の時だけは、ユマはとても元気かつ尊大になるのだった。
「でも、人に慣れるには、もっと色んな人と喋らないとね」
『嫌』
短くはっきりと否定した声を人形が伝える。アルは困り顔で人との関わりの大事さを、努めて優しく語ったが、人形からの返事は無かったのだった。
アルは順調に進み、しばらくすると伝えられていた野営できる場所に到着する。直ぐ近くに小川が流れていたが、魔物が嫌うホロウグラスが群生しているので安全性が保たれている。加えて大きな木が二本雨風を凌ぐように枝を目一杯広げているので、即席の寝床を作るのにも不自由は無かった。そして木の根元辺りには食べ頃のスルトベリーが沢山実っており、アルは目を輝かせて袋に採集していった。
「見て見て、ユマ! 一杯生ってるよ!」
『見えないから』
人形は互いの声を伝えることは出来るが、映像や風景は写すことは出来ない。ユマは伝えられる音や声のみで、状況を把握するしかないのだった。
「分かってるよー。でも、この感動をお届けしたいなって」
『お届けするのは、実だけで結構よ』
ユマは欠伸をしながら答え、もう、とアルはため息を吐きながら採集を続ける。採集している最中、木々の合間に鮮やかな羽根が落ちているのをアルは見つけ拾うと、不意に声を上げた。
「あれ、これって……」
『何?』
眠気を漂わせた声が人形から放たれる。しかしアルは、何でもないよ、と思案顔で答え、ユマも睡魔との戦いに戻った。
自前の袋がある程度ベリーで満たされると、アルは野営の準備を始めた。既に日が傾き始めており、森の中は暗くなり始めている。小川の近くで小さな火を起こしたアルは、おもむろにユマへ問いかけた。
「ねぇ、ユマ。今日のご飯、干し肉とパンか、乾燥豆のスープ、どっちがいいかな?」
しかし人形から、ユマの声は返ってこない。人形の目は開いているので、声自体は届いているはずだったが、肝心のユマが睡魔に負け寝ているので返答できないのだった。アルは気にせずに干し肉とパンを取り出し、ゆっくりと食べ始め、デザートとしてスルトベリーを一個口へと頬張る。芳醇な香りと強い甘みに、元々柔和なアルの顔がさらに緩んでいった。
食事を終えた頃には辺りもすっかり暗くなり、夜鳥の声と穏やかな小川のせせらぎがゆっくりと睡魔を呼び寄せている。アルがぼんやりと火を見つめながら考えを巡らせていると、人形から不鮮明な声が届けられた。
『……あ……ある、もすきぃ…………だめ』
「え? コワルスキー? ……誰?」
返事はなく、目を開いた人形からは寝息が聞こえている。シュールな光景にアルが思わず笑顔を浮かべたところで、目を覚ましたユマの声が届けられた。
『はっ――。変な夢見た……。アルが、ボアモスキートを食べようとしてた』
「食べるとこ、無さそう」
『そもそも食用じゃないわ』
ボアモスキートは昆虫属の大きな蚊で、ボアの名に違わない急突進を繰り出すことが特徴の魔物だった。アルは無意識に頭の中で、ボアモスキートとの立ち回りをぼんやりと考える。速い突進を躱し、急停止したところで羽を斬り付け叩き落とし、止めを刺す――、とアルが想像したところで人形から声が届いた。
『もう朝?』
「今から、夜だよ?」
すっかり目が覚めたユマに対して、朝から歩き通しだったアルの目は今にも瞼に覆われそうだった。
『まぁいいわ。何か話しなさいよ』
「ご希望に添えなさそー……」
覇気のない声を聴いたユマは、不服な声で対抗する。
『駄目よ。そうね……。探してる男は何でこんな森に来たの? ほら、話題作ったんだから、しっかり広げなさいよ』
アルは必死に睡魔と戦い、言葉を繋いでいった。
「ええとね。目撃情報があって、この森を通ったみたいだけど……突如痕跡が消えて……。北の街の方面ね。でも見つからなくて、後は西のこっち位しか探すとこなくて。あ、駄目、すごく眠い……」
『アル? ちょっと! もう、なんて勝手なの!』
寝落ちしたアルに、ユマは理不尽な罵声を浴びせ続けたが、結局会話が成立することなく夜は更けていくのだった。
翌朝、まだ辺りが少し暗い頃にアルは目を覚ました。小川で顔を洗い終わると、ゆっくりと柔軟体操を始める。アルは朝起きると柔軟をした後で、剣の素振りや基本的な動作の訓練を必ず行うのを日課としていた。
木々の合間から朝日が差していたが、遮る葉が多い為まだ森はやや視界が悪かった。日課を終えたアルに、人形からの声が届く。
『起きたの? アル』
「おはよう、ユマ。珍しいね、もう起きたの?」
ユマは、アルが寝落ちしてからしばらくしてまた自身も眠ったため、図らずも規則正しい睡眠リズムとなったのだった。
『誰かさんが、私を放って寝たからね。おかげで変な時間に起きちゃったわ』
機嫌の悪い声が人形から響くが、アルは笑顔を作った。
「いやぁ、いつもこうだといいんだけど。この方が健康的だよ?」
返答はなく、アルも気にせずに朝食を摂り始めた。昨夜の残りのパンと干し肉を取り出すと、順調なペースで食べ進めて行く。干し肉の塩気が強い為、アルはなるべくパンと一緒に食べ、小川の澄んだ水をしっかりと飲んでいた。
『で、今日はどうするのよ? 当てはあるの?』
「そうだね、ちょっと気になる事があるから、それから始めようかな」
アルはそう言うと荷物を片付け、昨日拾った羽根を取り出した。羽根は鮮やかな黄色を基調とし羽軸に沿って青色が差され、妖しい美しさを帯びている。しかし、その大きさは普通の鳥の物よりも二回りほど大きく、魔物の持つ羽である事を容易に想像させた。
「じゃーん。昨日拾ったんだ、この羽根」
『見えないから。……分かってて言ってるわね?』
アルはえへへ、と笑うと説明を始めた。
「この羽の持ち主を、まずは探そうと思ってね。どの魔物か、大体想像はついてるんだけど、今の時期がねぇ」
『何よ、危ないの?』
「予想が正しければ、危ないよ。まぁ危なくない魔物なんてあんまりいないけど。そうじゃなくて、今の時期に、こんな場所にいるのかなって。棲息圏が変わったとは思えないから」
魔物は、通常の野生動物の同じ様に、その魔物ごとの生態系をしっかりと持っており、それが急激には変わる事は無かった。時折、その生態系や棲息圏から逸脱した個体は現れるが、これは直ぐにギルドに依頼として報告され、調査や討伐の対象となっている。
『ふぅん。そいつに喰われたかもってことね。まぁ頑張りなさいな』
ユマは興味なくしそう言うと、黙り込み本を読み始めた。人形越しのアルにはその姿は見えないが、興味を直ぐに失うのもいつも通りだったので、気にせずに魔物の痕跡を探しだした。
アルは、その魔物の餌となりそうなものがある場所を、手あたり次第確認していく。ギルドの情報で、木の実や食用の草などの位置情報はある程度把握できているので、それ自体は問題なかったが、肝心の羽根や痕跡は残されていなかった。
「うーん……」
アルは思案顔で小さく唸る。人形からは気怠い声が届けられた。
『諦めたら?』
否定的な意見を飲まずに、アルは考えを巡らせ続ける。痕跡を探し始めてからそれなりに時間が経っており、日の光は真上から森に差し込んでいた。
「でもなぁ。いないとしたら、この羽根はどうして……」
『誰かが、持ってたの落としたんじゃないの? もう帰りましょ、無駄よ』
ユマの言い分も全く的外れではなく結果的にも成果はないので、アルはこの羽根の件は保留にしようと考えた。しかしユマの言葉で何かに気が付き、はっとした表情を作る。
「あ、もしかしたら……」
『何よ』
アルは向きを変えながら、さらに南西へと進んで行く。道とは呼べない道は傾斜を増して、鬱蒼とした森の景色から木々が少し減り、日の光が増えるとともに風が通り出した。
やや高地となった森をしばらく進むと、アルは今は使われていない石造りの建物に辿り着いた。建物の壁は大きく崩れ、朽ちた石にはびっしりと蔦が絡みつき、傍にある木の枝葉に隠されるようにひっそりとそれは存在していた。
『どうしたのよ?』
「廃墟に来たんだ。何のためにあったのかは、知らないけどね。倒壊の恐れがあるから、確か立ち入り禁止だったはず」
アルは音を立てずに、ゆっくりと廃墟の正面に回りながら答えた。
『何で早く取り壊さないのよ、そんなの』
「こんな所まで来る人は、あんまりいないからね」
ギルドの怠慢を僅かに弁護しつつ、アルは廃墟の奥をそっと覗き込んだ。奥行きはそこまでない為、アルの位置からでも最奥はしっかりと目視でき、その視線の先には探していたものが蹲っていた。
「やっぱり、ハーピーだ」
『ふぅん。あの人面鳥?』
「どっちかと言うと、鳥人間じゃない?」
奥に蹲るハーピーは人の体に鳥の羽と下半身を持ち、今はじっと動かないでいた。ユマはどうでもいいわ、と言いながら考察を始めた。
『じゃあ、アルの拾った羽根の持ち主で、探してる男はあいつに喰われたってことね』
「あー、喰われてはないんじゃない、ま――」
そこまで言ったところでアルは近づいていた気配に気が付き、剣に手を掛けながら勢いよく振り向いた。
「どうか、そっとしておいてくれませぬか」
振り向いた先には、アルが昨日会った樵の男が立っていた。樵は哀れみに満ちた表情で、廃墟の奥を見つめている。
「商人さんの息子さんが、あそこにいるんですね?」
樵は渋い顔をしながら首肯する。
『どういう事よ?』
今回はしっかりとユマの声を聞き取った樵は、事情を説明しだした。
「人形のお嬢さん、私は若旦那様に仕えている者です。樵ではないですがこの姿の方が、都合がいいのでこの格好をしています。一か月とちょっと前に、若と若の商隊はこの森を通り、あのハーピーに襲われました」
『ああ、連れ去られたのね?』
ユマは人との会話の恐怖よりも好奇心の方が勝っており、淀みなく会話を出来ていた。アルはユマの間違いを正す。
「違うよ、その時に魅了されたんだよ」
アルの指摘を男は肯定する。
「そうです。ハーピーは若を見つめると何もせずに去って行きました。ですが、若はそれ以来思いつめたように黙り込み、昔から仕えていた私にだけ事情を話し、協力を求めてきました」
ハーピーの種族に雄はいない為に、決まった時期になると人間の男性を魅了して精を奪うという生態を持っている。ちなみに繁殖する為だけなら、人間の精を奪わずとも卵を産み個体を殖やす事自体は可能であり、ハーピーが何故人間の雄を襲うのかは、解明されていなかった。
「見えますかな。ハーピーは今、産卵の時を向かえています」
『うぇー……』
ハーピーと交わる男の姿を想像したユマは、嫌悪に満ちた声を上げた。アルはもう一度よく目を凝らし、奥に入るハーピーを見つめた。その傍には薄汚れた服を着た商人の息子が座り込んで、必死の顔で口を動かしている。商人の息子は産気づいたハーピーを励ます言葉を口にしていたが、アルたちの位置までは当然聞こえては来ない。
「食料とかは、お二人で調達していたのですね?」
「ええ。若は木の実や植物、私は狩りを。若は狩りが苦手ですが、私は昔からよく、ご一緒させていただいておりましたから。私が仕留めた獲物を、若の手柄にした事は、両手では数えられないですな」
男は遠い眼差しを空へ向けながら、重たい息を吐いた。
「ハーピーの羽根を拾いましてね。でも他に痕跡がなかったので、ハーピー自身が動けないと予想して、塒に出来そうな場所に来てみました」
アルは、羽根を見つけた時からハーピーの物と睨んでおり、商人の息子が森で捕食されたと予想していたが、餌場には痕跡がなかったのでその線は棄てていた。ユマの言葉で、商人の息子が落としたと仮説を立てていたが、怪我や、何らかの理由のあるハーピーを男が世話していると思っていたので、アルの予想とは少し違っていた。
「そうでしたか。採集の際に、若に付いていた物が落ちたのでしょう。……どうか、このままにしておいてはくれませんか。若は、それまで金の事しか考えない、冷たい商人として嫌われていましたし、若も誰かを愛することなどなかったのです。憐れではありますが、若のあんなにも真剣な、他者を思いやる顔は見たことがないのです。どうか、どうか……」
「ご家族も、ギルドも納得しませんよ?」
アルは諭したが、男は懐に手を入れると、立派な装飾の施された懐中時計を取り出した。
「これは、若が成人なされた時に、大旦那様が贈った者でございます。中には若様の名が刻んであります。これを持って、ここから遠く離れた場所で見つけたと、そしてこれしか見つからなかったと、そう報告してはくれませんか。勝手と無理を言っているのは重々承知しています、何卒、どうか」
懇願する男が差しだす懐中時計を、アルはじっと見つめている。
『どうするのよ?』
ユマには返答せずに、アルは懐中時計を受け取りながら男へと声を掛ける。
「確かにこれを持って行って、そう報告すれば、問題なくギルドとご家族、どちらも納得するでしょう。ですが――」
「おお! 是非、是非にそうして下さい」
食い気味に答えた男に、アルは念を押す様に問い掛けた。
「ですが、本当に、それでいいのですか?」
アルの質問の意図を、自身が仕えている男をそのままハーピーと添い遂げさせるという事への確認だと思った男は、諦観と憐みの顔で、しかしはっきりと返答した。
「ええ、若が幸せであれば、私は、私はそれで良いのです」
『そう……。そこまで言うならアル、しっかりと――』
美しいまでの忠誠心に、ユマの心が珍しく動かされたその時、奥から大声が聞こえてきた。
「おーい! 爺! 産んだ! ハーピーが卵を産んだ! 四つも、四つもだ!」
「おお、これは……。で、では、頼みましたぞ! 若! 爺はここに! 今参りますゆえ!」
男は大急ぎで廃墟に向かって走り、アルは動かずにその背と廃墟の中を凝視する。商人の息子と男の目が合った次の瞬間、ハーピーが空中へと素早く舞い上がった――。
舞い上がったハーピーを二人が完全に視界に捉える前に、商人の息子はハーピーの逞しい脚と鋭い鈎爪に組み伏され地面へと倒れ込んでしまった。
「ハ、ハーピー……?」
商人の息子が困惑しつつ問い掛けたが、ハーピーは耳を劈く様な鳴き声を発し、その顔を爪で引き裂く。商人の息子は痛みから悲鳴を上げた。
「ぎゃああああああ!」
「ハ、ハーピー! 一体何を!」
商人の息子の顔には鮮血が走り、ハーピーは爪を深々と綺麗な瞳へと突き立てると勢いよく眼球を抉り出した。
「が! ああああ! がぁああ……!」
あまりの痛みに、商人の息子は気絶しかけている。男は怒りに満ちた表情で腰に掛けていた斧を持つと、ハーピーへと駆けて行った。
「よくも! よくも若を! この魔物めがああああ!」
突っ込んでいく男に対してハーピーは鳴き声を上げながら羽をばたつかせ、魔力の風がを巻き起こす。男は風圧に耐え切れずに後ろへと倒れ込み、素早く跳躍したハーピーによって喉笛を爪で引き裂かれた。
「ヒュ――、ヒ――」
男は声を出そうとするが、声どころか気道を裂かれたことにより上手に息をすることもできず、血と共に空気を漏れだすだけであった。呼吸しようと必死にもがく男の頭を、ハーピーは執拗に攻撃し、遂に男は全く動かなくなった。
ハーピーは抉り取っていた眼球を口に入れるとともに、動かなくなった男を掴み、卵の近くまで運んだ。そして、痛みに耐え続けている商人の男も巣へと連れ込み、ゆっくりと妖艶な顔を下げていく。
「や、やめろっ! やめてくれえええ!」
ハーピーは、商人の息子の顔をゆっくりと、そして少しずつ齧り取っていく。美しいその顔は真っ赤に染まっていたが、ハーピーの顔はとても満ち足りていた。ハーピーが顔を下げるたびに凄惨な断末魔が森に響く。離れたアルの元にも、そして人形越しにもその声は届いていた。
「ああ、知らなかったんだね」
『……何をよ』
ユマは吐きそうになるのを堪え、絞るように声を出した。
「ハーピーは、人間の精を奪った後、産卵を終えるまで男を魅了し続けるんだ。食料を運ばせるためにね。そして産卵を終えると、捕食する。雛が孵った時に、体力を保てるようにね」
ハーピーは人間一人分の肉があれば、雛を孵らせた後もしばらくは持ち前の体力で面倒を見ることが出来た。人間を魅了していない場合は、餌を巣に十分に貯め込んでそれで凌ぎ面倒を見るのだった。
アルは姿勢を低くしながら、ハーピーからは目を逸らさずにゆっくりと後退する。
『何で、アルは知っているのよ』
「僕は師匠に聞いたから。見たのは初めてだけど。……ギルドの人なら、知ってる人も割といるかもね」
アルは音を立てることなく、茂みの中まで後退し終えていた。ハーピーはアルに気付くことなく食事を続けており、商人の息子の声はかなり小さくなっていた。
「てっきり知ってて、放っておいてほしいのかと思ったよ」
『……どうするの? 戦うの?』
アルは立ち上がると踵を返し、元来た森の中へと歩を進めた。
「戦わないよー。産卵し終わったハーピーに一人で立ち向かうなんて、大変だからね」
森は木々のせいでやや暗かったが、今から戻れば深夜になる前に、アルはギルドに報告に戻ることが出来る。アルの足取りは軽かったが、人形から届くユマの声は重たかった。
『いいの?』
「いいよ。生死問わずだし、ご丁寧に遺品を用意してくれてるからね」
アルはあっけらかんと言い放った。帰りは下り道なので、落ち葉などで滑らない様に気を付けて進んでいた。
『はぁー、遣る瀬無いわね。……これだから、外の事に疎い金持ちは駄目なのよ。金の前に知識を養わないとね』
「ユマにだけは、言われたくなかっただろうねぇ」
一歩たりとも家から出ないユマから、外の見聞の事を指摘された商人の息子に、アルは同情の念を向ける。天に唾を吐いたことにも気が付かないユマは、気持ちを切り替える様にやれやれと重いため息を吐き、無表情の人形がそれを伝えた。
「まぁ、一応言っておくと、今の時期はハーピーの産卵時期じゃないよ。人間を魅了するにしろしないにしろ、暖かい時期にしかしないからね。それに、棲息圏はもっともっと温暖な所のはずだし。商隊を襲った時に、本当に二人は恋に落ちたのかもよ?」
アルは、結局魔物の習性には逆らえない訳だけどね、という言葉は飲み込み伝えなかったが、
『そう』
とだけ呟いたユマは、その言葉で少しだけ気持ちが楽になったのだった。
「さ、急いで帰るから、一緒にスルトベリー食べようね!」
『……いらないわ』
気持ちを切り替え少し楽になったにも拘らず、スルトベリーの真っ赤な果肉を思い浮かべてしまったユマは、再び重い気持ちと嘔気に包まれる。森の中を急いで戻るアルにはもう、ハーピーの声も断末魔も聞こえないのだった。