09.芍陂戦争
241年は大雪で始まった。
4月には魏への遠征が始まるが、それは234年や236年のように大掛かりなものになる。 寿春南にある芍陂は春秋時代に拓かれた広大な貯水池だった。魏では当時、鄧艾の建策に基づいて許昌から寿春に繋がる水路を完成させ、その中間辺りの陳・蔡の辺りで大々的に屯田を始めようとしていたほか、兵力や軍事物資移送のための運河としての利用を計画していた。
孫権からすれば危険な代物であるが、地理的には合肥や六安を抜ける必要があるため、魏軍を引き寄せて足止めしつつ攻撃する必要があった。
241年の戦いでは合肥、六安、襄陽付近の樊・柤中への攻撃が大々的に行われた。柤中を攻める大将軍諸葛瑾は晩年に当たるから、実際には彼と併記される歩隲が実際の総司令官だっただろう。
最終的に全ての戦線で呉の軍勢は撤退した。しかし芍陂の破壊や労働力の掠奪に成功するなど作戦目標に合致した戦果があったようで、諸将に褒賞があった。
論功により張休と顧承は雑号将軍を得て朱異は偏将軍になり、全緒と全端は偏将軍・婢将軍となる。褒賞に差があるとして全緒と全端によって恨まれたのは選曹尚書の顧譚で、前述のように官吏の抜擢を担当していた。列伝のある武官では238年に前将軍朱桓が死んでいるから、埋め合わせかもしれないが重要でない。
その後数年間は諸葛恪によって小規模な遠征が行われるだけだった。大きな失敗は無かったが、ただ243年に司馬懿が圧力をかけるとその後の遠征を諦めて諸葛恪は後方の柴桑送りにされた。
芍陂戦争の最中、皇太子孫登は病死した。
後継者として翌年正月に孫和が選ばれる。孫権と琅琊王夫人の子であるが、王夫人に強い後ろ盾は無い。孫和の后の張氏は、張承と諸葛瑾の娘との間に生まれた娘であり、つまり張昭の孫娘。
中立性のためにか陸遜の子の陸抗も、事変以前に張承のもう一人の娘と結婚したように見える。ただこちらの時期は判らないので推測になる。
張承の弟の張休や諸葛恪、陸遜を始めとした呉郡呉県の豪族たちは血縁のある孫和を支持した。
ところで北海出身の滕胤も一見孫和を支持しているように見える。北海出身といえば暨豔事件で一時免官させられた丞相孫邵や是儀もそうだが、みな当初は劉繇を頼って江南に移った。暨豔事件のとき是儀は当人の望まない武官を強いられ、また滕胤は封候されて孫権の娘を娶るが無官だった。
そんな風に微妙な立ち居地にあった北海出身者たちだったが、事件後はある程度望ましい官職が与えられた。
孫覇が魯王に立てられたとき、是儀は孫覇の守り役を任せられる。また滕胤の娘は、呉夫人と同族の呉簒と結婚している。そして呉簒の従兄弟の呉安は孫覇を支持していた。つまり滕胤は表向き孫和を支持したが、孫覇派にも縁故があった。
諸葛恪については言うまでも無い。自身は孫和を支持しつつ、長男の諸葛綽を孫覇の陣営に送り込んでいるし、次男の諸葛竦は滕胤の娘と結婚している。
一方、上奏が繰り返された結果、孫権は渋りながらも他の子供を王位に立てるようになった。
王の権限は豪族に似る。兵を所有し、任地に所領を持つ。ただし封号通りの任地は呉の領域にないため、適当な所に配される。
242年8月、まず立てられたのは魯王孫覇。こちらの実母は謝姫で出自は判らない。ただ後に配流された先が会稽郡というところを見ると、他の后も故郷に帰されている点から会稽が故郷と見て良いかもしれない。しかし強引な仮定だからテキストの都合を合わせる程度にしか役に立たない。
また后は劉繇の孫娘、青州の名士たちと関わりがある。
名士たちの受け入れ先だった全琮は孫覇の大きな支援者になった。彼個人としても以前呉郡の朱桓と対立したことがあるが、こちらも呉夫人繋がりとして見ると、全琮は呉郡銭唐県出身であり同郡同県の出身だった。
孫覇派で243年に中書令となった孫弘は会稽出身で、孫権との血縁ではない。とにかく彼が孫覇を支持するということが重要だった。
孫弘は文書監査役の中書令としてその権限を揮い、地方官たちを支持勢力に組み込むことが出来た。一応、西陵の歩隲は全琮と縁故がある。また武昌にいた呂岱や、呂範の子の呂拠を含めると、江北出身の有力者を引き入れることに成功したように見える。
そのため丹楊郡出身の朱績は孫覇の派閥に入ることを断った。同じ丹楊郡出身の紀陟が後の時代に孫和に助力をしているから孫和派と見てよいだろう。
派閥は思想信条や正統性よりも、派閥を構成する人々の血縁や出身地による結びつきに基づいていた。
241年、芍陂の論功が行われたとき中立性を欠いたことは、派閥争いの発端だった。とはいえ改められる可能性はあり、衝突は避けられる筈だった。
242年に入り、孫権は太子孫和と魯王孫覇を立てるが、互いの扱いに差を設けられなかった。また一旦は孫和の母の王夫人を皇后に立てようとしたが取り止めてしまう。しかしその時点でも互いの派閥に対立は起きず、周囲からは適切な扱いだと考えられていた。
243年冬に丞相顧雍が死に、孫承、闞沢、薛綜、胡綜も死んだ。闞沢、薛綜は共に太子付の官職を兼任していた。官府に空きが生まれると、そこに陸遜や顧譚が宛がわれた。太子付には吾粲が選ばれた。
244年、丞相陸遜は武昌でその任に就いたため、都との連絡役を必要とし、また都で職務を行う人物を必要とした。よって文武の官で呉郡呉県の豪族と彼らの支持する孫和派が伸張することになる。これを受けて太子孫和と魯王孫覇の扱いに差を設けようとすると、激しい対立が生まれた。
中書令孫弘の活躍により、あらゆる書類は孫和派の不利に働いた。吾粲と張休は処刑され、陸遜、顧譚、顧承、姚信は配流が決定する。
陸遜は245年2月に死去し、同年7月には孫権の暗殺未遂事件も起きた。政治体制は大きく転換し、呉郡呉県の豪族たちは殆どが高官リストから消える。
二宮の変の第一幕が終わった。