2.犬猿の仲というものは、どうして顔を合わせるたびに。
隆文が美加の名前を呼ぶのはいいのだが、美加が席にいることに全く気づいていないようだった。同僚に指摘されてようやく気づいたようで、嘘やからかいといったものには見えない。
「おぉ、そこにおったかのぅ。さて、どうして気がつかんかったか。年かのぅ」
隆文は目頭を押さえてため息をついている。その様子からして、相当疲れが溜まっているのだろう。
「それとも、お前の影が薄くなったのかのぅ。――そんなわけないのぅ。冗談だ。怒るなよ」
美加のそばまで寄ってくると、しわくちゃな笑みを見せて雑ながらも頭を撫でてくる。気がつかなかったことに気遣っての、いつものやりとりをしてくれているのだろう。
美加は首を横に振って返す。隆文の気遣いが分からないわけでもないので、少しであるが落ち着いた。とても温かい。ただ、認識をされなかった寂しさがあるので、相殺したといったところか。
それに疲れているのなら、気が散漫になっていることもあるだろうし、気づかれないこともあるのかもしれないと心を有耶無耶にして。
「そんなに重要というほどではないんだがのぅ。お前が、最近警察署ばかりにおって、ネコジシ商会に行っておらんからのぅ。直接的な関係があるとは思わんがのぅ――ネコジシ商会の様子がどうなっておるか、知っておるかの?」
ネコジシ商会――
ぎゅっと腕を掴まれた思いだ。今、一番の悩み事に関することを聞いてくるとは思いもよらなかった。安雄と同様に、気にかけさせてしまっているのだろうか。
確かに、いつもならしっかりとネコジシ商会に行っているのに、何日も行かず、ここにいるのだから気になってくることも分かる。普段どおりのことではないし、また、ネコジシ商会についてのことを任されていることは、美加の仕事である。なのにここにいるのだから、仕事をサボっていると見られてもおかしくない。ここにずっといて、サボっていないと言ったところで、説得力もないので何も言い返せないことだろう。
しかし、一方的にネコジシ商会へと行かなくなったこと――和葉と喧嘩別れになったままについて、隆文に言ってもいいのだろうか。隆文なら、相談に乗ってくれそうだが、それでも言いにくかった。
仕事に不満があるわけではない。役に立たないことばかりだったが、自分にとってはよく頑張ってきたと思えるところも少しはある。
何よりも、自分の誤解から招いた現状なのだとすれば、相談していいものなのか悩ましい。自分で招いたことなら自分で解決しなければならない。それも解決策に見通しがついているのに、自分の不甲斐なさにできていないだけなのだと考えれば、相談するよりもまず実行に移すことの方が大事なのだということも重々承知している。
なら、どう言い訳をするか――
「き、今日、行ったんですけど……留守のようでして、ドアに鍵がかかっていました」
嘘は言っていない。事実をありのままに述べただけなのだが、とても後ろめたい。さらに胸が押し潰されそうになる。
隆文は顎ヒゲを撫でつつ、何かを考えている。美加の言葉があまりにも信頼の置けなく聞こえてしまったのだろうか。
「――ふむ、そうか。どうして留守なのか、聞いておらんかのぅ?」
「すみません……。何も聞いていないです。申し訳ありません……」
これ以上は何も返すことができず、謝ることしかない。嘘をつくにしても、何も思い浮かべなかったし、隆文に嘘が通用するとは思えないこともある。
「別に謝る必要はない。ただのぅ、夜な夜なあそこの者が街の中を歩き回っているという話を聞いての。何か事件があれば、こちらにも一報をくれるよう言っておいてくれんかの。さすがに、俺らの出るようなことがなければそれでいいのだがの。でも、ここ数ヶ月の間に妙な事件が立て続けだったからのぅ。それらに関連性があるのか、調べていかなければならんところだけどの」
隆文は美加の肩をぽんと叩くと、自分の席へと向かっていってしまう。これ以上深く追求してこないということは、美加を信頼しているからこそのものだろう。ならば、少しでも早く和葉に謝って、以前のように戻りたい。
けど怪訝に思うことがある。謝らなければならない、という事柄の上から圧し掛かってきたかのような言葉――
〝ネコジシ商会の者が夜な夜な街の中を歩き回っている〟。
和葉なのかヘカテなのか、隆文の話からでは判断がつかない。どちらにしても、訳もなく歩き回ることなどしないだろう。
考えられるのは魔具。美加の知らないところで、また魔具絡みの事件が起きているのだろうか。
今まで、そういったことを深く考えることをしたことがなかった。和葉が美加に何も話さずにことを進めてきたことがあったからこそ、今回ばかりは考えさせられる。
でも――
美加に何の話もない時点で、また何も教えてくれないことだろう。話してくれないことだろう。もし話があるとしたら、全てが終わった後に違いない。それこそ、今の状況になってしまったことの要因である、〈紫鎧〉絡みの件。
胸が痛い。苦しい。
「――影が薄くなったといえば、そのとおりなのかもしれねえな。お前、ここにいるよりも百合垣と一緒にいた方が、活き活きとしてねえか? 俺としては、あの捻くれ者は苦手だから、全くもって理解できねえけどよ」
コーヒーを手にした安雄が戻ってくるなり、鼻で笑うような言い方をしてくる。
違った意味で胸が痛い。今度は悩みの痛みでなく、嫌味により〝言葉の槍〟が次々と突き刺さる。ネコジシ商会に行っても、ここで仕事をしていても、嫌味を言われるのは変わらない。相手が違うだけのことだ。
美加はむっすりと口をへの字に曲げて、眉尻もまた下げるだけだ。
「――これまた、シケたところだな。何ゆえ、キャリアの俺がこのようなところへと来なければならないんだろうか」
次から次へと、嫌味を言う人間しかいないのか――男が部屋へと入ってくるなり嘲っている。
美加は言われたわけでもないのに、男の言葉が胸に刺さって、さらに痛い。苦痛から苦悶に顔を歪めていく。
誰が来たのかと見やれば、見知らぬ男。ただ自らを「キャリア」と言うのだから、本庁からわざわざ所轄署に出向いてきた〝お偉方〟ということなのだろう。署内の〝お偉方〟の中に見ない顔だ。
それにしても、そんな〝お偉方〟が、なぜ嫌味を言ってまでして、このような所轄署へと来るのだろうか。疑問を浮かべる。
「ったく、何であいつがこんなところにいるんだ?」
隣では、安雄が嫌悪をあらわにして言う。美加へのからかいによる嫌味とは全く違うことが、伝わってくる。
安雄は立ち上がり――
「本庁勤務の弓月警視じゃありませんか。本庁のキャリア様が何でこんな貧相なところに? 〝桜田門〟で踏ん反り返っているんじゃないのですかねえ?」
「おやおや、こんなところにノンキャリの野蛮人がいるのかい。それに俺は、〝警視〟じゃなく〝警視正〟だ。間違えないでくれないかな、折部。というか、キャリアである俺のために働け」
「んだと、このスカン野郎。俺はお前のために働いているわけじゃねえんだよ」
二人が睨み合う。場の空気が変わった。いつ取っ組み合いの喧嘩が始まるのか分からない状態。
だが、熱が上がるのは二人の間だけで、他は冷めたものだ。相手する必要がないと言いたげに、厭いた様子で二人から視線を背けていく。
美加は隆文へと視線で伺うと、相手をするなと言わんばかりに手を振って返された。
「芒原は知らないんだっけ? 折部さんの同期の弓月警視、いや、今は弓月警視正か。折部さんが本庁に出向くと、いつもあんな調子なんだ。仲がいいというか悪いというか、気にするだけ意味ないよ」
美加の後ろの同僚が椅子を転がして近づいてくると、耳打ちをしてくる。
安雄と仲の悪い同期が本庁にいることは知っている。署内では結構有名な話だ。もしかしたら、本庁でも有名なのかもしれない。ただ、そんな有名であっても、相手の顔を見るのは初めてである。
安雄は三十代前半なので、弓月も似たような年だろうか。それで警視正という役職を得ていることから、キャリアの中でも優秀な男なのだろう。
二人のやり取りをハラハラと見ていると、弓月が美加の視線に気づいたようで、安雄とのやり取りを一方的に打ち切って、美加へと近づいてくる。安雄は不満げに弓月の背中を睨むだけだ。
「こんな男臭いところに、〝華〟が一輪。こんなところに出向いてきた甲斐があったかな」
美加の前まで来ると、美加のそばにいた同期は逃げるようにして離れていく。美加も逃げたい気分に駆られるが、直接的ではないにしろ上司に当たる上、弓月の視線が逃してくれそうにもない。
戸惑いの視線を返すと――
「どうだろう。このような場所にいるよりも、俺の部下にならないか? ここよりもいい環境で仕事ができるし、給与もいい。昇進も、ここにいるよりかはいいよ。上に口を利いてあげるからさ」
弓月はニヒルな笑みを向けつつ言ってくる。さらには――
「悪い話じゃないだろ? あんな奴と一緒にいるよりかは、俺についてきた方がいい。今よりもずっといいはずさ。何なら、俺と付き合わないかい?」
美加の手を取って言うのだから、戸惑うなと言う方がおかしい。
美加は周りの同僚たちに助け舟を求めるべく目配りをするのだが、誰も助けに入ってきてくれない。キャリアを相手にできないことが一番の要因だろうか。変に目をつけられて、自分の将来を棒に振るわけにはいかないのだろうから。彼らとて生活がかかっているのである。
隆文は厭いた様子だ。同僚たちのような不安と違って、単に関わるのが面倒臭そうである。
それは分かる。もっともだと自らも言いたいのだが、同じ職場の仲間なのだから、せめて打開するためのきっかけでも貰えたりしないものだろうか。懇願の目を向けることしかできない。
「弓月ぃ、そういうのが好みか? まあ、悪い奴じゃねえことは保障するが、いきなり口説くほどの女でもねえだろ。というか、あれか? 〝まな板〟が好きって奴か? 人それぞれ好みはあるからなぁ。俺はてっきり、〝メロン〟のような女の方が好きなんだとばかり思っていたんだが、そうでもなかったんだな」
そんな中、安雄だけが助けに入ってきてくれた。いつも弓月と言い争いをしているからこそ、気にもせずに入ってこられるのだろう。
ただ――
美加にとっては複雑な気分である。助けに入ってきてくれたことは嬉しいのだが、その言い様にまでは眉をひそめてしまう。安雄は美加を助けるために入ってきたのではなく、弓月に因縁をつけたいだけなのではなかろうか、と勘繰ってしまう。
「折部、警視正である俺にそんな口を利けるのかい? というか、何様なんだよ、君は?」
弓月は入れ食いの魚かとばかりに安雄へと食いつき、また二人のやり取りが始まった。それも美加の目の前でやられるものだから、より一層困ってしまう。
おたおたとしていると、安雄の手を視界に捉えた。弓月に分からないように動かしている。今のうちにここから離れろ、ということだろう。弓月の意識が安雄に向いているので、逃げるチャンスではある。隆文へと見やれば、顎をしゃくっているあたり、ここから出て行った方がいいと言っているのだろう。
そろりそろりと後ろめたい気持ちにさせられながらも、へっぴり腰で後退。二人のやりとりから遠ざかり――遠ざかり――遠ざかり――部屋からこっそりと出ることに成功した。
大きくため息――
廊下を行き交う同僚たちに白い目で見られている気もするが、気にしない。どうせいつもの〝役に立たなくて落ち込んでいる〟とでも見られているのだろうから。
もう一度ため息――をつこうとしたところで、やめた。滅入る一方になるからである。
これからどうしようか。行く当てがない。ネコジシ商会にもう一度行くべきか、どこかで時間を潰して捜査課へと戻ってくるべきか。
ひとまず、ここから離れることが先決である。とぼとぼと休憩室へと入り――といっても、自動販売機と分煙機、そして椅子が置かれているだけの簡易的なもの。そのため、十人も入れないほどに狭い。
今は美加だけなので、異様に広く感じられる。
自動販売機に硬貨を投入し、BOSSのカフェ・オ・レを購入し、椅子へと座った。両手に抱え――冷たい感触で心を紛らわす。この冷たさに心も冷め切ってしまえば、悩むこともなく楽になるのかな、と考えるものの、この程度の冷たさではどうにもならない。ただ、手がひんやりして気持ちいい程度のもの。
「――ふむ、警視正である俺は、ここの人間からすればボスのようなものだから、『BOSS』だね」
いつの間についてきていたのか、弓月が自動販売機のボタンを押している。美加はついてこられていたことに気づかなかったので、ひどく驚いた。
「ん? 面白くなかったかい? やはり、おじさんたちのネタというのはよく分からないものだね。まあ、この年だと、親戚の子どもたちから〝おじさん〟扱いされるけどね」
缶コーヒーを手にして、美加の隣へと断りもなく座ってくる。
美加は戸惑い、逃げたい思いが再び込み上げてくる。
「やっぱり第一印象が悪すぎたか。折部がいるといつもああなってしまうから。申し訳ないね」
弓月はプルトップを引き、一口飲んだ。美加と同じカフェ・オ・レ。美加に合わせたのか、単に甘いものが好きなのか。甘さを気にすることもなく飲んでいることから、後者なのだろうか。
「嫌われたと見ればいいのかな? だとしたら、本当にすまないことをしたと思う」
苦笑を浮かべ、立ち上がる。とても寂しそうな顔。声をかけられてもおたおたとしていたから、気分を害させたのかもしれない。
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ。俺の方が強引過ぎただけだし。たださ、内々に聞いていた柳崎警部補の秘蔵っ子というから、どんな人だと思ってね。あれだろ? あぁ、何というんだったか、〝まほー〟みたいなものの管轄をしていると聞いている。
ま、結果的に嫌われたけど、美人だったのはよかったと思っているよ」
弓月は一気に飲み干せば、缶をくずかごへと入れた。
「今日は顔を見に来ただけなんだ。次はもう少し話ができたらと思うよ。近々、こちらに出向くことが多くなるだろうし」
最後に笑みを残し、そのまま何ごともなかったのように休憩室から出て行った。
弓月の背中を見送り、実は悪い人でないのかもしれないと思えた。弓月が言っていたとおり、第一印象の問題なのかもしれない。一方的に嫌うのはいけないことだと分かっているが、キャリアということを鼻にかけた態度が好きになれないのはどうしたらよいか。
――いや、そういうことよりも、弓月は顔を見に来ただけのようなことを言っていた。つまりは、美加との接触が目的としてきたわけなのだろうが、どういった意味が込められているのだろうか。仕事に関することには違いないだろう。ただ、〝男女の関係〟に持っていこうとしていることが感じられるのは否まれないところではあるのだが。
それも、こちらへと出向くことが多くなるとも言うとなると、これからもっと弓月と会う機会が増えるということになる。
さらには、美加に対して「〝まほー〟みたいなものを管轄している」と言ったということは、弓月もまた魔具を知る人間なのだろうか。
色々と考えるものの、何のために、としか答えが出てこない。ついてきてまで話をしたことも考えれば、意味もなく出向いてきたことはないだろうし、必ず何かしらの意味があるはずなのだ。
「芒原、弓月はどうしたのかのぅ? 挨拶もなしに出て行くもんだから、こっちに来ていると思ったんだがのぅ」
立ち代りというべきか、隆文が入ってくる。自販機でブラックコーヒーを選びつつ、言ってくる。美加が心配になって来てくれたのだろうか、それとも弓月を気にしているから弓月に話でもあったのだろうか。
「先程までいましたが、もう行ってしまいました。……その、私がいけなかったというか……」
もし弓月に用があるのだとしたら、拒絶するような態度を取ってしまって、弓月をここから去らせることに至った自分がいけない。嫌でも話をしてここに留めておくべきだったのかもしれない。後悔の念が押し寄せてくる。
「うむ、気にすることはないかの。あんな性格だからのぅ、女受けは相当悪い」
隆文は沈む美加と対照的に、クククと喉を鳴らして楽しんでいるかのようだ。美加が沈むことを楽しんでいるというわけではなく、単に弓月が振られたことが面白いのだろう。
「さて、あいつの性格なんてものはどうでもよかったのぅ。それでの、弓月が来たことが少しばかし問題でのぅ」
「やっぱり、私が何かいけないことを?」
弓月がどのような役目を持っているのか分からないが、自分自身の役立たず振りを見に来て、人事異動を考えているのだろうか。警察官である以上公務員であるので、余程悪いことをしない限り解雇はないだろうが、閑職に回されることは十分考えられる。そうなったら、どういったところへと異動させられてしまうのだろうか。不安がよぎる。
「そうじゃない。気にしすぎだのぅ。あれは、本庁でお前と同じようなことをやっている身での。
さっきも言ったと思うが、ここ数ヶ月に魔具に関する事件が多い。本来なら、内々に終わらせるのだがのぅ、そうもいかなくなってきてのぅ。ほれ、不明機の事件がいい例だの。ああいう一般人の目に触れるものも起きているからのぅ。それに先月の病院跡の崩壊に関する事件もある。まあ、病院跡は直接魔具に関してではないがの、魔具を巡ってのことには違いないということもあるので、上は注目しておる。だから、どうなっているんだ、と本庁が重い腰を上げて、あれをここへと向かわせたところだの」
顎ヒゲを撫でつつ言い、プルトップを引いて美加の隣へと座ってくる。
「これまで、この街で大きな事件が立て続けというのはなかったからのぅ。ほれ、これもさっき言ったが、ネコジシ商会の動向も気になるところだからのぅ」
いつものように頭を雑ではあるが撫でてくれる。
「お前には、そういうことを何度か聞かれるやもしれん。相手があれだからのぅ、色々と大変だろうが、お前はお前の思うように動けばいい」




