1.いくら役に立たないからといって、影まで薄くなったとなると。
一言で表すとするのなら、「焦れったい」ということになるのだろう。
胸がとても痛い。色々な感情が渦巻いていて、次から次と湧く感情を、もう理性だけでは抑えきれなくなっている。だから、余計に胸が痛む。
今になって「あの時のことは全て誤解だった」と言って、赦してもらえるのか分からないので、とても怖かった。素直に謝れない自分がとても情けない。逃げ出してしまって、何もできないことがとてもつらい。
気が滅入る一方だ。考えれば考えるほど、どす黒い坩堝の中、それも螺旋の底をどこまでも落ちていく――。
今もこうして――スチール製のドアの前で悩んでいた。ドアには二股尻尾の猫と「ネコネコ商会」と改ざんされた会社名のエンブレムが記されている。
栗花落ビルの五階、ネコジシ商会の事務所の前である。
スチール製ゆえに冷たく重いドアがそこにあるようで、手をかけても開くのかどうか分からない。いつものように開ければ開くはずのドアなのに、ドアノブを見据えるだけで、手を伸ばせないでいる。
ため息。
芒原美加がネコジシ商会へと訪れなくなって、何日が過ぎたのだろうか。事件が終わり、台風一過の澄み渡った青空の日だったことはよく覚えている。あの時、美加の誤解で一方的に出て行ったきり、ここへは訪れていない。所轄署で時間を過ごすだけの日々が続いていたのである。
でも、訪れないまま、謝らないままでいることは駄目なことなのだと自分自身に言い聞かせ――勇気を振り絞ってここまで来ることができた。それでも、足は震えて、今すぐにでも逃げ出したい思いが何度も何度も木霊する。
やはり、そう思えてしまうのは、和葉に何を言われるのか分からないところにあるのだろう。普段から嫌味を口癖としているからこそ、こういう時にどのような言葉を向けられるのか分からないところが何とも怖い。普段が〝言葉の槍〟なら、今度くる言葉は〝言葉のミサイル〟なのか、〝言葉の大量殺戮兵器〟なのか。滅多刺しどころか、欠片も残らないほどに粉々にされてしまうのではなかろうかという恐怖に苛まれる。
しかし、自分の招いたことなのだから、どんな言葉が来ようとも、どんなに責められようとも、受け入れなければならない。
もう一度ため息。
渦巻く感情を吹っ切るために、心の中で叫んだ。何度も何度も、膨れ上がる感情で破れそうだった胸を、叫びで逆にはち切れてしまうのではないかと思うほどに。
叫びで感覚を失ったというべきだろうか、頭の中も胸の中も真っ白になったところで、勇気でもなく、ぽっかりとした感情のないこことでドアノブへと手をかける。
――回しても、開かなかった。
決して手に力が入っていなかったわけではない。ドアノブに手をかけて終わりというわけではない。力を込めたのだ。回そうとしたのだ。しかし、拒むようにドアノブが回ることがなかったのである。
拍子抜け。美加を拒もうというのだろうか。
何かの間違いなのではないか、と再び試みてもドアノブは回らないし、ドアが開くこともない。
ともなれば、和葉もヘカテも出かけているということになる。いつも事務所で暇そうにしているといっても、仕事があれば外へと出ることだってあるはずなのである。
和葉に会えないから、嫌味を言われることがないので安心――そして、その後にくる寂しさ。
さらにため息が出てしまう。
「なぁよなぁよ、お店、開かへんのぉ?」
沈んだ気持ちでいれば、美加とは逆にとても元気な声がかけられる。悩み悩んでいて周囲のことが全く入っていなかったこともあり、いつの間にか少女がすぐ横に並んでいる。
驚き、声を上げそうになり、一歩下がる。ここで声を出さずにいられたのは、自制心がうまく働いてくれたからだろう。ここで独りで騒いだところでどうしようもないし、少女の前で大人が騒ぐというのも滑稽である。
それにしても――
獣の耳――恐らく猫だろうか――のついたカチューシャに、白地に水色のセーラーワンピースをまとった――実に〝珍妙〟を体現したかのような存在。いつの間に〝外神田〟へと訪れてしまったのか、迷い込んでしまったのか、と錯覚するほどに、自分の目を疑ってしまう。
でも、現実であり、間違いなく目の前にいる。そして、〝外神田〟へと訪れたわけでもなく、ここは栗花落ビルの五階であり、ネコジシ商会の前。自分がおかしいわけではなく、この少女があまりにも浮いているのである。
滅入っていたはずの気持ちは、自分で払うよりも効果的にどこかへと飛んでいってしまっていた。珍妙な少女に助けられた、と素直に思っていいのだろうか。これはこれで悩んでしまう。
美加の思いなど知りもしないのだろう。少女はニンマリと笑みを向けてくる。むしろ、美加が驚いていると察して楽しんでいるのだろうか。とにかく、とても朗らかに笑うのである。
こんな笑みを向けられると、その姿に怪訝になるが、つられるように朗らかな気持ちにさせられてしまう。
「留守なんかぁ? やっぱり、誰もおらへんのかぁ?」
姿と同じというか、喋り方も珍妙である。関西訛りに聞こえるのだが、本当に関西の言葉なのか疑ってしまうほどに不自然。それこそ、関西以外の人間があえて関西訛りを使っているのだろうと言いたいほどに、自然な発音に聞こえない。
「なぁよなぁよ、姉やん、いいにおいがするんよぉ」
それに、姿と喋り方だけでなく、話の流れがさっぱり掴めない。全てが唐突である。そして、その唐突そのままに、不意に抱きついてくるのだから、美加は戸惑い――戸惑い以外の何ものでもなく、どうしたらいいのかという悩みしか生まれない。先程まで悩んでいたことが晴れたかと思えば、全く別の悩みに困惑せざるを得ない。
ここまでされると引き離そうと思うが、少女相手に力任せというにもためらいが生じる。それがまた困惑を生む。
「姉やん、ちゃんとご飯食べてるん?」
少女が胸へと頬ずりしながら言う。何のことを言っているのか――考え始めたところで、美加の思考は一時停止。胸のなさのことを言っているのだと分かると、思わず顔が引きつってしまう。
少女が美加から離れる。ニンマリ笑顔は変わらず。こんな顔を向けられれば、怒るに怒れない。
「なぁよ、姉やんはいいにおいするからぁ、いいもんあげるんよぉ」
そう言うと、セーラーワンピースをまさぐり、ポケットから黒光りするものを取り出す。黒い石の連なった輪状の物。
美加の左手を掴んでくると、問答無用にそれをくくりつけてくる。
鈍い光を放つブレスレット。
「お守りなんよぉ。怖いもんからぁ、守ってくれるんよぉ」
ニヘヘと笑む。
美加にはどういった意図があってのことなのか分からず、きょとんと見ることしかできない。
待てども他に何も言ってこないので、ブレスレットは少女の言葉どおりのものなのだろう。しかし、なぜゆえこのようなものをくくりつけてきたのか、見当もつかない。
ようやくこちらの言いたいことが少女に伝わったらしく――美加の顔色を伺っていたらしい――
「んぁ? いらんかったんかぁ? そんなに高いもんやないんよぉ。貰ってくれへん?」
貰ってくれないと泣いちゃう、と聞こえてきそうなまでの少女の顔が曇る。
「え、えと……あ、ありがとう」
少女なりの好意なのだと受け取ることにした。出会った記念の物だと思えば、悪いものでもない。
ならば――折角だから、こちらも何かをと思い、何がいいのかを考える。少女にあげられる物など、あるのだろうか――頭へと手をやり、いつも身につけているトンボ玉の髪飾りを取った。これもそんなに高いものではなかった。髪飾りに何かいいものがないかと、装飾品を扱う小さな店で、たまたま気に入って購入しただけの物。お気に入りではあるが、他に何もないので決めたのである。
「お返しになるか分からないけど」
少女の手へと渡す。
「ええの? ええの?」
ぱぁっと少女の顔に花が咲く。あげるだけあげて、何かを貰えるとは思ってなかったようだ。でも、それを見ればお気に入りの髪飾りであるが、あげてよかったと思えてくる。
「うん。これをくれたお礼」
「エヘヘ、やったぁ。おおきになぁ。
――あ、そうやったぁ。じーちゃんのとこに行かなあかんやったぁ。またな、姉やん」
少女は笑みを残し、颯爽と去っていく。いつの間に近づいたのかと思うほどと同じで、去り様も早かった。
静かになった廊下――
開かないドアを見ていると、再び気が滅入ってくる。まだ沈んでしまう前に、ここから離れることにした。いつでもここに来ることはできる。いつでも和葉に謝ること――会えることができるのだから。
窓へと見やれば、夏の空がどこまでも広がっている。梅雨が明け、七月の夏真っ盛りの暑い時季――
◇
左手をかざせば、陽を浴びてブレスレットが冷たい光を放つ。
少女は「お守り」と言っていた。怖いものから助けてくれるのだと。
この黒い石の連なりにそのようなことができるのだろうか。ネコジシ商会と僅かとはいえ、関わってきたからか、そう考えてしまっている。
魔具なのかどうか――
しかし、以前に〝魔具という物は、そう簡単に出回るような物でない〟と聞かされている。それこそ、〝奇蹟〟と呼ばれるようなことがあちこちで起きるわけがない。そういったことが簡単に起きないために、〈異端狩り〉という者たちがいるのだ、と。
嫌なことを思い出してしまった。美加がその時に身につけていたラピスラズリのペンダントを魔具だと思い込んだ三人組の男たちのことを。それに連結するようにして、白矢の冷たい視線に自分の足に突き刺さる刀。
背筋に悪寒が走る。全てを拒絶しようという思いに、吐き気が込み上げてくる。ぐっくと堪えて、かぶりを振り、恐怖を払う。
意識をブレスレットへと向けて、より気を落ち着かせようと深呼吸をする。左手を下ろして、周囲をゆっくりと見渡していく。
誰もいない公園――。
もとより誰もいないのだが、こうも暑ければ外に出る人がいないのだろう、と理由付けされるのではなかろうか。燦々と降り注ぐ陽に、誰もが避けるほどなのだから、モグラは泣いて詫びるのが当たり前だろうし、セミとてコロリとひっくり返るほど。現に、公園のわきにある木の下に柵があるのだが、カラスが口を開けて、さらには翼をだらりを下げている光景が見える。また、暑すぎるからなのかセミが一切鳴いていない。美加とて、公園のベンチに座っているのだが、木の影に覆われていても、だくだくと汗が流れ出ている。
立ち上がった。公園で時間を潰していても仕方がないし、この暑さの下ではそろそろ限界だ。
警察署へと戻ることにした。ネコジシ商会との仕事はなくとも、警察署へと戻れば、やらなければならない仕事はしっかりとあるのだ。
むしろ、ここで時間を潰している暇などないのである。
「――ふぅん。喧嘩したとは聞いていたけど。正にそのとおりなのかな。いつもなら、こんなところにいないよね? そもそも、声をかけるべきではなかったかな。気を落としているんだろうからさ」
どこか軽い感じの声。
見やれば、水地浄一が公園の入り口からこちらを見据えている。見かけたから、声をかけてきたのだろう。
美加は会釈を返すだけ。誰かと話をしたい気分ではないし、和葉との関係について話をされることが簡単に予期できるからこそ、後ろめたさから今すぐここから離れたい。
「おや、俺の相手は嫌だってことかな? まあ、仕方がないか。それで構わないけど、一言いいかい? 影、薄くなった? 気のせいかもしれないけど、気づきにくいように思えてさ。君ほどの美人なら、離れても気づくもんなんだけどね。
ま、いいか。俺は俺で用があるし、行くよ」
浄一は勝手に言うだけ言うと、手を振って去っていってしまう。
美加はむっとした顔で浄一を見送った。気が沈んでいるのに、どうしてあんなことを言ってくるのだろうか。違った方向へと気が沈んでしまう。陰鬱としていないが、やり場のない憤りをどうしたらいいのかと浄一の背中へと叫んでやりたいほど。
でも、そんなことをしたところで、何の解決もならないのだから、諦めのため息をついた。
遣る瀬無い思いだけが、どこまでも付きまとう。
◇
警察署、それも「捜査課」と掲げられている部屋は煙草臭く、また男ばかりのために男臭い。警察を〝合法ヤクザ〟と揶揄されることもあるとおり、強面が平然と闊歩しているところを見れば、〝体育会系〟という言葉はあまりに生易しすぎる印象がある。
その中に、女といえば美加一人だけ。たまたま今年に限って男ばかりになってしまっているだけなのだが、男しかいない職場なのかなと自ら疑問に思ってしまうことがあるほどだ。昨年度までなら一応美加以外にもこの部署に女刑事がいたのだが、産休をとったり、他の部署に異動したりして、一人残されたような形となってしまった。全てがたまたまなのだろうが、そんな仕打ちをしてくれた人事部の職員に文句を垂れそうになったことがあるほどである。
だから、話し相手になってくれる人がいなかった。同じ女がいれば、悩みのひとつでも相談できるのだが、男となると仕事の相談ができてもプライベートの話まではしにくい。職場にプライベートの話を持ってくるなと言われてしまばそれまでなのだが、やはり働いているのが機械でなく人間である以上、多少のプライベートな悩みを職場に持ってきてしまうものだ。
こうなれば、他の部署まで足を運ぼうかという考えがある。鑑識課に行けば、特別仲がいいというわけでもないが、話を交わせる女鑑識官がいる。交通課にも何人かそういう相手もいる。総務課にも女の職員はいるのだが、なぜか嫌な目で見られることが多く、好まれていないので話をしたことはない。
しかし、仕事中に他の部署まで行って、話をするというのも気が引ける。だからこそ、男しかいない捜査課の中で、誰にも相談できないままの状態が続いているのである。
鬱々とした感情が高まっていく。誰にも話せないことで、拍車がかかる。
ため息。
感情を表に出さないよう――むしろ、忘れていたために――書類の整理をする。
ラップトップに両手を添えて、文章を作成していると左手にあるブレスレットが視界の隅で捉えた。
黒光りするそれを見ていると、気を落ち着かせるに至らなかったが、気を紛らわすことは大いに役立ってくれる。それに、これをくれた少女のあまりの印象の強さに、思い出し笑いしそうになって、笑いを堪えるに必死だ。
「――ん? 何だ、男に貰ったのか? あ、いや、お前に男なんていないか」
隣の席、折部安雄が覗き込むようにして言ってくる。そのにやけた顔は、暇つぶしにからかおうということらしい。
「女の子に貰ったんです。変な風に勘繰らないでください」
美加はむすっとした顔で言い返す。安雄の目から離すように、左手を引っ込めた。
「何だ、色気のない奴だな。ここは嘘でもいいから、男に貰ったと言っとけよ。でもな、〝まな板〟じゃしょうがねえか。嘘がすぐにバレる」
安雄はニタニタしたまま、自分のデスクへと向いた。美加がむすっとした表情を見せたことで満足したようだ。
勝手にからかってきて、勝手に満足されても、こちらは不満が募る一方。そんなにも、からかい甲斐があるのだろうか。そんなにも、からかう以外に役立たないのだろうか。鬱々とした感情が蘇ってくる。
「何をそんなに思いつめてるんだ? いつもなら、もっと言い返してくるはずだろ? ああ、〝あの日〟か?」
「違いますっ。折部さんはいつもそういうデリカシのないことを言うんですから。セクハラです」
「はっ、お前がしおらしくしているから、あえていつもどおりのことをしてるだけだろ。って言うか、本当にどうしちまったんだ? いつもならネコジシ商会で暇を潰しているはずだろ? しばらく行ってないんじゃないか?
――と言うのは、野暮だったな」
「何ですか、その言い方」
美加はむくれ、頬を膨らませる。
安雄が見やってくる。またにやけるのかと思ったが、今度は真面目な面持ち。
「なぁ、うちのカミさんに相談してみたらどうだ? 女同士ということもあるし、話しやすいと思うけどな。それに、結婚する前はあそこで働いていたことがある。まあ、バイト扱いだったけどな。
あ、でもあれか。勝手に突っ走ってどこに向かうか分からないから、相談しにくいか。でもよ、顔ぐらい見せてやれ。この間のお前と再会できてから、会わせろって煩いんだよ」
一方的に言うと、立ち上がって離れてしまった。一応安雄なりに気にかけてくれているのかもしれない。そうでなければ、どこまでもからかってくるのが安雄なのに、安雄なりに答えてくれたのだから。
美加はため息をつく。瑞希の存在が、胸の奥にぼんやりと浮かぶ。あのほんわかとした雰囲気の持ち主なら、優しく受け入れてくれるかもしれない。話だってきちんと聞いてくれるだろう。相談に乗ってくれるだろう。もっと有意義な答えをくれるのかもしれない。
頷き、気を入れなおしてラップトップへと再び向かう。仕事を終わらせて、何ごとも起きないようなら、瑞希に会いに行こう。安雄がわきからからかって邪魔してくるかもしれないが、瑞希なら味方になってくれるから安心だろう、と。
――カタカタとキィを叩いていると、柳崎隆文が部屋へと入ってくる。ずっと外を歩き回っていたのか、汗だくで〝うんざりだ〟と顔に書いてある。ハンカチを取り出し、雑に汗を拭っている。
「芒原、芒原はいるかのぅ?」
隆文が呼びかけつつ――美加の後ろを素通りしていった。
見えない位置にいるわけではない。隠れているわけでもない。自分の席についているし、見えていて当たり前のはずだ。
隆文がからかっているのだろうか――考えてしまうが、考えにくい。そういったからかいをしない人だからだ。
となれば、暑さにやられて認識力が落ちているのだろうか。でも、目はしっかりしているし、暑さに当てられたようには見えない。また、給水器で冷茶をカップに注いでガブガブト飲んでいることから、体調におかしなところはなさそうに見える。
美加は訝しくだけだ。
「柳崎さん、芒原ならそこにいるじゃないですか」
ここで同僚が隆文へと言って、隆文はようやく美加の存在に気づいてくれた。




